フェス衣装ジュナカル 扉に触れたサンドバッグはほとんど音を立てなかった。空っぽだったから。25時が近くなり待っていたアルジュナも待ち望まれていたカルナも殊更静かに向かい合い、シミュレーションルームに鍵をかけた。まだなんの設定もしていない部屋の中央に煌々と照明が灯り、その手前に位置する二人を影へ囲う。手袋は光沢を帯びていた。机上に置いていた包みを取り上げ、無言のままカルナへ差し出す。と、むしろ言葉を伴った方がこの場には最適だと思い直し、「これを」とアルジュナは言った。差し出された箱にちらと目を止めて、カルナが赤いグローブを脱ぐ。
「すまん」
「ん?」
「オレはお前へのプレゼントは用意していない。……いや、用意はした。すでに渡したが、それはサンタとしてだ。が、お前のこれはそういう意味のものではない……違うか?」
「驚いた。貴様にも情趣というものがあるのだな。そう。いま渡したプレゼントは恋人としてのものです。……まあ、気にすることはない。私はもう、欲しいものはもらった」
細い指に捧げ持たれ、包装紙は指輪の上の宝石のように静かに照る。視線の先のポケットからこぼれ落ちたグローブを拾うためアルジュナは腰を屈め、
「ほら」
立ちあがってその手に握らせた。ジャガード生地のクロスが掛けられた中央に一輪、花が活けてある。八重咲のばらだ。花芯へ近づくにつれ花弁は青みを帯びて縮れ、かろうじて差し込む光を露のように抱く。なだらかに反り返った外縁の花弁にクロスの色が透け、黄みがかった桃色になる。花瓶の水が揺れた。箱に触れるカルナの手が影絵として小さく動く。二人の裾がそれぞれ捲られて椅子へ腰掛け、床板の上で尾羽と変わった。
「先に乾杯をしないか」
グラスの中の酒も水の色だ。かちんと鳴って酒杯が傾き、清らかな一筋がガラスの面を滑っていく。まるで浅瀬から淵へと流れていくように。にわかに紅潮した顔は張りつめた笑みを浮かべ、アルジュナの視線を避けシミュレーションルームの設定をいじる。カルナの操作で部屋は青空の草原から炎上する森となり、やがて海辺の街へ至る。夜だ。火球の流れ途端照らし出された波紋がアルジュナの瞼に焼き付き、瞬きを経て目の前の顔に重なる。
カルナの目にも、光は届いていた。恋人のもったいぶった身振り、不機嫌にも聞こえるきっぱりした口調にはもう慣れっこだった。インド異聞帯の記録を閲覧してから、この異父弟はカルナの後見ででもあるみたいにいつでも纏わりついてくる。以前は不服ありげにぶちぶち文句を言いながらやっていたのだ。でもオルタのアルジュナがしきりにカルナを後追いするのを見て、つねの落ち着きを取り戻し悠々と世話を焼き始めた。手本を示している。たぶんカルナは彼ら共有の楽器で、彼は彼につま弾く手ほどきをしていた。口づけされる段になって家宝の名器として扱われていると知った。見ていてかわいそうになるくらい儀式を要する。
まったく儀式だ。かつて特異点に建つ工場でカルナが培養されていたとき、ポッド中に漂う三十基の兄を見上げアルジュナは「愛している」と確かに言った。仮に愛を思慕とするなら、その辺に召喚された野良エネミーのカルナを改造し「本物」にする試行錯誤の一環で増殖させる行為は少しも愛じゃない。神々の愛に苦労した分、生前は他者を慈しむ方法を考え抜いただろうアルジュナがわれを失い惑う様は哀れだった。でも、別に愛でなくても全然構わなかったのだ。異父弟に注がれるまっとうな愛情はむしろカルナには具合が悪い。誇張された聖性によって赦しを求められる方がまだ気楽で、視線も声も仕草もものの言いぶりも、カルナを構成する要素すべてへおおらかに寄り添ってくるいまのアルジュナは、恋しいと同時に怖ろしい。聡いカルナは彼が大事に抱卵している思考をとっくに手元で孵化させており、その幻の羽根の付け根にきっと彼の唾棄するだろう身分への引け目がいきいき蠢いているとよくわかるのだ。
わかってしまう。カルナはアルジュナの兄だから。
火球のはやばや消え去って再び闇の訪れた部屋に、月だけが明るい。星は雲にまぎれていた。十三夜の月は透き通って骨の色、鏡めいた光の強さにアルジュナの白目が青く輝く。
一杯きりの酒にふたりともよく酔った。日付をまたいで風は澄み、話し声はひそやかに響く。千々に砕けた波がまばゆい。酔いの醒めるのはアルジュナの方がはやかった。カルナの手を握る。萎えてやわらかい手袋の生地越しに彼の体温があたたかく、じわりと正気づいた。
「お前とこうして真剣に勝負事をしたとて、それは私たちの生前の未練を晴らす行為ではないと思っているが――」
とアルジュナは苦笑する。ふっくらした頬が月明かりの影に痩せ、見かけを離れて老いが滲む。手遊びするみたいにカルナの手をやさしく握ったまま、情欲に任せ摩ることもよくしない。泣き腫れた瞼をじっと見つめるように重なった指を微動だにさせず、つやのある声で語りかけた。
「ここにいる間はずっとそうやって仲良くして、座に還ったあとの私の魂も餓えさせてくれ」
「ああ」
カルナはため息を吐く。
「オレもお前に、永遠に焦がれているよ」
このサンタの霊基は、たったこれだけを言うにも喉がずいぶん掠れる、と彼は思った。
額にかかる前髪が汗の玉をしとどにつけきらきら揺れる。紫の薄衣の端を片手に握りしめ、アルジュナは息を切らしカルナの肩に手をかけた。羽織りが滑り落ちるのを庇いつつ、彼が振り返る。三つ編みの下、青い目が大きく見開かれ、次いでゆったりと向き直った。
「貴様、あとで私のもとにくると言っていただろう!」
頬の滴を拭い不満も露に口を尖らせる。透ける衣装は褐色の肌に張り付き筋肉の影を浮きたたせていた。
「そう……だったな。すまん。お前がコロシアムで優勝したのは観に行っていたから知っている。舞台で踊っていたろう。勇ましくて見事だった。皆の祝福を受けるのにオレがいては邪魔だろうと思ったんだ。悪気はない」
「ふん。貴様に悪気というものが存在しないことくらい私は充分知っている。観に来ていたのだったら競技に参加するがいい。腕比べにお前がいない以上に不快なことはない。その優雅な着物で舞うお前が見たかった」
「戦っているときのオレが舞うなんて言葉の似合う男でないことは承知の上だろう。お前とはやはり育ちが違うよ」
言い返すとまだ整っていなかったアルジュナの呼気がぴたりと静かになる。すべての催しを終え熱気の残る広間に、蜩の声が染みとおっていった。黙り込み俯く顔を両手に挟みカルナが見つめると、慕い寄らずにいられないとばかりに憤ってアルジュナの頬が熱くなる。近づいた口がどちらからともなく重なる。カルナと口づけるたび、アルジュナは、異父兄のたどたどしい舌使いに善意のようなものを感じる。口づけに馴れているいる自分とは違うやわい力が恋しくて、目をつむってしまう。だから聞き逃すことにした。育ちが違うというカルナの言葉を。カルナはアルジュナのすべてを理解しているのに、アルジュナが傍で寛ごうとしなだれかかってくるのをとても嫌がる。アルジュナが奥歯をなぞり始めるより先にぐっと肩を押しのけ、上目に睨みつけてきた。
「オレがお前の期待にそわない男だと、証明してやろう」
「ほう?」
「売られた喧嘩を買ってやると言っている。シミュレーションルームはすでに予約した。この格好のままのオレとやりたいのだろう? ついてこい。身体の温まっているお前の方が有利だがそれでちょうどいい」
「言うじゃないか」
鍵を解除し踏み入った部屋は見渡す限りの枯野だ。透明な陽光を受け草は黄金色に染まり、紙が擦れるような脆い音でささやく。黒い服を着たカルナは木立の色濃い影に似て風に裾を靡かせている。山間の小高い丘。風に奪われたアルジュナの薄衣をカルナが掴む。透ける布地と同じ軽さで、赤い三つ編みが空気をはらんだ。ささめきあう枯草で、ふたりの声のこだまがすれ違う。
けれど、確かに探りあてた。彼らが、彼らの言葉を。
「座に還ったあとの魂の話なんてどうでもいい。お前が大切に守っているオレたちの均衡に比べれば」
「……きゅうに何年も前の話を始めるのが貴様のふしぎだな。私との勝負事に決着が見えてくるといつの間にか姿を消すのも不可解だ。初めてサンタさんの霊基のお前とやりあったあの夜も、お前はみすみす勝ちを見逃し互角ということにした。なのに、あれから何年も経ってまだ私と勝負をしたがる」
「オレが勝ちそうでも負けそうでもお前は苦しそうな表情をするのでな。以前は勝ったら勝ったで万全のオレでないから意味がないなどと一人でノーカンにしていたが、インド異聞帯の記録を見てからまた変わったろう。バーサーカーのお前がオレに殺されたのが羨ましいか」
「ああ」
アルジュナが肩を竦める。
「それでなにか悪いか。私はただ貴様に勝ちたいんじゃない。対等の勝負をしたい。……だがあの記録を見てその難しさも知った。お前の傍にいることでしかお前と対等であると証明できない。誰よりも私自身に対してだ」
「なるほど。だからオレが勝負の途中で姿を消してもかわいく怒るだけで許してくれると」
「む。貴様、怒られて真剣に困っているようだったのにかわいいとか思う余裕があったのか?」
「さあ。どうだろうな?」
カルナが神槍を持つ。アルジュナが弓を構え、距離をとった。矢を番える。香ばしく馨しい草木の匂いが陽光に燃え上がった。
力んだ視線がぶつかり合う。カルナは息をして、アルジュナも荒い息をしていた。生きた獲物同士が互いを労わろうと、切々と狙いを澄ましていた。