一
冬と春の境目にある夜は酷く冷える。人目のかれた山の中、申し訳程度に寺と呼べる形を残した建物は、忍び込んできた隙間風でことことと揺れた。垂らしこまれた冷気が、爪の先から滲むように全身に広がっていく。堂宇の壁に凭れたまま、眠れずにいたクモオの身体はかじかんで震えていた。もっともその神経を眠れぬほどに犯していたのは、早春の凍える風ではなく、むしろ左目の奥で鈍く燻る痛みであったが。
あの日盲にされた左目は、クモオから片目分の景色を奪った代わりに、気が触れるような痛みを今も残し続けていた。眼窩の中、潰されたままで置き去りにされた憐れな目玉。その重さをクモオが忘れそうになるたびに、あるいは機能しないそれが身体に馴染んでしまいそうになるたびに、存在を忘却することを咎めるようにじくじくと傷が痛んだ。
真白の風が蓮の花を撫でていく清らかな池の底では、骨は砕かれたそばから、肌は焼け爛れたそばから、みるみるうちに再生され、永遠にも思える責め苦が繰り返されていた。あの地獄での苦悶も、頼りない蜘蛛の糸を辿って逃げ出した今となってはどこか夢見心地で現実味が薄い。しかし鬼よりも鬼らしい仏に極楽の淵で傷つけられた片目の痛みはまさしく現実のものであった。肉体の破損と再生が続く地獄にもう一度堕とされたとしても、左側の眼球は失われたままだろう。地獄では、その場でつけられた傷しか治らない。
「……くぅっ、うぅ、いてぇ、」
真昼のうちの春めいた生温さが去ったと思うと、急激に冬の寒さが舞い戻ってくる。こんな季節の夜には、いよいよ頭の奥から疼痛の音が鳴り響いた。耳障りな鈍い音で頭蓋骨が割れそうだ。クモオは醜く潰れた瞳を庇うように、そっと左目を掌で覆いながら、己の目玉に金の鋏を突き立てた白い仏を睨みつけた。闇ばかりが深い廃寺の中、今にも崩れ落ちそうな二曲の屏風の向こう側に流れる、川のせせらぎにも近い白髪。その柔らかな絹の髪は、死んだように眠る仏の頬にかかり、緩やかな放物線を描いて広がっていた。そこだけを切り取れば、穏やかさだけを湛えた涅槃図にも見える。
「くそ、気持ちよさそうに寝やがって」
「……もっくん、起きてんの?」
クモオの口から思わず漏れた悪態に、少し離れたところから反応があった。柱一つ挟んだ壁に寄りかかっていたカンだ。
荷物が増えると旅の邪魔になるからと、嵩張る布団は行く先々で調達するのだが、今回は一組しか手に入れられなかった。こんな時、さも当然と言わんばかりに寝具へと潜りこむのはノノで、クモオとカンは柱や壁に背中を預けて休むか、黴臭く埃っぽい板張りに横になるかの二択だった。今夜は二人してひやりとした板張りに寝転がるのが嫌で、体重をかけるたびにぎしぎしと悲鳴をあげる壁に身を任せていた。
「眠れる訳ねぇだろ、寒いし、痛いし」
目、という一音は、恨みがましい調子を含んで床に落ちた。
「まだ痛むのかよ」
「たまにな」
地獄にも極楽にも季節はない。それ故に、クモオは片目が失われたのがいつだったかということを正確には把握できていなかった。その下で罪人たちがひしめきあっているとは思えないほど静かに澄んだ池では、毎朝白蓮が音をたてながら花弁を開く。空にはちらちらと薄紅が散る一方で、眼前には枯れ木が広がる。そして遠く霞んだ先では黄色と濃い朱に染まった木々の葉が風に遊ばれていた。地獄も同じようなもので、煮えたぎる血の池に沈みながら桜と紅葉を見ていた記憶がクモオにはあった。クモオが四季を把握したのは、対盤の知らせが届き、蓮池のある極楽を出てからだった。気味の悪い静寂に包まれた世界でどれほどの時間を過ごしたのかは曖昧だ。しかしノノに連れ出されたあの日の朝は雪がまばらに舞っていた覚えがある。きっと晩秋か冬の初めだったのだろう。そこから数えても、目を失って少なくとも四か月は経っている。
「ふぅん」
カンの声色は生返事にも似ていたが、この話題は意外と男の気を引いたらしい。のろのろと這いながらクモオに近づいて、躊躇うことなく左目を覆い隠していた重い黒の前髪を掻きあげた。
「ばか、見るな」
クモオは反射的に顔を背けようとするものの、前髪をまくりあげるカンの手が額を押さえつけていて、首を動かすことがかなわなかった。眼球を壊されて以降、人目に触れないようにしていたのに。隠していたものが晒される感覚と、額越しに移る人肌の熱が妙にいたたまれなくて、クモオはその短い眉を顰めた。
「うわ、いたそ」
夜目が利くカンは、暗がりの中でも鮮明に眼孔の様子を捉えることができたようだ。
腫れあがって閉じきれなくなった瞼の暗幕の裏で、無残に割れた目玉が居座っている。鋭利な鋏の先端を浅く突き刺した後に、刃先を開いたのだろうか、深い溝で切り裂かれた暗い赤の瞳孔は縦に破れ、白目だった部分には淀んだ色の血が浮かんでいた。碌な手当てすら施されなかったにしては、血も上手く止まり、残された肉の残骸が腐り落ちることもなく済んでいるのは奇しくもあった。
「だから痛いって言ってんだろ、いいから離せ」
まっすぐ見つめてくる玻璃色の視線を振り切るように右目を閉じて、クモオはカンの手を苛立ちに任せて払った。なされるがままに撥ね除けられたカンの掌は所在なく宙を彷徨って、こつんと床に落ちた。風の音がひときわ強くなった。
心配からか好奇心からかはわからないが、クモオの中に己の目を覗き込んだカンの手を無下に振り払った気まずさが残った。伏せたばかりの右目が重いが、いつまでもこのままでいるわけにもいかない。
目の前の男から憐みを向けられるのは不本意だった。憐憫をかうくらいなら、いっそ不気味なものを見たと表情を歪められる方がいい。そう思いつつ恐る恐る顔を上げた先には、ただ驚きばかりを浮かべた丸い目があった。
「なんだよ、人が心配してやってんのに」
「しばらくすれば落ち着くから、お前はもう寝ろよ」
「寒くて寝れねぇんだよ、もっくんだけ羽織とマフラー持っててずりぃ、どっちか寄越せ」
「嫌だ」
硬くごわついた布地のマフラーを引っ張るカンの手から逃れるように、クモオは首を窄めて身を丸める。首元に集中して油断したところで羽織を剥ぎ取られるまいと、両の腕で身体を抱くようにして小さくなる。
「カン、やめろって」
まるで甲羅に身を隠す亀のように縮まり、頑として譲らない素振りを匂わせると、カンの骨ばった指は、襟巻と首筋の隙間を見つけて、音もなく滑り込んでくる。ギターの弦を弾く爪の先が、そろそろとクモオの喉首を辿っていく。年がら年中厚い布地で覆われている肌の上を歩く指の感覚にクモオの背中はぞくりと震えた。
「く、くすぐったいっ」
こそばゆさに耐えきれず零れた抵抗は、上擦って音にならず、最後は半分笑い声の中にあった。クモオの身体から力が抜けたその瞬間をカンは見逃さなかった。首元に衣擦れの音が走った時には、クモオが巻いていたマフラーはカンの手の中に納まっていた。
「やった」
返せとクモオが手を伸ばす前に、カンは自身の首にするすると布を巻き付け、すぐに満足げな面もちを見せた。
「いいだろ、もう目も大丈夫そうだしな」
「っ」
悪戯が成功した子供のように、口の端と目尻を歪めてカンが笑う。
「……大丈夫なわけないだろ」
触れるか触れないかの調子で、首の上を踊っていた爪に感覚を弄ばれ、しばらくの間、左目の鈍痛を忘れていたことにに気が付かされる。しかし、素直に認めてしまうのは、目の前の小憎たらしい男の浅はかな策にまんまと嵌ったと白状してしまうようなものだ。それがクモオの癪に障り、唇を尖らせてカンの言葉を否定する。
「頑固だなー、もっくんは」
「お前みたいに単純じゃないんだよ」
「喧嘩売ってんのか」
「なんだ。馬鹿にされたのがわかったのか、少しはよくなったみたいだな、オツム」
クモオは人差し指でコツコツと頭を叩いてみせて、わざとらしく煽る。
「ほぉ?」
挑発をさらりと受け流すほどカンは大人びていない。ツンとした表情で己を焚きつけるクモオの頬を親指と人差し指で挟みこむ。少しあどけなさが残る円い頬の輪郭に指先が食い込んだ。
クモオの瞳は落ち着いていた。吹き込む風が甘ったるい梅香をほのかに孕む。その空気に視界が白むのに任せて、カンはクモオの唇に噛みついた。額でも小突かれると思っていたのだろうクモオは、想像外の刺激に身を捩って逃れようとするが、結局できずじまいだった。
「んッ」
喉の奥から洩れたくぐもった悲鳴は、重なった唇の隙間で溶ける。互いに荒れ気味な唇の甘皮が擦れては引っ掛かって、微かな抵抗を生む。その小さな不快感を拭うように、カンの舌先が唾液を撥ねさせてクモオの唇を舐めた。柔らかに濡れると唇同士がしめやかに吸い付いて離れない。触れあっている薄い皮膚から混ざり合っていく。クモオの歯列を割って入った厚い舌が、その咥内をじっとりと犯して、粘膜が艶めかしい水音をたてた。そして蛇のように舌が絡んで、口の中の戯れが膠着する。その一瞬の隙に、クモオの歯がカンの舌肉に強く噛みついた。
「いっ、ッた!」
熱をもった舌先を掌で扇ぎながら、カンは恨みがましい目をクモオに寄越した。
「なにすんだ、ばか」
「それは俺のセリフだ」
「こっちのほうが痛みに効くかと思ったんだけど」
改めてクモオは左目を押さえた。じくじくと膿んでいた痛みは晴れ、頭蓋骨の奥でこだましていた鈍痛の音も止んでいた。それがまた腹立たしくて、舌打ちを鳴らす。
「だからって、いきなり」
「今更照れるようなタマじゃねぇだろ」
惚れた腫れたの口づけなど、カンもクモオも知らなかった。少女が毎夜夢むような、唇に特別な愛情を乗せて体温とともに交わすそれも。二人が知っていたのは、より直情的な、肉の欲に結びついたものだけだった。そのためであろうか、クモオにとっては後手に回る接吻が酷く気恥ずかしく、またそうした気分が膨れること自体が疎ましかった。
これ以上カンを調子に乗らせまいと、クモオは渋面を張り付けて、声を低く落とす。
「……傷はまだ痛い」
「もっくんが女だったら、もっといいやり方で痛いの忘れさせたんだけどな」
カンは下卑た鼻息で、空気を揉みしだくように両手の指をぐにぐにと動かして見せる。
「ヤッてりゃこのクソ寒いのも気にならねぇだろうし」
「お前本当に最悪だな」
クモオは呆れ切った溜息をひとつだけ吐いて、もぞりと身体をくねらせる。丸めていた足を伸ばすついでに、這い寄っていたカンの脇腹を軽く蹴った。そして何事もなかったかのように、足首だけを交叉させる。腕は胸元で緩く組み、頭を壁に預けて眠りなおす姿勢をとった。
「マフラーは貸してやるから、明日の掃除はお前がしろよ」
「わかった、わかった」
舌先三寸の軽い言葉。それにクモオが難癖をつける前に、カンはするすると柱の向こう側へ逃げていった。落ち着く体勢を探しているのか、何度か壁へ体重をかけては身を起こしているようだった。木の板の苦しげな鳴き声と、色気のない衣擦れの音が静かになる頃には、また綻びから入り込む風の騒ぎ声ばかりが堂宇の中を満たしていった。一足早い春荒れの匂いを吸いながら、クモオはのろのろと瞼を下した。
痛みの抜けた左の眼窩に詰めなおした小さな嘘の居心地の悪さは既に失われていた。首元は随分と心許なくなったが、目の奥を苛む重苦しさから解き放たれたためか、眠りの底まで沈んでいくのにそう時間はかからなかった。