日常に侵食してくるサタンってこわいよね 額から流れ落ちた汗が玄関のタイルにシミを作った。乱暴に靴を脱いでドタバタとリビングに入る。扉を開けた瞬間に清涼な空気が身を包んだ。
ソファーに青年が腰かけている。
「おかえり」
「サタンくん!」
「こら。挨拶はちゃんとしないと」
「ただいま。ねえねえどうしたの? 学校は?」
伊吹はランドセルを床に置いてサタンに抱き着く。大きな手が頭を撫でて、くすぐったい気持ちになった。
「今日は早く終わったんだ。それに、誕生日だろう? ケーキを買ってきたよ」
サタンは唇の前で人差し指を立てて艶やかに笑った。
彼は隣の家に住んでいて、伊吹の母親から絶大な信頼を得ている。まだ小さい彼女が夜遅くまで一人で家にいることを心配した彼女の母親が幼いころから伊吹の面倒を見ているサタンに合鍵を一つ手渡したのだ。サタンは一度自分の家に帰ってから着替えて伊吹の家に行き、彼女が寝るまで面倒を見るのが習慣になっていた。
「ジュースはリンゴでいいかな?」
「うん、ありがとう。フォークは自分で用意するね」
七本のろうそくに着いた火を吹き消した伊吹はサタンを見て無邪気な笑みを浮かべた。
駐車場の隅に自転車を停めた。伊吹は大きな紙袋を抱えた状態でどうにかこうにかリュックから鍵を出し、家の中に転がり込んだ。靴をそろえてリビングに入る。
「おかえり」
「サタン! ただいま!」
「それ、全部プレゼント?」
「うん。友達がくれたの」
「高校でもたくさん友人がいるみたいでよかった。学校は楽しい?」
「このプレゼントの量が物語ってるでしょ」
「それじゃあ、俺からのプレゼントは必要ないかな」
「意地悪言わないでよ」
伊吹はサタンを小突こうとして、やっぱりやめた。気楽に触れてはいけない気がしたのだ。年相応の距離感というものがある。
「とりあえずご飯を食べないか。お腹が空いているだろう」
「もうペコペコ。ありがとう作ってくれて」
サタンのご飯を食べた後に伊吹は電気を消した部屋の中でケーキの上のろうそくの火を吹き消した。一瞬部屋が暗くなった時にサタンの頭に何かついているような気がした。すぐに電気をつけるといつも通り爽やかな笑みを浮かべている彼がいる。気のせいだろうか。
紙の擦れる音が聞こえる。伊吹はゆっくり身体を起こした。部屋の隅、間接照明の傍でサタンが本を読んでいる。
「起こしたかな。ごめんね」
「なんでいるの?」
「今日は何の日かわかる?」
「──私の誕生日。ねえ、どうやって入ったの? 私の家の鍵は持ってないよね?」
「お祝いをしよう。ケーキを買ってきたんだ。何種類かあるから好きなものを選んで」
「ちょっと、答えてよ。サタン」
伊吹は眉を吊り上げて彼の肩を押した。サタンの手からフォークが落ちる。床とぶつかって硬い音がした。
サタンは何事もなかったかのように机まで移動した。仕方がないので伊吹が腰をかがめてフォークを拾う。
そのとき、足の間の向こうにいる彼がチラリと見えた。伊吹は目を見開く。
──ヒトじゃない。
彼の足にはグルグルと細長いものが巻き付いている。それは腰のあたりから生えていて、まるで、そう、尻尾のようだった。頭には黒くて硬質なものがくっついている。人ならざる者の姿だった。
伊吹は曲げていた腰をもとに戻した。頭に上った血がすうっと引いていく。振り向いてサタンの姿を捉える。
すると彼はいつもの姿だった。尻尾も角もない。まっすぐ見つめられて思考にもやがかかる。
「あれ──」
「どうした?」
「あれ、だって、さっき、サタン」
「寝起きで頭がぼんやりしていないか? コーヒーを淹れるから待ってて」
「う、うん。ありがとう」
キッチンに立っているサタンの背中を伊吹はぼんやり見つめた。なんでここにいるのだろう。どうやって入ってきたのか。まさか母親から合鍵を? そもそも彼は何歳だ。見た目がずっと変わらない。 おかしい。おかしい。だって──。
サタンは一度もケーキを食べていない。
今までずっと一緒にいて彼が何かを口に入れるところを見たことがない。
「何者なの? あなた、誰。私をどうしたいの」
「ああ、気が付いた? 残念だな。今年のケーキは食べてもらえないね。俺はただ、ゆりかごから墓場まで伊吹の人生を味わいたいだけだよ。でも、もういいか。楽しい二十年だった。これで今に追いついたし──目を覚まそう、伊吹」
サタンの手が伊吹の頭に触れた。
目を開けた伊吹は全てを理解した。ソロモンが作り出したトラウマを追体験する呪術。サタンが改良をして人生の追体験をできるようにする。微笑むサタン。術にかけられて──今に至る。
「楽しかった? サタン、怒ってないから正直に話して」
「この上ない幸福を得られたよ。伊吹の人生を味わえた」
「そんなに私のことを知りたいの? こんなことしなくても言われたら教えるのに」
「幼い君に懐かれるのもよかった。こんな体験をしたのは俺だけだ」
恍惚とした表情を浮かべる彼の頬を伊吹はつついた。なんだか、根深い恋心を植え付けられた気がする。