押してダメならとか以前に自分から押すのはプライドが許さないんだろうな 一度だけ。先輩と体の関係を持った事がある。
確か、あの夜も今日のような熱帯夜だった。居酒屋で酔い潰れてしまった先輩から迎えに来いと電話があったのだ。
二つ返事で先輩を迎えに行くと先輩は赤い顔をして、一人では立つ事も出来ないぐらいに泥酔していた。
そのまま先輩を介抱し、玄関口にまで先輩を引き上げて帰ろうとした瞬間に彼女の体がふらついた。
「先輩っ!」
前に倒れそうになる先輩の華奢な手首を咄嗟に掴んで自分の体に引き寄せた。今思うとこれがいけなかったのかもしれない。
ほんのりと香るアルコールと香水の甘い匂いにクラリとして、まずいと思ったのをよく覚えている。力が入らないのか先輩はしばらくの間俺の胸にもたれかかったまま動かなかった。
沈黙の中で衣擦れの音がやけに大きく聞こえて、心臓が痛いくらいに高鳴る。この鼓動が聴かれているのではないかと不安になって腕の中に大人しくしまわれている先輩に目をやった。
でも、その瞬間に後悔した。
「ふふ…、心臓の音すご」
「…ッ!」
酔いが回って赤みを帯びた頬、形の良い唇から漏れる笑い声、俺を見上げる潤んだ瞳。
そのどれもが扇情的で思わず息を呑んだ。
先輩はクスクスと楽しそうに笑いながら再び俺の胸に耳を寄せた。その仕草がまるで甘える猫のようで、自分の中で理性がぐらりと傾いたのが分かった。
「…先輩」
そう言って先輩の薄い肩を抱き、じりじりと顔を近付けると長いまつ毛が伏せられて…。受け入れてもらえたんだと言う幸福感に身を任せ、そのまま先輩の小さな唇に口付けた。
そこからはもうなし崩しだった。
玄関先だと言う事も忘れ、俺は先輩を壁に押し付けながら何度も何度もその柔らかい唇を貪った。先輩は抵抗一つせず、ただ俺の首に腕を回して受け入れてくれた。
雑に靴を脱ぎ捨ててその勢いのままに倒れ込んだ。高嶺の花のような存在である先輩が自分の下に組み敷かれている事実が堪らなかった。
結局、俺はそのまま先輩を玄関先で抱いてしまった。
それが先輩に触れた最初で最後だ。あの日からしばらく経つが、俺はあの晩の事をいつまでも忘れられずにいる。ひんやりとした床の上で乱れる桃色の髪、汗の滲んだ白く透き通った肌、俺の名前を呼ぶ甘い嬌声。
その全てが脳裏に焼き付いて離れないのだ。
あの日以来何度かそう言う雰囲気になりかけた事があったけれど、先輩はいつものらりくらりと俺を避けた。
きっとあの日の事は酔いから来る気まぐれなのだろう。そうでなければ、先輩が体を許すわけがない。
そう自分を納得させてからあの事は極力思い出さないようにしていた。でも、今日のように暑くて何もする事がない夜は駄目だ。あの晩の事を鮮明に思い出してしまう。
自室のクーラーのリモコンを雑に操作し、設定温度を数度下げてベッドに腰掛ける。邪念を振り払うようにスマホで気になるニュースを漁っていると、手にしていたスマホが震えた。
画面には『羽柴しいな』の文字。慌てて通話ボタンを押して耳に当てると、先輩の声が鼓膜を震わせた。
「もしもし?」
「…今暇?」
「へ?あ、まぁ…はい…」
先輩の声の後ろではザワザワと騒がしい音がしている。あの時の電話もこんな感じだったな、なんてぼんやりと考えていると先輩が小さく咳払いをする音が聞こえた。
「今から迎えに来て。前と一緒の所だから」
「えっ、ちょっと…」
俺の返事も聞かずに電話はプツリと切れてツーツーと無機質な電子音だけが部屋に響く。先輩を待たせる訳にはいかないと慌ててスマホから耳を離し、慌ててクローゼットの中から適当な服を引っ張り出す。鏡の前で軽く身嗜みを整え、財布とスマホをズボンのポケットに入れて部屋を飛び出した。
玄関から一歩出た途端に茹だるような暑さが襲いかかってくる。
あの日とまるっきり同じシチュエーションにどこか期待してしまう。そんな浅ましい自分を心の中で叱責しながら先輩の待つ場所へと向かった。
⬛︎
「先輩、迎えに来ましたよ」
「んー」
額に伝う汗を拭い居酒屋に入ると先輩はジャッキの持ち手を掴んだままテーブルに突っ伏していた。試しに声を掛けてみるが反応は鈍い。その無防備さに憎らしさと愛おしさを感じながらテーブルに視線を逸らすとジョッキやグラスがズラリと並んでいる。
「ほらしいな、起きなって」
先輩の奥に座っていた女性が優しく肩を揺らすが、先輩は呻き声を上げるだけで起きる気配がない。この様子では起きたとしても自力で歩いてもらうのは無理だろうと判断して女性を手で制する。
「大丈夫です、私が運びますから」
「は、はい」
特五で鍛え上げられた爽やかな愛想笑いを浮かべると女性の頬がほんのりと赤く染まる。
先輩の知り合いに嫌われてしまってはもしもの時に面倒だ。微笑み一つで相手の心に入り込めるこの顔に産まれた事を感謝しないといけないな。
先輩の腕を自分の肩へ回させ、腰に手を回してその華奢な体を引き寄せた。
「お会計は?」
「あ、しいなの分はもう貰ってあります」
「それならよかった。じゃあこれで失礼します、ご迷惑をお掛けしました」
俺が来るまで先輩を介抱してくれていたであろう女性にお礼を言い、居酒屋を後にした。
そのままタクシーを拾おうと通りに目を向ける。
涼しい室内から再び熱気の中に身を晒されたことで目が覚めたのか、先輩は俺の肩に回していた腕をするりと解いた。
「先輩、ちゃんと掴まってて下さいよ」
「自分で立てる」
「そんなフラフラで何言ってるんですか」
「うっさいわね〜」
俺の注意に先輩は生返事をし、面倒くさそうな表情を浮かべてコテンと俺の肩に頭を預けてきた。しかも小指を指切りのように絡めるオマケ付きだ。
アルコールで火照った肌から伝わる熱に思わずドキリとしてしまう。
「これでいい?」
「…はい」
「首の汗すごい」
「し、仕方ないじゃないですか!急いで来たんですから」
「ふふ、冗談よ」
思わず言い返すと頭を上げた先輩がこちらに目を向けてくすりと笑う。その笑顔にドキリとすると同時に胸の奥底に押し込めた邪な感情が顔を出すのが分かる。
俺はそれに蓋をするようにぐっと唇を噛み締めた。
タクシーを捕まえて先輩を押し込み、その隣に乗り込む。運転手に先輩の住所を告げると、車はゆっくりと動き出した。
「……ッ!」
タクシーが走り出してからしばらく経った頃、先輩が手を重ねてきた。驚いて先輩を見るが、先輩はとぼけるように窓の外を眺めていた。街灯が先輩の横顔を照らし、長い睫毛がその表情に影を落としている。
先輩はこちらを見ようともせず、細い指先で俺の手の甲に浮き出た血管をなぞったり、指の付け根を爪でカリカリとくすぐったりして弄んでいる。その手つきがあまりにも艶めかしくて思わず生唾を飲み込む。
車内はクーラーがよく効いていて涼しいはずなのに体がじわじわと熱を帯びていく。
それもこれも隣に座る先輩のせいだ。堪らず恨めしそうに先輩を見つめると窓越しに視線が絡み合う。すると先輩はどこか楽しそうな表情で微笑んだ。三日月型に歪んだその瞳に俺の考えている事なんて全て見透かされているような気がして思わず目を逸らす。
これじゃあ生殺しだ。仕返しのつもりで先輩の手を捕まえてぎゅっと握り込んだ。先輩は何を言うでもなく、包み込まれた手を恋人繋ぎに組み替える。
「……」
「……」
先輩にはどう足掻いても勝てないのだ
俺も先輩も言葉を発する事はなく、タクシーに揺られ続けた。
⬛︎
それから少し経ってタクシーは先輩の住むアパートに到着した。料金を払い、先輩を支えながら車を降りる。部屋の前でおぼつかない手つきで鍵を挿す先輩を横目にドクドクと鳴り始めた心臓を落ち着かせようと小さく深呼吸をした。
思い出してはいけない。あの日の事を引きずっているのは俺だけなんだから。期待なんてするな、先輩に失礼だ。そう言い聞かせている間にガチャリと言う音がして、それと同時に先輩がこちらを振り返った。
「中、入って」
俺を真っ直ぐと見つめる瞳に射抜かれ、何も言えずにこくりと頷いて玄関に上がる。狭い玄関に先輩の小さな靴が並んでいる。あの日の記憶がフラッシュバックして心臓が忙しなく動き、額にじわりと汗が滲む。
一方の先輩はそんな俺に構うことなくスタスタと歩いていく。その後ろ姿にどこか置いてけぼりを食らったような気持ちになってしまう。
「何してるの、早く上がりなさいよ」
「……」
「ちょっと、どうしたの」
「…自分に一回手出してきた男をまた家にあげるなんて何考えてるんですか」
自分とは対照的にあまりにもいつも通りな先輩の様子に思わずそう口にしてしまう。すぐにしまった、と思い気まずそうに視線を上げると悪戯が成功した子供のような表情をした先輩と目が合った。
「…何考えてると思う?」
「へ」
「本当に分からないの?アンタそんなに察しの悪い子じゃないでしょ」
その言葉にごくりと生唾を飲み込む。
まさか先輩はずっと俺の気持ちに気付いていたのか?今思えばそう言った雰囲気になる前に仕掛けてきたのはいつも先輩だった。
つまり…今までずっと先輩の掌の上で転がされていたのか。あの日から今日まで、ずっと?
「私の考えが分かったみたいね」
「……はい」
「よくできました」
俺の気持ちなんてお見通しだと言わんばかりの満足げな表情で先輩は手招きをする。俺はそれに素直に従って靴を脱ぎ、先輩の元へ歩み寄る。
先輩はぽん、と俺の頭に手を置きいてわしゃわしゃと撫でる。ボールを取ってきた犬を褒めるような手つきだったが、その手があまりにも優しくてどうしていいか分からずにされるがままになってしまう。
俺の頭から手を離した先輩に手を引かれ、いつもより歩幅を狭めて後ろをついていく。
「…てっきりあの日は気まぐれかと思ってました…」
「はぁ?私が気まぐれで寝る訳ないでしょ」
その言葉にあの日から燻り続けていた思いが一気に溢れ出すのを感じた。じんわりと嬉しさが湧き上がって全身の血液が沸騰したかのように体が熱くなり始める。心臓が早鐘を打ち、握られた手にほんのりと汗が滲むのが分かった。
ベッドの前に到着して先輩はそのままベッド脇に腰掛けて真っ直ぐに俺を見つめていた。その視線に逆らえなくて、俺はその隣に腰を下ろす。2人分の体重にスプリングがぎし、と音を立てる。
「何か言いたそうな顔してるわね」
「…もしかしてこの手口よくやってるのかなー…、とか」
「さぁね」
「悪い人だなぁ」
「そんなに知りたいなら私の事素直にさせてみてよ」
先輩の挑発的な表情に思わずたじろぐ。
この人はいつもそうだ、俺のペースを乱して自分の思い通りに物事を進めようとする。それにまんまとハマってしまう俺も俺だが。この人に敵う事なんて一生無いんだろうなと改めて分からされる。
きっと今夜も例外ではなく、このまま先輩の思惑通りに事が進む。でも、それに振り回されるのも悪くないと思ってしまうのは惚れた弱みと言うやつなのだろう。
「先輩のお望み通りに」
俺は先輩の肩に手をかけ、そのままベッドに押し倒した。