花の浮橋 サンプル①「朝か……」
目を開けたときに見える景色がいつもと違うことに気がつく。
隣にはすやすやと寝息を立てている浮葉の姿があった。
「夢じゃなかったんだ……」
浮葉と肌を重ねる夢を見たような気がしたが、夢ではなく現実だったらしい。
隣にいる浮葉の存在も、唯の身体を襲う倦怠感も、そのことが幻ではないと伝えてきた。
「そういえば……」
昨夜、ここに来てからスマホに触れていない。事情を察するものがいるにせよ菩提樹寮に帰ってことで心配を掛けてしまっているかもしれない。
唯はリビングに行き自分のカバンからスマホを取り出すことにした。
浮葉を起こさないようにそっとベッドから出ると、自分がいつもと違う服装をしていることを思い出す。
浮葉が貸してくれたパジャマだ。女性的な美しさを持つ彼であるが、サイズがブカブカなところにあらためて彼が男性であると思い知る。
そして……
「浮葉さんの香りだ……」
いつも隣から漂ってくる香りが自分の着ているものから漂ってきて唯は不思議な気持ちになる。
スマホを確認すると思ったほどマインは届いていなかった。
直接は伝えていないが、大方の者が自分の行き先を察していたのだろう。
成宮から届いたメッセージを唯は確認する。
自分の行き先を心配していることと予想はついておること、そして銀河不在という状況になったため、今日は自由時間にしないかという提案だった。
もしかすると聡い彼は自分が御門とどのような時間を過ごしているのか察しがついたのかもしれない。
そのことをありがたくも申し訳なくも思いつつ、唯は返信する。
寝室に戻ると浮葉はまだ寝ていた。
昨夜この部屋で行われたことを思い出すと恥ずかしくなるが、もう少しだけこの幸せに浸っていたい。
すると、瞼で覆われていた紫の瞳が開く。
「おはようございます」
カーテンの隙間から漏れてくる朝の光に照らされた浮葉の顔が美しく、唯はドキリとする。
そして満ち足りている表情を見て胸が温かくなる。
「唯さん……」
浮葉に身体を引き寄せられ、くちびるを奪われる。
舌を絡み合わせ朝とは思えない濃厚なキスに唯は身体の芯が思わず反応する。
「身体は大丈夫ですか?」
「はい…… ちょっとダルいですが、でも大丈夫です」
「ならよかった……」
そう話すと浮葉に抱き締められる。
幸せな気持ちに満ちていると溜め息混じりの声が頭の上に響いてくる。
「ほんと、可愛らしい方だ……」
それを言うなら浮葉は綺麗だけで済ませることのできない素敵な人だと思う。
いつか消えてしまう幸福かもしれない。だけど、せめてこの一時を唯は堪能したかった。
浮葉は夕方に新幹線で移動するものの、それまでは空いているとのことだった。
唯は練習が休みになったことを伝え、もう少しだけ時間をともにすることにした。
ふたりで朝食を取り、その後はふたりで二重奏をする。曲目は「愛の挨拶」。
せめてふたりでいるときは。そんな想いも込めて互いに普段の音色とは違う音が出た気がする。
きっと今しか出すことのできない音。それをわかっていながらも愛する人と音を重ね合わせることが出来、唯は幸せだった。
「一時の別れの前にあなたと見たいものがあるのです」
昼前にそう伝えられ、向かったのは目黒であった。
「桜、綺麗ですね」
以前ともに歩いた川沿い。
そのときは浮葉とこのような関係になるとは思わなかったし、そもそもスタオケが現在の状況に陥るとは思いもしなかった。
桜はちょうど満開を過ぎ、散りゆくところであった
。
そして、名所ということもあり、たくさんの人々がその姿を目に焼きつけようと訪れている。
ふたりで歩いていると浮葉がそっと唯の手を取り握ってくる。
「あなたに見せたいのはこちらです」
そう言って浮葉が指差したのは目黒川であった。
散った桜の花びらが川面に浮かび、まるで絨毯のように広がっている。
「花の浮橋とも言うべき素晴らしい光景ですね」
「花の浮橋…ですか?」
川面に桜の花びらが浮かび、まるで橋が掛かっているかのように見える現象のことだという。
数日前、グランツに用事があり、花響を訪れた際に見掛けた。そして、そろそろ花が散る時期であることを考慮し、唯をここに招いたのだという。
満開のときも、散りゆくときも美しいと思っていたが、散ったあともこうして人々の目を楽しませるあたり、桜という花らしいなと唯は思う。
ひとつひとつの花びらがまとまり川面をたゆたう桜を見ているとスタオケの姿と重なり合う。
音楽が音となって響くのはほんの一瞬のこと。人々の心に残るのは音が繋がるメロディであったり、コンサート全体的な印象であることがほとんどだ。
この桜の花びらのように散ったあとも人々の心に思い出として残るのだろうか。そして、今はその音楽を導く立場の銀河は不在。これから先、どうなるのだろう。ふとそんなことを考える。
「一緒にいることが必ずしも相手のためになるとは限らないですよ」
隣の浮葉がそうポツリと呟く。
ふと見上げるとそこには切なげな眼差しをした浮葉の姿があった。
「私が源一郎を引き離したように、一ノ瀬先生も思うことがあるからこそ唯さんから離れたのかもしれませんね」
そうなのだろうか。
正直今はそう思えない。浮葉がグランツを選んだ時もスタオケを見捨てたようにしか感じなかったし、おそらく源一郎もまだ咀嚼できているかわからない。銀河がスタオケから離れたのにはもしかすると真意があるのかもしれないが、今はそんな風に思える心の余裕はない。
すると浮葉が唯の頭をポンポンと撫でてくる。そして、優しい声で話し掛けてくる。
「もっとも残された方はつらいですよね。今だけは存分に泣きなさい。桜吹雪があなたを隠してくれるでしょうから」