フェブリス解放後初の2月14日「あれ?ジェローム様、何を作っているんですか?」
「!!」
キッチンカウンター上に置かれていた底の浅いバット容器が、酷くうるさい音を立てて床に落ちた。
「ろ、ロッティか……驚かさないでくれ」
「すみません、そんなに驚かれるとは思わず…」
ジェロームは床に落ちたバット容器を拾い上げる。凹みや傷はついていない。きちんと洗えば今まで通り使えるだろう。
まだ中に何も入れていなくて助かった……ーーそんな考えが頭を掠めて、胸を撫で下ろす。
「ーーあ!チョコレートだ!」
ジェロームの隣に立ったロッティは嬉しそうに机に置かれていたチョコレートの包みを持ち上げた。
「食べるんじゃないぞ、今から菓子作りに使うのだからな。」
「はあい!ジェローム様のお菓子、楽しみにしています!」
ロッティは調子良く返事をして笑った。
「それで、何か用があったのか?」
「あ、そうでした。こちら、アレイン様からの通達になります!」
ジェロームは拾ったばかりのバットをまた落としかけて、慌てて持ち直す。視界の端でロッティが身構え、ジェロームが何も落とさずに済んだのを確かめてから構えを解いた。
「ーーゴホン、それで、アレイン様は何と……?」
ロッティに書簡が行ったということは、個人的な文ではなくコルニア国王としての仕事の話だろう。
咳払いで誤魔化したジェロームを上目遣いで睨んでから、ロッティはコルニア国王アレインから届いたという簡書を読み上げた。その内容は、アルビオンに新たな盗賊集団が見られるようになったため、注意と偵察をお願いしたいというものだった。
「なるほど、そうか。了解した、と返しておいてくれ。」
「はい、承りました!」
元気に返事をしたロッティは、仕事内容を復唱して「それでは!」と敬礼した。
ーー忠実かつ仕事に熱心な部下を持つことができてよかった。ジェロームはひとつ頷くと、カウンター上の材料と道具の数々に向き直った。
「さてーー」
「あ、ジェローム様!」
「!!」
今度は一体何事かと振り返る。既にロッティはキッチンから出て行ったと思っていたが……未だに彼女は扉の内側にいた。
「アレイン様に渡す前に、味見に呼んでくださいね!」
「なっ……!?」
分かっていたのか?その問いを投げる前に、ロッティはニッと歯を見せて笑う。
「ジェローム様のお顔を見れば分かりますよ。頑張ってください!」
「む、むう……分かった……」
ジェロームは渋々頷いた。今まで感情が顔に出てしまうようなことはなかったはずだが……アレインのこととなると違うらしい。ロッティが去った後の静かな台所で、ジェロームは自身の表情を確かめるように顔を揉んだ。
ジェロームがこんな調子になっているのも、ロッティがアレインのことを言い当てられたのも、全ては宗教国家アルビオンに伝わる風習の所為である。
城塞都市ラージョンでは、ゼノイラ帝国による支配が及ぶ以前まで、アルビオン産のフルーツやゴートミルクを利用した菓子がフェブリス有数と言われるほど有名だった。ジェロームも領民や外から来た観光客が菓子を食べて嬉しそうにする顔に、幾度も救われたものである。
そして当時、その笑顔が一段と広く行き渡る日が、アルビオンには一年に一度のみあった。それが、2月14日ーー「感謝の日」である。
その日は、かつてアルビオンを治めていた名のある教皇が、妻や子、国中の民に日々の感謝を伝えた日として刻まれている。毎年「感謝の日」を大切にしていたかの教皇亡き後、アルビオンでは2月14日に、お世話になった人に向けて感謝の贈り物をすることが習わしとなったのだ。
「ロッティ……やはりチョコレートを見てから気付いてしまったか……?」
感謝の贈り物に決まりはない。ある富豪は子に宝石を贈り、ある花屋の娘は近隣の住民に一輪の花を配り歩くだろう。しかし、人は、どうしても贈り物に意味を持たせたくなってしまう生き物なのである。
宝石に期待を、花に感謝を込めるように、チョコレートを贈ることにはとある意味が当てはめられていた。
……思慕である。
ジェロームは首から下げた指輪を服の上から触れた。指にじわりと暖かい感覚が広がる。
「貴方にこれを渡されたあの日から……」
水が沸騰を始めて、火を止める。
「ーー夢を見ている心地です。」
軍で最も信頼していると言われ、ゼノイラを倒し、彼に最も近い場所で、彼が王となった瞬間を見届けた。きっとゼノイラの支配下に置かれ、ただ領民にだけは手出しをしないでくれと怯えていた過去の自分に話したとて、信じてはもらえないだろう。
温度を確かめてから、ジェロームはボウルにチョコレートを開けた。ふわりと甘い匂いが漂い、キッチンを埋めていく。温めた湯の上にボウルを乗せ、木べらで丁寧に混ぜれば、チョコレートは液状に溶けていく。
「……ふう、こんなものか。」
全く、恋とは恐ろしいものだ。今まで領民へ配る菓子を作っていた時は、仕事のことだけが頭を巡っていたものだが……今はどんなに菓子作りに没頭していても、彼のことばかり考えてしまう。
アレインが自身の菓子を食して笑いかけてくれるところを想像し、ジェロームはまた、変ににやけ面になっていないか確かめた。ふと目をやった先にはオーブンの温度計に数字が並んでいる。予熱も充分完了しているーー現実に引き戻され、次の手順が脳裏に浮かんだ。
別のボウルを取り出し、そこには卵をひとつ割った。アルビオン産バターに、砂糖、塩、薄力粉、風味付け用の小さく刻んだフルーツを合わせて混ぜ込み、上手く混ざったところでチョコレートを加えていく。
落としたものとは別のバット容器に混ぜ合わせた液を流し入れ、丁寧に表面を慣らして、オーブンへ入れる。
「ふっ……」
恋に落ちると思考が単純になって困る。
ジェロームは口元に手を当てて、自然と上がってしまう口角を隠した。
一息ついたところで浮かんでくるのは、やはり、完成した菓子をアレインに渡す際の台詞くらいであった。
そして当日、2月14日ーーとはいかず、仕事の都合でジェロームとロッティは2日遅れでコルニア王都グランコリヌへ到着した。
アレインは執務室で、大きな窓を背にして座り、たくさんの仕事の山に囲まれていた。忙しそうにしていたものの、ジェロームとロッティが入ってきた扉をちらと見、手元の紙に何か書き込んで、立ち上がった。
「よく来てくれた。ジェローム、ロッティ。」
幾度も妄想していた、アレインの笑顔がそこにあった。
「は。お久しぶりです、アレイン陛下。」
年甲斐もなく脈が速くなってしまう心臓の音がバレないように、ジェロームは深く一礼した。
顔を上げると、アレインは目を細めて、ラージョンの様子やアルビオンの各地に散った仲間たちの様子を尋ねた。ジェロームは自身の知る限りを細かに話し、アレインが楽しそうに笑うのを見て顔が熱くなるのを感じていた。
「早速だが、仕事の話をさせてくれ。」
アレインは山の中から器用にアルビオンの資料を見つけ出す。
執務室に設けられたソファに、ロッティと腰掛け、アレイン話を聞いた。
「これで、俺から話すことはもうないな。」
アルビオンに出現する賊の話や、新たな航路開拓の計画、貿易に土木事業の話を展開していたアレインは一通り話を終えて、大きく伸びをした。ついでに、大きな欠伸もした。
「すまない。ジェロームの前だと、つい。」
「あ、いえ……。」
恥ずかしげに笑うアレインの声に、思わずジェロームは言葉に詰まる。
「ジェロームからは、何か聞いておきたいことはあるか。」
目に浮かんだ欠伸の名残りを指で掬って、アレインが続けた。ジェロームはぼうっとその様子を見つめていたが、ロッティの肘が腕に当たって、意識を引き戻された。
「ジェローム様、今ですよ!」
ロッティは、ジェロームの意識がこちらへ向いたと判断するとすぐに、そう耳打ちした。
「む、むう……。」
「大丈夫です、私が味見して問題なかったんですから!」
そこまで言われて、渋々とジェロームは持ってきた包の中からガトーショコラを包んだ箱を取り出した。
「アレイン陛下……こちらを。」
普段から仕事を共にする度に手作り菓子を渡していたからか、アレインはおおっと歓声を上げた。
彼はおそらく、感謝の日など関係なく、いつものような菓子を想像しているのかもしれない。ジェロームは説明するか迷ったが、途端に恥ずかしくなって、口をつぐんだ。
「ありがとう、ジェローム。」
「いえ、いつもアレイン陛下にはお世話になっておりますから。」
ロッティが何か言い出してしまわないかと背中に冷や汗をかきながら、ジェロームは一礼した。顔を上げれば、アレインの瞳に自身の顔が映る。
アレインは口元に手を当てて小さく吹き出した。その頬は赤らんで、可笑しいというより、恥ずかしさや嬉しさを含んでいた。
「ジェローム……チョコレートの菓子ということは、俺は期待しても良いのか?」
「え、は……?」
ジェロームはすぐに背後を振り返った。しかし、彼女は今度ばかりは犯人ではなかったらしい。驚いて口を開けたままのロッティは首を横に振った。
アレインは2人の様子にさらに吹き出して、「すまない」と続けた。
「アルビオンの風習は聞き及んでいるさ。感謝の日にチョコレートを贈る意味は、特に。」
驚いて固まってしまったジェロームと対照的に、アレインはそわそわと落ち着きなくうなじを掻く。
「ーー俺からも渡したいものがあるんだ。ジェローム、今日は仕事の後に、俺の寝所へ来てくれないか。」
固まったままそう言われ、肩をロッティが大きく揺さぶって、やっとジェロームはアレインの言葉の意味を理解した。
「やりましたね、ジェローム様!!」
感極まって口元を手で押さえた。まさか今も夢の中にいるのではないか。そう思ってしまっても仕方ないくらい嬉しかった。
遠くで国王を探す声が聞こえる。アレインはその声の方へ振り返って、「もう行かなくては」と呟いた。
「ジェローム、待っているぞ。」
「は、はい。」
アレインはジェロームの肩をポンと叩き、踵を返して執務室から出て行ってしまった。
「これは、今日は帰れませんね。」
直接見なくとも、ロッティのにやけ顔が分かる。一喝してやっても良かったが、アレインの執務室で声を張り上げるのは躊躇われて、ジェロームは大きくため息をついた。
その後、ジェロームが国王アレインから手渡されたのは、チョコレートを入れたクッキーと婚約の指輪であった。