Dream a Little Dream of Meプロローグ
久しぶりに舞台の上で味わう高揚感。
そして鳴り止まない拍手。
前方を見渡せばスターライトオーケストラのコンサートミストレスの朝日奈唯が満足気な表情で掲げていた弓を下ろすところであった。
「あいつとこの夢を一緒に見続けてぇな……」
思わず出てしまった言葉。
隣にいる刑部斉士に聞こえたのだろうか。最初は驚いたかのように、次の瞬間はふっと面白がるように自分を見つめてくるのがわかる。
発足したばかりのスターライトオーケストラは正規メンバーの人数も少なく、また音楽科がある星奏学院に事務局があるとはいえここのメンバーのレベルも高いとは言えない。
だけど、桐ケ谷晃はスターライトオーケストラに可能性を感じずにはいられなかった。そして、その中心にいる彼女がこれからどのような光を放つのかも。
もっともっと彼女を近くで見続け、そして音色で支えたい。
それは自然と出てきた感情であり、決意であった。
もっともそれがこれから約10ヶ月もの間、桐ケ谷を苦しめる展開になるとは思わず、そのときはライトに照らされた唯の表情を見続けるのであった。
1.恋が動き出す横浜
「たりぃ。せっかくの夏休みだっつーのに、なんでお前とふたりで『勉強会』しなきゃいけねぇんだ」
「仕方ないだろ。そもそも大学に行きたいと言ったのは晃、お前の方じゃないのか?」
「まぁそうだけどよ……」
7月下旬、夏休みに入って数日目。
菩提樹寮のリビングでは桐ケ谷晃が刑部斉士に見守られるようにといえば聞こえはいいが実際は監視されるかのように英語の参考書とにらめっこをしていた。
ウロボロスでのライブを終えたあとに思ったのはスターライトオーケストラに入って世界のてっぺんを取る。そのこと。
そして、できれば少しでも長い間スターライトオーケストラでトランペットを奏でることでコンサートミストレスである朝日奈唯を支えたいということ。
そのために気づいたのはスタオケに長くいるために大学進学をすることがベストな選択であること。
そう判断したものの、日頃の素行が見事成績にも反映されお世辞にも評定はいいとは言えなかった。
そのため、総合型や推薦で合格を勝ち取るのはほぼ無理なことであった。
しかし理数科目が得意なことが幸いし、かなり厳しいものの英語の得点さえ伸ばせば一般入試で合格の兆しが見えてきた。
そこで夏休みは英語漬けの生活を送ることにした。
すると同じく大学受験を控えている刑部も一緒に勉強することになり、必然的に桐ケ谷は刑部の監視下に置かれることになったのである。
「ま、でも、お前が相手でまだよかったぜ」
溜め息を吐きながら桐ケ谷は窓から外を見る。
英語は留年しない程度の成績に修めることしか考えていなかったため、正直なところ教師の説明は右から左へと抜けていき何がわからないのかがわからないレベルだ。
「そうだな、この間は成宮が文法教えていたくらいだからな」
頭を抱えながら英語のテキストとにらめっこする桐ケ谷の姿は下級生から見て面白い姿だったのだろうか。
長文読解に苦戦している桐ケ谷に助け船を出してきたのはなんと九条朔夜であった。
ただ2年生ながら彼は語学が得意だということでまだギリギリ納得していたが、文法に至っては1年生の成宮がでしゃばってきた。
『文法は早く終えた方がいいと思って、既に終わらせていますから』
しれっとそう話す1年生は身長だけ見ると学年の壁を感じさせないが、身体の大きさだけではなく頭の中身も学年の壁を感じさせないらしい。
文法なんてことは気にせず英語に触れてきた桐ケ谷が苦戦する様子を見て成宮が文法を教えてくれたが、こちらが悔しくなるほどわかりやすい内容であった。
ただ下級生からも助け船を出されている状況であったが少しずつ英語が身についているらしい。
偏差値にするとわずかな上昇であったが、英語に対する苦手意識は前ほどではなくなっていた。
するとリビングに誰かが入ってくる気配がした。
「ここいいですか?」
そう話し掛けてきたのは朝日奈唯だった。
手にしてあるのは参考書らしきものとノート、そしてペンケース。
暑いからだろうか、いつもは下ろしている髪の毛をポニーテールにまとめている。
そんな様子を新鮮に感じながら桐ケ谷は頷く。
「桐ケ谷さん、最近勉強頑張っていますよね。私も一緒に頑張りたいなと思って」
そう言いながらにっこりと微笑んでくる。
その様子に一瞬ドキリとしつつ周りのものにバレないように平静を装う。
しかし刑部の前ではそれは無駄な努力だったらしい。
「コンミス、ちょうどいい。代わってくれないか」
そう言いながら彼は席を外す。
「え、私がですか?」
唯はキョトンとしながらも特にイヤな顔をすることなく刑部が座っていた椅子に腰かける。
「ああ、よろしく頼むよ。彼は気が抜けるとすぐに集中力が落ちるようだからな」
それだけを残して刑部は去っていく。去り際にニヤリと笑ったのは気のせいだろうか。
その余裕ある仕草に苛立ちながらも彼の気遣いに感謝したい部分もある。
セミの鳴き声が聞こえる中、ふたりはそれぞれ勉強に励むこととなった。
「桐ケ谷さん、大学進学考えているんですか?」
「ん、まあな」
唯がそう話し掛けてきたのは10分ほど経ってから。
彼女が開いているのは数学の問題集のようだ。彼女は数学が他の科目ほど得意ではなく、同級生の九条朔夜に泣きついていたのを思い出す。
「スタオケ続けたいしよ」
「そうなんですね。嬉しいな」
そうはにかむ彼女のことを思わずかわいいと思ってしまう。
ああ、そうだ。ウロボロスでの演奏会を終えたあとに高揚した表情で弓を高く掲げた彼女の姿を見てからずっと惹かれている。
もしかするとその前から気になっていたかもしれないが、自分の心の中に彼女がいるとわかったのはそのときであった。
浅はかな考えではあるが、大学生になればスタオケを続けることができ、そして彼女と一緒に夢を追い続けることができる。
本当は女手ひとつで育ててくれた母親のことを考え、少しでも早くに社会に出ようと思っていた。そしてそのために手に職をつけられる工業高校を選んだ。だけど、唯との出会いで人生設計が変わった。
幸い母親は進学への理解を示していた。あとは自分が合格を勝ち取るだけ。
「ところでこの問題わからないのか?」
「そうなんです」
先ほどから唯のシャープペンシルが動いていないことが気になり問いかける。
すると彼女は素直に頷いた。
「ここの公式はだな、と」
数学が得意な自分にとってはお手のものだが、確かに数学が得意ではない彼女は苦戦してもおかしくない。そのような難易度であった。
唯は隣でうん、うんと何回か頷いている。
その様子はペットのようでかわいいと思ってしまう。
そして、制汗スプレーなのだろうか、彼女からほんのりと爽やかなミントの香りが漂ってくる。
それに気を取られていると上の空になりそうになる。
だけど、唯はそのことに気がついていないらしい。
「桐ケ谷さんの教え方わかりやすいです!」
目をキラキラ輝かせながらそう話す。
その眩しい表情に加え、彼女の役に立てたことが嬉しく、目を細めてしまう。
そして次の問題を解き始めた唯であるが、すっと自然にひとつの言葉を紡ぎ出す。
「やっぱり桐ケ谷さんのこと好きだな……」
あまりに自然に出てきた言葉。
だけど、その言葉の持つ威力に桐ケ谷の手は止まる。
「へっ!?」
窓から聞こえるセミの声がこれほど大きく感じたときはあっただろうか。
思わず顔を上げたところ、唯は顔を真っ赤にしているのがわかった。
「今の、聞こえていましたか?」
しどろもどろになる様子は普段コンミスとして毅然とみんなをまとめる姿とは別人のようだった。
こんな姿も見せるのか…… 内心そう思いつつ、照れている唯の様子を眺めてしまう。
本当は口に出すつもりはなかったのだろう。実際彼女は目を泳がせている。
だけど、桐ケ谷は聞いてしまった。彼女が自分への好意を伝える言葉を。
彼女が言う「好き」がどのような感情からくるものなのか正直わからない。
そして、彼女が少しでも冷静になるとはぐらかされかねない。
そこで桐ケ谷は唯の腕を掴む。
「今のどういう意味だ」
本気のあまりもしかすると彼女を怖がらせるような目つきになっているかもしれない。だけど、桐ケ谷は真剣だった。
驚きのあまりなのだろうか。自分を真っ直ぐ見つめ何も言葉を発することがない唯を見ていると申し訳ない気持ちになる。
小さく縮こまりかねない彼女の気持ちを守るため、桐ケ谷もひとつの決意を固める。
「俺も朝日奈さん、あんたのことが好きだぜ。これ、どういう意味かわかるよな?」
唯は信じられないといったように目を丸くするが、だんだんその瞳から緊張感が抜けていくのがわかる。
「嬉しい……」
そう言ったかと思うと唯の瞳から涙が出てくる。
この涙は歓喜から来るものだろう。自分の言葉の真意を読み取り、そして彼女なりの返事ということなのだろう。
そう確信し、桐ケ谷はそっと尋ねる。
「その、なんというか、いいか?」
何がとは聞かなかった。
しかし、唯は察したのだろう。こっくりと頷く。
そして彼女の華奢な肩を掴みそっと顔を近づけたそのとき、ぎしっという足音が耳に入ってきた。
そして、次の瞬間リビングに誰かが入ってきた。
それを察してふたりは離れ、そして何事もなかったかのようにシャープペンシルを手にし、それぞれが問題集と向き合う。ただし顔は真っ赤に染めながら。
「朝日奈、ここにいたのか」
そこに立っていたのは疾風だった。
彼は何も気づいていないのだろうか。いつも通りの真っ直ぐな瞳で唯たちを見つめてくる。
「一ノ瀬先生からの伝言だ。どうやら宮崎での依頼演奏を受けたらしい。詳細を話したいから木蓮館に来てほしいとのことだ」
それだけを伝えると疾風は足早に去っていった。
「竜崎くんに気づかれなくてよかった」
彼女の方を向くと唯はほっとした表情をしていた。おそらく自分も同じような表情をしているのだろう。
ふたりは顔を見合せ、そっと微笑み合う。
本当はくちびるを重ね合わせたかったけど、こういうのはもっときちんとした方がいいのかもしれない。
「しゃーねぇ、木蓮館に行くとしますか」
そう言いながら立ち上がると、唯も立ち上がる。
横を歩いている唯の手をそっと掴むと握り返された。
隣を見ると唯が小さくうつむいていて、そんな様子は普段の強気なコンミスとは打って変わってかわいらしく、そして自分が守るべき大切な女性であることに気がつく。
その手の温かさが優しく、そしてそこから幸せな気持ちが流れ込むのを感じながらふたりは歩き始めた。
2.沖縄の海で約束した「ご褒美」
「なかなかうまくいかねぇもんだな……」
沖縄の青い空の下で桐ケ谷はそう呟いた。
夏休みはじめにつきあいだした唯とはそろそろ2ヶ月の交際となる。
唯の周りには常にスタオケのメンバーがいるため、なかなかふたりっきりになることは難しいが、それでも宮崎を離れる最後の日に植物園でデートし、そっとキスを交わした。
そのくちびるの柔らかさと、彼女から漏れてくる吐息。それらは他のところも味わいたい、そしてそのとき彼女はどんな甘い声をもらすのだろう。思わずそんな想像を掻き立てるような瞬間でもあった。
ただ彼女を見ているとスタオケを続けたい、そのために大学に合格したい、そんなことよりももっと欲望が大きくなる自分を感じる。
最初は全体練習をしているときに邪心が走るのを感じていたが、だんだん勉強しているときも彼女のことばかり考えている自分に気がついた。
ー少し頭を冷やそう。
そう考え、彼女への接触を減らし、そしてキスより深い関係も望まない。そう密かに決めていた。
……決めていたのであるが。
「せっかくの沖縄、あいつと満喫してぇよな……」
同級生のほとんどは受験モードへと切り替わり、こんな風に悠長に趣味にかまけているものは少数派もいいところだろう。
桐ケ谷もその自覚はある。
刑部は他のメンバーの見えないところで勉強しているようだが、そんな様子は微塵も見せない。そんなところが彼らしいと思う。
一方桐ケ谷の方はと言えば、柄にも似合わずキャリーケースの中に英語の参考書を忍ばせている。
だけど、刑部のように勉強する素振りをみせないのではなく、本当に勉強しないでいた。
春から夏にかけて英語の偏差値は右肩上がりであったが、このままでは下降一直線だろう。そんなことが予想された。
ただ沖縄ならではの空の青さ、そして茨城や横浜では見られない透明な海。これらを唯とふたりっきりで堪能したいのもまた事実であった。
すると、桐ケ谷の耳にひとつの声が聞こえてきた。
「桐ケ谷さん!」
見れば唯が駆け寄ってくるのが見えた。
目が合うと彼女の表情がぱあっと明るくなるのがわかる。
あらためてそんなところに自分の彼女だということを実感する。
「一緒に海水浴でも行きませんか?」
もちろんふたりで。
そうつけ足しながら呟いてくる。
いつも眩しく感じる彼女であるが、今日はいつも以上にその瞳が輝いているような気がする。
予期せぬ誘いに胸の高まりを感じながら桐ケ谷は頷く。
歩いてすぐのところに海水浴場があるが、ふたりが海水浴に行くことがわかればついてくるものもいるだろう。
意図的に邪魔してきそうなもの、悪気なく一緒に来ようとするもの、さまざまなメンバーの顔を思い浮かべながらふたりは他の者たちに気づかれないように少し離れた海水浴場に行くことにした。
「どうですか?」
探るように聞いているが表情からは自信すら垣間見える。
そして彼女の眩しい姿を見ると桐ケ谷は逸る気持ちを抑えるのがやっとであった。
ビキニ姿にパレオを巻いており、端的に言えば大人っぽさと可愛さが同居していた。
そして、今まで見たことない肌の部分が露出しており、そして胸の形がなんとなくわかったり胸の谷間が見える様子に興奮が冷めやまない。
「他の男にこんな姿見せるなよ」
「ええ、もちろんです!」
唯は自信満々にそう話すが、どこまで本気なのかわからない。
まだ海水浴シーズンではあるが、9月の平日ということで人はほとんどいない。
でも、せっかくだしもっとふたりきりで……
そう考えているのは唯も同じだったのだろう。
ふたりで手をつなぎながら探索しているとちょうど人目につきにくい場所があり、そこに腰掛けることにした。
「せっかく海水浴来たのに何もしなくていいのか?」
「ええ、桐ケ谷さんに水着を見せたかったからこれでいいのです。あと桐ケ谷さん、受験勉強頑張っているみたいだから息抜きになればと思って」
「そっか……」
唯の態度は無意識なのか、それとも計算の上でそう話しているのかわからない。
それを聞いて好き後ろめたい気持ちになる。
確かに以前より机に向かう時間は長くなっているが、おそらく他の者たちと比べると圧倒的に短いだろう。
ただ、唯が自分を思う気持ちは純粋に嬉しい。
「最近、桐ケ谷さんとふたりきりになれなかったからふたりきりになれて嬉しいです」
確かに勉強が忙しいことを口実に彼女との接触をなるべく避けていた。
そうでもしないと彼女のことばかり考え、そしていつか行動に移してしまいそうだった。
すると、唯は思いもしないことを言ってきた。
「キスしていいですか?」
「ああ…… って、ああ!?」
最初深いことを考えずに同意したが、その意味がわかり桐ケ谷は動揺する。
唯はコンミスでのみんなを導く態度とは打って変わり恋愛となれば桐ケ谷に任せている部分もあった。
そんは彼女が自分からキスしようとしてきたことに正直驚きを隠せない。しかし桐ケ谷は自分から動くことはできなかった。
おそるおそる近づいてきたくちびるを重ねると震えていることがわかる。
「あの……」
くちびるを重ねるだけのものであったが、随分長いことキスしていたような気がする。ふたりの体温が混ざりあい、ようやくくちびるは離れた。
「その… なんというか… 大学に合格したら『ご褒美』あげますね」
そういいながら唯は自分から抱きついてきた。
その真意を尋ねようとしたが、唯は顔を真っ赤にしてうつむいた。
おそらく自分が脳に浮かんだ欲望と一致している…はず。
そして、その身体の温かさを感じ取っていると、自分の身体と彼女の胸が触れ合っていることに気がつく。
その膨らみはおそらく見ているよりも大きく、そして柔らかく感じる。
自分の身体のある一点に身体中の血が集まり、そして形を変えているのがわかる。
「あ……」
唯にそれを悟られまいとしていたが、彼女も気がついたらしい。
さらに顔を真っ赤にしていた。
……宣言しただけでこの態度だ。実際に「その時」が来たら、どんな反応を見せちまうんだ。
今は脳内で想像することしか許されない。
だけど、大学に合格すればこの目で、この耳で、彼女の反応を確かめることができる。
それを思うと目の前の世界が急に輝いて見えるようになった。
我ながら現金だと思いつつ、その日以降、桐ケ谷は勉強に集中する様子を見せるようになった。
3.京都で広がる選択肢
「まるで教科書に出てくる世界そのものだよな……」
スターライトオーケストラに舞い込んできた依頼演奏。今回は勘違いなどではなく、本当にスターライトオーケストラに来てほしいという依頼だった。
そろそろ受験勉強に本腰を入れないといけない時期であるが、家にいてもはかどらない。それに学校ではそのようなキャラではない。そのため、スタオケの一員として京都に来ることにした。
唯と一緒に過ごしたいとか、そもそも大学受験自体も目的は唯と過ごすことであるし、短絡的な考えになるが大学に合格すれば唯から「ご褒美」がもらえるというのも大きかった。
歴史を感じさせる建物を眺めながら桐ケ谷は唯の到着をいまかいまかと待ち構えていた。
京都には今日のお昼頃に到着したが、今日は自由行動ということで好きに過ごすことになった。
唯と過ごそうとしたのもつかの間、「香坂さんに誘われて」とのことで、桐ケ谷は不本意ながら(?)刑部や三上、赤羽といった金管楽器のメンバーで行動をともにすることとなった。
「京都にたこ焼きはないんだな」
「ああ、関東に住む我々から見れば京都も大阪も一括りに関西としがちだが、歴史がある分、それぞれの地域の文化も違う。我々にしてみれば、栃木や千葉と一緒にされるようなものだろう」
「なるほどね……」
唯を待つ間暇潰しにつき合ってくれている刑部と他愛もない話をする。
せっかく関西来たからたこ焼きを食べよう!
そう思って散策したものの、それらしき店は見つからなかったのであるが、刑部からの説明を受けて納得した。
すると遠目から唯と香坂が帰ってくるのが見えた。
「おーい、コンミスー」
恋人に対する態度ではなく、子ども同士のやり取りのようであるが、思わず大声を出しながら手を振ってしまう。
唯も桐ケ谷の声に気がついたのかブンブンと手を振ってくれる。
そのとき胸が揺れていることに気づきドキリとしながらも、そのことは気づかない振りをする。
すると唯の手に京都に来たときにはなかったものがあることに気がつく。
「なんだそれは」
思わず尋ねると唯の隣にいる香坂が意味ありげに話しかけてくる。
「桐ケ谷くん大変よ。ライバルの登場だわ」
「ライバルだと!?」
慌てる桐ケ谷の様子を見て慌てたのだろう。
唯が香坂の隣でぶんぶん首を横に振る。
「クラリネットを吹く高校生がいたから気になって。すると風が吹いてきて思わずくしゃみをしちゃったら、その人が持っていたストールを掛けてくれたの」
どこまでが本当かわからない。
だけど、唯の瞳からは「誤解しないで」というメッセージを感じられた。
その相手がどういう人物かわからないためその者の真意はわからないが、少なくとも唯の方に深い意味がないことはわかった。
「ほー、なかなかいい布だが……」
隣にいる刑部も気になったらしい。唯の傍へ近づき、その布から手がかりをつかもうとしていた。
「なんか幽玄といえばいいのかな、すごく素敵な雰囲気だったし、なんといってもしっかりとした技術力を持つクラリネット奏者だったの。せめてどこの誰かわかればスタオケに勧誘できたのに!」
最後のひと言を聞いて桐ケ谷は安心する。そして彼女らしさに笑ってしまう。
話を聞いていると確かに雰囲気ある人物のようであるが、唯が気にしているのは演奏家としての実力だろう。
彼女の気持ちが他の者に移ったわけではないことに安心しつつ、桐ケ谷は唯とともにそのクラリネット奏者の手がかりを探ることにした。
「朝日奈さんからうかがいました。お付き合いされている方がいらっしゃるとは知らずに失礼いたしました」
唯にストールを掛けてきた高校生-御門浮葉と出会ったのはその数日後のことであった。
御門と出会ったときに彼の名を呼び掛ける者がいたことであっさりと手がかりは見つかった。
どうやら本人とは直接関係ない深い事情がいろいろあるらしいが、それに関しては自分たちも偉そうなことは言えない。
ただ、今までスタオケに入ったメンバーとは明らかに違う育ちの良さや演奏技術。これらは目を惹くところがあった。
桐ケ谷たちがいるのは表通りから1本入ったところにある喫茶店。
先ほど即興でライブを行ったが、確かに技術力は高いのだろう。勢いで走りがちな演奏に合わせてくれた。
そして、演奏会までのわずかな縁とはいえ、自己紹介を兼ねてお茶をすることにした。
一堂が入ったのは御門が勧めてくれた喫茶店。チェーン店ではなく個人経営の店でクラシック音楽が流れている。時には店内のピアノで生演奏が聴けるらしい。自分とは好みは違うが悪くはない。
「桐ケ谷さんは同じ学年でいらっしゃるのですね。受験勉強もある中、京都までお越しになるのは大変でしょうに」
御門がゆったりと話す様子を聞きながら、京都に来るまでに刑部から聞いたことを思い出す。
『京都の人間のいう言葉は真に受けてはいけない』。
この御門の台詞も嫌味なのかもしれない。
だけど、腹の探り合いをするのは性に合わない。深いことを考えず桐ケ谷は率直に話すことにした。
「まあ、私立理系志望だから英語さえなんとかなればどっか引っ掛かるし、その英語も少し前までモチベーション上がんなかったけど、最近は目標もできたしな」
その目標がなんであるか目の前の冗談が通じなそうな御門とその隣にいる鷲上には知るよしもないであろう。
「そうですか。古文でしたら得意ですのでお役に立てたかと思いますが、残念です」
「古文ね…… あいにく俺、私立理系志望なんでね。国立なら共テに役立つんだけどよぉ……」
そう話ながら桐ケ谷は雷が光るかのようにひとつの可能性が開けたことに気がつく。
「面白い。常陽大学なら自宅から通えるし、何と言っても学費が浮く」
刑部が自分の言葉を代弁するかのように話す。
そう、大学進学を考えたときにネックとなったのはいくつもあった。
まず水戸の自宅から通うことができる大学に限りがあった。ましてや理工系学部がある大学となれば地元の国立大しかなく、文系科目が苦手な桐ケ谷は選択肢から外していた。
「お前の理数科目の偏差値があれば、共通テストの文系科目も挽回できるかもしれない。その可能性に掛けるのも選択肢としてありかと思う」
「ああ」
自分の中で先ほど開いた可能性。それが刑部の言葉で一気に開くのを感じる。
春の時点では地元の国立大・常陽大学は志願していると口にするのも憚られるくらい偏差値も高く、また共通テストを受ける必要もあったため、早々と諦めていた。
しかし、春からの努力に加え、沖縄での唯の言葉に触発されたため、当初では想像つかないくらい英語の偏差値は上がった。
あとは国語と公民さえなんとかすればゴールは見えるだろう。
水戸を出るとなれば一人暮らしするにしろ寮生活を送るにせよお金が掛かる。ある程度バイトで補うつもりであるが、スタオケの活動もあるためやはり自分ひとりでは難しいこともあり、そうなれば母親の負担を増やすことになりかねない。
だけど、常陽大学であれば自宅から通うことが出来るし、時々は母親が経営する美容室の手伝いであったり家のこともできる。
スタオケの活動は今ほど出来なくなるかもしれないが、週末のみ参加し、他の日はリモートというのもありかもしれない。
桐ケ谷はぼんやりしていた目標が明確になった気がする。
「よっしゃあ! 常陽大学工学部合格に向けて頑張るとしますか」
「最近、あんたと顔を突き合わせてばかりだな」
「そうですね。せっかく京都にいらしたのに、朝日奈さんと別行動とは残念ですね」
桐ケ谷と浮葉がいるのは京都の繁華街にあるファーストフード店。インバウンドの影響もあってか、まわりは外国人ばかりであった。
勉強するには落ち着かない環境のようにも思えるが、多少騒がしい方が声を出しても気にならないため、これくらいがむしろちょうどよかった。
御門は約束通りスターライトオーケストラが京都にいる間、古文を教えてくれることになった。
補習でも古文を習ったが、こうして古文の問題に出てきがちな京都という街にいると、時代が変わっても人間というのは案外変わらないということをあらためて感じる。
「でもまあ、あいつと一緒に過ごす時間を長くするための大学受験だからな」
「他の方からうかがいました。スターライトオーケストラを続けるために大学へ行かれるのだと」
誰がそれを話したのだろう。
一見取っつきにくい御門であるし、本人もまわりに馴染もうとはしていないが、メンバーはそれなりに気にかけているらしい。
同じ年の南は自分よりあとに参加してきたメンバーがいることが嬉しいのか、よく御門に話しかけている。また刑部も同級生のためか会話しているのを見たことがある。
あるいは御門ではなく、彼とともにいることが多い鷲上は2年生であるが、彼の同級生である赤羽たちが面白がって自分の状況を鷲上に話し、さらにそれを御門に伝えている。そんな可能性すらある。
「ま、不純な動機だけどな。もともとおふくろ楽にさせるために早く就職したいと思っていたんだ。工業高校行ったのも手に職つけたいという気持ちからだったけど、スタオケにいられるの22歳までと年齢制限があるしな。あいつと一緒にいられる時間もだけど、好きなことをできるのもあとわずかだと思えばな…… あと、おふくろも高卒より大学行った方が人生の選択肢増えるだろって」
そう。スターライトオーケストラは高校卒業後も続けることはできるが、国際コンクール出場の規定に則り22歳までの学生しか参加できないという決まりとなっている。
社会人となればその時点で参加は不可能となる。
「年齢制限ですか……」
桐ケ谷の言葉に何か思うことがあったのだろうか。
御門が小さく呟く。
「いえ。ただ、お母さまのことを思う桐ケ谷さんの気持ちも、そして桐ケ谷さんのことを思われるお母さまの気持ちも、どちらも尊い。そう思います」
それだけを話す。
そして、何事もなかったかのようにまた古文のテキストに視線を移した。
御門との古文の勉強会も終わり、桐ケ谷はホテルに戻ることにする。
ホテルは地下鉄の駅に行く途中にあるとのことで御門が案内してくれる。
不思議な組み合わせだと思いながら桐ケ谷は風が冷たくなりつつある四条河原町を歩く。
京都という街は歴史や文学の舞台となった場所が至るところにあり、少し歩く度に御門が「ここは…」と伝えてくる。
以前の自分であれば疎ましく思うところであったが、唯との出会いや御門の教えの影響もあってか、「ふーん」と思いながら聞いている自分もいることに気がつく。
「そういえばこの間たこ焼き作らせて済まなかったな」
少し前に銀河たちの呼び掛けで始めたたこ焼きパーティー。
「千葉に東京ネズミーランドがあるくらいだ。京都でたこパしても許されるだろ」
「先生、それ御門さん聞いたら激怒しますよ」
「そもそもこれとそれ全然違うじゃん」
そんな軽い気持ちで始めたのであるが、御門もこちら側の予想に反してたこパの開催自体に怒る様子はなかった。
あえて言えば自分が煽ったところ、普段人のために動くこともしないような御門が見事な手さばきでたこ焼きを作ったのは予想外であったが。
「いえ、気にしておりませんので」
「京都人の気にしていないをそのまま受け取るほど単純でもないが、まあこれ以上考えないようにしてやるよ」
「確かに慣れぬことではございましたが、楽しかったのは本当です」
その言葉を受けて隣を歩く御門の横顔を見つめようとするが、意外にも彼もこちら側を向いていた。男性の自分でもドキリとしてしまう雰囲気ある美貌であるが、その瞳はいつものように憂いを帯びたものではなく、まるで少年が遊んでいるときのような純真さすら見えてきた。
「人間は決められた枠の中を生きていくしかないのかもしれない。そう思っていましたが……」
そう話す御門の瞳の中にはほんのわずかに決意と希望。それらが見て取れる。そんな気がした。
それ以上の言葉を待つが御門はそれ以上話さない。
するといつの間にか目的地に着いたらしい。
「ほら、朝日奈さんがいらっしゃいますよ」
言われてみれば目の前には見覚えあるホテルのドアがあり、その向こうには唯の姿も見えた。
彼女は銀河と打ち合わせしているようであるが、桐ケ谷の姿に気がつくと表情をぱーっと明るくさせて小さく手を振ってきた。
「では、演奏会、よろしくお願いします」
御門は玄関越しに唯たちに会釈をし、そして気品ある足取りで去っていく。
今までとは違う御門の先ほどの様子。何かに区切りがついたような、新たな決意を固めたようなそんな表情であった。
「桐ケ谷さん、御門さんとの勉強会どうでしたか!?」
ホテルに入ると唯が真っ先に駆け寄ってきた。
表面上は自分の成績向上を気にかけているようであるが、彼女が心の奥底で気にしているのはおそらく御門がスターライトオーケストラに加入するか。それなのだろう。
もちろん彼がスタオケに加入すれば演奏の厚みが増す。
一方スタオケは事情あって演奏の機会を失っているものたちが参加するには絶好の団体であるが、彼はそんな事情を汲み取った上で熱望されている団体があることを桐ケ谷も知っていた。わざわざ彼がスタオケに入るメリットがあるようには思えなかった。
「そうだな。注文がタッチパネル方式で御門が戸惑っていた様子が面白かったぜ」
「それ、見たかったです」
「じゃ、今度行ってみるとするか」
先ほどの御門の様子からするとおそらく唯が望んでいる未来を迎えることはない。
だけど、大事な演奏会を前にそれを伝える必要はない。
唯の髪をくちゃと撫でながら桐ケ谷は明日の予定を確認した。
4.横浜でつかんだ未来、そして……
「ついにこの日がやって来ましたね……」
「ああ」
桐ケ谷は唯とともに菩提樹寮の自室にいた。
本来菩提樹寮は男子棟と女子棟の行き来は禁止であるが、春休みでほとんど人がいないため唯はこっそり忍び込んできた。
それに何といっても今日は桐ケ谷にとって大切な1日であるため、これくらいのことは許されたい。そんな気持ちも内心あった。
京都で志望校を決めてからいろいろあった。
桐ケ谷の予想通り、御門はスタオケには入らなかった。
おそらく桐ケ谷以外にもそれを想定していたものは多かったであろう。
唯も当初はそのつもりであったのだろうが、京都でのライブや演奏会の反応の大きさ、そして御門も出会った頃に比べてスタオケに馴染んできたからだろうか。当初に比べて御門のスタオケ入りの可能性は高くなったように感じる。そのため京都を出発しようとしたその日、鷲上のみがやって来て、御門がやって来ないのを見て今にも泣き崩れそうになっていた。
さすがにこの状態でバスを走らせるわけにはいかない。
銀河の判断で出発を2時間遅らせ、その間に桐ケ谷は以前御門と過ごしたファーストフード店に唯を連れていった。
こんな形で彼女との約束を果たすのは胸が痛んだが、喧騒の中にいることで気持ちは徐々に切り替わったらしい。
「本選、勝ち抜きましょうね!」
小さいがその声には決意が秘められていた。
そしてつけ足す。
「そして、桐ケ谷さんは受験も頑張ってくださいね。私との約束もありますし……」
涙を浮かべながらも小さく笑う。こんなときに自分との「約束」を持ち出す彼女が痛々しい。
見ているとつらいが、今はおそらく耐えるときなのだろう。唯も自分も。
唯がドリンクに口をつけるのを見て安心した桐ケ谷はポテトを口にし始めた。
机の上に置いてあるノートパソコンをネットにつなぎ、10時の合格発表に備える。
スタオケも本選を勝ち抜き、そろそろ世界大会に向けて準備を始めることが決まっている。
自分が春からもスタオケにいる権利が与えられるか。それはこれからの結果に掛かっていた。
ネットに接続すると最初に出てきたニュースサイトで黒橡が新曲を出すという記事が出てきたことに気がつく。
唯の顔をおそるおそる見る。
「御門さん、元気にしているのですね」
唯もその記事に気がついたらしい。その声は確かにいつもの唯ほどの明るさはないが、必要以上に避けている様子もなかった。
黒橡-御門浮葉とグランツ交響楽団のファゴット奏者・堂本大我によるユニット。デビューとともに世間の話題をかっさらい、今では彼らを見ない日はないといっても過言ではなかった。
もちろんリーガルレコードのプロモーションがうまいのもあるが、本人たちの素質によるところも大きいのだろう。
「アイドルとして成功するには18歳が最後のチャンス。賢い選択だね」
黒橡デビューのニュースが流れたとき弓原凛がそんなことを呟いていたのを思い出す。
彼が話していた年齢制限。もしかするとそれはこのことを指していたのかもしれない。ふとそんなことを思う。
そして、桐ケ谷は御門の言葉を思い出す。
『人間は決められた枠の中を生きていくしかないのかもしれない。そう思っていましたが……』
自分も、御門も、そしておそらく他のスタオケのメンバーたちも、きっとスターライトオーケストラや唯という存在に出会うまでは自分の人生に限界を見出だしていたのかもしれない。
だけど、スタオケや唯との出会いによって新しい一歩を踏み出すことができたのだろう。
ただ、御門は必要なものを満たすのがスタオケよりもグランツの方が適切だった。ただそれだけ。
「桐ケ谷さん、そろそろ10時ですよ」
隣から唯の声が聞こえ、時計を見てみると9時58分を差していた。
そろそろだと思い合格発表の画面にログインする。
思えばこの隣にいるかわいくてカッコいい存在が自分の大学進学のモチベーションであり、そして人生を変えたといっても過言ではない存在であった。
そしてスマホの時計が10時を示したと同時にアクセスする。
画面が重たいがそれでも切り替わる。そして現れた文字は……
『合格』
その2文字が画面に表示され、桐ケ谷は天に昇るような、すべての努力が報われるようなそんな気持ちになった。
プライド捨てて朔夜に勉強を教わった日も、成宮が面白がって英文法を教えにきたことも、夏の暑い日に刑部と勉強していたら唯と恋人同士になったことも、そして季節が変わり行く京都で御門に古文を教えてもらったことも。
それらの日々がこの合格の二文字となって返ってきた。
「桐ケ谷さん、おめでとうございます!」
唯が抱きつきながら喜んでくれる。
その瞳には涙が溢れているような気もしたが、京都で見た悲嘆の涙でもなく、本選を勝ち抜いた勝利の涙でもなく、また違う種類のものであった。
「ああ、ありがとな……」
そう言いながら桐ケ谷は彼女のくちびるに口づける。
そのくちびるがいつもより熱を持っているのは気のせいだろうか。
沖縄の海での唯の言葉がふとよみがえる。この半年近くもの間モチベーションとなっていたひとつのこと。
彼女と目が合うと恥ずかしそうに瞳を潤ませながらひとつの言葉を口にする。
「約束通り『ご褒美』あげますね」
そう、それは桐ケ谷が半年もの間待ち望んでいたもの。
大卒の方が人生の選択肢が増えるとか、スタオケで4年間一緒に過ごす権利が得られるといったもっともらしい理由もあったが、それより何より彼女のこの魅惑的な身体を開き、自分で埋めつくしたかった。できるだけ考えないようにしてきたが、今はそのことを叶えられるのが何より嬉しかった。
いてもたってもいられず桐ケ谷は唯のくちびるにもう一度キスをする。
そしてはやる気持ちを抑えながら彼女をベッドに押し倒す。
「きゃっ」
その言葉を聞いて桐ケ谷は少し冷静になるが、唯は決してこわがっているようではなかった。
「私も本当は我慢していたんです」
かわいいこと言う唯の言葉に甘えて、そっと胸に手を触れる。セーターで隠れているが、沖縄の海で見たようにそこそこのボリューム感を感じてドキリとする。
「こわい気持ちがないと言えば嘘になりますが、やっぱり好きな人とこういうことしたいです。
それに沖縄の海で桐ケ谷さんのが当たって男の人なんだなって……」
今、自分の下半身はその沖縄の海のときのように、あるいはそれ以上の状態になっているだろう。
もう「受験」というストッパーがなくなっていたが、感情に身を任せると彼女を傷つけかねない。
できるだけ自分を抑えながら彼女のセーターをめくる。
キャミソールの下に見えてくる胸の谷間に目を奪われているとふんわりと匂いが漂ってくる。
シャンプーの匂いだろうか。普段嗅がないような匂いに気持ちが高まり、彼女のことが愛しいという気持ちと早くひとつになりたいという感情が混ざっていることに気がつく。
「かわいいあんた見ていたら抑えられねぇ。それにこういうことするの初めてだし、すごく痛くするかもしれねぇ……」
「桐ケ谷さんだからいいですよ。それに私、強いですから!」
そのとき瞳の奥に見えた彼女の強さ。
快楽も、そして痛みも、今まで知らなかった未知の世界をともに乗り越えようとする。そんな彼女の度胸、それらを感じ取る。
『万が一のことがあるといけないからね』
少し前に刑部からもらっていた小さな箱。
全くどこまでお見通しだったんだよ。
悔しく思いつつも、桐ケ谷は机の中から箱を取り出す。
唯は恥ずかしのか、それとも決意を固めているのか両腕で自分の顔を隠している。
これから彼女に与えるのは痛み。
だけど、それが少しでも甘美な思い出になることを祈りながら桐ケ谷は唯の腕をそっと解き、頬にひとつのキスを落とす。
そしてめくるめくときを過ごすため、またそっと一枚彼女の肌から布を取り払った。