星呑み小話:深海に腕を伸ばす伊呂波は後悔していた。
少し、軽く考えすぎていたのかもしれない。勿論、悩んだ末の行動ではある。あのまま旋葎に此処に置いて欲しいと言う道だってあった。それをしなかったのは、やはりあの鯨がどうなったのかが気になってしまったからだ。
伊呂波一人のためだけに、全てを押し流した化け物。凶悪無比の所業を、悪びれなかった人で無いもの。過ぎ去ってしまえば、まるで夢のような出来事だったが、戻った地はそれが現実だと突きつけてきた。人が住んでいた形跡なぞ欠片も残っていない、只の砂浜が其処にはあった。
『ああ、お前ですか』
それを呆然と眺める伊呂波の後ろから声がした。
振り返ると、黒髪の男が伊呂波の方へと歩いてきていた。身なりが良いので、役人だろうかと伊呂波は思う。太陽の位置のせいか、やや長い前髪のせいか、顔立ちはよく分からない。
『お前でしょう。お前以外こんな所に来る訳がない。遅かったですね。ほら、早く此方に来なさい』
男は伊呂波の腕を掴むと、有無を言わせず引っ張っていく。
「ちょ……な、なに、あんた」
『疑問は後で、纏めて聞きます。まずは腰を落ち着けなければ』
男は大股で海岸沿いを進む。伊呂波は声を上げたものの全て無視され、やがて無言で引っ張られるままになった。暫く進んだ後、男は足を止めた。覗き込むと小さな神棚の残骸のようなものがある。
『戻りました。まだ寝てらっしゃる? ……ああ、よかった』
男は残骸に手を伸ばす。すると、二人の姿はそれに吸い込まれ、後に残ったのは誰もいない海だけであった。
「――な、なに……これ……」
吸い込まれる瞬間、咄嗟に目を閉じてしまった伊呂波の視界に飛び込んできたのは、見たことのない豪華な建物の一室であった。いや、違う。此処とは別だが、同じようになっているものは見た。ほんの少し前まで其処で世話になっていた。旋葎とあの鳥・楓星の住まいと同じだ。つまりこれは、と伊呂波は周囲を見渡す。
『お館様はまだお前に会わせられない』
ひやり、と冷たい声が降る。先程の男の声だ。けれど、姿が見えない。声の方にあるのは障子扉だが、人の影は見えない。恐る恐る、伊呂波は近寄って障子を開ける。
「……!」
障子の向こうにあったのは海だった。果ての見えないそれに、一匹の鯱が顔を出している。
『お前のせいで負った怪我が、治りきっていないのでね』
その鯱が喋っていた。そういえば、と伊呂波は思う。突然のことですぐ頭から消えていたが、掴んできた手は人間のような感触ではなかったな、と。この鯱が人の形を真似ていただけだったからだろう。
『お前が逃げるから。お前が逃げたせいでお館様は大怪我だ』
「なっ……」
『逃げずに捕まれば良かった。無駄な手間を掛けさせて。可哀相なお館様。二度と見たくない、神に似た力まで見せられて。お前が逃げたから』
責めるように鯱が言う。お館様とは、つまりあの鯨の事だろう。伊呂波の肩が跳ねる。だがそれは、責められて傷ついたからではない。
「に、逃げるに決まってるだろ!! あんな、全部、みんな殺しておいて!! 俺の為とか言って、俺のせいにするな! アイツが勝手にやったんじゃないか!! 他のやり方、いくらでもあっただろ!」
『……』
伊呂波の怒声を浴びせられて、ようやく鯱が黙る。暫く沈黙が流れた後、鯱が口を開いた。
『お前、それ位は言えるんですね』
「……」
『なら、安心しました。お館様相手なら、それ位言ってもらわないと。あの方、結構鈍いですからね』
「……アンタ、俺を……」
『責任とって死ねとでも言うと思ってましたか? そんな事をしたら、自分がお館様に殺される。さっきの物言いはわざとしました。お前を怒らせるために』
鯱が笑った、と伊呂波は思った。
『それだけ思うところがあるのに、お前、何を求めてお館様の海に戻ってきましたか?』
息を飲む。静寂に己の心臓の音だけが響く。乾く唇を舐めて、伊呂波は言った。
「な、名前を、持ってきたんだ……! 俺一人で、考えたんじゃないけど……」
小難しい理屈はちっとも分からないが、人でないものと生きるのならばそれが要るのだと晶は言っていた。己の中に浮かんだ音に、似合いの字を見繕ってもらい、それを抱えて山を降りた。
「与えたら、戻れませんよ」
そう、静かに晶は言った。それでも、と頷いたのは伊呂波の意思だ。どこか満足そうに、だが憐れむように笑った晶の顔を思い出すと、酷く落ち着かない気持ちになる。
――それでも、伊呂波は戻った。震える身体と、未だ迷いのある心を抱えて。
『……。お前は、思ったより胆力のある人間ですね』
「違う……。俺は、ただ……」
鯨に言ったように、ただ隣にいてくれる誰かが欲しかっただけだ、と伊呂波は声を絞り出す。
『お前はそれを、お館様に求めるんですね。……別に幾らでも、人はいるのに』
「でも……」
誰にも必要とされずに生きてきた。やった事も、想いの理由も、何一つ理解出来ない。それでも、伊呂波に自ら手を伸ばしてくれたのは、あの鯨だけだ。鯨だけが、伊呂波を何より優先した。他の全てを押し流してしまう程に。
――これは恐らく真っ当な感情ではないのだと、伊呂波も分かっている。けれど、これ以外にどうしたら良いのだろう?
『細かい理由なんざ、自分には関係ないです。……持ってきたのなら、呼んでやってください』
「会えないんだろ?」
『それも嘘です。……もう辟易してたとこなんです。お前が帰ってきてくれるのか、自分と一緒にいてくれるのかと、ずっと煩くて』
「え、ええ……」
あまりにもうんざりしている鯱の声に、伊呂波の緊張が解ける。
そうして意を決して、伊呂波は呼んだ。己と生きる、鯨の名前を。