乱凪砂はまだ恋を知らない。1「…私、茨に恋をしてみたいと思った」
「…はい?」
まだ残暑の残る夏の日。
エステレでの仕事終わり、車を回すと言ったのに「近いから、少し寄り道しよう」と言われ、照りつける日差しの中並んで歩いていた。
道中、「暑いね」「そうですね」などと他愛無い会話をするだけで、単なる時間の無駄だと思った。
それに、これほど暑い中歩くのは、自分はともかく閣下には堪えるのではないだろうか。
暑いと言いながらも、閣下はケロッとした様子だが、これでまた空調の効いた室内に戻るのだ。
気温差で体調を崩さないかと気を揉んでいると、なんの前置きも無く、もう唐突に、冒頭の発言が降ってきた。
暑さで頭がやられてしまったのかと、つい思ってしまった。
「恋をしてみたい」、たしかにそう聞こえたが。
それ以上閣下が何も言うことはなく、
「…着いたね」
少し呆けていたのか、閣下のその言葉でハッとした。
見るといつの間にかESビル前の横断歩道。
なんて返したらいいのか。いつものように頭が働かなかったのは、茹だる暑さの中歩かされたせいだと思うことにした。
数日後。
Adamで撮影の仕事が朝からあった。
インタビューなど喋ることはないので台本は特に用意していないが、ある程度の指示は振った。
女性誌に載るということで、肌の露出度が高めの要望が、カメラマンから飛ぶ。
もちろん事前に先方と打ち合わせはしているので、どこまでやっていいのか…こちらからも伝えているはずだが。
(…あのカメラマン、少し調子に乗ってないか?)
閣下の撮影をずっと見ているが、打ち合わせ以上の露出が求められている気がする。
あの素晴らしい、まるで美術品のような肉体美を収めたいのは分かる。
分かるが、必要以上に見せてしまうと価値が薄れるというもの。
写真の精査は自分も関わるが…あまりこちらの意に沿わぬことをされるのは、ましてや自分でなく閣下にされるのは、気分が良くない。
…それに。
「…すごい、あれで本当に年下…?」
「やっぱり、かっこいい…」
近くにいる女性スタッフが、閣下を見ながら小声で話すのがさっきから聞こえる。
(男性スタッフも、なんだか見惚れてる気がしますが…)
しかし、ええ、ええ。この視線は見ていて気持ちがいい、鼻が高い。
そうでしょう、俺の育てた乱凪砂です。
最強で最高を謳う兵器ならば、どこに向けても何をもってしても、確実な威力がなければ。
「………ふ、」
…それを受けたのは、自分も例外ではないのだけれど。
内心、うんうんと頷きながら。
未だ小さくだがはしゃいだり、見惚れるスタッフたちに、愉悦感とは別の感情が渦巻く。
…ああ。やはりこんなもの、とても醜い。
貴方には、必要ありませんよ。閣下。
「閣下、本日の業務はこれにて終了です!長時間の撮影、たいへんお疲れ様でした!」
全ての日程が終了し、楽屋に戻って閣下に敬礼をする。
撮影のために解かれた髪をふわりと靡かせ、閣下がこちらを振り向く。
「…うん。茨も、お疲れ様」
「自分にも労いのお言葉をいただけるとは、有り難き幸せ!1日の疲れも吹き飛ぶというものです!」
そばのソファに閣下が腰掛ける。
置かれていたミネラルウォーターのペットボトルを取り、未開封だった栓を開け一口飲み下した。
その、何でもないただの飲食行為すら美しくて見惚れてしまうほど。
喉が上下するさまは、何故か官能的に思えた。
「…茨?」
ドア前に立ち尽くしていると、声がかかる。
ふ、とすぐ笑顔を作り、閣下を見遣る。
「ああ、すみません。閣下は水を飲む仕草すら美しいなと、見惚れてしまっていた次第です」
「…本当?」
「もちろん!この様子がCMにでも起用されてしまったら、テレビの前で悶死してしまう人が続出するでしょうな!」
言いながら衣装を着替えるために動く。
ジャケットを脱ぎ、ハンガーに掛けたところで、背後に気配を感じた。
振り向く前に、その手を掴まれた。
「…茨に意識してもらえるの、嬉しいよ」
「…閣下?」
肩越しに振り返る。
思いの外近かった顔に、不意にドクン、と大きく胸が脈打つ。
…顔、いいな。
あまりの近さに、語彙が消える。
悟られないよう、ハンガーを戻す。
「…今日のカメラマンさんは、随分と要望が多かったよね」
「ああ、そうですね。打ち合わせ以上のことをしているところもあったので、止めようとも思いましたが…結果的には良いものが撮れたので、特別咎めるつもりもありませんが」
「…途中、どうしても分からないことを言われて。どうしたらいいのか、茨に聞きたいことがあった」
「え?どれですか?どの要望もそつなくこなしていましたし…そんな様子はお見受けしませんでしたけれど」
表情の変化や感情の起伏が、出会った頃より豊かになったとはいえ。
それは少々付き合いの長い自分でも、やっと気付けるほどの微々たるものであったりもする。
仕事であれば尚更、彼は自分の台本や指示通りに動いてくれるから、より分かりにくかった。
カメラマンの要望に困った様子も何も無かったので、閣下自体は特に問題無いものだと思っていたが。
「すぐに仰っていただければ、お答えしましたのに。そばに控えてはいるので、いつでも…」
「…ううん。これは、あの場だとしっかりと答えをもらえないと思ったから…終わるまで言わなかった」
「なるほど。では、今がその時なのですかな?随分と距離が近いのが気になりますが、これも必要なことなのでしょう」
掴まれていた手をそっと退かし、くるりと閣下の方を向く。
「それで、自分に聞きたいこととは?」
撮影時の、表情のつくりかた?
カメラマンやスタッフとの対話?
それとも全く関係ないことだろうか。
何を言われてもいいよう、話し始めるその時までに考えを巡らせる。
ゆっくりと、その形の良い唇が開かれる。
「…私、恋を知りたい」
紡がれた言葉は、思いもよらぬものだった。
「…カメラマンさんが、恋した時のような、甘い表情で。って一度言ってね。どんな表情なのか、考えたけど自分の中で明確な答えは出せなかった。…NGはなかったから、その時の私は彼にとっての正解を表せられたのだろうけど」
「………」
あのカメラマン、もう二度と仕事を依頼しない。
そう思いながら、閣下の言葉を聞いているとなんだか頭が痛くなってきた。
…恋、恋。恋ね。
「…愛はたくさんもらっているし、私も与えている。けれど、恋はまだ、知らない。愛を説くことはあっても、恋については…本での知識しかないから、次にまた同じことを要求されて、求められたものを出せるか分からない」
そこでふ、と。
自分と視線が絡む。
ああ、この目は。逃がしてもらえない。
「…だから、」
「なるほど!いやあ、閣下の知的好奇心はとどまるところを知りませんな!飽くなき探究心も同様、尊敬に値します。さすがであります!」
続けようとした言葉を遮る。
一瞬閣下は驚きで目を見開いたが、それもすぐに戻った。
自分は構わずに続けた。
「しかし閣下、アイドルに恋愛はご法度。ましてや我らAdamは、そういった事柄には演出としても断ることの多い内容です。今回は、それを言われた時自分が運悪く聞いていなかったのでしょうな…。本来良しとしませんので、聞いていればすぐ止めたのですが」
「……そうだね」
「なので、知りたいと仰るならば映画、ドラマなどの映像関連、または書籍での知識で十分足りると、自分は思うのですが。知識を得れば、閣下はそこから全て紐解き、理解を得るはずです」
つらつらと言葉を並べる。
これは建前でもなく、彼の持つポテンシャルをそのまま伝えているだけ。
閣下の知的欲求の吸収力や知識量には、自分も感服している。
たまに暴走もするが、もはや慣れたことだ。
「…そうだけど、そうじゃなくて。こういうのは理屈じゃない。実際経験してみないと、本物かどうか、分からないでしょう?」
しかし、やけに不服そうな表情の閣下が食い下がる。
…嫌な予感が、その時した。
「ですが、恋とは本来、しようと思ってするものではないのでは?ましてやそんな、興味本位でするものではないかと」
自分も大して知りませんが。
内心呟く。
「…なら。茨は恋、したことある?」
「あっはっは!自分に聞きますか、それ?」
次いだ言葉に、ピクリと眉が動いた気がする。
…随分と意地の悪い質問だ。本人は、全く悪気も何もないのだろうけど。
「幼い頃は軍事施設に放り込まれ、出てきたら会社の経営やらなんやらを学んだり、勉学にも励みました。アイドルとして世に出てからは、こうして事務所の副所長という立場もある、自分が!恋などというものにうつつを抜かす暇があったとでも?」
しかし少し腹が立ったので、語気を強めて捲し立てた。
「こういったことは、殿下のほうが詳しいでしょう。ジュンでも分かると思います。この件に関しては、自分ではお役に立てないかと!力不足でたいへん申し訳ございません。更に、閣下の関心に水を差すようで悪いですが!恋をする自分を想像なんてすると、舌を噛み切って死にたくなりますな!」
全てを言い終え閣下を見ると、少し落胆した様子…だろうか、で髪をかき上げる。
お望み通りの答えでなかったことは承知しているが、そんな顔をされるとは思わなかった。
少し動きが固まってしまった。
「…まあ、茨ならそう言うだろうとは、予想していた」
呟かれたあと、その一瞬に、ぐっと詰め寄られ。
その瞳で、捉えられる。
「…だからね、私。茨に恋をしてみたい」
「…は?」
「…茨ならきっと、いつものように私に正しい答えをくれるはずだから」
時が止まった気がした。
またあの、茹だる暑さの中歩いた日の繰り返しをしているのだろうか。
聞き間違いだったかもしれないと、蓋をしたあの日。
けど、今は、目の前にこの人が居て。
自分から目を逸らすことなく、捉えていて。
ひどく真面目な口調で伝えてくる。
「…え、あの……すいません。恐れながら申し上げますが。今、なんと?もう一度言っていただいても?」
止めた思考は動き出した。
理解しようとする、それより前に精一杯吐いた言葉は、少し辿々しかった。
それを聞いた閣下は、屈託なく微笑んだ。
そしてまた、同じ台詞を吐く。
「…茨に恋をしたい。私を君に、恋させてほしい」
「…………」
思わず頭を抱えた。
何を言ってるんだ?この人は。
そんな笑顔で言うことか?
たかが撮影の際の要求で、カメラマンの何の気ない一言で。
それをここまで持ってきて、それをさせろと言う。
…よりによって、自分に。
「…茨?返事を聞かせて欲しいんだけど…」
す、っと手を取られる。
まるで子供がほしいおもちゃを強請るような顔で、ただ純粋な興味として、無垢に感情を向ける。
…こっちの気も知らないで。
いや、知らせるつもりは毛頭ないから、閣下は何も悪くはないのだが。
「…な、るほど。承知しました!閣下のお望みとあらばこの七種茨、そのお役目を謹んで承ります!」
空いてる手で敬礼、のポーズを取る。
自分の返事に閣下は気を良くしたのか、「ありがとう」と微笑み、離れた。
そして止まっていた着替えや片付けを済ませ、閣下は星奏館に、自分は事務所へと別れた。
人気が無く、すっかり照明も落ちた事務所に入る。
ちょうどいい、1人になりたかった。
考える時間が欲しかった。
そばの応接室へ行き、ドアに背を預けずるずると床にへたりこんだ。
くしゃ、と髪をかく。
だってこんなの、あんまりだ。
−−最強で最高を謳う兵器ならば、どこに向けても何をもってしても、確実な威力がなければ。
それが誇り。彼を育てた自分の自信だった。
しかし自分は、それを見つけてしまった時すでに…。
避けることも、目をそらすことも出来ないまま、釘付けになり。
そして一発で、撃ち落とされてしまったのだから。
「なんで、『俺』…なんだよ。どうして…こんな。…知らないとはいえ、酷すぎる仕打ちですね…」
…恋なんて知らない。正解なんて教えられるわけがない。
似たような感情は知っている。
それは今、自分が持っているものだからだ。
閣下に対して膨れる、ビジネスパートナー、主人と下僕、ユニットの仲間、それ以外の、それ以上の関係を求める自分のこころ。
しかし、自分のこんな思いを恋と呼ぶには、あまりに醜い。
とても、暗いから。
「…あのひとには、知ってほしくないなあ…」
そう呟くと同時、じんわりと、目頭が熱くなるのを感じた。
涙なんて、出たんだな。
ああ、なんだかくるしい。
膝を抱え、俺はそこに暫く蹲った。