for ジュソ堕ち疲れきった身体を引きずって古いけど安い自宅アパートの玄関に鍵を挿す。ご近所では何やら出汁の効いた料理を作っているらしい。対して私の夕食は頑張ればカップ麺で、力尽きてしまえば夕食は抜きだ。悲しくなって、逃げ込むように扉を開けた。
そこには何故か、別れたはずの元恋人がいた。
何喰わぬ顔で「おかえりなさい」と言う彼にたったの一言さえも言葉が出てこない。どうして七海がいるの?どうして我が家で夕食を作っているの?誰のせいで毎日こんなに疲れてると思ってんの?どうして、どうして呪詛師になったの?
▽△▽△
七海は学生時代の後輩だった。呪術高専に入学してきた七海に一目惚れした私は初恋なりに恋心を隠そうとしていたけれど筒抜けだったらしく、無意識のアタックに絆された七海から告白されて付き合うことになった。恋人関係は七海が呪術高専を出ても変わらなかった。
お互いの繁忙期を迎えて一カ月近く連絡すらまともに取り合えていない中で、いつも以上に険しい顔をした学長に呼び出されたのだ。これはどこか遥か遠くの任務に飛ばされるのかなぁなんて気楽に構えていた私は「七海が会社の同僚を皆殺しにして行方をくらませた」という言葉を全く理解できなかった。
私と七海が恋人同士だということは周知の事実だったから、その日から毎日詰問に近い取り調べが始まった。恋人とのチャット履歴を職場に提出しなければならないという最悪の事態も発生した。私のアカウントも個人携帯の電話番号も上層部に押さえられて、私に成りすました上層部が何度七海に連絡を送ろうとも全て未読無視に終わっていた。これまで連絡が取れなくなったとしても三日以内に既読はついていたし、一カ月と置かずにチャットや電話で会話出来ていた。七海がそんなことをするような人だとは何度考えても思えなかったけれど、突如姿を消した事実と現場に夥しくこびりついた残穢以上に根拠なんて必要無かった。
七海が私に接触すると踏んでいる上層部から護衛という名目で常に付け回されて精神的にも限界を迎えつつある中で、何故か七海が私の家で豚汁を作っていたのだ。安アパートの我が家は玄関を開けてすぐにキッチンがあるから、まさに目の前に七海がいた。「早く締めないと虫が入りますよ」だなんて言うけれど、非術師を大量に殺害し夏油に次ぐ最悪の呪詛師として名前を連ねた人と密室に入る気にはなれない。……というより、身体が動かない。目だけは七海と豚汁を忙しなく往復し続けている。
頭の中は無限に浮かぶ疑問で埋め尽くされている。七海がなぜここにいるのかわからないし、なぜ豚汁を作っているのかもわからないし、豚汁の材料をどうやって調達したのかもわからないし、なぜ護衛という名目で付け回していた人が機能していないのかもわからないし、なぜ私が今安堵しているのかもわからない。指一本動かない身体に七海がゆらりと近付いたから頭の中に「とにかく距離を取らなければならない」と曖昧な指令が出された。掴んだままだったドアノブを離し一歩後退ったのに、七海がドアノブを掴んで扉が閉まるのを阻止してもう一方の腕で私を室内へと引き上げた。玄関の段差に足が追い付かず躓く私を七海はそっと抱き留めて、抵抗する間も余裕も持たせずに唇を重ねた。リップ音と同時に背後でガチャリと施錠音が響く。わからない。今起きていることの全てが、理解できない。
「会いたかった」
「……」
「連絡を無視し続けてすみません。……と言っても"貴女"から連絡が来たのは半年前が最後ですが」
「……」
「……随分お疲れのようですね。お湯を張っています。先にどうぞ」
「……なんで」
「恋人を労わるのに理由が必要ですか」
「こい、びと……?」
慈しむような目が、一瞬で蔑むような冷たい眼差しに変わり背筋が凍りつく。
「たった半年で恋人関係さえも忘れてしまいましたか?」
「……半年も連絡を返さないのに、恋人……?」
「ああ、それはすみません」
安堵したように優しく笑うのは何故なのか。「呪詛師と恋人なわけがない」と言えば酷い目に遭うと脳内で警鐘が鳴らされているのは何故なのか。
「な、なみは、恋人じゃない……」
「拗ねないでください。これからはキチンと連絡しますから」
「でも、だって、七海は」
「……風呂の前に犯されたいですか?」
「ひっ……」
「ただでさえ期間が空いて優しく出来る自信が無いんです。これ以上優しく出来ない要素を増やさないでください。これは貴女のために言っているんですよ」
「や、やだ、無理、出来ない」
「泣かないでください。そそられる」
「嫌っ……」
かつての恋人らしからぬ言動を聞いて身体の奥底から這い上がるような恐怖に包まれる。ボロボロと零れ落ちる涙を七海の親指が優しく拭う。震える手を優しく包むのは間違いなくかつて大好きだった人なのに、今は怖く怖くて堪らない。知らない人にしか見えない。もう一度近付いてくる顔から大きく首を逸らして逃げると、いよいよ目の前の男の目から光が消えてしまった。七海はこんな顔をしない。怒るときは不快感を全面に押し出すから。こんな真顔にはならないから。こんな人、知らない。
「やだ、したくない、出来ないってば」
「どうして」
「どうして……?なんでわからないの?な、七海はもう恋人じゃないでしょ」
「恋人でしょう。たったの一度でも別れ話をしましたか?」
「え……」
怖い。意味がわからない。私は呪術師で、七海は呪詛師だ。そうでなくても七海は大量殺人を起こした犯罪者だ。どうして恋人関係があるなんて思うんだ。話がかみ合っている気がしない。でも目の前の真っ暗になった瞳が怖くて堪らない。きっと、話を合わせなければ殺されてしまう。七海が呪詛師だとか殺人鬼だとかそういう事実に触れちゃいけないんだ。
「半年放置しておいて、急に会いにきて抱きたいだなんて、か、勝手すぎる……」
「……それもそうですね。すみません」
「第一、つ、疲れてるんだから……。こっ、恋人なら労わってよ」
「……。配慮が足りませんでした」
真っ暗だった瞳は悲しそうに伏せられて、今はちっとも恐怖を煽ってこない。やっぱり、七海を呪詛師として拒絶したらダメなんだ。
「お、お風呂、入るから……」
「ええ。……その前に」
お風呂に向かって歩きだしたのに、大きな身体が私を後ろから覆い隠すように抱き締める。怯えて縮こまる私のポケットから、スルリとスマートフォンを抜き取った。
「これは預かりますね」
「なんで、」
「会えなかった間に浮気をしていないか確認します」
「今はやだ」
「……浮気、したんですか?」
「してないけど今はやだ!後にして!」
「……。一度くらいの気の迷いなら許してあげますから」
「ち、ちが、」
「だから庇おうとしないでください。めちゃくちゃにしてやりたくなる」
またスンと目の光を失った七海からスマホを取り返すなんて無理だと悟って、スマホに向けていた腕をおずおずと下ろして重い体を引きずって風呂場へ向かった。
学長に連絡を取りたかったのに。呪術規定に則って「呪詛師が家にいます」って言わなければならないのに。そうして七海が殺されるための情報提供をしなければならないのに、スマホを奪われた私は心のどこかでホッとしてしまっていた。
▽△▽△
「五条さんとやり取りしすぎです」
「……プライバシーの侵害だと思う」
七海が作った豚汁、鯖の塩焼き、ほうれん草の和物。どれも私が大好きなもので、以前はご機嫌取りに作っていたっけ。こんなもので絆される筈はないけれど、七海が今後ろめたさを抱えていることは伝わってしまった。私には何も盛らないと信じて手を付けた料理はどれも七海の味で、涙が出そうになった。こんなものを食べたら日常が帰ってきたような気になって油断してしまうとわかっているのに箸は止まらなかった。
大量殺人を犯したから怯えてしまうけれど、かつて愛した七海であることは間違いないのだ。面影が残るなんてレベルじゃなくて、七海は七海なんだ。七海のまま沢山の人を殺したんだ。
「先に私の話を聞いてください」
「違法な取り調べに応じる義務はない」
「取り調べなんて生易しいものだと思っているんですか?」
「……五条も似た境遇だから気にかけてくれてるんだよ」
「だから傷を舐めあうセックスをしたんですか?」
「半年放置してた癖に今更なによ」
「放置してたくらいで浮気するような女なんですか」
「半年は『くらい』って言える期間じゃない。別れたい」
「お断りします」
「……今後も半年『くらい』放置されるなら寂しくて耐えられない」
「だから浮気するんですか」
「放置するのに信じてくれないなんて最低だよ……。好き勝手しすぎ」
「……」
誓って、五条と浮気なんてしていない。七海が突然失踪して気が触れそうになった私を五条は仲間として支え続けてくれていた。スマホに残っているチャットの履歴にはまさに色気の欠片も無いことだろう。こうしてグチグチと責立てられているけれど、きっとそんな事実がないことには気付いているに違いない。浮気したと本当に思っているならこの程度の話し合いじゃ済まされないはずだから。
「私、恋人にはそばにいてほしいよ」
「これからはそばにいます」
「えっ、そうなの?」
「四六時中というわけにはいきませんが。前よりはそばにいられますよ」
「なんで……?」
「新しい環境に慣れましたので」
「"新しい環境"……」
「沢山会いに来ます」
「……来ないで」
「別れません」
「会いに来ないで」
「別れません」
「別れる」
「絶対別れません」
「七海が恋人じゃ嫌なの」
「他の男を知ったんですか?」
「……こ、これから知る」
「わかりました」
どう見てもわかってない顔。正確に言うと、腹の底からブチ切れている顔。さっきまでの真顔とはまた違う、正真正銘怒っているその顔がなんだか昔の七海のような気がして怖いのにほんの少しだけ安心してしまう。とっくに食べ終わった食器を下げたかったのに、手首を掴んで引き摺るようにベッドへと導かれる。
「他の男なんか知らなくていい」
「一生一人は嫌だよ」
「私がいる」
「七海はもう無理」
「私がいなければ無理でしょう」
「急に放置されても半年間無事に生きてきた。意味わかんないこと言わないでよ」
「私から離れるなら私を殺してからにしてください」
「なんでそんなこと……。嫌だよ」
「では絶対に離れない」
抵抗も虚しくベッドへ放り投げられて、性急に服を剥かれていく。膝を抱えるように阻止したのに力一杯足首を引っ張って、そして踏まれた。
「痛いのは嫌なの!」
「抵抗しなければいい」
「こんなんじゃ濡れないし入らない」
「貴女の好きなところなんて全て知っています。安心してください」
「今日は寝たいんだってば」
「終わったら寝かせてあげますよ」
「絶対嘘、やだ、ん、ゴムも無いの……。全部捨てたから……」
「それは好都合」
「やだやだやだ!お願い!嫌!やめて!」
「……」
「やだってば、う、うぅ……っ」
▽△▽△
七海は泣いても叫んでも決してやめてくれなかった。ただ、私が泣き喚いて抵抗したのは最初だけで結局『好きなところなんて全て知っている』七海に快楽でグズグズに溶かされて、前後不覚になってもはや終盤に何が起きていたのか覚えていない。ふと気付いたら深夜で、七海にぎゅうと抱き締められながら眠っていた。二人ともいつものパジャマを着ているから、七海が呪詛師になったことも無理矢理犯されたことも夢みたいに思えてしまった。でも全身の倦怠感がそれを否定する。今すぐ起きあがって学長に電話する体力くらいはあるのに、倦怠感にアッサリ身を任せて七海の身体をそっと抱いてまた眠った。
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高専でバッタリ会った五条の第一声が、もう完全に察していた。五条には珍しく「あー……」と窄んでいく語尾にフラフラと目が泳ぐ私。そして五条は「んー、"新しい男"が出来た?」と聞いた。どう見ても真実を察しているのにそう言うのであれば、話を合わせる他ない。誰かが聞いているのかな。それとも五条自身が認めたくないのかな。なんにせよ、報告しなくて済みそうな流れに胸を撫で下ろしているのは事実だ。
「……うん、よくわかったね。キスマークでも付いてた?」
「もっと露骨なやつがついてるよ」
「えっ?」
「……。"彼"、独占欲激しいでしょ?」
「割と」
「こりゃ目が良い人にはバレるねぇ……」
「え?」
私のうなじをぐりぐりと擦った五条は「まーこれで大丈夫でしょ」と言いヒラヒラと手を振って立ち去ってしまった。七海は何をしていったんだろう……?
今朝起きた時、七海はもういなかった。朝ごはんの洋風スープと、七海の好きなパン屋さんの中で私が好きなパンと、スクランブルエッグのプレート。そして隣には「また来ます」の手書きメモが添えられていた。何しにきたんだろう。どうしても性欲が我慢出来なかったのかな。別れていないと釘を刺しに来たのかな。
七海に聞くべきことは沢山あったのに。なんであんなことをしたのか、とか。今どこにいるのか、とか。どうやって生活しているのか、とか。七海と別れることしか頭になかったけれど、別れたとしてもこれらはきっと気になるはず。本当にまた来るんだろうか。また来るなら、別れ話よりも先に聞いてみるのもいいかもしれない。
半年間七海と一切の接触が無かったのは事実だ。詰問は受けたけれど、無いものを吐くことは出来ない。半年近く責め続けてようやく上層部に「コイツ本当に何も知らないな」と信頼され始めた頃にあの男がやってきたのだ。
幸か不幸か五条のおかげで嘘は吐き慣れているからこの先の詰問も尋問も凌げると思うけれど、それは向こうが証拠を掴まなかった場合の話だ。一つでも証拠を掴まれてしまえば何かと理由をつけて処刑されてしまうだろう。そんな状況を予想出来ないわけじゃないだろうに、何をしていったんだろう。
この扉を開けるとまた七海がいるかもしれないと思うと、中々家に帰れなくなっていた。また無理に抱かれるかもしれない。高専の仮眠室の方が安全かもしれない。七海について全て「かもしれない」で曖昧な危険予知をして仮眠室やビジネスホテルで泊まる日々を続けていた。そして「ああ引っ越せばいいのか」と思い至った。他人に相談出来ないから、こんな単純な事実に気付くのも遅くなってしまう。憂鬱だ。
偶然前を通りかからないような、郊外の古い一軒家を借りた。急遽戦闘が始まっても周囲に迷惑がかからないように田舎を選んだ。虫は多いけれど窓から見える海も空気も綺麗で結構気に入っている。コンビニまで車で三十分。車生活へと強制的に切り替わった。高専からは遠く離れたから、任務には直行直帰するようになった。第四修練場には近いから、そちらには時折顔を出している。五条には隠居暮らしだなんて持て囃されたけど、そのとおりだと思う。
久々に友人とディナーした帰り道。友人と解散して少し離れた駐車場へと歩いていると胸の内をねっとりと擽るような声で後ろから声を掛けられた。
「こんばんは、愛しい人」
心当たりなんて一人しかいない。前回会ってから、さらに三ヶ月ぶり。期間は空いてるし引っ越したし、正直かなり油断していた。どうやって逃げるべきか。せっかく引っ越したのに、新居を知られては意味がない。
「……人違いです」
「ミニマリストにでもなりましたか?」
「……」
「また貴女に会いに行ったのにもぬけの殻でしたよ。恋人相手に随分酷い仕打ちですね」
「七海は恋人じゃないから」
「引越先はどこですか」
「さあ」
「特定するのは簡単ですが、招待されることに意味がある」
「……招待なんてしないよ」
サラリと言ってのけた「特定するのは簡単」という言葉がこだまする。そうですか、簡単ですか……。引越費用無駄になっちゃった……。まあ広くて自然の音くらいしか聞こえない家には一度住んでみたかったから、その夢を叶えるお金だと思えば……。……いや夜逃げプランにしたから無駄に高かったなぁ……。
「もしかして特定済み?」
「さあ」
「……」
「……」
「……新居を教える義務はないから」
「素直で可愛らしいのはベッドの上だけですか?」
反射的に頬を叩こうとしたのに、その手はいとも容易く受け止められて手の甲に恭しくキスを落とされた。思わず「嫌い」と呟けばご機嫌で幸せそうな瞳が一転して、また真っ暗になった。
「撤回してください」
「い、嫌」
「今すぐ」
「撤回なんてしない」
「嘘を吐く人は嫌いです」
「じゃあ相思相愛みたいなもんじゃん」
「ストレートに相思相愛でいたい」
「じゅっ、呪詛師とは無理だよ」
七海の眉間にぎゅうとシワが寄っていく。勇気を振り絞って呪詛師呼ばわりしてみて否定されなかった事実に嫌でも現実を突きつけられて気道がきゅうと狭まっていく。ああ、冤罪じゃないんだ。七海は七海だけど、やっぱり呪詛師なんだ。もう味方サイドに七海はいないんだ。
「本当に、なんでこんな……っこと、ああもう、最低!」
ぼろぼろとこぼれ落ちる涙を見て困ったように眉を下げる。なにその表情。困ってるのはこっちなんだけど。なんで接触してくるの。
「私は泣かせてしまってばかりですね」
「別れ……って、くれたら、もう泣かずに済むよ……」
「泣かせたいわけではないのですが……」
「別れてよ……!」
「やはり唆られる」
「七海といると辛いよ……。もう来ないで。お願い」
「で、どこに引っ越したんですか?」
何も話を聞いてくれない。やれやれと言わんばかりの困ったような表情の正体はきっと「まだそんなことを言っているのか」だと気付いてしまって全身が燃え上がるように熱くなった。
「……嫌い、嫌い、嫌い!大嫌い!」
「ハァ─────……。では今日はホテルにしますか?」
「呪詛師なんかとしないから!馬鹿!嫌い!」
「あれ程気持ちよさそうにしていたのに」
七海がやけに強調した「あれ程」で気絶するまで抱かれた記憶が蘇ってしまった。車に向かって全速力で走り出したのに平然と並走しながら「ようやく案内してくれる気になりましたか」なんて聞いてくる。何も意味がない。なんなんだ。どうしたいんだ。どうしたらいいんだ。駐車場の近くまで来たけど七海との距離は少しも変わっていない。息が切れているのは私だけで、七海は涼しい顔。
「……抱きたいの」
「ええ」
「じゃあ、最後に一回抱かせてあげるから別れて」
「それではまるで愛のないセックスでしょう」
「愛……?あると思ってるの?」
「ええ。お互いに」
「七海がこんなにおかしな人だとは思わなかった」
「これからは私の全てを教えますよ」
「……」
駐車場に入るわけにもいかず入口付近のガードレールに寄り掛かる。足では敵わない。戦闘しても勝てない。出し抜いて車で逃げることもきっと出来ない。この男をまくことは出来ない。どうすれば。家に連れて行くわけにもいかない。そもそも今こうして二人でいるところを誰かに見られたら二人とも無事では済まされない。どうすれば……。
「……帰ってください。お願いします」
「ええ、貴女の家に帰りましょう」
「……」
「海辺に住みたかったんです」
「……海辺、」
もう既に、家の場所がバレてるんだ……。どうしたら七海から逃げられるのかわからない。身体に力が入らない。ヘナヘナと縁石に座り込み膝と頭を抱えてうずくまった。
「いい場所を見つけましたね。漁師町は当然ながら魚料理が美味い。一度海鮮丼でレベルを見たいですね。良い店は見つけましたか?」
「……」
「漁港の水揚げ量も悪くない。それに、海辺にしては水災も起きにくい場所だ。ですが避難ルートだけはしっかり確保しておきましょう。ハザードマップを部屋に貼りましょうか」
「……」
「ただ錆びやすいのが問題ですね。まあ私たちはそれなりに稼いでいますから買い替えもそうハードルが高くない。潮風が気になる地域ですから個人的には中干ししたいですね。まあこれは貴女に任せますが」
「……」
「大きなスーパーは近くにありませんが、商店街に活気がありましたね。一帯の閉店時間は少し早いですが任務終わりに買い物は間に合っていますか?」
「……」
「海辺ですが本屋があったのは意外でしたね。まあ無くても通販で探しますが、ああいう小さな本屋が好きなので嬉しいです」
海辺って、カマかけじゃなかったんだ……。七海が言った特徴は全て当てはまっている。もう全部バレてるんだ。私の抵抗なんて、ないものと一緒。
「……なんで殺したの」
「人気のないところで話しましょうか」
家に連れて行けと副音声が聞こえるよう。
「私も殺すの」
「殺しません」
「私が浮気したら?」
真っ直ぐ私を見ていた七海の瞳がストンと左下に落ちて、ムッと口を噤んだ。殺す気じゃん。
「……それでも殺しません」
「帰って」
「冗談ですよ。貴女のことを殺すわけがない。それより、浮気しているんですか」
「してないけど勘違いで殺される可能性はある」
「貴女が異性との距離が近い人間だということくらいわかっていますよ。今更勘違いなんかしません」
「五条とのことを疑ってたでしょ」
「……」
「もう来ないで」
「良い車を買いましたね」
「車までバレてんの……」
「車は勘です」
コインパーキングに入り私の車へと迷いなく歩みを進める。早期納品を第一に中古で買った車に七海がそっと触れた。
「鍵を開けてください」
「乗らないって約束してくれるなら」
「それでは鍵を開ける意味がないでしょう」
やれやれと表情に書かれていて思わず舌打ちを一つ。早く帰ってほしいのに、帰る気配は全く無い。まくことも出来ない。目の前では応援を呼ぶことも出来ない。
「……私に"護衛"がついてたと思うんだけどあの人たちはなんで今いないの」
「護衛は知りませんが貴女に集っていたハエは駆除しましたよ」
「護衛を始末したら疑惑が確信に変わっちゃうでしょ!」
「貴女を守るのは私だけでいい」
「一番の脅威が何を言ってるんですか?」
「貴女には危害を加えない」
「何度も泣かされてるんですけど」
「……。物理的な危害は加えません」
「穏やかに暮らしたいの。帰ってください」
「早く新居に案内してください」
「じゃあ七海の家に送っていく」
「ああ、泊まっていきますか?」
「一歩も入りません」
「まだ首輪の準備が出来ていないので、私の家は後日にしておきましょう」
「首輪……?」
しれっと言ってのけたけれど、コイツまさか監禁する気なんじゃないのか。疑いを隠そうともしない私を見てフッと笑った七海が「冗談ですよ」と言う。呪詛師がややこしい冗談を言うな。
「こうして七海といるところがバレたら見せしめに殺されるんだよ」
「ですから、早く人気のないところに行きましょう。せめて車内の方がいいと思いますよ」
「……」
悔しいけどそのとおりだ。車を挟んで立ち話しているのは正直目立つ。呪詛師を乗せたくない気持ちを堪えて鍵を開けると七海がすぐに乗り込んだ。私だけ外に突っ立っているのも不自然だからおずおずと運転席に座る。フロントガラスを覆い隠していたサンシェードを急いで外そうとする手を掴んで、逃げる間もなくキスされた。後ろに引こうとする頭を抑え込む手の力とは裏腹に、唇はまるで感触を確かめるように柔らかく動く。ゾクリと背筋に痺れが走ったのを無視して、下唇にがぶりと噛み付いた。反射的に離れてくれると思ったのに優しく頭を撫でてくるから、下唇を噛む力をぎゅうと強くするとあやすようにトントンと肩を叩かれ、そして離れていった。……あんなの絶対痛いよね。
「……そんなに美味しそうでしたか」
「何考えてんの!?」
「"好き"」
「い……いや、そうじゃなくて!こんなところ見られたら本当に殺されるんだってば」
「私が守りますよ」
「守れる立場を捨てたくせに適当言わないでよ。無責任な男って大嫌い!」
「……。そうですね、すみません。私の家から一歩も出さなければどんな立場でも守れます。貴女のタイプに近付くため近日中に首輪と鎖は購入しておきますのでそう怒らないでください」
「……」
「貴女に怒られると抱きたくなる」
「……」
「私がナビする先に行きませんか?」
「……バスジャックみたいな感じ?」
「そんなところです」
「……」
「ここは駐車料金がかかる割には居心地が悪い」
「どこ行くの」
「お楽しみに」
「……」
七海と再会して何分経ったかわからないけど、帰る気は微塵もないらしい。諦めてエンジンをかけて、少し躊躇ったあとアクセルを踏んだ。ラジオもかけない車内で七海の静かなナビだけが響いていた。
▽△▽△
七海が案内しようとしていたのはおそらく私の家だった。来た道とは違う方向から案内されたせいで、途中まで気付かなかった。気付いたところでカメラのあるコンビニに停まるわけにもいかず、新参者が田舎の脇道に路駐してご近所さんに怪しまれるわけにもいかず。悩んだ結果最寄り駅に車を停めた。終電はまだある。
前を向いたままの七海は帰る気配がない。じとりと見つめるけれど、ただ足を組まれて終わった。
「帰って」
「こんなところにナビしていないんですが……」
「帰って」
「ナビする先に行きたかっただけですよ」
「帰って」
「……」
「……明日は、朝早いから」
ハッと目を合わせてきた七海から今度は私が目を逸らす。
「いつなら来てもいいですか」
「呪詛師に会える日なんてない」
「次の休みはいつですか」
「言ったら来るでしょ」
「言わなくても行きますよ」
「やめて」
「明日また来ます」
「やめて」