君の鼻唄だけでいい【ケニー】
サンディエゴの海にもこんな腐れた港があるとは知らなかった。
洒落っ気のひとつもない夕暮れ時のハーバーにオンボロの車を停めて、ケニーはとりあえず車を降りた。
オンボロとはいえ一応愛車なので、とりあえずロックはかける。
「スターン、どーこだ」
錆ついたコンテナだらけの、胸が悪くなるような潮の匂いがする。
手でポーズだけの目蔭を作ってこの辺のどこかにいるはずのスタンを呼んでみると、真正面から湿った風が吹きつけてきて、思わず顔を顰めた。
海風が強くて、ギャアギャアと馬鹿にしたような海鳥の声が絶えず聞こえている。
ビーチのない海ってのは、どうも陰気臭くてかなわんね。
胸の中で呟きながら、コンテナのジャングルの間を縫ってとぼとぼと歩き出した。
ともあれ、友人のスタンが傷心だ。
俺はもうこれまでだ、と、悲嘆にくれたメッセージを仕事中のカイルに寄越して、音信不通になったらしい。
そして、既読のつかない返信に溜息をつきながらカイルがSNSを確認したところ、水平線の写真と「俺たちはあんなところからやってきた」という一文のポエム。
普段インスタグラマーなんて馬鹿にしくさっているくせに、傷心するとこんな風に量産型の悲しみを発散し出す。
そんなお菓子みたいなセンチメンタルを他人に見せつけて、承認欲求を満たそうとする。
スタンは良くも悪くも、そういう繊細で分かりやすい奴だ。そこが素直でいいところだ。
そうして忙しい仕事の合間を縫って、カイルが確実に手隙のケニーに電話を寄越してきたのが今日の昼のこと。
『ケニー、ごめん。スタンがなんかテンパってるみたい』
『またあ?』
バターズからお下がりの車を受け取ったばかりで、部品の修理に躍起になっていたケニーは肩と耳でスマートフォンを挟みながら作業を続行した。
『今度は何、最近多くない?』
『僕は知んないよ。聞くほど分かりやすく病むから自分から言うまでそっとしてる』
同じく肩と頭でスマートフォンを挟んでいるらしいカイルの電話越しには、ずっとタイピングとマウスの音が聞こえてきている。
『はあ…要領良くなったね』
関心半ば呆れ半ばでそう言うと、電話の向こうのカイルは苦笑いして「長い付き合いだしね」と言った。
その声の柔らかさに、なんだかムッとする。
そうやって君が律儀に付き合うからスタンがこんな風に育ったんだぞ。
とまでは言わないけれど、スタンにカイルの気の引き方を覚えさせてしまったのはカイル自身だろうな、と思わずにいられないのだった。
今回の話はまた、不運なタイミングで起こった事故みたいなもの。
どういう縁か、子供時代以来、仕事で訪れたサンディエゴで運命的な出会いを果たした彼女と結婚を考えてる、と言い出し、半ばサンディエゴ女のヒモと化していたスタンからホームパーティーのお誘いだったのだ。
ほぼ遊牧民化しているケニーは、もらったばかり中古車で丸二日くらいかけて海の街まで到達した。
カイルは仕事の調整がどうしてもつかなくて、一日遅れで合流することになっていたのだが、その間に悲劇は起きた。
スタンの彼女の浮気が発覚したのだ。というか、スタンの方が浮気相手だったことが判明した。
「君を結婚を考えてる彼女って友達に紹介したくてさ」という一言が発端になって、芋づる式に瓦解したらしい。
彼女の方にはそんな気はさらさらなかったのを、スタンが色々と舞い上がっていたという話だった。
ケニーを集合場所まで迎えにきたスタンは酷い顔色で口もきけないような有様だったので、一目見た瞬間に「あー、これ、ホームパーティーなくなったな」と思った。
案の定だ。
丸一日どこをほっつき歩いて飲んだくれたのかは知らないが、SNSの海の写真にしっかり居場所を併記してあったおかげで、近くのコンテナターミナルにいることが分かった。
泣いてるから、迎えにきてね。という、おもちゃみたいなメッセージ。
10年前より幼くなったような気さえする。
膝を抱えてべそを掻きながらスマートフォンの画面に何かを打ち込んで、友達が来るのを待っているスタンの姿を思い描きながら海沿いをずっと歩く。
移動はしていないと思う。
スタンは友達が、カイルが来てくれるまでずっとそうしている。カイルに話を聞いてもらうまで、めそめそするのを諦めない。
分かるよ、スタン。絶対に来るって知ってるから、そうやって泣けるんだ。
本当に誰も助けてくれる見込みのないとき、人間は泣いたり騒いだりしない。悲しみも恐れも、本当は孤独とは乖離したものだ。
「甘えんぼだよね」
波止場の縁に、脳裏に思い描いた通りの姿を見つけたとき、ケニーは「はは」と眉をハの字に下げて笑った。
【カイル】
予定よりも早くサンディエゴに到着できたから、空港でたくさんドーナツを買ってきた。
スタンもケニーもお腹を空かせているだろうから。
それに自分もお昼を食べ損ねて頭が回らなくなってきていた。忙しかったのだ、普通に。
ようやく仕事が軌道に乗り始めて、自分の力で仕事を回せているという実感が持てるようになってきたこの頃。
これがスタンのことじゃなければわざわざサンディエゴにまで来たりしない。やることはまだまだ山積みなのだ。
カイルは、空港の近くで予約していたレンタカーを借りて、まっすぐにコンテナターミナルにやってきた。
「あれえ」
目を細めて、スマートフォン上の地図を拡大する。
「場所合ってるよね?」
ケニーから送られてきたグーグルマップの現在地によればここで合っているはずなのに。
見渡しても、汚い猫が歩いているのと中身が不明のコンテナがたくさん積まれているほか、スタンどころかケニーの姿さえなかった。
「ちょっと、どういうことだよ……」
ハンドルに腕をもたせ、据わった目をして一人呟いたカイルは、スマートフォンの画面を袖で拭って、もう一度ケニーとのやりとりを確認した。
「あれ?」
最後のひとつだと思っていたフキダシの下に、いつの間にかメッセージが増えている。
『スタンの回収に成功』
『ぐったりしてるから、とりあえず水だけ与えておくね』
『ほっとくと海に飛び込もうとして面倒臭いからちょっと移動する』
そして、その下に別の場所の地図があった。
スタンを連れたケニーは、近くのパーキングに移動したみたいだった。
「あ~~~、そういうこと」
もう、面倒臭い。
すでに水平線の向こうは夜になりかけている。
こんな小汚いハーバーにも西海岸の絵画みたいな夕暮れは平等にやってくるんだ、と感心したような気持ちになる。
ピンクからオレンジ、オレンジから群青へと力強くグラデーションする燃え上がるような夕焼けの時間帯。
少し肌寒さを感じたカイルは、シャツ越しの二の腕をさすった。
せっかく忙しい仕事の合間を縫って飛行機で2時間以上かけて西海岸までやってきたのに、サンセットを楽しみながら食事する暇もなさそうだ。
『カイル』
『今どこ?』
『スタンが面倒臭いから早く来てほしい』
画面の中にピコピコと増えるケニーからのメッセージを指先で追いながら、「はいはい」と声に出して返事をした。
文字を打つのが億劫になって、そのまま発信のマークをタップする。
「ケニー」
「あ、カイル。今どこ?」
「海」
「ああ、そっち行っちゃったか。悪いんだけどフォルモサ・アベニュー沿いのパーキングまで引き返してくれる?」
「運転してたから見れなかったんだよ」
「真面目だなあ」
「今からそっち行く」
「うん。よろしくー」
ほぼ丸一年ぶりの電話だというのに、ケニーの話ぶりはまるで昨日会った続きみたいなノリだった。
懐かしい気持ちになって、「あはは」と声に出して笑った。
なんか、子供の頃から突然タイムスリップしちゃったみたいな気分。
思えば昔から、スタンにはこういうところがあった。
女子のメンヘラを心底煙たがるくせ、悲しみや痛みの発露がまったく彼女たちのそれと同じ。
カイルが物事を思い込んで暴走したときにはとことんまで付き合おうとするか、最後の最後まで説得を諦めないのがスタンだった。
カイルに対して、スタンのそういうあり方はすごく正しかったと言える。行き詰まったとき、カイルに必要なのは精神的な慰めよりも具体的な提案であって、解決を手伝ってくれる味方だからだ。
でもスタンはそうじゃなかった。
解決は結局、自分でする。そうできるまでにそばに寄り添って共感してくれる、精神的なパートナーを必要とする。見つからなければいつまでもぐずぐずと塞ぎ込み続ける。気付いてもらえるまで。
女々しいのだ。
女子っぽいというのともまた違うような気もするが、アメリカの男に特有の、男っぽい女々しさ。
カイルのヒステリーを女子の怒り方と揶揄する割には自分こそ女々しいだろ、と、何度でもカイルは思ってきた。
カイルは昔ほど怒らなくなったが、スタンは昔よりも湿っぽくなった。
のろのろとパーキングを目指しながら、カイルは色んなことを思い出していた。
実は、スタンが女の子に浮気されるのは初めてのことじゃない。
「彼女がいる自分が好きなだけ」「特定の誰かの代わりにされてるような気がする」と、ひやりとするような理由で女の子に振られてきたのも知っている。
スタンは、基本的にはとても優しい男の子だ。
女の子を意図してひどく傷付けるようなことは言わない。
子供の頃ウェンディで痛い目を見たからか、女の子に並大抵のことをされても自分から振ったことは、カイルの知る限りない。
それでも必ず駄目になってしまう。そのたびに塞ぎ込んで、めそめそと病む。
子供の頃からそれなりにモテてきたのに必ず似たような結末で駄目になることを、自分でどう思っているのだろう。
『だってさあ。似たような女の子ばっかり選ぶでしょ、スタンって』
と、ガラクタでも蹴とばすような調子で言ったのは、まだハイスクールにも上がらない頃のケニーだった。
『真面目で、ちょっと怒りっぽくて無邪気に笑う、しっかり者の女の子』
首を竦めてカイルの方を流し見しながら言った。
「君が女の子だったらすべて丸く収まってた」
それから、「悪あがきだよね」と、ケニーはわざとらしいくらい無邪気な微笑みで言ったのだ。
あのときのケニーの一言を、カイルは理解できなかった。
つまり情緒がまだケニーほどには育っていなかったのだろう。色んな面で幼かった。
スタンに比べてもケニーに比べても、たぶん、カートマンに比べても。
だからと言って今の自分がどうなのかは分からないけれど、少なくともスタンのことについては、分かることが増えた。
スタンが女の子に振られるたびに塞ぎ込み、しばらくカイルに放っておかれて病み、闇が煮詰まってきた頃を見計らって救出に行く。
その方法でしかスタンは浮上しないのだ。
前にケニーに任せきりにしようとしたら、危うく生命の危機に陥ったことがある。
カイルじゃないと駄目だった。むしろ、カイルに救出されることを目的として女の子に振られに行っているのではないかと思えるくらい。
パーキングの中をぐるぐると回っていたら、坂をずっと上って海の見える場所に座り込んだ二人の影を見つけた。
ヘッドライトに照らされて、ケニーが手を振っている。スタンは抱えた膝の中に顔を埋めたままだった。
「あ、ちょっと。飲んでるじゃん!」
よく見れば、二人の周りに酒瓶がいくつか転がっていた。
【ケニー】
悪あがきなんだって。
子供の頃からずっとおんなじ。
カイルを待っているうちに、泣きべそを通り越して半分眠りこけたようになっているスタンの背を抱きながらケニーは思う。
(カイルは知らないだろうけど、ときに僕は、君のいちばんであるカイルよりも君の近くにいることがある。)
だから、カイルにも分からないことが分かるときもある。
スタンは昔から、自分はカイルにしか救われないということが分かっていて、そのことが怖かった。
カイルは自分でなくてもいいのに、自分はカイルでなければならないと思っていて、それが怖くて淋しくてたまらなかった。
そんなことないよ、と、他の誰かが言っても無意味なのだ。
いつだってカイルに「君じゃなきゃ駄目なんだ」と言ってほしくて、でもそんなことを言うカイルはカイルじゃないから。
結果的にカイルに似た女の子ばっかり好きになって、全然うまくいかなくて、たくさん傷付いた。
傷付いた分だけスタンは恋愛に対して湿っぽくなった。
「……だから君のせいなんだ、カイル」
なんてね。
ねえ、カイル。
ティーンエイジャーの頃、異常に頭が回るくせに肝心の場面で無神経とも思える鈍感さを発揮するカイルに、苛立ちに似た気持ちを抱くこともあった。
誰かのいちばんという立ち位置をはじめから持っていた奴が、そこにあぐらを掻いているのを見るのは嫌だった。
どうしてあの頃、カイルのスタンへの鈍感さが傲慢さに見えていたのだろう。
潮臭い夜空に向かって、酒臭い息を吐きながら思い返していた。
どちらかと言えば自分は、スタンの繊細さと純情さの味方であって、幼くいられるカイルの守られた世界を羨ましく思っていたのかも知れない。
十分に子供だったくせに、どこかで自分はもう大人の世界に片足を突っ込んでいると思っていた。
そういう自分こそが幼かったんだ、と、今は思うけれど。
カイルは、どこかにあの妖精じみた清純さを残したまま大人になった。
ケニーが吞気で、スタンが湿っぽくて、カートマンが寂しんぼなのと同じくらいに、たぶん死ぬまでカイルのあれは変わらないだろう。
いちばんちゃんとした大人になったくせに、いちばん子供の頃と変わっていないような気もする。
だからなのか。
どこかが、あの山間の雪景色の中に置いてきぼりのままのスタンを迎えに来れるのは、カイル。
結局、君しかいないんだと思うよ。
あくびをするようなのろのろ運転で坂を上ってきた車のヘッドライトが、飲み散らかしたケニーとスタンを照らし出した。
「や~っと来た」
こっち、と手を振ると、呆れて据わった目をしたカイルがおざなりに片手を上げた。
「ちょっとぉ、何飲んでるんだよぉー」
「へへ。待ちくたびれちゃって」
「これでも予定より早く着いたんだけど」
眉を下げて細い肩を竦める仕草は、子供の頃から全然変わっていない。
「カイル、車乗せてくれる?」
自分は昔より屈託ができた分、甘え上手になった。
「だってもうそれしかないじゃん、僕の他が飲んだくれ二人なんだから」
「優しい~」
「優しくない!もー、僕だって疲れてるんだよ」
お小言を言いながら、手土産らしきものを片手にとぼとぼと歩いてくる。
「で、そっちの丸まってる人は大丈夫?」
「ほぼ寝てるね」
「はあ…」
すぐそばまでやってきたカイルは、溜息をついて、二人のすぐ目の前に屈んだ。
「はい」
「わお!」
手渡された箱はドーナツだ。目を輝かせたケニーに、「スタンの分も残しといてね」と言って、ちょっとだけ口角を上げて微笑んだ。
「さて…」
膝と膝の触れ合うほどの近さでスタンに向き合ったカイルは、スタンのもつれた黒髪の中に指を埋めるようにして頭を撫でた。
「起きてよ、親友」
「んん…」
「迎えにきたよ」
スタンがずっとずーっと、子供の頃からずーっと待っている一言を、鼻唄でも歌うような調子でカイルは口にした。
【カイル】
スタンに対して自分が言ったことは言ったそばから忘れてしまうのに、スタンにしてもらったことは子供の頃からたくさん覚えている。
たぶんスタンは覚えていないだろうけれど、まだ学校に上がる前の子供の頃、よくスタンに迎えに来てもらった。
単純に、体力がなかったのだ。子供の頃はやせっぽちですぐ体調を崩してしまって、食べられるものも少なかった。
たくさん本を読み聞かせられて育ったせいか、やたらと感受性が強くて探求心が旺盛で、そこらに生えている草や落ちているゴミや虫に夢中になってしまう子供だった。
そういうときに、必ずスタンが迎えに来てくれた。
『ねえ、カイル。こっちに来てよ。一緒に遊ぶだろ?』
そのスタンの声は、川に揺蕩う小舟のようになっていたカイルを何度となく岸に手繰り寄せてくれた。
カイルが周囲から浮いた子にならなかったのは、たぶんスタンのおかげだと思う。
スタンの「まともさ」としか言いようのない、そういう部分を、カイルは心から慕っていた。
カイルだけじゃなくて、ケニーもカートマンもそうだったはずだ。
いつだってスタンは、踏み外していない物事の真ん中を、自然と見付けて自分の足で立っている。
だからスタンのそばにいると安心した。幼い頃から一緒にいた自分たちは、スタンのそういうところに自然と吸い寄せられて集まった4人組だったような気さえする。
「ごめんね、遅くなって」
スタンの真ん丸の頭が大好きだった。
髪の毛の中に指を差し入れて、ゆっくり撫でた。
「いつだって君が迎えに来てくれたから、僕の役目でもあるってことに気付くのが遅くなっちゃったね」
ここに来るまでに、言うべき一言を、たくさん考えた。
いつの頃からか、スタンがこうやって塞ぎ込むたびに、少しずつ確信を持ってきていたのだけれど。
「本当に自分の思ってることが合ってるのか、信じられるまでに、その勇気が出るまでに、時間が掛かっちゃったんだよね」
起きているのか寝ているのか分からないスタンに向けて、言葉を選びながら語り掛けた。
ああ、と、カイルは思った。
言わなきゃいけないだろうな。
今、ここで。
さすがに少し喉が震えて、口を開くまでに何度かまばたきをした。
「ごめんね、スタン」
僕はずっと、あまりにも幼くて、君のいる場所がずっと分からなかった。
君のおかげで幼くいられた僕は、君を迎えに来れるようになるまで、こんなにも長い時間が必要だった。
あれほど愛されてきたくせ、心細い思いをさせてきたのだと思った。
「あのね。僕がいるよ、スタン」
君のために、僕がいるからね。
君が傷付いたときのための僕じゃなくて、君が傷付かないための僕でもなくて。
もう十分遠回りも失敗もしたでしょう。こんなわけわかんない場所に来るまで、もう十分君は挫け続けて、くたくたになったはずだ。
「僕にしなよ」
はじめから、君の前には僕しかいなかったと思うよ。
声が震えそうになったのを、お腹に力を入れて誤魔化して、最後の一語までちゃんと口に出した。
団子のように丸くなった背中に両腕を回して、力いっぱい抱き締めたら、アルコールに混じって、懐かしいスタンの髪の匂いがした。
懐かしいと感じるほど、長くスタンに触れていなかったのだと今さらのように思った。
アルコールによって熱くなったスタンの体温が移って身体がぽかぽかしてくるほど長い間そうしていると、スタンが身じろぎをして、顔を上げた。
「カイル」
と、舌っ足らずに呼んだ声は、迷子になって途方に暮れた子供みたいだった。
「はい。君のカイルだよ」
笑い混じりに言うと、焦点が合わずにぼやけるほどの近い距離で、スタンの青い瞳が潤んだ。
「ありがと、カイル」
ぼろ、とスタンの眼の縁から零れた涙を手のひらで拭うと、一瞬で時を遡って、まるで二人とも10歳の子供に戻ってしまった。
「ねえちょっと、僕のことを置いてきぼりにしないで!」
テキーラを片手に映画鑑賞でもするように見守っていたケニーが、酔っぱらった顔のまま二人に飛びついてきた。
「うわっ…!臭…!!」
押しのけようとしたけれど、ケニーもなぜか半べそを掻いていたので、甘んじて一緒に抱き締めてあげることにした。
三人で雪だるまみたいになってぎゅうぎゅうに抱き合っていると、なんだか意味もなく笑えてきて、カイルは噴き出してしまった。
「なにこれ、どういう状況!?」
笑いながらカイルが言うと、ケニーが「知るか」と言いながらカイルの肩に顔を埋めてきて、スタンはカイルの名前を呼びながら頬っぺたをくっつけてきた。
子供の頃、こうやって意味もなくベタベタしていた。
こんな距離感で生きていたんだな、と思った。
幸せな子供だった。
君のおかげだった。
あの雪景色の町に置いてきぼりのままにしてしまったすべてのものを、ちゃんと抱えて大人になるから。
「ねえねえ、カイル。僕いま家ないんだよ」
スタンに肩を貸して車まで歩き出すと、ケニーが反対側にぴたっと寄り添って言った。
「はあ?仕事は?」
「バイトバイト、アーンドバイトー」
「変なバイトじゃないだろうな」
「変なバイトだよ」
「こら…!」
顔を顰めて言うと、ケニーは明るく笑って言った。
「カイルんちで飼ってよ~」
「ええ!?」
「スタンと一緒に家借りて、僕は屋根裏か地下室でもいいからさ」
図々しくなったものだ。子供の頃のケニーは吞気者ではあったけれど、こんなにしたたかではなかった。
でも、そのケニーの提案は悪くないような気がした。
「……。だって。ねえ、どうするスタン」
「俺はいいよ」
まともに歩けないほど酔いが回っていると思っていたスタンから、思いの外しっかりした声で即答されて、カイルは驚いて振り向いた。
「家借りよう、一軒家。ケニーにも一部屋あげればいいよ」
あと犬飼おう、とスタンは花が咲くような笑顔を浮かべて言った。
「スタン」
「なに」
「さては自分で歩けるでしょ」
「無理」
しなだれかかるように体重を預けてくるのを、カイルは口を尖らせながら受け止めた。
「もー、二人とも…」
「カイル、大好き」
「…知ってる」
溜息をついて、サンディエゴの潮風が流れてゆく星空を見上げた。
これはもう車中泊かもな、と覚悟して、苦笑いする。
まあいいか、今日ぐらいは。
僕の主張は、一つだけ。
犬を飼うのは別にいいけど、犬種はコーギーかビーグルがいい。
2022/5/3 ふたおかさんハッピーバースデー!(2022/9/7)