星呑み小話:知らぬは当人のみ改めて足を運ぶと凄い里だ、と伊呂波は思った。
初めて訪れた時は、そんな事を思う余裕は無かった。そもそも、自分の意志で足を踏み入れた訳でも無い。気がついたら内部だった、というのが正直なところだ。
「ここには神様がいるからね」
勇気を出して里の者に声をかけて返ってきたのがこの返事である。この里が、山が豊かな理由はそれだと、素直に言う。この時点でもう、伊呂波は理解が追いつかない。伊呂波の育った村で、神をこんな穏やかな声で呼ぶ者はいなかった。神とは海であり、海とは生活の要だが同時に恐ろしいものだ。畏れ敬い、ひれ伏すものである。実際、それを怠った――当人達は全く心当たりが無かった事だろう――結果、全ては流され何も残ってはいない。あれから、まだ一年も経っていないのだと思うと伊呂波の息は苦しくなる。そう、苦しくなったからこうしてこの里にやって来たのだ。
豊かな、余裕の有りそうな民達を横目に、伊呂波は真っ直ぐに目的地へと歩を進める。里の者に敬われているのだろうと分かる、整備された神社を突っ切って本殿の前に立つ。そっと周りを見渡し、誰もいないであろう事を確認してから口を開く。
「旋葎、俺だよ、伊呂波。……開けてくれないか?」
ぎぃ、と音を立てて本殿の戸が内側から開く。そこから中に入ると、伊呂波の身体は消え、戸が今度は音を立てず閉まった。
「よう、久しぶり」
「……。やっぱり帰る」
出迎えた旋葎を見て、伊呂波は踵を返そうとする。
「待て待て、コイツは気にしなくていい」
「そう言われても……」
旋葎が伊呂波の腕を掴む。その後ろからぎりぎりと伊呂波を睨みつける者がいる。楓星だ。里の者が見たら信仰心も失せそうだと思ってしまうほどに、俗な――所謂嫉妬であろう表情を浮かべている。旋葎はそれを分かっているのかいないのか、気にする様子もない。
「俺がいいと言ったら良いんだよ。ほら、行くぞ」
旋葎が伊呂波を引っ張って歩く。細腕だというのに、振り払えない強さがある。ちら、と後方を窺うが、楓星は何時の間にかいなくなっていた。
そうして少し歩き、家の縁側に二人は腰を下ろす。自由になった左手の横にはもう湯呑が置かれている。初回は驚いたものだが、今はもうこの原理の検討がついているので驚きはしない。伊呂波も普段、姿を見せない多数の小間使いに生活を世話されている……らしい。らしいというのは、鯨湦と名を与えられた鯨があの鯱以外のあやかしを決して伊呂波の前に出そうとしないからだ。曰く『彼以外は貴方が見る価値も無い』とのことだが、それの意味を伊呂波は掴みかねている。
「思ったより元気そうだな」
水を飲む伊呂波を眺めて、旋葎がそう言った。
「思ったより……って、どういうのを想像してたの」
「そりゃ、前みたいに酷い有様だよ。俺はてっきり、またお前が逃げてくるとばかり思ってたんだ」
「……」
当人を前にしてなんという言い様だ、と伊呂波は思うが、内容としては納得するしかない。それほどまでに、人ではないものとの暮らしは疲弊する。泣いて逃げる程ではないが、何処か心休まらない部分があるのは事実だ。だからこそ、伊呂波は一人で此処に来た。
「いや、だって大変だろ。あんなでかい魚と」
「確かにでかいけど、普段はあの……アンタのとこと同じように、人の姿だよ。名前をつけたんだから」
名前を与えるという事は、人の御しやすい形に押し込む行為……らしい。伊呂波の親ほどの歳の姿になった鯨湦がそう言っていた。
「へえ、そうなのか」
「そうなのかって……、アンタ知らなかったのか?」
「そりゃ俺は、お前みたいに名前をやろうと思ってやった訳じゃないからな。勝手に口から出ただけだ」
「旋葎……」
最初から思っていたことだが、どうもこの旋葎という男は変わっている。何もかもに関心がないようにも、楽しんでいるようにもとれる、妙な男だ。だが、だからこそ、安心出来る、ような気もする。
「ま、あの魚がお前を大事にしているようでちょっと安心したな」
「大事?」
伊呂波は首を捻る。
「いや、そうとしか思えないだろ。お前の着物から何から……よくもまあ一人で無事に此処まで来れたなって程、金がかかってるだろ」
「……そうなの?」
今度は旋葎が怪訝な顔をする。伊呂波も、それまで身につけていた物より上質だというくらいは分かる。だが、どれ程かを判別出来るような知識も経験もない。
「そうだよ。ま、あの魚が何かしら目眩ましでも掛けてるんだろうがね。というか、よく一人で来たな?」
偶には逃げてきたらいい、と言ったのは旋葎だが、本当にそれが叶うとは思っていなかったようだ。実際、鯨湦は最初伊呂波が出かけたいと言った時、良い顔をしなかった。行き先が此処であったから承諾してくれたようなものだ。
「流石に付き添いってだけで来ると良い顔されなさそうって言ってた」
「ま、人間で言うとお貴族様とかみたいなモンらしいから、そういうものなのかね。俺達には分からないが」
「多分」
人間ではないものでも、ある程度の決まりや何やらはあるらしい。実際、只の人間から見れば楓星と鯨湦は神と呼ぶべき存在である。対して、今伊呂波の横にいるのは同じく人間である旋葎だ。それだけで、随分と息は楽になる。
「旋葎」
「うん?」
……けれども、
「……多分どっかの木からアイツが俺を睨んでるんだよね」
「アホかアイツは」
此度の滞在は、違う意味で心休まらぬものになりそうである。
旋葎はこの行動を、ひいては楓星をどう思っているのだろうか、とは聞けない伊呂波であった。