赤い様「降谷様、もうじき日が暮れます……やはり今日は引き返した方が……」
「最初に言っただろう、君達は早く村に戻れ。今回ばかりは五体満足で帰れる保証はないぞ」
鬱蒼とした森の奥深く。一人の若き神主と御付きの三人は枯れ葉を踏みしめながら慎重に歩みを進めていた。とある村から依頼を受け、大昔からこの地に伝わる禁忌である「赤い様」を祓う為だ。ざっと調べても五百年以上前から〝存在〟している、神なのか呪いなのか化け物なのか。途切れることなく言い伝えは遺っているというのに、その正体が記された文献は一つもない。姿を見たものは気が狂うだとか、生きて帰った者は一人もいないだとか。今まではこの「赤い様の森」に立ち入らなければ害はないとされていたのだが、近年森の付近に住む村人達の不審死が相次いでおり、ついに赤い様の怒りを買ってしまったのだと降谷の元に助けを求める依頼が届いた。
降谷は生まれつき霊力が秀でており、幼い頃は生きている者と〝そうでないもの〟の区別がつかない程にはっきりと視えていた。今は亡き両親に叩きこまれた除霊術で、これまでに数え切れないほどの悪霊や呪物を祓ってきた降谷だったが、今回は文字通り格が違う気配を全身で感じている。まず依頼を受けて現地に赴いた時点で、どの程度の相手なのかおおよその見当がつく。しかしこの村は、付近にやって来ただけでも悪寒がするくらいに桁違いだった。正直、こうして森の中を歩いているだけでも気が遠のきそうな程に。間違いなく今までで一番最悪な相手だ。負ける気などこれっぽちも無いが、無傷で帰れると言い張れるほど青くもない。良くて全治二週間程度か、最悪でも失明程度に抑え込めれば御の字だろう。元々補佐を連れてくる気はなかったのだが、今回の相手が相当厄介だと知りどうしても御傍にいさせて欲しいと言うので、最悪の事態も想定して後処理を頼むため同行させた。けれども彼らが付いて来られるのはここまでのようだ。降谷は立ち止まり、三人の青い顔を見た。
「そんなにも危険なのですか、その……赤い様というのは」
「あぁ……今まで受けた依頼の中でも桁違いだ。僕にもしものことがあったら、言いつけてある通りの方法で処理を頼んだぞ。遺体はすぐに燃やして、指一本でも現世に遺してはならない」
「了解、致しました……」
「帰り道はこの札を持って速やかに森を抜けろ。何かに声を掛けられても絶対に振り向くんじゃないぞ」
禰宜である風見と、更にその補佐である二人は尋常じゃない様子の降谷を見て、速やかに行動に移した。降谷が一人きりになった途端に気配を濃くしたところを見ると、奴も十分その気らしい。変に逃げ隠れされるより好都合だと、降谷は躊躇いなく更に奥へと進んでいく。通常これだけ深い森ならば、他にも一般的な霊や妖がいてもおかしくない筈なのに、少しも見当たらない時点でお察しだ。あまりに禍々しいモノがいるせいで〝普通の悪霊〟ですら近寄れないという訳か。
「赤い様だか白い様だから知らないが、この僕が絶対に祓ってやるから辞世の句でも詠んでおくんだな」
降谷はフンと鼻を鳴らしながら黙々と道なき道を歩く。どこに向かっているのかと聞かれれば、なんかヤバい気配のする方としか言いようがない。しかし降谷の勘は百発百中なのだ。その証拠に、紅葉の季節でもないのに辺りの木々が赤く色づき始めている。決して見て楽しめる景色ではなく、あからさまに異界然とした様子だ。進めば進むほどに視界が赤く染まっていく。木々も、雑草も、石ころも、降谷以外の全てが赤い森。意味不明な呼び名の由来を理解したところで完全に〝入った〟ことが分かり、降谷はいっそう気を引き締める。これほどまでに強い力を持った化け物、現世で目にすれば一目で失神しかける程の姿をしている可能性が高い。全体が呪詛で出来ていたり、現世の理では受け入れられない形をしていたり。この森へ来る前に十日間かけて準備を行ってきた。極限まで身を清めて浄化し、降谷自身が破魔となる儀式だ。胃の中を空にして聖水だけで満たし、穢れの一切ない肉体に仕上げてある。といっても、相手がコレじゃあ少々防御力とMPが上がっただけのようなものなのだが。やらないよりはマシだ。
「………どうして鳥居なんてものがあるんだ。神様気取りか? 化け物が……」
目の前に立ち並ぶいくつもの真っ赤な鳥居を見て、降谷は心底うんざりした表情を浮かべた。勿論実際に建っているものではない、赤い様とやらが見せている幻だ。相手の力量を思えばハッタリとも言い難いが、自身を神だと誇示するような演出に降谷は苛立つ。神域と人間の住む俗界を隔てる門をわざわざ用意するなんて、化け物の癖にどういう神経をしているのだろうか。確かに神というのは人間にとってすべからく善悪の両方を持ち合わせている存在なれど、こんなにも禍々しい気を持つ神なんて聞いたことも触れたこともない。匹敵する力を持ってさえいれば、こちら側がそう認識すれば化け物だろうと神様と呼べなくもないだろうが、僕は絶対にこんなのが神様だなんて認めないからな。降谷は眉間に皴を寄せながら、意を決して一つ目の鳥居をくぐった。どんな影響が及ぶかと身構えていたけれど、驚くことに先程よりも身体への負荷が軽減されたような気がした。全身に乗っていた重りが一つ外れたような感覚だ。一体どういうことだと思いながら二つ目をくぐると、また更に軽くなる。人が理解出来る相手じゃないにしろ、それにしたって意図が分からなすぎて降谷も流石に困惑してきた。最後である五つ目の鳥居をくぐった頃には、森を歩いていた時に比べて身体の負荷は雲泥の差になっていた。更に、いつの間にか周囲の真っ赤な景色もまともな色に戻っている。
「一体何が目的なんだ………」
「君の肉体を癒す為だ」
「……………ぅわっ!!?」
鳥居を抜けた先で思わず考え込んでいると、後ろからぬっと一人の男に声を掛けられて降谷は少し時間を置いてから飛びのいた。あまりに自然であまりに唐突に声をかけるものだから、逆に反応が追い付かなかった。この男が誰かだなんてのは、言われなくても分かる。どう考えてもこいつが〝赤い様〟だ。それは分かっている。驚いたのは、奴がきちんと人の形を取って接触してきたことだった。それも誰かの身体を乗っ取っているのではない状態でだ。そんなことが可能な呪詛の類は聞いたことがない。やろうとしても大体は形を再現しきれず、下手なAIが描いたような全体的に人っぽく見えるもののどこか歪で不安を覚えるような造形になるというのに。
しかも、無駄に、めちゃくちゃな男前だ。
癖のある濡羽色の髪が映える白い肌に、濃い隈に縁どられた堀の深い緑の瞳。高く通った鼻筋と、薄い唇。化け物が人間に擬態するにしては不必要過ぎるくらいに完成度の高い美丈夫で、何故かスタイルも良い。本当に何なんだこいつ。いよいよ得体が知れなさ過ぎて降谷は今更嫌な汗をかく。二十九年間生きてきてこんな奴は初めてだ。
「そんなに驚かせたか」
「………貴方が、赤い様ですか。大層な演出をしてくれたものですから、こうもあっさり姿を現すとは想定外でしたよ」
「呼び方は好きにさせている。アレについては、どうにも俺の力が及ぶと周囲の色が変わるらしい……すまんな」
「い、いえ………」
赤い様は、拍子抜けするほど普通に話が通じた。深夜の駅のホームに落っこちている酔っぱらいよりも遥かに会話が成立する化け物って何なんだ。まだ油断出来ないものの、敵意や悪意すらも感じられない。霊感のある者でなければ、ただの人と区別がつかないレベルだ。もっとも、降谷からすればこうして穏やかに話していても感じる気は相変わらず桁違いに重く強いのだが。
「おおよその見当はつくが……俺に話があるんだろう。立ち話もなんだ、中に入らないか?」
「中って……、…うわ……でっか……なんですこの屋敷……」
「普段は見えなくしている。万が一にも人が迷い込むと五月蠅いからな」
瞬きした間に突如出現したのは、寝殿造りの広大なお屋敷だった。今まで周囲に生えていた木々はどこへ行ったのか、自分の目が信じられなくなる程に立派な建物に軽く眩暈がする。
「……貴方、ご自分が我々からどのように扱われているかご存知ですよね。僕がそう簡単に踏み入るとでも?」
「逆に問うが、俺が君を呪い殺す必要がどこにある? そんなことをするくらいなら消えたほうがマシだ」
当然警戒を見せる降谷に対して、赤い様はゆっくり振り向くと何処かうんざりしたような、本気で呆れているような目で言った。その表情があんまりにも人間臭くて、何だかこっちが悪いことを言った気になる。確かに普通に考えれば自分と赤い様は初対面であり、殺されるほどの恨みを買うようなことはしていない。普通ならば。けれど相手はかつてない程の力を持った、正体不明のナニかだ。気の性質的にも、とても人間にとって善の質ではない。これだけ知能と意思レベルが高ければ、嘘だっていくらでも吐けるだろう。
「嘘をついていると、疑っている目だな……。まぁ無理もない」
「……まさか思考まで読めるんですか」
「いいや。だが、君は存外顔に出やすいんだ。考えていることが」
「何だとっ!?」
「屋敷に入りたくないのなら此処でも良い。俺に会いに来たんだろう? 降谷零君」
どうして俺の名前を。冷や汗の滲む降谷に対して、赤い様は「これは視た」と事もなげに答えた。
「あぁ、視たと言っても君からじゃない。御付きの三人からだ。奴ら、帰り道は必死に君が無事であることを念じていたからな……。視やすかったよ」
「彼らに手出ししていないだろうな……!」
「あぁ、興味ない。あのまま君と共に来るようだったら、五感でも奪ってやろうかと思ったが……足手纏いは帰して正解だったな」
「貴様……」
やはりこいつはまともじゃない。会話が出来るだけの化け物。当初予定していた戦いとは別方面になりそうだが、精神が擦り減るのは間違いなさそうだと降谷は深く息を吐いた。力で殴り合い、殺すか殺されるかの戦いより余程骨が折れる相手だ。
「単刀直入に問います。ここ数年で森付近に住む人々が変死を遂げているのは貴方の仕業ですか」
「まぁ、そうだな。だが意図してやっている訳じゃない」
「どういうことだ。素直に認めろ」
「千年以上経ってるんだ、俺がこの地に封印されてから。彼が俺に施した術も、流石に効力が弱まってきている……」
赤い様は降谷からの問いにすんなりと答えた。しかし死因は自分であっても、故意ではないと主張をする。いちいち奴の言葉を疑っていても疲れるだけでメリットはない。真偽は別として聞けば素直に答えるようなので、降谷は徹底的に質問責めすることにした。
「貴方、此処に封印されてるんですか? そんな様子微塵もないですが。彼というのは、当時の陰陽師か何かですか」
「封印と言っても君が思っているようなもんじゃない。どちらかと言えばおまじないに近いな……。まさしく、彼は国一番の術者だった」
「そのおまじないというのは、人間を死に至らしめる程の貴方の邪気を抑え込むようなものであったと? それが時を経て効力が弱まり、漏れだした気が周囲に悪影響を及ぼしていると」
「凄いな君は……話が早くて助かるよ」
赤い様は少し目を見開いて、本気で感心したような顔をした。どうにも調子が狂うけれど、嘘ではないように思える。降谷はいつだって自分の直感と経験と実力を信じて行動してきた。規格外に正体不明で強大なナニかを前にして、経験はまず使い物にならなくなってしまったが、直感を信じるとするならば奴は嘘はつかない。もはやこの状況ではそう信じるしかないのだ。
「では、貴方に人間に対する殺戮衝動や敵意はないんですね?」
「俺の機嫌を著しく損ねない限りはな」
「……そこで是と言ってくれなければ、僕の立場としては非常に困るんですが」
「取り繕ったところで、俺は所謂悪霊の類だからな。そうでなくとも、強い怒りや憎しみを抱けば誰だって相手に敵意や殺意を覚えるだろう」
「そこで実行に移すか移さないかが分かれ道なんですよ」
一貫して飄々とした様子の赤い様に降谷は溜息を吐いた。これまで相手にしてきた怨霊はあからさまに恨みつらみを抱えていて、原因も対処法も分かりやすかったが奴の目的が何なのか不明慮すぎる。千年以上も現世に留まり続けている悪霊なんて、成程これだけの力を持つ筈だ。その当時国一番の陰陽師だったという奴は一体何をしていたんだ仕事をしろ。おまじないなんて可愛いことしてないで、とっとと祓うかもっと強力な封印を施せばよかったものを。
「はぁ……何だか長期戦になりそうだな。僕は貴方と戦う為に十日間聖水しか口にしてないので、今日中に片がつかないとそろそろ人間の造り的にまずいんですけどね」
「道理で人の身体とは思えぬほどに清らかな気を感じると思ったが……無理はしない方がいい」
「誰のせいですか誰の! 普通はこの気を浴びるだけで悪霊には効果があるんですっ!」
「そうか……、ただ君が美しいとしか思えん」
「な……っ」
なにが美しいだふざけるな。この僕が悪霊に口説かれるなんて侮辱もいいところだ。それなのに本当に、非常に無駄に奴の器量とオマケに声まで良すぎるせいで、思わず頬を染めて狼狽えてしまったのが降谷の運の尽きだった。赤い様は悪霊らしい笑みを口角に乗せながら、初めて降谷に接近した。
「ホォー…そんな顔をするのか」
「は、離れろっ! 大体からして貴方のその姿、一体どこから写し取ったものなんですか。悪霊のくせにそんな美男に化けるなんて、随分と見栄っ張りなんですねえ?」
「うん? これは自前だ。と言っても、俺が生きていた頃の姿だが……そうか君は、俺の見目がそんなに好みか」
ニヤリと上機嫌に笑ったのを見て、降谷は絶句した。とんでもない墓穴を掘った上に、衝撃的な事実もまたひとつ露見した。奴は様々な怨念が凝り固まったモノではなく、元は一人の人間だったというのだ。元人間の魂が千年以上の時を経て、未だに現世に留まり続けているなんて恐ろしい話だ。真剣に赤い様の謎について紐解きたいのに、いらないちょっかいをかけられて集中出来ないのが腹立たしい。相手は化け物なのだから、いくら今は人型をしていたって関係無い。どんなに整った顔を近付けられようが────。
「……どうして僕は、貴方とこんなに近付いても影響がないんですか? いくら僕でも、この距離で貴方相手じゃ普通は流石に……」
「さっき鳥居を全てくぐっただろう。それだ」
「それだって、詳しい説明をしてください! 僕に何をした」
「君を俺の領域に入れた。だから害がない」
こいつ、千年以上生きているくせに説明が下手過ぎる。というより言葉が足りな過ぎる。降谷がじっとり睨むと、赤い様は少し考える素振りをしてから再びあの真っ赤な鳥居を建てた。こいつにこれまでの常識は通用しないらしい。
「先程も言ったように、俺は成り立ちから分類すれば悪霊や妖にあたる。だがまぁ……、簡単に言えば使える力は神に等しい」
「薄々分かってましたけど、いざ言われると腹が立ちますね」
「野良狐だって千年生きれば神格化するんだ。性質は違えど全て似たようなものさ」
「彼らと一緒にしないでください。……なら、もし僕がこの領域から出たらどうなるんです?」
至近距離で見上げる赤い様の顔は、やっぱり整っていた。まさに浮世離れした男前だ。じっとりした目で見つめる降谷を、赤い様は少し憂いを帯びた瞳で見つめ返す。
「君は非常に魂が強いから、数時間程度なら頭痛や吐き気程度で済むだろうな。それ以上になってくると、心身に異常をきたす恐れがある」
「なるほど、村の人達の不審死はそれが原因という事ですか……」
「意図的にやっていることじゃないからな。こうして狭い範囲でなら無効化することが出来るが……」
「なるほど状況は分かりました。貴方に施されたおまじないとやらが何なのか謎ですが、僕が再び貴方の力を封印します」
降谷が言い切ると、赤い様は少々意外そうな表情で首を傾げる。何かと仕草が人間らしいのは、遥か昔本当に人間だったからだと分かれば納得がいく。かつては生きていたのか、この男も。
「力を封印? 俺を消滅させる気で来たんじゃないのか」
「そりゃあ貴方みたいなヤバいやつ、一刻も早く成仏して欲しいですけどね。でも、千年以上も現世に留まっているんですから、きっとただならぬ事情があるんでしょう?」
「フッ……随分と寄り添ってくれるんだな」
「僕と関わったからには、一片の悔いなく成仏させてやりますよ」
こうなったからには乗り掛かった泥船だ。僕が出来なきゃ、誰がこんな尋常じゃない奴を成仏させられるというんだ。暫くこの付近の村に泊まり込み、完全長期戦で臨むことを決意した降谷は、今後の方針や風見達への引継ぎ等を頭の中に並びたてた。すると暫く黙り込んでいた赤い様は、あからさまに弾んだ声色で降谷に迫る。
「最高の殺し文句だ。益々気に入ったよ」
「う、うるさいもうとっくに死んでるでしょうが! ちょっと、こ、腰を抱くな悪霊のくせに…っ!」
「俺のことは少々霊力の強いただの男だと思ってくれ、降谷零君」
「思えるかっ! ちょ…っ、ほんとに、離して……わっ!」
するりと白い手が降谷の腰に回ったかと思えば、力強く引き寄せられ思わずバランスを崩した。とん、と赤い様の厚い胸板にもたれてしまいカッと頬に熱が集まる。悪霊のくせに、化け物のくせに。どうしてかひどく懐かしい匂いがして降谷は戸惑った。上質な絹織物と伽羅の香を嗅いでいると頭がぼんやりしてくる。質量も温度も香りすらする悪霊なんて、前代未聞だ。呪術によるものなら対抗出来るのに、こんなふうにただ抱き寄せられたら、人間相手と変わらない。
赤い様は降谷の髪に鼻先を摺り寄せるようにして、零れるように呟いた。
「………長く留まってみるものだな、本当に」
「え?」
「こちらの話だ。君は石鹸の良い匂いがするな……赤子みたいだ」
「ば、馬鹿にして! いい加減離れろ、この…っ!」
「悪さはしない。どうかあと少しこのままで居させてくれ……」
赤ん坊みたいな匂いがすると言われて気を良くする成人男性がいるだろうか。降谷はハッと我に返り、逃れようと腕の中でもがいた。しかし赤い様は更にゆっくりと力を強めると、懇願するような声色で囁く。降谷はまた背中にじんわり汗をかいた。この状況を掌握しきれない。相手が化け物だと分かっていて拒否できないのは、既に魅入られ始めているからなのか。どうしてか奴から香る、泣きたくなるほど懐かしい香りが憎らしい。
「あの……赤い様、」
「赤井だ」
「へ…?」
「赤井秀一。俺が生きていた頃の名だ。君にはそう呼んで欲しい」
「あかい……しゅういち…?」
案外、普通の名だろう。そう言って赤い様改め赤井は、フッと笑みを漏らした。この男に対して普通と比べること自体無意味な気がしてきたが、悪霊が生前の名を覚えているのは異例中の異例な上、更にそれを神職である降谷に伝えるなど自らの心臓を明け渡しているようなものだ。ありえなすぎて、何かの術を発動するための罠かと思うが、奴に関してあれこれ考えれば考えるほど時間の無駄だと悟り始めた。それに、通り名的意味合いであってもこいつを様付けで呼ぶのは癪に障るので、呼び捨て出来るのであればそのほうがいい。
「じゃあ………赤井」
「あぁ、いいな」
「あの……貴方はどうして、」
考えても無駄なことばかりだけど、それでも見過ごせないことや謎が山ほどあるのだ。聞かなければ何も言わないが、聞けば答えるのなら問い続けるしかない。そう思って口を開いた瞬間、降谷の腹からクゥ~ン……という仔犬の鳴き声のような音が聞こえた。みるみるうちに顔を真っ赤にしていく降谷を、赤井はしばしキョトンとした顔で見つめてから目を細める。
「零君、腹が減っているなら食事をしておいで」
「別にこれくらい! 貴方を倒すまでは何日だって飲まず食わずでいられますよ!」
「俺はこの場から逃げない。それに、君に倒れられでもしたらより多くの人間共が死ぬことになるぞ。俺の感情の起伏がどんな悪影響を及ぼすか、もう分かってるだろう?」
赤井の脅しのような発言を受けて、降谷はグッと唇を結んだ。この森はもはや〝赤い様の領域〟とされていて、本気で隠れられたら降谷とて見つけ出すのは困難を極めるだろう。赤井が降谷を受け入れたからこそ、今こうして対峙しているのだ。この様子から見るに、赤井は降谷から逃げる気は無いように思えるが、相手は常軌を逸した存在。何一つ信用なんて出来ない。しかし、気を抜けばへたり込みそうな程に身体が限界を訴えているのも人体として仕方のないことで。赤井が言うように、ここで降谷が倒れてしまえばあらゆる意味でこの世の終わりだ。
「………約束してくれますか」
「ん?」
「ここで僕のこと待ってるって、約束してください」
化け物を相手に約束だなんてとんだ笑い話だ。それでも降谷はそう言うしかなかった。逃げようものなら地獄の底まで追いかけて成仏させてやるつもりだが。赤井が本来は一人の人間だと言うのなら、神職としての彼に残る人の心を信じて賭けてみるのも良いだろう。幸か不幸か、今回は意思の疎通が出来る相手なのだから。
腹を鳴らした手前、何だか気恥ずかしくて視線を落としていた降谷は赤井の反応がないことを不思議に思い、顔を上げた。すると赤井は、何か眩しいものを見るような瞳でまっすぐ降谷を見つめていた。化け物だなんて、悪霊だなんてとても思えない、美しい深緑の瞳から逸らせない。
「赤井……?」
「………あぁ、待っているさ」
「……! 絶対ですよ。嘘ついたら許さないぞ」
「待っているよ。君のことを、いつまでも……永遠にな」
「ちょ…、ちょっとご飯食べてくるだけですから! そんなに待たせませんよっ!」
ほんの一時間程度の話なのに、赤井があまりにも真剣に言うものだから降谷は何だか気恥ずかしくなってしまった。そんな降谷を見て、赤井は珍しく声を上げて楽しそうに笑った。一体どれ程の怨念を抱えて千年以上も現世に留まり続けているのか知らないけれど、ちゃんと笑えるんじゃないか。似合わないけど、悪くないじゃないか。
なんて思っていたら、気が付けば降谷は森の入り口に立っていた。あんなに森の奥深くまで入ったのに、一瞬で送られた。空腹状態で歩く手間が省けたラッキー、くらいに思わないとやっていられない。
「すぐ戻ってくるからな! 逃げるなよ赤井秀一!」
降谷は両手でメガホンを作り、赤い様の森に向かって大声で言った。少しだけ木々がざわめいた気がした。
▼
「あぁ、僕は暫くこっちで対処にあたる。長期戦になりそうだからな、頼んだぞ風見。……あぁ、心配無用だ。じゃあな」
終話ボタンを押して一息つくと、降谷は時計を一瞥した。腹ごしらえだけするつもりだったが、村の人にあれこれ声をかけられたり、ついでに聞き込みやちょっとした調査をしていたら思ったより時間が経ってしまった。森を出てから四時間程が経過しており、陽もすっかり落ちた。化け物相手だろうと、すぐに戻るから絶対に逃げるなと言った手前、これ以上待たせるのも気が引けた降谷が森へ再び向かおうとしたその時。周囲を歩いていた人々が急に苦しみ始め、地面に倒れ込んだ。みるみるうちに全身が赤く変色しはじめ、間違いなく例の〝赤い様の呪い〟による変死の初期症状だと分かった。奴の言葉を信じるなら、これは意図的にやっていることではなく、赤井の感情に歪みが生じたことを表している。
「……まさか、僕が戻って来ないと思って────」
降谷の心臓がドクンと脈打つ。少しでも症状を遅らせられるように苦しむ人たちに御札を握らせ、降谷は森へと走った。食べたものが出そうになったが、そうも言っていられない。今すぐ奴の元に戻らなければ、たくさんの人がまた死んでしまう。
息を切らして森の前に立つと、降谷は大声で叫んだ。
「赤井っ! 戻ったぞ! 戻りましたから、だから…っ!」
ぜえぜえと肩で息をしていたら、またいつの間にか景色が変わり、あの屋敷の前に飛んでいた。少し呼吸を整えて顔を上げると、目の前に恐ろしいほど無表情の男が立っており、降谷ははじめて恐怖を感じた。至近距離で顔を覗き込まれ、全身に緊張が走る。少し垣間見えた人間らしさは見る影もなく、一切の感情が読めない。怒っているのか、悲しんでいるのか、何も考えていないのか。それすら分からないが、あの現象が起きたということは少なからず赤井の感情に波が立ったということだ。
「あか……い……?」
「……………」
「あの、すみません、遅くなって。食事をして、村の人たちの話を聞いて、少し調べものをしていたんです、貴方について」
「……………」
「逃げようと思ったわけじゃない。僕は、貴方から絶対に逃げない。だから、」
自分の言葉ひとつで、あの人たちが死ぬかもしれない。もっと多くの犠牲が出るかもしれない。そう思ったら恐ろしかった。今までだって危ない経験は何度もしてきたけれど、それはどれも自分の命と引き換えだ。人々の命が、今まさに僕の言動にかかっている。僕の言葉選びや、声や視線に全てがかかっている。戦って倒せなければ犠牲が出るのとはまた訳が違うプレッシャーを今更ながらに実感して、降谷の鼓動はドクドクと焦りを露わにした。暗い森の中で、あやかしの屋敷から灯る明かりがぼんやりと二人の輪郭を照らす。木々がざわめく音ばかりが通り過ぎていく。真っ黒に見える深緑の瞳は、未だ瞬きひとつしない。
「赤井………怒ったんですか……?」
「……………」
「なにか………返事を、してください……」
「…………すまない」
「……! あか……、」
「感情というものを持つのが久しくて、少々戸惑っていた。俺は………君が帰って来ないのではと思って、それから……そればかりを考えていた」
何も言葉を発しない、眼球も動かずただ自分を見つめている赤井を見て、底知れぬ不安と恐怖に襲われた降谷の瞳が僅かに揺れたとき。赤井はそっと降谷を抱き寄せて息を吐いた。感じる身体の厚みと、ある筈のない体温。得体のしれない化け物から、赤井秀一という男に戻ったような気がして、降谷は思わず安堵してしまう。状況はまったく良くなっていないどころか、悪い方へ転がっているというのに。
「君のその様子じゃ、また俺の影響で人間が死んだのか」
「いえ、まだ死んではいないと思いたいですが……初期症状は出ました。それで、貴方の心に歪みが生じているのだと気付いて……」
「あぁ………そうだな。俺は千年此処に一人でいた。何の感情もなく。だが……君が戻って来ないかもしれないとよぎってからの数時間は、千年よりも長かった」
振り絞るように漏らした赤井の、腕の力が強まる。どうして、そんなに。降谷は戸惑った。ようやく自分と対話出来る存在に強く依存している可能性が今のところ最も高い。霊というのは自分達を認識出来るものに執着する性質がある。千年もの間孤独だったのならば、その反動が出ていてもおかしくはないだろう。降谷の仕事は悪霊の孤独を癒し、未練なく成仏させること。色々と桁違いの規模でも、やることは今までと同じだと自分に言い聞かせる。
「……すみません。すぐに戻ると言ったのに、約束を破ったのは僕だ」
「いや……君を怖がらせたな。ヒトのように振る舞うのに慣れていないんだ。表情や、仕草、声の出し方……眼球の動かし方までも、つい忘れることがある」
「誰に向かって言ってるんです? この僕が怖がるものか」
「だが……、手が震えている」
「……っ!」
白く骨ばった長い指が、降谷の指先を優しく握った。何だこれは、何なんだこの状況は、さっきから。元凶である化け物に心配されて、抱き締められて手を握られて。冷静に考えるとありえないのに、強がりで抑えようとしていた震えが治まったのが一番信じられなかった。
「もうすっかり夜だ……君はどこに宿を取るんだ?」
「……………此処にいます」
「………本気か?」
「こんなことがあって、貴方から離れる訳にいかないでしょう……。もし万が一僕が寝坊なんてしてしまった時に、村中の人が死んでいたら取り返しつきませんから」
降谷は覚悟を決めて赤井を見つめた。化け物の住む屋敷に泊まり込むなんて正気の沙汰じゃないのは重々承知だが、目の前であんなことが起きてしまったらそうせざるを得ない。
赤井は先程までの人外めいた様子とは打って変わって、あからさまに嬉しそうな雰囲気を見せた。人としての振る舞いを忘れるだなんて、千年も孤独で居続けたら誰しもそうなってしまうのだろうか。
「何だろうな……上手く表現できん」
「なにか言いたいことでも?」
「さっきも言ったが、俺は久しく人間的な感情を抱いていなかったからな……こういう時に最適な表情や声色が分からない」
「じゃあ、言葉なら出てくるんじゃないですか」
「そうだな……一番近いのは、嬉しい……だな。恐らく」
「………ははっ、何ですかそれ。見た目に似合わなすぎですよ……」
相変わらず表情は乏しいけれど、先程と比べれば雲泥の差だ。未だにこの男に対してどういう感情を持てばいいのか、どう接すればいいのか降谷は判断しかねている。しかし、もうとっくに〝ただの化け物〟という目では見れなくなっているのは確かだった。気をしっかりともって、魂を手放してはならない。決して魅入られないように。
「ですが! 少しでも妙な真似をしてきたら容赦しませんからね。飲食物を出されても絶対に口をつけませんので悪しからず」
「構わないが、食事はどうする気だ?」
「何日かに一回、様子見もかねて村へ調達に出ます。その時は貴方が僕を森の出口まで送る。僕が迅速に買い物をすませて二時間以内に必ず戻る。このルーティンで行きましょう」
「ふむ……」
降谷が人差し指を立てながらハキハキ説明をすると、赤井は分かったんだか分かってないんだか曖昧な返事をした。
「何か文句でもありますか?」
「いいや。だが、時間制限付きなのはどうかと思うぞ」
「何故です? 今日みたいにいつ帰ってくるか分からない状態の方が貴方にとって不安でしょう」
「しかし時間を定めてしまえば、訳あって二時間以内の帰還が困難になった場合、君が一分でもその時間を過ぎれば俺は間違いなく大勢の人間を死に至らしめる自信があるぞ」
「本件に関しましては再考させて頂きます!!」
そうした方がいいだろうな。赤井が他人事のように言うので、降谷はぐったりした気持ちになった。そんなことになったら毎日気が気ではないし、買い物に行くだけなのに精神が摩耗してしまう。けれど赤井にとってある程度の安心材料を用意しなければ今日みたいなことになってしまう。降谷は頭を悩ませた。
「覚悟が決まったのなら、屋敷に入ったらどうだ」
「少し待ってください自分に張っている結界を張り直しますから」
「ん、零君ここ擦りむいているぞ……気を付けてくれ」
「え? あぁ本当、だ……って! 結界張り直したって言ってるでしょうが簡単に触れるなっ!」
慌てて森へ引き返した時に葉か何かで切ったのだろう。手首あたりに出来た傷を労わるように、当然のように赤井が降谷の手を取るので反応が遅れてしまったが、降谷が自身に施している結界はそこらの悪霊ならば接触しただけで浄化されてしまうくらい強力なものだ。にも拘わらず赤井は、まるで同じ人間同士のような気軽さですんなりと通り抜けてくる。そもそも抱き締められている時点で完全アウトなのだが、改めて無茶な相手であることを降谷は痛感する。
「この仕事やっていたら怪我や体調不良なんてしょっちゅうですよ。強力な呪詛をくらって一ヶ月くらい失明したこともあったし」
「ホォー……君ほどの男が、か」
「今よりも若い時ですけどね。………おい、赤井」
「……………」
「赤井、ほら………また、忘れてますよ」
隣に立つ男の気配が変わった気がして、恐る恐る見てみると赤井はまた〝あの状態〟になりかけていた。瞬きもせず眉ひとつ動かさず、じっと僕を凝視する。実に悪霊然とした状態だ。降谷が声をかけながら赤井の着物に触れたことで、今度はさっきよりも早くその状態は解け、赤井は少し瞬きをしてから眉間に皴を寄せた。
「ああ……すまない。どうにも君のことになると俺はこうなるらしい」
「今の会話のどこにそんな要素があったんですか」
「一時でも君の美しい瞳から光を奪った奴がいたと思うと、許し難くてな……」
「あ、あのですねぇ! 現在進行形で僕に迷惑かけまくってるのは貴方なんですからねっ!」
光どころかいくつも人の命を奪っている悪霊が何を、と思わないでもないが、それは赤井が意図的にしていることではないらしいので今は口を瞑んでやる。
つづけ!