車と、そして残り香と「ありがとうございました。またお越しくださいませ」
朝日奈唯は楽器店から立ち去りながらその言葉を投げ掛けられる。
予備の弦がなくなったからここに来た、というのはあくまでも口実。
本来なら横浜にある行きつけの店で買えば問題はない。
電車に乗り、ここ、目黒のお店にわざわざやってきたのはほんのわずかな期待があるから。
そう、御門浮葉に会えるのではないかという。
日はすっかり傾き、マンションや住宅に橙色の光を反射している様子が美しい。
以前、浮葉にばったり遭遇したのは、このカフェのあたり。目の錯覚かと思ったが、見知った、そして会いたくて止まない後ろ姿がそこにはあった。
しかし、あのとき出逢えたのはバレンタインの妖精のおかげだったのかもしれないが、今日はそのようなものはない。
それに彼は高校を卒業し、それと同時にグランツ交響楽団から去ったとも聞いている。
だから彼がここに来ることはない。
そうわかってはいても、わずかな奇跡を信じてつい彷徨ってしまう。
昼と夜の狭間の時はあっという間に過ぎ去る。
橙色の空はやがて群青色に染まり、そしてあたりが漆黒に染められていくが街灯が闇に染まるのを防ぐかのように照らし出す。
「さすがにばったり会えるなんて何回も起こるわけないか……」
唯の中に諦めの気持ちが芽生え、唯は駅に向かって歩き出す。
この辺りは住宅街の中を小さな道が入り組んでおり、車が通るとは思えないような細い道でもかなりのスピードを出して唯の横を通りすぎていく。
慣れない街のため、行き先を間違えないようにスマホで地図を確認していると、聞き覚えのある声が耳に入る。
「どちらに行かれるのですか? よろしければお送りしましょうか?」
幻聴かと思った。
彼に会いたい気持ちが自分に幻を生み出したのではないかと思った。
だけど、スマホから目を離し顔を上げると、そこには見知った、そして会いたいと願っていた人の姿があった。
「浮…葉…さん……!?」
そこにいたのは確かに唯が御門浮葉と記憶する人物に顔の作りはまったく同じだった。
だけど、目の前の人物は唯が記憶するものとまるで雰囲気が違った。
大胆なデザインの服を着ており、薬指と小指にはインパクトのある指輪、暗いためはっきりとはわからないが耳にもピアスかイヤリングをしている。しかもかなり大きめの。
そして何よりも驚いたのは車、それも左ハンドルの運転席に座っているということ。
その車も塗装からしてその辺の車とは異なっており、高級車であることは夜目にもはっきりとわかった。
「驚かせて申し訳ございません」
車窓から顔を出し浮葉はそう話しかけてくる。
咄嗟のことで驚いたが、彼に会いたかったのは事実。むしろ彼に会いたくてここまで来たくらいだ。
「乗っていかれますか? あるいは私の車では嫌だとか……?」
探るように浮葉はこちらを向いてくる。
出会ったときからずっとそう。引きずり込まれそうになる瞳。
姿は変わり、見た目の雰囲気は変わっても、これだけは変わらない。
唯はそう思った。
唯が頷くと浮葉はドアを開け、唯に近寄ってくる。そして、自分の手をそっと掴み、車が来ないか確認し、助手席に案内する。
そして、車はそっと夜の闇の中を走り出した。
「免許、取られたのですね」
何かいい香りがする。
しばらくの間沈黙を貫いてしまったが、そのことに気がつくと緊張が解け、唯は口を開く。
ただし質問は無難な内容であったが。
「ええ、運転免許証が日本で一番便利な身分証明書ですから」
周りの車に合わせてハンドルを握る浮葉の瞳が切なげで、唯は彼から視線を反らせないでいた。
「みなさんと違い、今年の春からは学生の身分もなくなりました。そうなると、運転免許証取得が社会的に一番信用されるのです」
その言葉に唯はハッとする。
スタオケのメンバーはまだ高校生であったり、高校を卒業したものも何らかの形で進学をしている。
だけど、目の前の者はそのような安定された立場はなく、実力のみで生き残る厳しい世界に身を置いている。
それに対してどのような言葉を掛けていいのかわからない。
しばし沈黙が続くかと思われたそのとき、唯がひとつのことに気がつく。
「免許取ってから間もないのに、運転うまいですね」
車には初心者マークが着いていたものの、そうは思えないくらい安全で安心な運転をしている。
「ええ、運転好きなのです。自室と違って孤独は感じず、それでいてひとりになれますので」
その横顔の美しさに見とれていると浮葉はその事に気がついたらしい。
ちらっとこちらをうかがってくる瞳が心の中を見透かすようでどぎまぎしてしまう。
「何か音楽でも聞きますか? と言っても私の選んだものですのでお気に召すかわかりませんが……」
「そうですね…… 浮葉さんの選んだ音楽を聞きたい気持ちはありますが…… でも、今はふたりでいるこの雰囲気を味わいたいです」
会いたいと願っても簡単に会うことは叶わない相手。せっかく会えた時間は大切にしたい。
「そうですか」
そう話している間にも車は都会の中を駆け抜けていく。
今が何時であるか、自分たちが何者であるか。そんなことを忘れさせるかのように光は優しく包み込んでいた。
「こちらの服ですが、『黒橡』としてふさわしいものを選んでいただいたのです」
そう浮葉が話したのは多摩川を渡り、神奈川に入ってから。東京よりも空が広くなり、心も解放されたのだろうか。あるいは普段生活している街から離れたからだろうか。
彼にしては珍しく饒舌になっていた。
車内を漂う香りは相変わらず唯の心を浮き立たせる。
デビューから日が経つにつれ、熱狂的なファンも出てきた。
すると入待ちや出待ちをする者も現れ、またプライベートでもサインや写真を頼まれることも増えた。
そうすると黒橡のときとあからさまに違う雰囲気の衣装だとファンのイメージを損ねてしまう。
そこでスタイリストにお願いし、黒橡のイメージを損なわない私服をコーディネートしてもらったらしい。
「以前、弓原くんとお話したときに、『日頃から見られていることを意識している』とお聞きし、それを思い出しまして」
その言葉を聞き、なるほどな、と思う。
浮葉がほんのわずかスタオケとともに過ごしていたあの秋の日、彼は他の者と一定の距離を保ちつつも、それでもスタオケのみんなが楽しんでいる様子を見て自分も楽しんでいるようであったし、時にはその輪の中に入っていた。
そして、そのときの経験もほんのわずかなものとはいえ今の浮葉を形作っている。
そう思うと唯は心のどこかが暖かい気持ちになるのを感じる。
それにしても。
彼の心が黒橡にどこまで染まっているのか。
知らず知らずのうちに染められているのか、それとも心の奥底はまだ染まることに抵抗しているのだろうか。
今はそれが気になった。
「ほら、横浜の夜景が見えますよ。といっても、あなたなら見慣れた光景なのでしょうが……」
そういって見えてきたのはみなとみらいの街並み。
スタオケのみんなで路上ライブをし、ときにはコンサートも開いたいわばホームというべき場所。
この街を去ったのはほんの数時間前のはずなのに、浮葉の変貌を見たからだろうか。みなとみらいの優しい光に照らされていると心が想像以上に緊張していたことに気づかされる。
そして、唯にはどうしても聞きたいことがあった。
そして、それを聞けるのは今しかないことも。
「あそこで会ったのは偶然ですか?」
その言葉に思うことがあったのだろう。
ウィンカーを出し、車を停める。
「そうですね。偶然です、と言いたいところですが、そうでないのはあなたなら察しているかと思います」
それはつまり……
唯の中に期待が高まる。
だけど、素直に喜んではいけない。そうブレーキを掛ける気持ちもどこかにある。
彼は掴まえられると思ったら去っていく。少し会わないでいると思わぬ変化を見せる。
まるで夜を羽ばたく蝶のように。
「あなたもあそこを歩いていたのは楽器店に寄るためだけではないでしょう?」
艶やかな瞳を向けそう話しかけてくる。
車を運転していたこともあり、今の今まで視線と視線が絡み合うことはなかった。
そんな彼が今は身体の上から下まで視線を動かしながら見つめてくる。
そして、笑みを向ける。
「素敵なワンピースですよ」
その言葉に唯はひとつのことを確信する。
浮葉は気づいていたのだろう。今日の自分の服装は決して普段着ではないということに。
お小遣いと依頼演奏をした際の謝礼。それらを貯め、浮葉の横に立ち、そして浮葉に向かい合うためにふさわしい服を用意した。
もっとも彼が自分の遥か上をいく装いをしたため、今の自分たちは不釣り合いもいいところなのだろうが。
そして、彼ならわかってくれるだろう。そんな安心感が唯の中にはある。なぜ横浜に住む自分がわざわざ東京の楽器店まで行ったのか、なぜ自分がわざわざ「素敵な」ワンピースを着ているのか。
唯はそっと息を吸い、そしてカバンの中に隠し持っていた包み紙を渡す。
「誕生日おめでとうございます」
今日一日、いやそれどころではない。
ずっと前から今日に向けて彼に、浮葉に言いたかった言葉。
すると、唯は強い力で手を引かれる。
そして気がつけば浮葉に抱き締められている。
彼の胸の心臓の音が激しく、そして早いのは気のせいではないのだろう。
そして車の中をほのかに漂っていた香りが唯の身体を包み込み、くらくらしそうになる。
頭をそっと撫でられ、自分が気を張っていたことに気がつく。
ーもう無理はしなくていい。
温かく女性的な見た目に反した大きな手がそれを教えてくれたような気がする。
そして実感する。
見た目は大きく変わってしまったけれど、心の中には自分が惹かれた時のあの優美さはのこされていると。
やがて車は走り出し、赤レンガ倉庫の横を通りすぎていく。
そして大桟橋。
いつもスタオケのみんなと何気なく訪れる場所も、浮葉と車でまわると感じ方が変わるから不思議だ。
そう、まるで恋人たちのドライブデートのようにすら思えてくる。
「あなたがこの香りを忘れないうちにまたお会いできたら」
やがて車は菩提樹寮の前に停まる。
車道側に助手席があるため、浮葉がドアを開け、エスコートしてくれる。
御門家の当主である彼にそのようなことをされ、戸惑ってしまうが、一方で大切にされていることを実感する。
車の中で堪能していた香り。
外に出て風に吹かれると一瞬でかき消されそうな感じがして寂しい。
その気持ちが伝わっているのか、浮葉が優しい瞳でこちらを見てくる。
「ありがとうございます。よい誕生日の思い出になりました」
そう言って浮葉は車に乗り込む。
そして立ち去る車を見ながら唯は思う。
決して黒橡として活躍する浮葉のことは嫌いではない。
ただ、もともとの彼と、黒橡で得た彼。
それらが混ざり合い、浮葉が浮葉らしく振る舞える日がきてほしいと。
菩提樹寮に入る前に唯はそっと袖口を嗅ぐ。
ほんのわずかに浮葉の車にあった香りが漂ってくる。まるで彼との時間が去るのを惜しむかのように。そんな気がした。