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「こんなことを言うのも、ものすごく今更ですけど。でもまあ一応聞いておきますけど。…誘拐は人としてどうなんです?大叔父さん」
「うるせぇ。誘拐じゃねえよ」
人気のない闇夜の街角に紛れ、黒塗りのベンツが一台停まっている。
とある郊外の街にあるには、昼間であったら人々の話題の中心となるほどに似つかわしく無い光景だった。
そこに、見た目からも上等で肌触りも柔らかそうな布に包んだ"何か"を大事そうに抱えつつ、後部座席に乗り込んだスーツ姿の男が一人。
もう一人との物騒な会話もそこそこ、男はその"何か"を丁寧に、今にも壊れてしまいそうなものであるかのように静かに座席に座らせた。
一連の動作をルームミラー越しに見ていた運転席に座る利発的そうな青年が、冗談とも本気の気掛かりとも言える発言で男にじろりと睨まれた。
ドアを閉めた後、男に顎で車を出すように促された青年はハンドルを握り、エンジンをかけて音もなく走り出させる。
人の気配はおろか、街灯もほとんど無く見通しの悪い暗い路地を縫うように走っていく青年の運転は、運転手であるなら上出来の腕だ。
「向かうのは屋敷でいいんでしたよね?」
「……ああ」
声をかければ男から返答はあるが、その男の視線は今や青年に向くことはない。
性格を表すかのような固い腕組みをし、眉間に皺を寄せて唇も固く結ぶ。
普段よりいくらか機嫌は悪くないのか。
時折男の顔が街灯に照らされた時、青年にはそう見えた気がする。しかし毎日男の顔を見ているわけではないし、元々表情が豊かではない男の変化など、この暗がりでは青年には正確に分かるはずもなかった。
いや、分かっても何をするということもないけれど。
青年は再び後部座席へと、ルームミラー越しに目線を遣る。
今度は男にでは無く、男の隣に座る───
「───"それ"、死んでるんですか?」
と、さしたものを一瞥した時、掛けられていた布がゆっくりと捲れた。
その下に見えたのは、穏やかな寝息を立てて眠りこける華奢で美しく繊細な造りの、"おそらく"人間の少年だった。
男の腕にすっぽりと収まってしまう体躯と、あどけない寝顔。黒のケープに黒のシャツの統一された色により、幼さというよりはやや大人びた印象を与えている。
片側に緩く流して青のリボンで結われた白銀の髪は、この暗闇でもその美しさは損なわれてはいなかった。月明かりを拾ってきらきらと反射するそれは、絹糸のように滑らかで指通りは良いのだろうと見るだけで分かるほどだ。
青年が"おそらく"と判断したのは、こうして何処からか連れ出されて車に乗せられたり、曲がり角や道の凹凸で揺れても眉ひとつ動かさないからだった。
───まるで、人形にしか見えない。
「チッ。…口の利き方に気を付けろ」
青年の言葉に、男は不機嫌を舌打ちでより分かりやすく露わにした。
白銀の輝きから顔をあげた男が青年をまた睨んだ。
視線だけで人を殺せそうな男の鋭さを感じ、目が合っても居ないのに殺気にも似たそれに青年の背筋がぞわりと粟立つ。散々向けられてきているものとはいえ、本気の視線は未だ慣れない。
が、男は大袈裟な溜息を吐いたあと、座席に背を預けその鋭い眼は伏せられた。
「御大の忘れ形見だと言わなかったか?」
「……ああ。そういえば、言っていたような気がしますねぇ…」
「言っただろ。これは、この方は───もう他に何もない、あのお方が遺して下さった唯一の……」
愛おしいものでも思い出すかのように。
伏せた瞼の奥で何を思うのか、先程の鋭さはすっかり潜められ、男の口調がほんの少し柔らかくなっていた。話す人物が男にとってどんな存在だったのか、話し方から察せられる。
それとは対照的に、青年はこの話題にも眠る少年にも最早興味が失せたと言わんばかりに素っ気ない返事をして、ハンドルを握る手に少し力を込めた。
「だから何よりも丁重に扱えよ、茨の坊や。そして、死んでも全力で守れ」
交差点に差し掛かり一度停めた車と同じように、男の言葉に青年──茨の思考も、一瞬停止した。
男の話を聞く意思を無くしていた茨の生返事は、了承の意として受け取られる。
「はあ、そうですね……え、今なんと?俺が?守る?」
「二度も言わせんな、俺は忙しい。お前は言われたことだけをやってろ」
「嘘でしょ。俺も今忙しいんですけど…めんどくさ…」
茨からしてみれば、当然了承の返事などではない。
男に任されている仕事の量を思い出して眉を顰め、かわりに文句を返せば運転席のシートを男から何度か強く蹴りつけられる。
「あ、ちょっ、シートが汚れるでしょう!蹴らないでください!あぶなっ、マジでやめて!」
「フン。口の減らねえクソガキが」
「貴方の教育の賜物ですけどね!」
*
それから半年後。
「……いばら。ねえ、茨…?」
「はい閣下、何か御用で?今は手が離せないので、ちょっと待っててくださいね〜」
「…じゃあ先に、これに、サイン…して」
「アイ・アイ!かしこまりました!何ですか、また新しい遊びですか〜?」
「…遊びじゃ、ない。私は、ほんき」
「おっと、失礼致しました!それでこちらは、えぇっとなになに…"こんいんとどけ"──なるほど、婚姻届!こっ、婚姻届ぇ!?」
『いいか。指一本でも手ェ出したりしたら、その瞬間に殺すぞ』
『は?本気で言ってます、それ?有り得ないでしょ』
「……けっこん、しよう。いばら、私のおよめさんになってほしい、です」
長閑な昼下がり。我が主人から手書きの婚姻届とともにプロポーズを賜った。
遊びではないとして、本当に本気だと言うのなら。
本気の度合いが違いすぎませんか。
大叔父さんの警告が、もう一度脳裏に叩きつけられる。
居ないはずのあの人の視線を感じて俺は震えた。
後ろを振り返ったら居そうで怖い。
それより今は、閣下はどこでこんな物があると知ったのかを確かめよう。
日本様式の婚姻届には、ご丁寧に名前の書く欄だけは一切の乱れのない綺麗な直線が引かれ、こちらのいと尊き御方のお名前が記入されている。
そのほかの部分は殆ど割愛されていたのは、重要なのが名前記入の部分だと解釈したのかもしれない。
「…………えぇっと……」
一通り閣下自作の婚姻届に目を通してみたが、どういう意図か当然何も分からない。これが困惑せずにいられるだろうか。
婚姻届と閣下とを交互に見遣ると、大人しく俺からの返事を待っていた。
普段なら閣下の興味ある遊びや話、そのほか何でも相手をするようにと命じられているので付き合うけれど、今回は毛色が違う。
今までにも何をして欲しい、あれが欲しいとかはあったけれど、この方向性を求められたのは初めてだった。とにかく、衝撃的というか。
どうせ読んだ本にあった内容に興味を抱いただけで、本気のお遊びってことなんでしょう!きっとそうだ!
「閣下、こちらですが…」
「……私、茨のことが、すき。だいすき、だよ。ずっと、いっしょにいるには…家族になる、でしょう?」
「え?あ、まあ、一概にそうとは言えないんですが…そういうことも、ありますねぇ?」
なんか話が通じなさそうな気配しかないんですが。閣下が夢中で話すのに俺は有耶無耶に返す。
こんなこと、大叔父さんが教えたとは思えない。
大叔父さんは本当稀に、年に一回でも帰ってくるかどうか分からない御多忙な身。帰ってきたとしても自室や応接室にこもりきりで、閣下とはおろか俺ともろくに会話すらしない。
だからこそ閣下のお世話や護衛を俺に任せているのであって、屋敷の管理も俺がしているし俺の知らないうちに帰ってくることはまずない。連絡のない来客は基本お断りだから。
閣下と俺しか居ないこの屋敷で、俺を突破して閣下が他人から情報を吹き込まれるってことも、有り得ない。
「その…閣下。一体どこでそのような知識を?」
「……?本。読んだよ?」
ああ、やっぱりそうですよね。目眩がした。本当にそういう本が置かれていたのか。
書庫の手入れはするが、自分が必要とする物だけを読むことが多くてあの蔵書の全てに目を通したわけでもない。
日頃から閣下は書庫にこもって読書に耽っている。このくらいの子供が読むには分厚く文字も細かいものから、何故あるのか絵本の類を読んでいたり。
たいへんな読書家である閣下が書庫で俺の知らない本を探し当て、読むことなど予想していなかったと言わないが。
完全に、全てを把握していなかった俺の落ち目だ。
つまり、この一連の言動は閣下が自ら学び得た知識からのものであり。
俺を嫁にしたいとか、結婚したいとか家族になりたいとかそんなことを言ってきたのも、閣下自身の意思であるということで。
…自我を持ち始めたばかりの子供がやるにしても、色々段階もなにもをすっ飛ばしすぎているな。
「……だめ、なの?私と、けっこん…家族…。茨は、いや?」
あれこれ考えていて放置してしまっていたら、きゅっと服の裾を握られ眉を下げて縋るような瞳が向けられる。
小さな頭をこてん、と傾けて俺を見上げてくる閣下の破壊力たるや。
「……茨…?」
やめてください。何故か分からないけど胸がちくちくと痛む。
居た堪れなくて顔をそらすと、服の裾が引っ張られた。横目で見る。依然として眼差しは俺に注がれたままだ。
俺は必死に考えた。普段の倍以上の速度で思考を巡らせた。
下手なことを言って、もしそのことが大叔父さんの耳に入ってしまったらまずいからだ。
閣下の様子などは定期的に報告しているが、閣下自身から大叔父さんにあれこれと話されでもしたら、信じられるのは間違いなく俺の言葉ではない。
ならば俺が取るべき最善策は───…
「閣下のお気持ちは大変嬉しく、嫌ということは万に一つもありません。しかし、閣下は書物からのみでまだきちんとした知識を全ては得ていらっしゃらないご様子。そこで僭越ながら、自分が一つ一つ丁寧にご説明をさせていただきたいのですが…如何でしょうか?」
そっと手に手を添え、膝をついて閣下に目線を合わせる。
閣下の知識は間違ってはいないが、明確に正しいとも言えない。とりあえずは、人の色々な営みから教えるのが良いだろう。
なにぶん世間から隔離させてしまっているせいで、得られる知識は本か俺からしかないわけだし。
こうして様々なことを教えるのも、俺のお役目のひとつ。
だから今すぐにでもきちんと知識を与えた上で閣下に婚姻だ嫁だのの考えを改めてもらうことが最善であり自分の身を守るためにもなるという寸法!
これはとても完璧な作戦です!
「……じゃあ、今日は、ずっといっしょ?」
「ええ!」
「……ごはんも、いっしょ?」
「もちろんです!」
「……おふろも、ねるのも?ずっと、手をつないでていいの?」
「はい!…ん?」
「……うん、わかった。今日は、それでいい。いい…です」
「あれ?」
今、なんと?今日は、だって?
にっこり。それ以上の有無を言わさぬ満面の笑顔が咲く。
ようやく笑えることも出来るようになった子供の、無邪気な笑顔だ。
そう。とてもとても無邪気で、美しい花が咲いた───
「……ふふ。いばら、いばら。大好き、私の…茨」
閣下が俺の首に腕を回してしっかりと抱き着き、めいっぱいすり寄ってきて離れない。
愛らしいと思えるはずの閣下の行動が、今は俺を縛り付けるような苦しささえ感じてしまった。
───もはや、俺が逃れる道など無い。
「あ、はは…。ありがとうございま〜す…」
俺、今度大叔父さんに会ったら、殺されるかもしれないなぁ…。
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