ななみに部屋を片付けられる話 床に座り込む彼女をソファに引きずり上げ、七海はその隣に座る。
「いいですか」
「床が綺麗になったね」
そうではなくて、と言いかけた時に爪先にロボット掃除機が当たり、七海は足を持ち上げる。
「床に物を置かない」
「はい」
「本は積まずに出したら戻す」
「……はい」
「しかし、私と共通する蔵書が多いので今度からは買う前に相談してください」
「……え?」
「管理できないなら私が管理します。……一緒に住むなら二冊もいらないでしょう」
え、ともう一度彼女から声が上がる。痛いほど自分の頬に視線が刺さるのがわかるが、七海は真っ直ぐそちらを向くことができないでいた。音を立てながらロボット掃除機は自分達の足元を行き交い、時折ソファの足にぶつかっては振動を伝えてくる。足を下ろすタイミングを掴めないまま七海は決断的に左側の彼女の方を向く。やはり彼女は自分を見上げたままポカンと口を開けていた。
「うちのウォークインクローゼットにあなたの私服を入れるスペースは十分にあります」
「な、なみ」
「あなたが片付けるのが苦手なら私が片付ければいいんです。今日だってそうでしょう」
ウィイイ、とモーター音を響かせながらロボット掃除機がダイニングテーブルの方向に移動していく。七海は足をやっと床につけ、座り直しながら彼女に向かい直す。
「いかがですか」
こくこくと頷く彼女に内心安堵を覚えながら、七海は彼女の肩に手をかけて自分の方に抱き寄せる。流れでうっかりずっと検討していた同棲の提案をしてしまった自分に驚きながら、そのことを悟られたくなくての行動だった。自分の胸の上でいつもよりも体温の高い彼女が顔を寄せている。つむじに鼻を寄せながら、引っ越しも私が手伝いますと囁けば、今までで一番現金な大好き、という単語が自分の下から聞こえてきた。七海はやれやれ、とばかりに彼女の背中に手を回す。
***
久々に休憩室で見かけた恋人は、熱心に紙と携帯を見比べていてドアを開けた七海に気付いてもいなかった。わざと音を立てて椅子を引き、横に座ればやっと彼女は顔を上げて久しぶり、だなんてあっさりとした言葉を吐く。
「何見てるんですか」
「家事代行のチラシ」
「二週間ぶりに再会した恋人を差し置いて?」
気付いてるよ、お疲れ様。そう彼女は言ってチラシと携帯をテーブルに置く。プラスチックカップのコーヒーはもうすでに冷めているようだったので、随分長い時間ここにいるのだろう。事務作業以外で彼女が高専に長居するなんて珍しいことだ。
「あなたの家、家政婦さんを検討するほどに広い記憶はないのですが」
「……七海にはね、いらないかもしれないけど」
「あなたにも必要ないのでは、と言っています」
彼女が置いたチラシを手に取る。初回限定価格、と並べられた数字とサービス内容が躍っており、一部のビフォーアフター写真がフルカラーのチラシの大きい部分を占めていた。三時間で片付けと水回りの掃除、洗濯と窓拭きが例に挙げられているサービス内容に七海は驚く。なかなか効率的でないとその時間では収まらない。惣菜の作り置きもサービス内容に挙げられており、さらに目を引く内容だった。
「えーと、ご存知の通り、私最近ずっと出張がちだったじゃない」
「そうですね、こうして会えたのも半月ぶりの記憶です」
「その前もずっと、出張が連続してたじゃない」
「ええ。そのせいでデートの予定もおちおち立てられませんね」
「それでね……ええとなんて言っていいかわからないんだけど」
彼女がこちらを見上げながら、気まずそうに少しだけ視線を目から逸らす。久々に見た彼女は少し痩せていた。予定では、今夜からうちに来て週末を一緒に過ごす予定だった。何を作るかまだ考えていなかったが、この分だと早めに連れ出てどこかで夕食を食べに寄ってもいいかもしれない。そんなことを考えていたらぎゅっと彼女は目をつぶって絞り出すような声を出し始めた。
「家を空けてたせいで家が片付いてなさすぎて片付けたいんだけど、休みの日にやることもやるべきことも山積みだし、ゆっくり休みたいし、片付ける時間なんて全然ないからもう課金してどうにかしたいの」
「……はあ」
「恋人に部屋が汚いことを話したくなかった……」
きらいにならないで、と目を伏せたまま彼女は項垂れる。そんなこと……と七海は口に出しながら彼女の肩に手を掛けて上を向かせる。開かれた目は少しだけ充血していて、まるで自分が泣かせているような罪悪感が胸を突く。
「……部屋が汚いことで泣かないでください」
「七海に知られたくなかった……」
「そんなことで嫌いにはなりません」
ほんとに、と言いながらその目はまるで七海の発言を信じていなさそうで、潤んで今にも涙が溢れて頬を伝いそうだった。恋人の泣く姿を――しかもこんな理由で――見るとは思わず七海は慌ててポケットからハンカチを出して彼女の手に握らせる。使っていない方なので、と言い聞かせれば両目から涙がこぼれて彼女は再び顔を伏せる。
「七海のハンカチ、アイロンまで当ててある……」
「痛かったですか」
「わたし、最近、アイロンかけた記憶がない……」
彼女がコットンのハンカチよりも、タオル地のハンカチを好んでいることを知っていたし、アイロンが必要そうなワードローブでないことくらい知っている。それでもなお、自分の習慣が彼女の劣等感を煽ってしまったことには違いなく、七海は罪悪感を感じながら彼女の肩を抱くことしかできない。それ以上の対応をすべきだと本当はわかっていたが、ここは職場で、想像しているみたいに抱きしめてそんなことはないですよ、と家にいる時のように囁けば彼女は確実に嫌がるだろう。何もできない無力感を噛み締めながら七海は泣き止ませるための正解を必死で想像する。
「最近ホテルのランドリーサービスに出したまま服着回してる」
「長期出張では仕方ありません」
「家に帰っても洗濯機からそのまま出して服詰め直してた」
「ドラム式の一体型洗濯機は便利ですから」
「アマゾンの箱が積み上がってる」
「それは私が潰します」
「いっぱいある」
ず、と鼻をすする音がしたので七海は片手を離して内ポケットからティッシュを取り出し、彼女の膝の上に置く。机の上に七海のハンカチが置かれ、その後に鼻をかむ音がしてやっと顔が上げられたので七海は少し焦りながら彼女の手首を掴む。
「今日これからあなたの家に行きます」
「やだ……」
「私が片付けます。元々会う予定だったので、場所が変わるくらい問題ない」
「だから、部屋が片付いてないの」
「うるさい、私が片付けるからそれはいいんです」
帰りましょう、と七海は立ち上がって彼女を促す。どうせもう十七時を回るところだ、帰ったところで問題ないだろう――そう思っての行動だったが、彼女はぐずぐずと立ちあがろうとしない。先に家に上がって片付けていましょうか、と言えばやっと立ち上がって机の上のものを手に取った。合鍵を持っているのだから、最初からそう言えばよかったのだ。
ゴミ箱にチラシとカップ、それからティッシュを捨てさせている間に七海は休憩室の端に置かれた彼女のトロリーケースの持ち手を伸ばしてドアの外に出す。さあ、と赤い目の彼女を促して自分の車に乗せながら、彼女の住む街と自分の住む街だとちょっとゴミの分別が違うことを思い出していた。かつてキッチンに並んだ時にそんなことがあった、と懐かしく思いながら七海は後部座席にトロリーケースを乗せ、まだ眉の下がった彼女の額にキスをしてドアを閉める。誰も駐車場にいないのだから、これくらいは許されて然るべきだった。
***
半月ぶりに開かれた彼女の部屋は閉め切った部屋の匂いがするくらいで、他の不穏な匂いはしなかった。流石にポストはチラシと手紙と小包でいっぱいで、宅配ロッカーも3つ埋まっていたけれど――それらを全て七海が抱えて部屋に上がった――別段玄関は荒れておらず、靴も近所まで行く程度のサンダルが一足端に揃えられているだけだった。
一方で廊下を通りすぎ、リビングに入ると床に開かれたまま置かれた箱が幾つも積み上がり、ダイニングテーブルには前回帰宅時にそのままにしたのだろうポストの中身が置かれたままだった。ソファのサイドテーブルと、その前のローテーブルの上には文庫本と雑誌が平積みされている。宅配物を机に置いて七海はカーテンを開け、窓を開けて網戸を引く。そのまま勝手知ったる寝室にも踏み入って同様にカーテンと窓を開けて網戸を引いた。……ベッドは程々に整えられていたが、その上にパジャマが落ちていた。出発前に寝坊したな。
「手を洗ってから、やりますか」
「はい」
「あなたは出張帰りなので、お風呂にゆっくり浸かっていて結構」
「足手まとい扱いされてる!」
「しています。家事代行を検討するくらい疲れている人は戦力外としてカウントする他ありません」
洗濯物はお風呂に入っている間に回していてくださいね、と依頼しながら一足先に洗面所に向かう。水を流して待ちながら、上着を脱いで収納から拝借したハンガーにかけ、ジャケットのポケットにタイとカラーピン、それからサングラスを突っ込んでフックにかける。カフスボタンを外して腕を捲って手を洗いながら、リビングで彼女が鞄を開ける音に耳をそば立てていた。いっそシャツも脱いで一緒に洗ってもらおうか。この部屋に置いている部屋着はあったはずだった。
彼女の名前を呼び、部屋着の収納場所を確認してからシャツの選択可否を問う。許可を得て七海はシャツを脱ぎ、真後ろの洗濯機のドアを開けてシャツを放り込み、ジャケットを再び掴んで洗面所を出る。入れ替わりに彼女がランドリーバッグを持って洗面所に向かったので、七海はクローゼットに向かいながらベルトを緩め、寝室でトラウザーズを脱いではハンガーに掛けてそのままハンガーを吊るして自分の部屋着を取り出すのだった。ナマクラは棚の上に。彼女の呪具もクローゼットに転がっているのだから、よく業者を呼ぼうと思ったものだ。
本当であれば、今日は自分の部屋に連れ込んで今頃食事にしているか、それとも食事の前に堪らずセックスをしているか、そういう予定だったので手触りのよい下着が七海の身体にぴったり寄り添っていた。今や予定は全て叶わないまま七海は彼女の部屋で、下着姿になっていて、部屋着を着ようとしている。色気のかけらもない、と思いながら彼女の衣類と同じ洗剤で洗われた自分の衣服に顔を埋めれば案外心安い体験だった。柔らかい彼女の肌の上でおんなじ匂いを感じた、そう回顧すると欲望が首をもたげようとしていたので七海は急いで部屋着に袖を通す。そういえば久々に彼女の泣き顔を見たのも悪影響だった。泣く時と達する時と、彼女の耳は酸欠気味に赤く染まる――クソッ。
気持ちを切り替えよう――そう思いながら七海は部屋着に着替え、ベッドの上の彼女のパジャマを掴んで洗面所に放り込みながらリビングルームの段ボールに手をつける。ゴミ箱は空のままだったので、これ幸いとばかりにラベルを剥ぎ、テープを剥がして丸めてゴミ箱に入れていく。テープを剥いで中の支え紙を抜いて箱をたたみ、さらにその上に次の箱を潰していく。中身はもう入っていないのが幸いだった。ただ淡々と大小の箱を潰し――たしかに女性の手には少し余るかもしれない――ある程度集まったところで紐でくくり、玄関まで持っていく。手から吊るせるようにループも作ったので、後でまとめて捨てに行こう――本当は都度捨てればこういうことにはならないのだが。
おおよそこの部屋の、彼女の中で大きな障害と考えられているのはこれらの段ボールの箱のようだった。残りの障害たりうるものはチラシ類と本で、とはいえチラシ類は机の上に纏まっており、本はソファを中心に近場の何かの上に積まれているからそこまで苦ではないはずだが、箱で床が埋まったせいで過度にハードルが上がっていたことは想像に難くない。段ボール用のカッターでも買ったら箱を潰すのも苦ではなくなるだろうか、と思いながら七海は無造作に爪でテープを剥がす。しかし何を買っているのだろうか、と思いながらローテーブルに目を向ければなんとなくわかる気もして、本か、生活雑貨か、保存食品か、そういうところだろう。
サイズ別に箱を潰してまとめて玄関に集め、七海はキッチンの下の引き出しからよく見知ったデザインのゴミ袋を取り出す。ゴミ箱の中身を全て袋にあけ、ついでに冷蔵庫を開ければ調味料がわずかばかりに残るのみで問題はなさそうだった。キッチンのシンクも含めて、自炊の形跡がない。あとでスーパーにも行かなくてはならないと思いながら七海は冷蔵庫を閉める。そしてそのままダイニングテーブルに向かい、今日受け取ったばかりの三つ分の小包の箱を椅子の上に避けながら――これは風呂上がりの彼女を待って開封してから潰すことにしよう――積まれたままのポストの中身を分別する。送り状に本や書籍と書かれた封筒は開封し、ラベルを剥いで包装と一緒に千切って袋に捨てる。ダイレクトメール類と封書はまとめ、明らかな投函チラシを集めて無造作にゴミ袋に捨てる。残りは本くらいだ、と思いながら七海は部屋の隅にいたロボット掃除機のボタンを押しに席を再び立つ。軽快な音と一緒に起動するロボット掃除機の進路を塞がないように七海は少し大股に部屋の片隅からラグの敷かれた真ん中に、最後の本丸であるところのソファの前に足をすすめる。
いつか前に部屋に来た時にコーヒーと読み差しの本を置いていたサイドテーブルにはおおよそ文庫サイズの小説が積まれており、床にも少しだけ落ちていたので掃除機のために先に拾った。文庫サイズはそれくらいだったので先に山ごと抱えて寝室の本棚へ向かう。スカスカになっている辺りを見ると引っ張り出してきてそのまま、というのが経緯だろう。彼女の本棚のルールは知らないが、本棚の残りを見ながら著者名タイトル順に補完する――必ずしもこの本棚はそうではないような気はしたが、七海のルールではそうだったので――幾つも共通の蔵書があって、そういえばこうして一緒に過ごすようになった当初は本の貸し借りもよくしていたことを思い出す。
ミステリを貸せば途中で止められないせいで、何度か構ってもらえないこともあった。ヴェイユを貸した時は感想戦が長くなってベッドの中で服の中に手を入れたまま真面目な話を始めてしまって、どうにもうまく進められずにそのまま感想戦をして眠ったこともあったか――懐かしい、と思いながら七海は本棚に文庫を詰める。リビングに戻れば彼女のトロリーケースの上にも数冊残っていたので回収し、ローテーブルの上の厚みに取り掛かる。
ファッション誌、専門書、レシピ本、ハードカバーが無造作に山を成していた。スリップが刺さったままのハードカバーは察するに予約していたのがアマゾンから届いてそのまま開封はしたものの、読めていないのだろう。専門書とレシピ本は言うに及ばず――出張の下調べに使ったままか、でもキッチンの使用痕跡がないので相当前から積まれているはずだ――ファッション誌の発行月は数ヶ月前のものだった。冬向けのコートを纏ったモデルが流し目でこちらを見つめていた。もう春どころかスプリングコートも暑いくらいの気温だというのに。雑誌は捨ててもいいか聞く必要があるな、と思いながら七海はハードカバーと専門書をより分け、先程回収した石黒とレム、三島を載せて再び寝室に戻る。文庫は上の棚へ、ハードカバーと専門書は下の棚へ。久々に本でも借りようか、と思いながら七海はハードカバーの幾つかからスリップを抜いて本棚の空きに詰める。三体はいつのまにか続刊が出ていた――忙しくて七海とて読めたものではない。
抜いたスリップをゴミ袋の中に放り、レシピ本を閉じてキッチンの近くの棚へ差し、古いファッション誌を未開封の箱の上に載せれば、あらかた作業は終わっていた。あとは洗濯物が乾燥機から出て来れば畳むなりアイロンがけをして仕舞えは問題ないだろうし、床は勝手にロボット掃除機がどうにかする。落ち着けばなんてことはないじゃないか、と思いながら七海はコーヒーメーカーに水を入れ直し、カフェカプセルを仕掛けて自分用のマグカップにコーヒーを落とす。彼女が泣き出した時はびっくりした――どこまで部屋が荒れ果てているか覚悟したものだが、全ては梱包物のせいだった。しかしながら出張から帰ってきてあれらを全て片付けるのは七海とてあまりしたくはない体験だというのは同意できる。コーヒーを口に含みながら七海は浴室方面に耳をそば立て、まだシャワーの音がしないことを確認する。風呂から上がってくる前に箱を捨てに行ってもいいだろう。さっさと自分に託せばよかったのに、しかし散らかっていると思った瞬間から自分に頼るのはできなかったのだろう。部屋を長く空けているから、と勝手に上がり込んで片付けてしまえば泣かせることもなかったかもしれない。別の意味で怒り出した可能性は否めないが。
やる気があるうちに、とゴミ袋をまとめ、まとめた段ボールを持ち、サンダルを借りて部屋を出る。ゴミ捨て場が二十四時間対応可能なことは知っていた。まだほの明るい時間なのに誰にも遭遇しないまま七海はゴミを指定の場所に捨て、そのまままっすぐ部屋に戻り、再び手を洗いに洗面所のドアを開け、未だに物音のしない浴室を見つめながら手を洗う。
「寝ていないでしょうね」
「起きてるもん……」
ちゃぷ、と水面から手がでたような音が聞こえる。寝ていただろうな、と思いながら浴室のドアを開ければ、浴槽のへりに頭を乗せた彼女がこちらを見上げていた。
「七海のえっち」
「溺れてないか確認しているだけです」
「寝てないもん、溺れないよ」
「それは結構。片付け終わりましたから、もう泣かないでくださいね」
一緒に入ってしまおうか、と思ったものの、片付けが終わったことに対してかすぐ上がるね、と返事が返ってきたので七海は何もなかったかのように浴室のドアを閉める。再びキッチンでコーヒーを口にして、そのままロボット掃除機を避けながらソファへ――やっと平面を取り戻したローテーブルの上にカップを置いて目を閉じる。ついいつも眼鏡をしている時のように目元をぎゅっと指で解しながら、シャワーの音を聞いていた。
***
「七海、ありがとう」
目を開ければ、目の前のラグの上にぺたんと風呂上がりの彼女が座っていた。新しいパジャマ――七海が寝室から取り出して脱衣所に投げ込んだものではない――を着て、半乾きの頭を膝の上に乗せようとしていたので七海はついソファから立ち上がって彼女を起こし、自分の隣に座らせる。シャワーの音を聞きながら、うっかり眠っていたようだった。
「ルンバが動いてるね」
「……動かせるようになりましたからね」
いいですか、と彼女に向かい直せば、片付けながら言いかけてやめた小言が堰を切って流れ出そうだった。いけない、と思いながら一呼吸を置く。本当は六秒待てばいいのだったか、怒りではないがマネジメントできるのだろうか――七海が息を吐ききる間に床が綺麗になったね、と彼女が小さくはにかんでいた。そうではなくて、と息を吸い直して七海が眉を寄せた瞬間、ロボット掃除機は空気を読まず七海の爪先にぶつかり、足を浮かせる羽目になる。何も格好がつかない、と思いながら七海はゆっくり切り出す。久々に向かい合ってしたかったことはお説教でもなんでもないはずなのに、と思いながらつい言葉を探してしまう。久々の再会に言葉が我先にと順番を守らず頭の中に渦巻いていて、それらが渾然一体となって舌の先から溢れそうだった。
「床に物を置かない」
叱られた犬のように彼女の眉が下がる。違う、これではなくて……と七海は言葉を継ごうと唇を舐める。何から言うべきか、と迷いながらついテレビ台の上の置き時計を見つめて口をひらけばまたお小言が飛び出てしまって言いたかったことから遠ざかる気がした。別に部屋が片付いていようがいまいがどうでもいいのだ、と久々にあった恋人に伝えるには何が適切で、何が適切でないか、検討した結果は果たして正しかったのだろうか。