巽→ひめ「おや、HiMERUさん。おはようございます」
「………おはようございます」
───失敗した。
今日は撮影の仕事が朝早くからあり、そのために支度を済ませて向かう準備をしていた。
早朝4時頃。流石の寮内も未だ無人で、この静寂が心地よいな、と思う。
そこでふと、珈琲を一杯飲むくらいの時間はあるなと思い立ち、寮のキッチンで一杯分作り共有ルームへやってきた…のが、間違いだった。
こんな朝から(いや、いつでも嫌だが)、風早巽と出会してしまったから。
ソファに掛けていた風早巽が、こちらに気付いて振り返り挨拶を向ける。
それを無視するわけにもいかず、返す。
「随分早いんですな」
「…これから、撮影の仕事なので」
ちらりと見えた手の中に聖書があった。
そういえば、毎朝礼拝か何かをしていると言っていたような…。
それが今回たまたま共有ルームでなんて、タイミングの悪い。
足早に離れたテーブル席へと向かい、カップを置き椅子を引いた。
「そうですか。朝早くから大変でしょうが、何事もなく終わることを祈っていますよ」
「結構です」
にこやかに、穏やかに。
…そうやって、聖人面しやがって。
苛立ちで短く返し、風早巽に背を向けて椅子に座る。
まだ湯気のたつ珈琲を少し冷まし、一口。
口内に広がる苦味を味わい、仕事の内容を改めて確認しておこうとスマホを取り出し貰った資料を開く。
(このあと駅へ向かって、そこでスタッフと合流…。今日の撮影のコンセプトは…)
頭の中で内容を反芻しそれに集中していた。
「───HiMERUさん」
「………、…っ!?」
どれくらい経ったか。
そこで不意にまた風早巽がこちらを呼ぶ声がしたから、無視を決め込もうとした…のに。
逸らした視界の端で青磁色の髪が揺れたから、驚いてそちらを見てしまった。
「すみません、驚かせてしまったようですな」
「……はぁ。さっきから何なんですか?邪魔をされたくないのですが」
いつの間にか風早巽が向かいの席に座っていた。
(びっ…くりした。気配が無さすぎるだろ)
足音も何も無かったから心底驚いたが、それを出さないよう大袈裟に溜息を吐いて、またスマホへ目線を落とす。
変に蔑ろにすれば余計に話に付き合わされかねない…聞きたくもないが尋ねる。
というより、承諾もなく相席するか?普通。
「何度か呼んだんですが、随分集中されていたようでしてな。断りなく相席するのもどうかとは思いましたが」
「…………」
自分の集中力の良さを褒めたいところだが、そのせいで今こうして相席していると思うと、何とも言えない。
「この時間に誰かに会うことがあまりないもので…中でもHiMERUさんとお会いすることは本当に稀ですから。嬉しかったので、ついたくさん話しかけてしまいました」
──ああもう、本当に苛立つ。
聞くんじゃなかったと、後悔。
そんな風に言えば気がひけるとでも思っているのだろうか。
お前と会わないのは、こっちが会わないようにしているからだというのに。
今日だってほんの偶然なのに、それを嬉しいだなんだと。
「…そうですか」
何を言われても絆されはしない。
短く返して、珈琲をさっさと飲み終え席を立つ。
「もうお時間ですか?楽しい時間は、本当にあっという間に終わってしまいますね」
「こちらは仕事までの短いこの時間を邪魔されていただけなのですが?」
嫌味の一つでも言ってやる。
まあ、そんなことしてもこいつには何の意味も無いが。
それが余計に腹が立つ。
少しは怒ってみせればいい。そうすれば、こちらも付け入る隙があるというのに。
「ふふ、すみません。…ああ、そうだHiMERUさん。少々、手を貸していただけませんか」
「……まだ何かあるんですか」
「お時間は取らせません」
──もう取ってるんだよ。
つい出そうになった言葉をなんとか飲み下し、風早巽を見遣る。
にこやかに、こちらが手を差し出すのを待っている。小さく両手を開いて。
(…めんどくせぇ!)
「はぁ…、さっさと済ませてくださいよ」
「ありがとうございます」
片手を差し出してやれば、恭しく礼をされたあと、壊れ物でも触るかのようにそっと手を取られた。
その仕種がなんだか背筋を粟立たせる。
一体何をする気───……
「HiMERUさんに、……の愛と、祝福を」
「はっ……!?」
何かを呟かれた、と同時、手の甲へ唇を落とされる。
(今。こいつは何をした?)
その感触が伝わり、瞬間得体の知れない感覚がゾワッと体を駆け巡って、勢いよく手を引いた。
何事かと奴を見れば、またあのにこやかな笑顔。
「ではいってらっしゃい、HiMERUさん…♪」
「〜〜っ、二度と顔を見せるな!!」
こちらの反応など意にも介さない様子で、小さく手を振られた。
我慢ならず、思わずそんな捨て台詞を吐いて、逃げるようにその場を後にしてしまった。
(クソッ、本っ当にムカつくな!!)
「───俺も大概、意気地のない男ですな」
初めて触れた美しい手と、唇に残る感触。
すり、と一度唇を撫でて彼が去っていった方を見遣る。
「…少しは意識してもらえたでしょうか」
きっと有り得ないのだろうけれど。
それでも、と欲張ってしまうのは、俺が───…