七海とシャツを仕立てに行く話「では今度の土曜、新橋に十一時」
ちょっとした出来心だったのかもしれないし、もういい頃合いだ、と思ったからなのかもしれない。新しいシャツを仕立てに行こうと思ったタイミングで後輩からシャツについての質問を受けた。何度も昇級について推薦をねだっていた後輩だったので、これは前祝いで、それから自分からの挑戦でもある。そう思って七海は猪野を次の週末の昼に誘った。恋人も居る回ではあるが、そこは旧知の仲なので支障はないだろう。デートの頭に三十分ばかりください、と彼女にスケジュールの調整を依頼すれば、すぐさま仕方ないなあ、とむくれたキャラクターのスタンプが返ってきてさして問題はなさそうだった。
秋の休日の昼、新橋駅烏森口に十一時。三人の術師が改札で待ち合わせ。猪野くんには直前に彼女のことを伝えていたので待ち合わせのときには小さく驚きがあったらしい。それはそうだろう。彼女はいつもの職場での格好ではなくてデート仕様なのだから。今日はそのあと彼女のお願いで映画をみて、アフタヌーンティーに行く予定だった。そのせいで普段のデートよりもよっぽどめかしこんでいるのだから、彼からしたら別人だろう。
「七海」
「待たせましたか」
「いえ、全然っす」
私は待ってないけど、猪野くんはずっとうろうろしていたよ――そう言いながら彼女は右手を七海の左腕にさも自然に絡ませて来る。隣に立つといつもの仕事の時とは違う香水の匂いがする。また変えたな、と思えども、後輩の前でその指摘をするのは憚られた。
「後輩の前ですよ」
「でも、一列に並んだらおかしいでしょう?」
「それはそうですが」
「猪野くんと手を繋ぐのも違うし」
「止めてください、猪野くんとはいえ気軽にそういうことを口にするな」
そのまま烏森口を出て、銀座方面に逆戻り――今日の行き先は、彼女は何度か付いてきているので知っている。猪野くんにはまだ知らせていない。まあとりあえず、付いてきてください。そう言いながら彼女の腕を引き、後輩に視線を流す。意外にも彼は割にシックなチノを履いてきていて――サルエルしか持っていないのかと少し心配していた――安心した。何せ、スーツを作るならもっと先にしてやろうと思っていたからだ。
少し歩きますと告げたとおり、わずかに目的地までは距離がある。いくつかの交差点を抜け、風景が少し変わってきた頃がちょうど目的地だ。路地の間を進み、薄暗いガラス越しに中に人がいるのを確認して半地下に降り、重い木のドアを開ける。お待ちしておりました――老人の声と続く若い男性の声がして七海は会釈をする。
「予約ぴったりで」
「ええ。今日は彼の分も一枚お願いします」
猪野くん、と彼女の後ろにいる彼を呼ぶ。え、という顔をしているのがありありと分かる。彼女は生地の積まれた棚の方へふらふらと足を進めていた。シャツの生地だけでも数棚ある。その奥にはスーツ用の生地とコート用の生地の棚があるのを知っている。予約時に告げたとおり、今日はシャツだけの予定なのでそちらを見ることはないのだが。
「今日は君にも一枚シャツを仕立てます。……前祝いだとでも思ってください」
「え、七海さん、それって」
「せっかくですから破らないように昇級試験でも受けてください。それくらいの制約を私から課してもいいでしょう」
七海は足を生地の棚に進める。今日はもう大体、作りたいものは決めていた。それがわかりきっているせいか老翁は明らかに猪野くんに向けて生地の紹介を始める。冬向けに淡青のヘリンボーン生地で作ろうと思っていたから、こちらが決めるのは早い――しかしそこまで焦らせても良くないだろう、内心どれを選ぶかは決めているのだが似た生地を数冊引っ張り出して悩むふりをする。
「七海、一枚はピンクのつくってよ」
「ピンクは汚れが目立ちます」
「ええ、絶対似合うのに……仕事用がだめならデート用に着て」
これとか、どう? そう言いながら彼女は薄ピンクの生地を引っ張り出してこちらに向ける。最近は得てしてこういう事が多い。二枚作るのであれば、片方だけ彼女に選ばせるのも悪くない遊びだった。よっぽど暇そうにさせているより機嫌も良いし、なんだかんだで作ったそれらを気に入っているというのはある。
「いいでしょう」
「大丈夫だよ、私が選んだシャツ、まだ破いたことないし」
「七海さんはシャツの持ちが悪い上客ですからねぇ」
ははは、と笑いながら合いの手を入れられてしまう。確かにそれはそうなのだが、こちらとしては破きたくて破いているわけではない。顎でしゃくって彼女の持つ薄いピンク色のツイル生地を自分が選んだ本命の生地の上に重ねる。猪野くんに目を向ければ、彼は悩みに悩んでいて――オフホワイトの生地を幾つか選んでいた。意外だ、と思ったが最初の一枚だとそう選びたくもなるのかもしれない。自分が新卒の時もそうだった……ような気がするがいつのまにかピンストライプと色シャツだらけになってしまった。あの時はあまりこだわりもなく、ただ単に趣味で似たようなものばかり増やしていたように思う。……今となっては少しばかりきつくなったので着れなくなったものも何枚かある。
「……白、でも、いいっすかね」
「いいと思いますよ」
実際、オフホワイトのオックスフォード生地は柔らかい雰囲気で良い気がした。運動量も多い、自分より若い、スーツはまだそこまで着ない、となれば余計に好ましい選択かもしれない。今日のチノに合わせるのでもいいだろう。そしてこちらへ――と導かれるまま奥に進んで台の上に靴を脱いで立たされる。ジャケットを脱いで、腕を広げて――慣れ親しんだ儀式めいた動きだ。首の中心から肩へ、そして手首まで、背にメジャーが走る。
鏡越しに彼女がボタンを選んでいるのが見える。そして猪野くんがもじもじしながら老翁にメジャーを当てられているのも。手首、腕周り、それから背の筋まで、働き者の手でメジャーが当てられてどんどん紙にサイズが書き留められていく。ちらりと覗けばおおよそ前回と同じ値だった。「ああ、襟は少し高めにお願いします」なぜならカラーピンを着けるのが習慣なので。言わないでも既にサイズカードには足す分だけ記載されていた。
「彼も私と同業なので、動きやすいようにしてあげてください」
「承知しました」
猪野くんのほうが動かなくてもいいはずが、若さかどうか知らないが彼の運動量は多い。きっと昇級にあたってもスタイルは変わらないだろうし、何より変に破かないよう意識が向いても良くないだろう、と思っての口出しだった。背中から腕周りにかけて、稼業は知らずともよく動くのだと言えば着ていたシャツの皺の寄り方からそうでしょうね、と言って調整をしてくれたのはこの老翁だった。以来、快適に着ている。それがきっかけでスーツも同じようにここで仕立てるようになったのだった。視界の端で彼女がつまらなそうに半地下の窓を見上げている。布地に合わせるボタンはもう決めたのだろうか。
「冬向きのスーツは今日はいいの、七海さん」
「コートを着るので、冬のスーツはあまり好みじゃないんですよね」
「そこまで筋肉があれば、スリーピースにコートだと暑かろうね」
「ええ。年度が変わる頃にまた作ります」
猪野くんに襟なり袖元の長さの好みを聞きながら、不意に営業を掛けてくる。スーツはこの間作ったばっかりだ。わざと猪野くんの前で話題に挙げているのだろう。その頃には彼の進退も決まっているだろうから、それはそれで手を打とうと思っているのに、明らかにそれを見越して喋っている。そもそも彼が昇級するのであれば、家のこともあるだろうから春先には時間がないかもしれないが。
「じゃあ、最後にボタンと前立ての仕上げ方を聞こうかな」
台から降りてジャケットを着直す。彼女が近寄ってきて、これにしてよ、と白い貝殻のボタンを示していた。異論はない。聞かれずとも前回と同じ仕立ての好みがシートに書かれていて、異論がないことを確認して一番下にサインをする。フレンチフロントにボタンはなし。猪野くんはいくらか悩んだ末に同じボタンにしてもいいですか、だなんて言うからもちろん、と返事をした。彼はオフホワイトのボタンダウンを、自分はブルーとピンクのシャツを一枚ずつ。内ポケットから封筒を取り出して彼に渡す――彼と時間が合わなければ渡すだけにするつもりだった仕立て券が中にはいっている。
「これは私からの前祝いで、試験でもあるので」
「……あざっす!」
「私の秘密を一つ教えました。……残りは君が無事一級になってからですね」
カードを渡して支払いを済ませる。彼女はベンチの上で暇そうに外の景色を見ていた。映画の時間にはまだ早いし、これから散歩でもいかが、と誘おうか、どうしようか。思ったよりも寒いので早々に室内に切り替えても良いかもしれない、と彼女の首元の空き具合を見て思う。仕事では着込むくせに、私服だと薄着ばかりして――自分がそうさせているのかもしれないが。
「先輩、七海さんのシャツ選んでたんすね」
「そうすると彼女の機嫌が取れるので」
「もしかして、この間のブラウンのシャツとかも」
「……そうです」
三枚くらいありますね、とワードローブを思い返しながら伝える。ベストを含めるともう少しある。やもするとブルーばかりになってしまうので、それはそれで良いのだが。ブルー系で彼女が選んだものもあるが、この調子ではそのうちどれも彼には分かるだろう。
「破けないシャツが増えるほど良いんですよ」
この間脇腹を大きく破いたシャツの代わりは今日のブルーのシャツだった。彼女が選んだシャツを破っていたらどうだっただろう、あの場で相手を始末できただろうかと仮定しても想像がうまくできない。想像できるのは彼女があの時以上にがっかりした顔で自分を迎えに来ただろうときの表情くらいだ。そして一言目には生きててよかった、だなんて言って――二、三文目くらいに口を開いて「シャツ、破れちゃったね」だなんて悲しそうな顔で言うだろう。実際に、治った傷を見て彼女は見えない傷跡に指を這わせて生きててよかった、と独り言を漏らしていた。
「今に君もわかります」
「そうでしょうか。でも七海さんに作ってもらったら……確かにそうかもしれないっすね」
仕上がり日の書かれた薄紙を受け取ってジャケットの内ポケットにしまう。それでは、また。そう告げて解散して彼女に視線を向ければ退屈を顔にありありと浮かべた彼女がするりと左手に滑り込む。私はこれから彼女のご機嫌を取りに行きますので、また任務で。そう後輩に告げて戸を開けばいくらか冷たい風が肌を撫でる。資生堂パーラーでモンブランのパフェが食べたい、だなんて不機嫌の塊から声が上がるので、アフタヌーンティーはどうするんですか、と聞き返せばどっちも食べたいと無理難題が返され、七海は代替案を囁く。温かいショコラショーにしませんか。あなた、すぐお腹いっぱいになるでしょう。ショコラショーだって本当は飲みきれないで最後七海も飲まない? だなんて言いだすのが目に見えている。
「七海の秘密だったんだ」
「……ええ」
「猪野くんも私も知ってたら秘密じゃないんじゃない?」
「私が死んでもあなたと彼に記憶と習慣が残るなら秘密です」
「縁起でもないこと言わないでよ」
左腕に絡まった彼女の手に力が入る。縁起でもないけれど、明日こうしていられる約束は誰しも持ち合わせていないし、七海だって自分の居なくなったあとのものの帰属先を決めた紙を定期的に見直して机にしまい込んでいる。彼女だって似たようなことをしている。淡い黄色の便箋に認められた私物と資産の行く末。目録の半分より後ろ側にはお互いの名前が書かれているのを知っている。
「ところであなたからいつもと違う匂いがするのが気になります」
「んー気分で変えたの。久々にお散歩できるなって思ったから」
「知らない匂いがすると少し戸惑います」
煉瓦の残る道を歩きながら彼女の歩調に合わせて少しだけ速度を落とす。銀座の端から端へ、入り組んだ街の淵を辿るように路地に入り込む。目的地の合意は得られたはずで、なんだかんだゆっくり街の中心をそぞろ歩く機会をまた逸した。ふんわりといつもより甘い匂いが彼女から立ち上る。冬向きだ、と思えどもどこかいつもよりも揮発するのが早いような気がする。左腕を抜いて立ち止まり、自分の首にかけるだけにしていたマフラーを彼女の首に巻き直す。確か先週だったか、買い物をしていたときに紙袋に掛けられていたリボンと同じ匂いだ。
「なんだか今日の七海、お兄さんみたいで不思議な気持ち」
「なんですか、急に」
「猪野くんと居るときの七海、いつもと違ってお兄さんみたいなんだもん。初めてみたかも。ちょっとまだ名残があるね」
この方が私にとっては秘密だなあ、と言いながら彼女は巻いたマフラーの首元を少し緩める。七海の匂いがする、だなんて余計な感想と一緒にもう一度左腕に手が回されたので、わざとそうしているんですが、と返せばさらに左腕に彼女の身体の重さがかかる。
「お兄さんの私じゃいやですか」
「嫌じゃないけど……ドキドキするからからかわないで」
左下に視線を向ければ、グレーのカシミアの中で彼女の頬が僅かに上気しているのが見える。すっかり彼女の機嫌は取れたらしい。七海はゆっくり彼女を引くように歩き出しながら、今日一日はこれで遊べなくもないな、と新しいおもちゃを見つけたような気持ちでいた。