悪魔シュウ×天使れー 天使庁警備局悪魔企画課に所属する天使である零は、今日もデイリー業務である天空パトロールに励んでいた。宝石よりも美しい青の瞳で、あらゆる悪事を見逃すまいと隅々まで見回ることから零の一日は始まる。
ここでの天使というのは、所謂人間達が想像しているものとは少し異なり、世界の平和と安寧を維持する為の機関であり、神に仕える存在である。つまりは下界でいう警察組織のようなものだ。天界での揉め事や事件を担当する課も当然あるが、零が所属するのは対悪魔専用の実働部隊である悪魔企画課という部署であり、零はその中でもトップクラスの天使だ。本来ならば更に上位格の天使になれる聖力と魂を持っていながらも、他に類を見ない戦闘能力を買われ若くしてこの課を任されている。
「さて……先日この辺りで高位の悪魔を見かけたという報告が上がっていたな……」
天界と魔界の境目は、最も悪魔との遭遇率が高いエリアだ。天使と接触をして堕天させ、神の力を弱らせるのが奴らの目的である。悔しいことに悪魔の戦闘能力は天使よりも高く、誘惑の力も強い。更に奴らは表面上は非常に魅力的な姿をしていて、息をするように相手の心につけ入る。これまでも悪魔に誘惑されて堕天した仲間を、零は何人も見てきた。またしても天界付近をウロついて何か企んでいるのだとしたら、絶対に自分が食い止めなければならない。零の魂は生まれつき魔物への耐性が強く、並の悪魔では決して堕天などさせられやしない。多少高位だろうと、いつも通り黒い翼を焦がして追い払ってやるだけだ。
そう思い、フンと息をついた瞬間だった。強い悪魔の気配を感じて振り返った時には、奴はもう零の目の前にいた。これぞまさしく悪魔と言った風体の、漆黒の大きな翼を持った雄々しく美しい男。長い黒髪が零の視界に帯のようにたなびく。天界では見たこともない、ギラリとしたエメラルドの瞳と視線が絡み合った刹那、零の背中に悪寒のようなゾクゾクとした感覚が走った。
「……ッ!」
「待て、逃げるな。何もしない」
「近寄るな悪魔! 一歩でも近付けば貴様の青白い皮膚を焼き焦がしてやる!」
「随分過激だな。天使というのは、もっと大人しいのを想像していたが……」
咄嗟に距離を取って武器であるロザリオを構え威嚇して見せるが、悪魔は余裕綽々な態度で両手を緩く上げて見せた。悪魔ということを抜きにしても、何故だか無性に癪に障る男だ。これまで追い払ってきた悪魔とは文字通り格が違うことが一目で分かるだけに、零の真っ白な羽根がぶわりと膨らむ。こいつは危険だと脳内でうるさく警鐘が鳴っているというのに、まるで目が逸らせない。こんな感覚は初めてだった。
「俺は悪魔だが、お前に危害を加えるつもりはない。ただ少し散歩をしていただけだ」
「此処でそんな言い訳が通じるとでも?」
「疑いたければ好きにしろ。だが……確かにこのエリアは天魔の狭間だ。お前のような天使が一翼でウロついていたら、襲われても文句は言えんぞ」
悪魔はそう言いながら、頭上の光輪からつま先まで値踏みするように零を眺めた。
「なっ……! 僕は貴様のような悪魔から皆を守るためにパトロールしてるんだ、馬鹿にするな!」
侮られた気がして、零は顔を真っ赤にして怒鳴る。ツヤツヤと輝く金色の髪に、太陽に愛された珍しい褐色の肌。透き通ったプラチナブルーの瞳は甘く垂れて、どこからどう見ても天使としか言いようのない美貌を持ったベビーフェイスは、悪魔を強く惹きつけ、そして舐められがちだった。とはいえ、ひとたび零の本気を見ればそこいらの悪魔は尻尾を撒いて逃げ出す。強く美しく可愛い。それが天使庁警備局悪魔企画課の絶対エースなのだ。
「過失は50:50だと言っただけだ。……なぁ、お前の名前は何と?」
「悪魔風情に名乗る名前なんてない!」
「俺の名はライだ。教える気がないなら、勝手に好きな名前をつけて呼ぶぞ」
「ふ、ふざけるな! 本当にただの散歩だと言うなら、とっとと魔界へ帰れ悪魔!」
ライと名乗った悪魔は、楽しげに口角を上げて微笑んだ。何を笑っているんだ。悪魔のくせに、何が楽しいんだ。零はどんどん調子を崩されていった。顔を見ないようにしているけれど、やっぱり話をする時は相手の目をきちんと見ないと気持ちが悪い。そうすると恐ろしいほどにハンサムな男が目前に居て、零はイヤになった。悪魔は表面上、とても魅力的な姿をしている。と、されている。それでも零は今まで一度も悪魔に心惹かれたことなんてなかったし、ハンサムだとか素敵だとか、格好いいなんて思ったこともなかった。それなのに、ライはどうしてか目が離せない。見るだけで目から毒を注ぎ込まれているみたいに、身体が熱くなってドキドキしてしまう。もっと声を聞いてみたい。どんなことを話すのか、どんな性格をしているのか知りたい。無意識に心から湧き出てくる感情がおそろしかった。
こんなのはダメだ、これ以上こいつと居たら変になる。零は咄嗟に判断して、真っ白な翼をはばたかせてその場から逃げることにした。報告書には何て書けばいいんだ。敵前逃亡なんて、僕のプライドが許さないのに。けれど天命第一、安全第一。魂を奪われたら終わりだ。
「もう行くのか、小鳥ちゃん」
「誰が小鳥だ! 僕はお前にかまってられるほど暇じゃないんですっ」
「なぁ、俺は明日も此処に来るぞ。お前がまたパトロールに来なければ、通りすがりの天使に声をかけるかもしれないな」
「なっ!?」
ライは満足そうに言うと、零が文句を言う間もなく暗闇の中に消えてしまった。高位の悪魔が使う、スカしたテレポーテーションだ。これをされると、なかなか追いかけるのは難しい。奴の方が先に逃げたのだ。だから僕は負けてない。
「なんだ、あいつ……何なんだ……」
零はふわふわと空を浮かびながら小さく呟いた。明日も、パトロールをしなければならない。特にこの辺りを重点的に。だって、とてつもなく魅力的で危険な悪魔が現れるかもしれないから。
「天魔の狭間で高位の悪魔と接触したと……。貴方が取り逃がすとは珍しいですね、零」
「申し訳ありません。今まで出会ったことのないタイプと言いますか……身の危険を感じたので、今回は過度な接触は控えました」
「ほう……うちのエースである貴方がそう言うのなら、相手は相当な位を持った悪魔だったのでしょうね」
「恐らくは……。その悪魔はライと、名乗っておりました」
部署に戻り次第、零はすぐに上司へ報告を上げた。彼女は部下の話をきちんと聞いて、適切な判断で導いてくれる優秀な大天使様だ。そんな普段は穏やかな上司が、零の口にした名前を聞いた途端に分かりやすく顔色が変わった。奴は大天使にまで名を知られている程の悪魔だというのだろうか。だというのに零は少しもライなんて悪魔のことを知らなかった。
「貴方が接触したライという悪魔が、もしあのライなのだとしたら……まずいことになるかもしれません」
「あのライ、というのは一体……?」
「零が天使として生まれる前から存在している、非常に強力な悪魔です。ここ数千年程姿を見なかったので、若手の天使達が知らないのも無理はありません」
「どうしてそんな奴が、突然……」
相手が予想以上に強敵であったと知り、零はごくりと息を呑んだ。どういう意図があってか、あの場はすんなり撤退したから良かったものの、奴は明日も狭間へ来ると宣言したのだ。油断は一切出来ない。
「悪魔は気紛れですから、明確な理由は分かりませんが……。貴方と接触した際に敵意は見られなかったのですね?」
「はい。ですが……明日も天魔の狭間に来ると宣言しました。更には、その……僕が来なければ他の天使を誘惑するかもしれないと脅し文句を残して」
「ううむ……なるほど、ライのターゲットは零ということですか」
困りましたね、と頭を悩ませる上司に、零は「ご安心ください」と凛とした声を返す。
「ターゲットにされているなら好都合です。再びライと接触を図って、逆に奴を誘惑して無力化させてやりますよ」
「うーん、そうですねえ……うちの課内じゃ、零がダメならダメでしょうし。暫く様子を見てみましょう。でも、決して無理は禁物ですよ。相手は魔王にも匹敵する力を持った悪魔と噂されていたのですから」
「魔王に……。いえ、それでも僕はやり遂げてみせます。状況によっては魔界へ潜りますので、偽堕天の準備もお願いします」
零の真っ直ぐな瞳に、上司は静かにゆっくりと頷いた。悪魔企画課では、短期間に限り魔界へ潜入天使を送り込むことがある。その際は偽堕天という術を施して一時的に堕天使状態となり、魔界でも生きられるように身体を作り替えるのだ。普通なら魔界の空気を吸うだけでも肺が汚染され、呼吸すらままならなくなるのだが堕天使となれば問題はなくなる。しかし長期間の堕天使化は心身ともにリスクが高く、下手をすれば本当に堕天してしまう可能性もある。その為、潜入天使に選ばれるのは零のように優秀で強い魂を持つ天使のみに限られるのだ。
「まずは明日、ライが本当に狭間に現れるかですね。十分に聖気を蓄えて、備えるように。いざとなればすぐに援軍を送ります」
「了解。失礼します」
零は深く一礼をして、上司の居る間を後にした。只者ではないと感じていたけれど、まさか魔王と匹敵する程の力を持った悪魔だったとは。天界に生を受けてから240年、まだまだ天使として若輩ではあるが悪魔に関してかなりの知識を持っている零でも、ライの名は聞いたことがなかった。上司から得られたのも僅かな情報だけで、戦いに備えるにはあまりに心許ない。天界で最も大きな図書館に飛んで片っ端から書物を漁ってみても、やはり分かることは何もない。
ただライという悪魔がとてつもなくハンサムで、綺麗な緑色の目をしていて、なんだかいけすかない喋り方をするということしか零は知らない。どうしてずっと姿を見せなかったのだろう。今まで力を温存して、このタイミングで何か仕掛けるつもりだったとしたら……。
「あれこれ考えても仕方ないな……まずは明日、確実に奴と接触して情報を得なければ」
天使と悪魔は確かに敵対関係にあるが、天界も魔界も世界の均衡を保つのに必要な理であって、それぞれに大きな役割がある。決してどちらかが滅んでいいものではない。そんな絶妙なバランスで成り立っている世界を、魔界側が主導権を握ろうと過度な行動に出るから、こうして悪魔対策課なんていう部署が出来たのだ。
人間を悪い方向へ導き過ぎたり、天使に手を出して堕落させたりと目に余る行動は見過ごす訳にいかない。こちらだって何も、悪魔達と好き好んで対立したくはない。きちんと勤めを果たす真面目な悪魔だって少なからず存在するし、全ての悪魔が害悪だなんて思っていない。
天使も悪魔も、大元の魂は人間だ。人の世を全うして魂が昇華した後、特に強い魂を持った者が天使か、或いは悪魔になる。その分かれ道は人だった頃の行いではなく、魂の性質によるらしい。例え生前に悪い行いをしていたとしても、その魂に善の素質があれば天使として生を受ける。逆もまた然りだ。人間であった頃の記憶は例外なく消え去ってしまうので、知識として知っているだけで自分が人としてどう生きていたかは分からない。だから尚のこと、天界と魔界で協力し合ってより良い世界をつくっていけたらと思うのに、そう簡単にはいかないのが実情だ。現に零とて、ライの言う「散歩していただけ」なんて言葉はとても信じられずにいる。けれど、もしここでライと有益な話し合いが出来れば。
「いや……そんな夢見がちなこと言ってたら足元すくわれるな」
「なにブツブツ言ってるのさゼロ。また難しいこと考えてるの?」
「うわ、なんだヒロか。驚かすなよ!」
「厄介な悪魔にターゲットにされたんだって? ゼロは昔から人間にも悪魔にもモテモテだからなぁ」
うんうん唸っていたら、いつの間にか親友の景光が目の前にいて零はすこし飛びのいた。クスクスと屈託なく笑う彼は、天使学院時代の幼馴染だ。人間と違い、血の繋がった家族というものがいなくとも、互いに兄弟のような存在である。
「ライとか言ったっけ。どんな奴だった?」
「まさに悪魔って感じだよ。むしろ魔王かな……それくらいの風格があった。髪が長くて、エメラルドグリーンの瞳で、隈が濃くて背が高くて……」
「すっごくハンサム?」
「うん………って、何言ってんだヒロッ! 悪魔の外見が良くたって、百害あって一利なしだ!」
顔を赤くして狼狽える零を見て、タイプだったんだなぁと景光は悟った。上位天使達の間では既にライとの接触情報は共有されていて、エースである零が担当につくということも噂されていた。また無茶をしなければ良いのだがと親友の様子を見に来てみると、なんだか別の方向で景光は心配になってきた。今までどんな悪魔が零を狙って来ようが、顔色ひとつ変えずに淡々と処理してきたというのに、一目見ただけで様子がおかしいことが分かる。ポーっと上の空で、ライのことを話している時なんてまるで恋する乙女のようだ。それだけライの〝魅了〟の力が強いのかもしれないが、もしかするとこれは────。
「ようゼロ。聞いたぜ、ヤバそうな悪魔とタイマン張るって?」
「相変わらず仕事熱心だねえ」
「あ、二人とも任務終わり? お疲れ」
「おうよ。今回も楽勝だったぜ」
二人揃って現れたのは、天使庁警備部機動隊の魔呪物処理班に所属している松田と萩原だ。悪魔が天界や人間界に仕掛けた魔術や呪いを解くことに特化したプロフェッショナル。常に危険と隣り合わせだが、降谷と同じく部隊のエースである二人に解除出来ない魔術物はない。
「油断してると呪いが跳ね返ってくるぞ?」
「わぁってるよ。んなことより、どんなヤローなんだライってのは」
「それさっき俺も聞いた。魔王レベルの風格があって、とにかく物凄いハンサムらしいよ」
「マジ~? 今度こそゼロの純潔大ピンチ?」
「好き勝手言うなもう! 僕があんな奴に負ける訳ないだろ!」
案の定怒りだした零を皆がケラケラと笑った。そうだ、僕は負けない。零はふるふると小さく頭を振って雑念を追い払う。夢を見ることは大事だけども、同時にいつだって現実も見えてなくちゃいけない。もしも悪魔に魂を、心を奪われてしまったら堕天してしまう。そうしたらもう二度と天界には戻れない。
「この僕が魅了なんて、される筈ないさ……」
される。つづく。