魔王シュウ×勇者レイ 何が勇者だ。何が英雄だ。レイは全身の痛みに耐えながら、瘴気の立ち込める暗い檻の中で自嘲する。
後ろ手に拘束され、足にも鉄枷がついている状態で石の地面に転がされていては満足に周囲を見回すことも出来ないが、ここが宿敵である魔王の城の最下層にある牢獄だということと、自分が戦いに敗れてこんな場所に放り込まれ虫の息になっているのだけは確かだ。
類稀な剣の腕と特異な容姿から伝説の勇者の生まれ変わりだと持て囃され、国王直々に魔王討伐の命を授かったレイは、これまで数多の敵を倒して来た。空飛ぶモンスターも巨大なドラゴンも、圧倒的な強さで例外なくねじ伏せ多くの人々を救った。その功績からレイはいつしか〝麗しの英雄〟と呼ばれ、知らぬ者はいない程の存在となった。しかし名を上げ過ぎた英雄の名は当然魔王の耳にも入り、目障りな勇者を始末する為に魔王はレイの生まれ故郷を人質に取ったのだ。天涯孤独の身だとしても、故郷には兄弟同然に育った親友達が平和に暮らしている。レイは無抵抗で魔物達からの攻撃を受け、瀕死の状態で魔王の城へと攫われて今に至る。
とどめを刺さずにわざわざ生け捕りにしたということは何かしら用があるのだろうが、相手は冷酷無慈悲な魔王だ。今までの分、たっぷりと嬲ってから殺す気なのかもしれない。最悪の場合は自我を失くされ操られて、魔王の手下となり殺戮兵器にされる可能性だってある。考えるだけで背筋が冷えて、レイはきつく歯を食いしばった。自害出来ぬようご丁寧に術までかけてあることから、魔王はかなり用心深い質のようだ。そして狡猾で、陰湿。「剣を抜けば貴様の故郷が焼け野原になるぞ」とせせら笑う魔物共の声が、頭の中で反響する。レイの憎しみの炎はメラメラと燃え盛っていた。
生け捕ったということは、魔王と対峙するチャンスが必ず廻って来る筈。その時は刺し違えてでも奴を殺す。痛めつけられ骨を折られ、満身創痍になってもレイの強き心は決して折れなかった。顔も名前も知らない伝説の勇者とやらの生まれ変わりだなんて、正直微塵も信じていないがこれまで血と汗を流しながら鍛えてきた剣と、この国を守りたいという自分の意思だけは信じられた。
「オイ起きろ! 喜べ、魔王様が貴様をお呼びだ!」
「何……?」
「さっさと立ち上がれ! 人間ごときが魔王様を待たせるな」
年老いた鴉のようなしゃがれ声に叩き起こされ、いつの間にか失っていた意識が浮上した。ここに連れて来られてから時間の感覚が掴めないが、体感では丸一日は経っただろう。すぐにでも拷問なり何なりの動きがあるかと思いきや、まさかの放置だったのでレイは焦った。このまま牢の中で衰弱死するまで放っておかれるなんて冗談じゃないと、見張りの目を盗んで僅かな力を振り絞り、治癒魔法で少しずつでも傷口を癒していなければ命が危なかった。とはいえこの状態で出来るのは応急処置程度に過ぎず、レイの体力はみるみる消耗していく。手足を拘束されたままボロ布一枚の寝具もない、冷たく硬い地面に長時間転がされていれば嫌でも意識を手放すしかなかった。
それでもようやく、魔王の気が向いたのなら好機だ。悪魔達を統べる魔界の王。悪の根源。倒すべき宿敵。一体どんな姿をした化け物なのか知らないが、この僕を生かしたことが運の尽きだとレイは牢から這い出ながら自分を奮い立たせるように思う。浮かぶのは懐かしい故郷の風景と、親友たちの笑顔。魔王を倒せるのならば何だってしてやる。
「魔王様がおられるのは最上階だ。転送魔法なんざ俺たちにゃ使えねぇからな、階段で上がって行け」
「………人間ごときが魔王様を待たせてはいけないんじゃなかったのか?」
「その通りだ。機嫌を損ねて殺されないよう、せいぜい急ぐんだな勇者!」
ギャハハと笑う耳障りな声すら遠のいて行くのを感じながら、レイはゆっくりと上を見上げた。古びた螺旋階段は天まで続いているかのように先が見えず、ただひたすら暗闇だけが広がっている。なるほど既に拷問は始まっているという訳だ。
レイは理解して、切れた口の端が痛むのを厭わず薄く笑みを浮かべた。立ち上がるだけでもやっとという身体でジャラジャラうるさい鎖を引きずり、階段を一段一段上がるごとに魔王への憎しみが強まっていく。重傷を負ったボロボロの身体には堪える、途方もない段数に骨の軋む音がする。鉛のように重い足をなんとか持ち上げ、転ばないようにバランスを取るだけでも体力を持っていかれる。ドラゴンの炎で焼かれた火傷が、魔物の爪に抉られた傷が、折れた腕が、レイの気力と体力を絶え間なく消耗し続ける。常人ならばとっくに死んでいるダメージ量だ。どこの誰かは知らないが、丈夫に産んでくれたことだけは両親に感謝したいと思う。しかしそれでも人の身では限界があるもので、意識が朦朧として立ち止まればすぐさま見張りの魔物共がレイの首につけられた鎖を引っ張り、鞭を打つ。辛く苦しく、屈辱的な仕打ちに悔しさで涙が滲みそうになるのをプライドで耐えて、レイはひたすら階段を上り続けた。暗闇の向こうに故郷の風景を映し出しながら、ただひたすら無心で上り続けた。
そうして長い時間をかけ、ようやく魔王の居る間へとやって来た頃には、レイはとても立てる状態でなく、長い深紅の絨毯の上でついに崩れ落ちた。倒れる瞬間に、仰々しい玉座に座る全身真っ黒な男が見えた気がしたが、レイの意識は朦朧としておりはっきりと認識出来なかった。恐らくは、あれが魔王なのだろう。絶対に殺してやると、ここで死ぬわけにはいかないと頭では強く思っていても、深く傷付き疲労が限界を超えた身体は何一つ言うことを聞いてくれない。ヒュウヒュウとか細い呼吸をするのが精一杯だった。
何が勇者だ。何が英雄だ。
ああ最期にどうか一太刀でも、魔王に────。
「ホォー…その状態で地下の牢から這い上がって来たか」
「…………」
「しかし……〝麗しの英雄〟と呼ばれた精強な勇者がどんなものか、殺す前に面でも拝んでおこうかと思ったが……」
倒れ込み蹲ったまま顔を上げることも出来ないレイに、魔王は頬杖をつきながら退屈そうに視線を投げた。顔すら見れない瀕死の状態であることか、或いは大層な異名で呼ばれておきながら、泥にまみれたボロ雑巾のように這いつくばっている様を貶めているのだろう声色に、レイは歯を食いしばった。自身にこれだけの辛酸を舐めさせた宿敵の面をこちらとて拝んでやりたかったが、レイはもう指一本動かせそうになかった。鼓動が弱まり、生命の泉が枯れ果てていくのを感じる。応急処置を施した致命傷が、階段を上り続けることで悪化してしまったのだ。深紅の絨毯がより濃くなるほどに、レイの流す血が染み込んでいく。
こんなところで死ぬのか、僕は────。
レイはぐしゃぐしゃに垂れ下がった前髪の隙間から、魔王の黒い脚と立派な玉座を見た。自分が捕まったところで悪逆非道の魔王が律儀に約束を守り、故郷の村に手を出さないとは思えない。そもそも、魔王が生きている限りいずれこの世は制服され、故郷だけでなく全てが蹂躙されてしまうのだ。こうなることは何もかも分かっていた。しかし彼らを人質に取られて、それでも剣を振り続けることは、レイにはどうしたって出来なかった。
「魔王様が面を拝みたいと言ってんだ! くたばるのはそれからにしろ!」
「死に顔じゃつまらねぇだろ! オラッ顔上げろ麗しの勇者様よォ!」
「ぁ……ぐ……ッ」
側に控えていた配下の下級妖魔がレイの髪を掴み、無理やり顔を上げさせる。乱暴にされる痛みはまだ感じるが、血を流し過ぎたのか目は霞んであまりよく見えなくなっていた。それでもやっと、世界で一番憎むべき敵の姿をレイはその青い瞳に捉えた。漆黒の長い髪に、歪んだ悪魔の角。そして大きく見開かれた、エメラルドの瞳。
魔物達を統べる魔界の王は、巨大なドラゴンでも恐ろしい悪魔でもなく、迫りくる死を忘れてしまう程に、美しい男の形をしていた。
「────そいつから手を離せ」
「え?」
「離せと言っている」
「ギ、 ァッ」
魔王が立ち上がり配下に声を掛けたかと思えば、左右に居た妖魔が短い断末魔を上げ瞬く間に消滅した。何が起きたのか分からぬまま、レイは支えを失い再びその場に倒れ込む。突然機嫌を損ねたのか知らないが、少しの躊躇いもなく配下二体を一瞬で殺した。骨も残さず、まさしく消滅させたのだ。次は自分がこうなってしまうのかと思い、レイは浅く呼吸しながら力の入らない手を握る。必ず戦場で戦って死ぬと思っていた。力の限り剣を振るって、死ぬ時は戦いに敗れた時だと。そして願わくば亡骸を誰かが見つけ、いつか骨一本でも故郷に帰ることが出来たら幸せだと。だと言うのに、戦えもせず無様に宿敵の前で蹲り、骨も残さず消滅させられるのかと思うと、レイは深い悲しみを覚えた。こんなところで死にたくない。こいつにだけは負けたくない。全身が痛くてつらくて、視覚も聴覚もみるみる失われていく。
そんな中で、ゆっくりと身体の向きを変えられた感覚がした。乱れた前髪がはらわれ、薄目を開けるが、もうろくに見えない。ただ目の前に黒い何かがあって、大きな手に支えられ抱き起こされているような感覚がした。
もしかしたら、最期に神様が迎えに来てくれたのかもしれない。きっと今までの頑張りをどこかで見てくれていたのだ。レイは微かに息をついて、無意識に一筋の涙をこぼした。
「死ぬのか? 麗しの英雄よ」
「…………かみ、さま」
「…………」
「ぼく……がんばりました…………」
小さな声でそう呟いたレイは、濡れた金色の睫毛を伏せて、やがて動かなくなった。二つのエメラルドが、その姿をじっと見つめ続けていた。
つづく!