「鍾離先生いる」
バンっと勢い良くスライドドアを開けて、
「それはいるだろう」
きぃ、と椅子を回してこちらをメガネ越しで見ると、溜め息をつかれる。
立ち上がり、白衣を翻し珈琲メーカーの元へ。
「ブラックでよいか」
「もちろん」
ことり、と円テーブルに珈琲が置かれる。背もたれを前にして座っていた俺は、その匂いに笑顔が溢れる。
「…新任教師が毎日医務室に無駄に通うな。」
「だって先生職員室なんて滅多にいないじゃん」
「それはそうだろう」
はぁ、とまた溜め息をつかれる。慣れっこだ。
夢のようだ。夢を叶えたんだ。やっと。
◆
白いカーテンの内側。白いベッドに仰向けに寝転びながらオレは、まるで心地よい音楽でも聞いているかのように。
「捻挫だな。固定しておこう」
「風邪か。親御さんには連絡をしておく。今日は帰宅するがいい。」
自然と口許は綻び、そんな声を聞いていたんだ。
別にどこも具合は悪くない。ただ窮屈なブレザーのネクタイを外して横になっているだけ。
「…で」
しゃっと勢い良く開けられたカーテン。見下ろされるオレ。
「何時までいるつもりだこの怠け者は」
腕を組んで、溜め息をつく。その仕草一つ一つが、オレは好きだった。
「あ、メガネ変えたの」
「話をすり替えるな」
「まぁまぁ許してよ。あー頭いたいなー」
ちら、と先生を見ると仕方がないなというように少し笑っていた。
「なにか飲むか珈琲はあるが…」
「いや…まだ…苦くて…」
「子供だな」
「大人になったらブラックで飲んでやるからな!」
はいはい、と麦茶が出される。
先生はそのまま自分の机の椅子に座り、珈琲を飲みながら本を読み出した。
不思議な事に、見た目エルフでもないのにこの先生は歳を取らないらしい。
容姿端麗、眉目秀麗
そんな言葉がぴったりなこの人の事だ。何もおかしくはない。と思う。
「ねーねー、先生って彼女いるの」
「いや、いないな。」
「なんでいつでもどんな人でも出来そうなのに」
オレの恋愛遍歴がそうだったから何の気なしに言ってしまった。…オレがこの先生に本気になってからは誰とも付き合ってはいないが…
「そう言うものではないぞ。」
諭されてしまった。
…先生の昔を知りたくてもはぐらかされて教えてもらえない。
どんな生活をしているのどんなものが好きどんな人が好きタイプはあるの
開校当時から保健の先生をしているこの人の人生を知るには、三年では短すぎて。
「…あのさ、オレ、あと半年で卒業だけど」
何故こんなことを言ったのか。時間が無さすぎて焦ってた。
「オレ、またここに戻ってくるから。今決めたから。そしたらさ、そしたら…」
恐る恐る先生の目を見たら、とても綺麗だった。
「オレと、付き合ってよ」
その目が一瞬見開かれる。そして
「…いいだろう。契約だな」
柔らかく弧を描く。
なんでそう言ってくれたのかなんて確かめなかった。覆されたら嫌だから。考えさせないように
「やった!約束だから!絶対!」
そのまま走り去って、卒業まで保健室には行かなかった。
最後に見たのは木漏れ日のような笑顔だった。
◆
やはりこの苦味はまだ苦手だけど、こうやって一緒に飲めることが幸せで。
「やー…オレがんばったなぁ…」
しみじみと言葉を漏らすと
「スポーツ推薦だっただろう」
「いやいや免許の時は必死だったからね」
その笑顔は十年前と変わりなくて。ずきん、と心が痛む。時折思ってはいたんだ。
「ねぇ、先生。オレあの時あんなこと言って、今もこうやって来てしまったけど。無理に合わせなくていいんだよ…オレも、大人になったから」
あの時は逃げ道を塞いだけど、もうそんな卑怯なことはしたくなかった。でも否定されるのが怖くて
「…では、正直な所を話そう」
そう、真面目な声を出されて、苦しくなる。
先生は、大きく息を吸って、ゆっくりと吐いた。
「…あの頃、正直戸惑っていた。こんなに毎日のように構ってくれとくる輩は初めてだったからな。ただ…時が経つにつれて、」
少し、口をつぐんで、オレの目を見る。
心臓が出そう。
「お前の向日葵のような笑顔と、涼やかな笑い声がとても心地よかった」
そういう先生の頬は少し赤くて
「…今まで生きてきた中でもこの十年が一番、長かった」
笑っていたが、声は、少し震えていた。
堪らず。気付いたら腕の中にいて
「…変だろうこんなに長く生きているのにな」
「変じゃない!嬉しい!オレ…めちゃくちゃ嬉しいよ…」
愛おしい。大好きだ。過去なんてもう気にしない。
「ん…っ」
この人生の大先輩を、心から愛そう。これからを一緒に過ごそう。
「…苦いな」
そう笑った先生の珈琲にはミルクが入っていることを知った。