天女の忘れ物「学院内の掃除が終わったと思えば、今度はスタオケバスの掃除か」
「仕方ないですよ。このバスも全国各地を飛び回っているうちに、余計なものも溜め込んでしまいましたから。ま、俺は先輩と過ごす時間が長くなるから歓迎ですけど」
「成宮、お前、よくもまあ恥ずかしげもなくそんなこと言えるな」
二手に分かれて星奏学院内の大掃除とアンサンブル発表を終えたのは先程のこと。
打ち上げを兼ねて菩提樹寮でジュースとお菓子で乾杯していたところ、篠森が現れた。
スターライトオーケストラが使っているバスもあちこち汚れており、また不要品もあるかのように見受けられるので、今年中に掃除をするようにとの言葉を添えて。
それで掃除をはじめたところ、冒頭の高校生男子三人によるボヤキへとつながったのである。
朔夜・成宮・疾風の言葉を聞いて、スタオケの活動に参加してから起こったさまざまな出来事を思い出す。
9ヶ月という長いとは言えないが、短いとも言えない時間。
そして、各地で出会ったバスに乗車することになった新たな仲間たち。
掃除をしていくうちに、唯はスタオケのメンバーたちと過ごしてきた時間、そして築き上げた想い出のひとつひとつが込み上げるのを感じる。
「それにしても、一ノ瀬先生のカップラーメン、すごいことになってますね」
「ああ、『万が一のことがあったとき、みんなの腹を空かすわけにはいかないだろ』とか話していたが……」
「それにしても賞味期限が今月のものも多いですよね」
「まだ数日あるから、みんなで夜食として食べるのはどうだろうか?」
相変わらず男子たちは手を動かしながらも、さまざまなものを発掘している。
それを微笑ましく思いながら唯も衣装ケースの蓋を開ける。
すると、一番上にあったものを見て唯はしばし動きを止める。
「これは……」
茶色のジャケットとパンツ、そしてベストの組み合わせによる衣装はそれぞれの体形に合わせて用意されており、またベストは各自の好みによって色合いや模様が異なっている。
そして、唯が手にしているのは紛れもなく……
「浮葉さまの…です……ね」
いつの間にやってきたのだろう。唯の後ろは源一郎と仁科のふたりがやってきていた。
源一郎が唯の隣で煮え切らない様子で呟いた。
「やっぱりそうですよね……」
一度は袖を通したものの、彼が選んだのはスタオケの衣装ではなく、グランツの衣装。
もしかすると今後も浮葉がこれを着ることはないのかもしれない。
だとすれば、処分してしまうのもありだろう。
衣装を手にしながら深刻な眼差しをする唯に対し、仁科がなるほど、と言いながら呟く。
「これが噂の紅葉の君ね」
「仁科さん」
異を唱えようとする唯に対し、仁科は普段のほがらかな様子ではなく、真摯な眼差しで唯を見つめてくる。
「わかっているよ。紅葉の君というのは、彼が君をそう呼んだことだってね」
そう。秋の、紅葉の季節の京都で出会い、浮葉は自分をそう呼んできた。
そのあとにスタオケに加入した仁科と笹塚はどこまで京都での出来事を知っているのだろう。唯から問いただすことはできない。
だけど、この様子からすると、誰かかれかからある程度のことは聞いているのかもしれない。
そして、そのうちの何人かは自分ですらわからない感情に気がついているのかもしれない。
このままだとスタオケバスの中に重い空気が漂ってしまう。
そんなときであった。
「仁科、お前、ちょっと着てみろ」
どこから現れたのか、銀河が何食わぬ顔でそう提案してくる。
「えっ?」
「お前の衣装も作ったけど、予備はあったことに越したことはないだろ。ちょうどお前と体格も似ているし、いいだろ」
軽い調子で言っているが、それが空気を和ませるものだということに唯は気がついている。
銀河もやはり、浮葉がスタオケに加入しなかったことについては、覚悟していたとはいえ、ある種のダメージを受けているに思えたから。
「うーん…… では、試しに着てみますね」
銀河の意図を掴んだのだろう。
仁科はそういい試着をすることにし、そのため他の者たちは一旦バスから外に出る。
そして、数分後。
「試着してみましたが、細さが全然違いますね」
軽く首を横に振りながら仁科がバスから出てきた。
手にしているのは浮葉の衣装。
銀河はそれを受け取りながらひとり言のように呟く。
「そっか。かといって、ポラリスのふたりは背丈が合わないしな」
ブツブツ言いながら思案する銀河に対し、先ほどから無言を貫いていた成宮がそっと口を開く。
「それ、やっぱり御門さんのための衣装だと思います」
唯は信じられない思いで成宮を見つめる。
そんな彼女に対し、成宮は優しい、だけど何かを問うような視線を向けてくる。
「先輩、1度は貸してもらった着物を返してしまったのですよね?」
頷きながら思い出す。
初めて京都で出会ったとき、風の冷たさを感じていた自分に浮葉は着物を掛けてくれた。
それがあまりに高価なもので申し訳なさから返すことになったのだが、そこから浮葉との間に縁が生まれたと言っても過言ではない。
「その着物、御門さんにとって天女の羽衣だったのかもしれません。だから、彼は飛び立ってしまった」
その言葉を聞いて納得するものがある。
浮葉が着物を纏っている様子が何かに似ていると思っていたが、ようやく理解した。まるで天女が羽衣を纏っている様子を彷彿させるのだ。
掴まえられるかと思ったのに、あと一歩のところで行ってしまった。そんなところまでそっくりだと思う。
「だけど、彼は正式な団員ではないとはいえ、一度はスターライトオーケストラの一員としてこの衣装に腕を通しました。もしかすると演奏家としての彼にとっての羽衣はグランツの衣装ではなく、スタオケのこの演奏会服かもしれません。
だから先輩が、いえ俺たちが演奏を続けていれば御門さんとも巡り合えると思うのです」
彼にしては珍しく熱く語る様子に唯は見とれてしまう。
いつもどこか余裕を感じさせる言動なのに。
彼自身もそのことに気がついたのだろうか、自嘲気味に小さく笑う。
「って、俺、何、御門さんに塩を送っているのでしょうね」
悔しいな~
わざとなのだろうか。成宮が軽い調子でそう呟くのは、唯の心を少しでも軽くしようとしているためなのかもしれない。
それはわかっているが、一方で事実として浮葉はグランツに加入してしまった。
しかも、スタオケがグランツに勝ったにも関わらずスタオケに加入する素振りも今のところ見られない。
「それは……」
唯の心の声を読んだかのように、源一郎が何かを言おうとする。
しかし、彼も唯を説得するようなことが思い浮かばないのか、声は宙に舞ってしまう。
それにしても。
浮葉の動向に関しては噂程度には入ってくるが、京都での演奏会以来、本人とは一度も会っていない。
彼がグランツを選び続け、そしてスタオケを拒み続けることの真意を知ることはない。
だけど。
「クリーニング出しておこうかな」
今は浮葉がスタオケのメンバーとして一緒に演奏する未来が来るとは思えない。
だけど、どこで運命の転換期があるのかわからないのも事実。
自分たちにできるのは、そのときのために浮葉がスタオケに加入するという扉を閉ざさないこと。
唯の声色が明るくなったことに気づいたのだろう。
仁科と成宮が交互に口を開く。
「じゃあ、一緒に行こうか、朝日奈さん」
「仁科さん、クリーニング屋さんの場所、知らないじゃないですか。俺が一緒に行きますよ。先輩」
「じゃ、みんなで行こうか!」
「あ、先輩。その言い方ずるいですよ」
落ち込んでいるときに、そう気づかってくれるスタオケの仲間たち。
優しくて、温かくて、居心地がいい。
だからこそ彼はこの団体に入ることを望まなかったのかもしれないけど、つい望んでしまう。来年はこのわちゃわちゃしたメンバーにもう一人加わればいい、と。
そう思いながら唯はクリーニング屋さんに向けて歩き出す。
暮れの夕陽が優しく照らしていた。