HOLIDAYこういうことは慎重にやらなければいけない。
畦道相馬はよく知っている。焦りは禁物、急がば回れ。平常心が大切なのだ。
「おはようございまーす」
校門前に立っている守衛のおじいさんに、いつものように声をかける。夏の盛りの朝はすでに暑く、今日もしっかり剃った頭にじんわり汗が浮かんでいる。
「おはよう、相馬くん。今日も精が出るねえ」
「っす!」
毎朝元気にあいさつをする畦道は、三人いる守衛のおじいさん全員が覚えている。もちろん畦道も覚えている。今日の守衛は盛本さん。夏休み期間だというのに精が出るのはお互い様だ。
そんな調子でいつも通りに校門を抜けるが、昇降口には立ち寄らない。後者の脇をぐるりと回って、向かうはもちろん旧体育館だ。
グラウンドの真ん中では、野球部が威勢のいい声を上げながら練習している。一軍は確か、甲子園出場が決まっているはずだ。自分たちも続かなければ、そんな思いが強くなる。隣の芝生で元気に駆け回っているのはサッカー部。こちらは一回戦で敗退してしまったらしい。スポーツ未経験の畦道にとって、敗退とは何を意味するのか、まだピンときていない。けれど負ける悔しさは知っている。そしてそれが、糧になることも。
テニス部のラケットの音や、新体育館から漏れ聞こえるバレー部やバスケ部の音を聞きながらずんずんと足を進める。どんどん近くなってくる、旧体育館。
「わっ!」
曲がった先で、ドスンと人影にぶつかった。
「あいたた……えっ、相馬?」
「部長!」
畦道が目を丸くするのと同じくらい、いや、それ以上に、目を真ん丸にした王城が尻餅をついている。
「どうしてここにいるんだい!?」
「部長だって!」
お互いにお互いの顔を見やり、そして同時にこう叫ぶ。
「今日は部活」
「休みの日だべ!」
「あーあ、みんなに隠れてコッソリ特訓しようと思ってたのに」
並んで歩きながら、王城がクスクスと笑って肩をすくめる。
「相馬も同じこと考えてたなんてなあ」
「だって休みってもやることねえし……試合までもうすぐなのに、じっとなんかしてらんねえべ」
そう言って拳を叩いた畦道の手の中には、旧体育館の鍵が握られている。体育館の鍵は三つあり、一つは学校保管のマスターキー、一つは部長の王城の管理、そして最後の一つは、一年と二年が交代で管理しているのだ。畦道はちゃっかり、しっかり、昨日のうちにその三つ目の鍵をキープしておいたのである。
「でもオラは部長がいてくれて助かったァ。守備練習、付き合ってもらっていいっすか?」
「勿論だよ。僕も攻撃練習ができて嬉しいし」
部長とマンツーマンの特別練習、なかなかいいじゃないか。畦道はウキウキとした気持ちで校舎裏を曲がる。旧体育館は目の前だ。
と。
「あ、あれ、畦道くんに、部長!?」
「あちゃー……僕達だけじゃなかったのか」
体育館に続く渡り廊下に、見慣れた三つの影。人見、関。そして伴もいる。
「あれ、君たちも自主練?」
部長の目がまた丸くなる。
「ほ、ほら、試合前だし、じっとしてられないっていうか……」
「三人で軽く、軽くです、ホントに軽く汗を流そうって」
そう言った関の手には職員室管理のスペアキー。
畦道と王城は顔を見合わせ、それからたまらず吹き出した。
「あはは、みんな、仕方ないなあ」
「オラたち一年と部長の、特別練習だべな」
宵越も呼んでやらねえと拗ねんべなあ、なんて畦道は笑い、鞄の奥から携帯電話を取り出した。
電話帳から好敵手を呼び出し、かけること数秒。
「……あれ、出ねえべ」
「実は僕達もさっきから連絡してるんだけど」
関の言葉に合わせるように、伴ばスマートフォンを取り出す。
十件近く並んだ発信履歴は、全部不在を示していた。
「出かけてるのかもしれないね」
「気付いたらかけかえしてくれるとは思うんだけど」
出ないものは仕方ない。畦道は頷き、携帯電話を鞄にしまう。
連絡のつかないエースのことを気にしても仕方ない。宵越にだって休日に予定くらいあるだろう。
「宵越くんのいない間に、僕達だけで特訓しちゃいましょう」
関がにやりと笑いながら言い、体育館の鍵を開けた。
伴が右側を、関がそのまま左側の戸を押し開ける。
休日の体育館は薄暗く、物音ひとつしない――――――――――はずだった、のだが。
「やっぱり来やがったな、てめーら」
さて、静かな体育館によく通る声が響く。
天窓から差し込む逆光を浴びながらマットの前で仁王立ちしていたのは、そう、副部長。
眉間に皺を寄せ、口元をゆがめた井浦慶が、五人をにらみつけるように立ちはだかっていた。
「け、慶!?」
「ひええええええ!」
王城は叫び、他の四人は悲鳴を上げた。
井浦の立つマットの背後では、能京の誇る守備二人―ー―伊達と水澄、そして、先ほどから何度も着信をかけていた同級生、宵越竜哉が正座させられていたからである。
「おめーら、今日は何の日だ」
「今日は!!」
「部活の!!」
「……休日デス」
必死の形相で叫ぶ水澄、しょぼくれた顔で続く伊達、そして、不貞腐れながらも声を出す宵越。
その声を背後にずんずんと歩み寄って来る副部長の姿に、一年生たちはたまらず部長の背後に隠れた。
「……えーっと、慶、いつから気付いてた?」
「てめーが朝のランニングに出たところからだよ」
井浦が顔を皺だらけにしたながら王城に向かってメンチを切る。
「ちゃんと! 休め! っつたよな?」
「えへへ、だって、休んでてもすることないし……」
「なんにもしねーのが休日なんだよ!」
まったく悪びれた様子のない王城をひとしきりにらみつけたあと、井浦はがっくりと肩を落としてため息をつく。
「ここで張ってりゃ一人くらい捕まるかと思ったけど……なんで全員集まってくんだよ」
「井浦サーン、そろそろ足が痺れそうなんスけどぉ」
「正座は筋肉に悪いぞ」
「いーから練習しようぜ」
そんな井浦などお構いなしに、背後の三人が口々に声を上げる。宵越など、とっくに正座を崩してふんぞり返っている始末だ。
「ね、慶、いいじゃん。みんな揃ってんだし……軽く練習して、そうだ、みんなでお昼食べに行こう!」
「いいですね、自分、バイキングの割引クーポン持ってます」
「バイキング!? オラ行ったことねえ!」
「ぼ、僕ライン引きまぁーす!」
口々に言いながら準備を始める一年生部員たち。伸びをする二年生と不倒。項垂れた副部長の肩を叩く部長。
「いいか、軽くだからな、軽く!」
諦めて叫んだ井浦に、歓声が上がる。
「どいつもこいつも……カバディ馬鹿だらけかよ」
「あはは、ホントだねえ」
苦々しい顔をする井浦だが、その目元は優しい。王城もテキパキと準備を始めた部員たちを見つめ、目を細める。
「みんな練習熱心で、困っちゃうなあ」
全く困った様子もなく言った王城を井浦が軽く小突いたことに気付いたのは、畦道ただ一人だった。