七海とバレンタイン バレンタインだからといって別にどうこうしよう、と思うには落ち着きすぎてしまったし、さらに言えば近年は自分のためにしかチョコレートを買っていない、という事実はカードの引き落し明細からも明らかだ。おまけに自分の恋人ときたらいかにもいいお店のチョコレートは食べ慣れている、という雰囲気であるから自然と七海と私の間でバレンタインのイベントは無くなってしまった。一月の後半くらいから、毎年部屋に来た時に百貨店の催事で買った――実は努力の成果でもある――チョコレートを軽い声掛けだけで勝手に開けて齧っていることは知っているし、なんだかんだ毎年当日か前後のデートには七海が花を持って来る習慣だけが残っている。そして今年もそうだろう、と思っていたら七海の手には何もなく、部屋に迎え入れながら少しだけ寂しい気持ちになっていた。別にいいのだけれど、花を持っている七海のことは気に入ったいただけに少し残念だと思ったのだ。ドアを開けた瞬間に、目の前の恋人が一輪のばらを持って立っている姿を想像してみてほしい。あの幸福感が伝われば幸いだ。
「ねえ」
いつになく、部屋に上がり込んだ七海は不機嫌そうだった。彼にしては珍しい。彼は退勤後に感情をあまり引きずらないし、閑散期であるところの今はそこまで忙しいわけでもない。行きがけになにか不幸な出来事でも有ったのか心配するレベルで、休日らしく眼鏡とセーターの姿でずい、とソファの真ん中に座り込む。……いつもは私が隣に座れるように片方に寄ってくれるのに。
「機嫌が悪そうね」
「それくらいはわかるんですね」
おまけにこの嫌味だ、どうしたというのだろう。コーヒーメーカーのスイッチを点けながら、顔だけリビングの七海に向けてもやっぱりその原因は伺いきれない。なにか最近困らせるようなこと、した覚えなし。彼の嫌いそうな出来事、記憶にある限りはなし。五条さんからの無茶振り、いま出張中だから多分なし。昨日の通話内容、極めて普通。お休みなさいまで言った。
「せっかく久しぶりの休日デートなのに」
「そうですね」
「機嫌なおしてよ〜」
パタパタとサーバーにコーヒーが落ちる音を確認してから、リビングの七海の元に向かう。ソファの真ん中で、ソファの領主めいてもたれかかる彼はやっぱり美しい。とはいえその美しい顔の真ん中から上にはくっきりと皺が寄せられていて――私はその鼻の付け根と皺の間を触るのが好きだった――ものを言わない彼はここ、とばかりに自分の膝を叩いていた。つまり、ここに乗れ、ということであり、彼の不機嫌の原因は私であるということだ。
「え、私、なにかしましたか?」
「……バレンタイン」
「……おとといの?」
七海の膝をまたぐように、彼に向かい合う形で膝に乗る。自分の膝はソファに乗ってしまうからそこまで体重をかけるわけでもないのに安定するし、顔が近くなるので彼はこの姿勢が好きなのを知っている。おとといの?という私の問いには少しだけ顎が動かされて同意を得られ、なにかしたっけ、と記憶を回顧する。そもそもその日は七海と遭遇していないし――今日が1週間ぶりの再会で、デートなので――昨日電話した時にそんな話をしたことくらいしか覚えていない。それのことだろうか。
「何かあったっけ。教えて?」
「昨日の話を思い出してみてください」
ええと……。思い出せば、バレンタインに関わる部分といえば僅かな気がする。十四日は出張明けに高専に行きました。学生からチョコレートをもらって、お土産代わりに買ったチョコレートをあげた。なんといっても行き先が北海道だったので、空港で買いに買ったのだ。職員には銘々の分を置いていったはずで、七海とニアミスすることはわかっていたので置いていない。
「……私の分だけない」
「七海……意外と気にしてる?」
「気にします。意外ではない」
私を支える手に僅かに力が入っている。そんな、ここ数年きちんとバレンタインしたことないのに、と思いながら過去を振り返れば、きちんとしていないだけでなんだかんだ彼は私のコレクションのご相伴にあずかっているし、確かにこの時期に連れ立って比較的きちんとした食事に行くことも多かった。今年はコレクションのご相伴もなく――私が家を空けがちだったので、そもそもチョコレート戦争に参加していない。来月にはこの仕事にしては珍しく欧州へ出張もあるし――珍しくバレンタインめいた行事を職場でしたと思えば自分の分だけないのだから、たしかに機嫌を損ねるのも納得はいく。
「ごめんね」
「……」
「でもね、七海にお土産っぽいチョコレート選ぶのはなんか失礼な気がして」
美味しいチョコ、食べ慣れているでしょう?そう宥めるように言い聞かせても七海の眉間の皺は緩む気配もない。いや、私が食べたいだけで確保している限定のシャンパンフレーバーをここぞとばかりに渡すこともできるのだけれども、なんだかすぐにバレてしまう気がしてできない。決して私の食い意地が張っているからではない。好みから僅かに外れただけで、七海はそういうのにすぐ気付くからだ。彼の趣味なら普通のオーレ味を選ぶのが正解で――その味はもう家にはない。職場で配りきってしまったので。
「今年は」
「はい……」
「貴方にめいいっぱいのバレンタインをしてもらうことで手打ちにしましょう」
「めいいっぱい……?」
もう一度繰り返しても、一向に具体例は出てこない。ええ、めいいっぱいの、考えてください。そう言って七海は少し意地悪く口角を上げる。例えば?と質問しても笑うだけで、私が困れば困るほど少しだけ嬉しそうに考えてください、とばかり繰り返す七海は不覚にもちょっとセクシーで、困惑する気持ちに火がついてしまう。苦し紛れに絞り出した、一緒にケーキを焼きましょうという提案に――なぜ一緒に?とは言うけれど――やっと納得したらしい七海はやっと私の顔に手を掛ける。
「食べさせてくれたら、めいいっぱいということにしましょう」
「そもそもお菓子なんか作るの、久々なのに……」
「失敗してもいいですよ。また作ってもらうので」
貴方がキッチンに立つのも久々ですねえ、とまた囁かれながら――料理は専ら七海がすることが多いので――七海はどこか嬉しそうに私の頬を撫でる。くすぐったいし恥ずかしいけれど、なんだか久々に見た素直な七海の感情の発露に、意外と影響を与えられるなら季節行事に乗っかるのも悪くない、と思い直す。来年はもう少し考えてあげよう、来年のリマインダーに入れておこう、と思ったけれど、七海の腕はポケットの中の携帯でレシピ検索すらさせてくれずに私の身体に巻き付いていた。