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    関東礼

    @live_in_ps

    ジュナカル、ジュオカル、ジュナジュオカル三人婚
    成人済

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    POIPOI 23

    関東礼

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    10月新刊に収録するサキュバスカルナさんのジュナカル、改稿しました
    この話のサンプルはここまで

    #ジュナカル
    junacar

    10月新刊改稿 完璧な日没を済ました空が薄手のジャケットを着た肩へ懐かしそうに接し、幅の広い影を生んでいた。カルナにはさいしょ、それが誰かわからなかった。若い男だ。後ろ姿では年齢は曖昧になるが、膝から腿にかけての発条が入っているかのような力強さでおおよそ察した。柔和な凜々しさに浸りきり、癖のついた黒髪は僅かな明かりを吸って天使の輪を浮かべている。アルジュナだ。アパートの廊下の端、部屋の連なりとは直角に位置する階段横のひときわ狭い部屋に、カルナは住んでいる。段差を下りて外へ出ようとする際に、彼は必ず横顔を向ける筈だ。インターフォンを押す腕は衣服に隠れてもわかるほど筋が浮き彫りになっており、背中の筋肉は厚い。部屋へ響き渡るチャイムの音が耳の奥でこだました。
     振り向かないでくれ。
     足は床に縫い付けられたまま動かなかった。四歳年下の、十九歳の筈の従弟は、大学の帰り道、電車で三十分かけてカルナの住む区へやってきた。でも、カルナになにができただろう? 彼が彼の元へやってくるなんて、あのことが理由か、切っ掛けに決まっている。
     バタースコッチのように滑らかで整った横顔が、俯き、甲高い足音を立てて駆け下りた。六月の雨は素早く屋根の内側まで濡らし、輝く白い糸と変わってアルジュナの背を濡らす。
     だがカルナの考えるほど、事態は悲観的ではないし、次にも直面しなければいけないのは、彼からの懇願だろう。
     恋人にしてほしいとか、あるいは結婚の申し込み。それはやり過ごせる筈だ。求婚には慣れており、どう断っても相手を傷つけることはよくわかっていた。寂しがり力んだ身体を抱擁しても良いし、どの程度ゆったり包み、どのように力を加え、撫で摩り、相手が惜しく思うよりあっさりと身をそらせば良いともわかっている。
     部屋の鍵を開け施錠して、玄関脇に挿されたモスグリーンの傘に気付いた。
     手渡せば良かった。
     いてもたってもいられず勢いよく手を洗った。水流がはね、シャツの裾に点々と水玉を描く。アルジュナの横顔にはこれといった表情は浮かばなかったが、雨の中脇を締め踏み出す前に、両肩を開き空を仰いだのは意外だった。頬へ受けた雨滴は日暮れの冷たさをして彼を洗っただろうに。
     まるで、バカンスまでの日取りを数えるように。
     鏡に映るカルナは耳まで火照っていた。灯りを点け忘れ、差し込んだ黄みの濃い水色の夕焼けが、ダイニングの木目と混じり合い黒っぽく透き通っていた。
     暴行と呼ぶには、カルナのした行動はあどけなかった筈だ。
     子どもだった、家族との関係を気にしていた、性欲に負けた。
     そう、あれは間違いなく性欲だった。すまし顔のアルジュナがカルナにだけムキになるのが可愛かったのも、あの子がときにさらりと兄たちの手をカルナから振りほどくのが満更でもなかったことも、あの子にキスをしたのも。
     恋と呼ぶにはカルナに弱みがなかった。いまじゃないんだから。

     平等に降り、粉めいて舞い踊る雪が真っ白に均した庭を喜んで、カルナは毛糸の帽子を被った。母親の精神は珍しく安定している。乳房の片方を切り取り切除しなければいけないがん。腫瘍がぱらぱらと散った状態で、薬剤では小さくならなかった。書籍デザインの仕事を半分に減らして、資料の片付けも終えた彼女は、それでも一階のリビングの棚にファイルをあえて並べ、姉夫婦をもてなしていた。アルジュナはカルナの伯母夫婦の子だ。まだ三人兄弟。未就学児だった頃の従兄の衣類を、こだわりなく着たのが長男、断固として嫌がったのが次男、プラスチックのチェストよりひらりと落ちたハンカチの一枚まで精査して持ち帰ったのがアルジュナだ。父方の家系の隔世遺伝で、悪魔に生まれついたカルナを、物珍しく思いながら花として扱った。
     なぜならサキュバスとは植物の一種だったから。
     すでにとびきり美しく、すらっと背は高くて色白。骨格はなだらかで節々に継ぎ目が見えない。髪は日差しを受けて淡い金色に光るが、影に入れば桃色を帯び、耳に沿ってしんなりしている。襟足はふわっと広がり、つむじの辺りは大胆に纏まってクリームのように束になりはねている。唇はまっすぐで、瞳の輝きは澄み、懸命になると目と眉の間が狭まって怖ろしい印象になるから、美々しさはいっそ鋭かった。手袋を貸し与えて共に玄関を出たアルジュナが、庭のジューンベリーの木の前までよたつきながら歩いて行き、カルナを振り返る。ふっくらとした両頬を持ち上げて得意げに笑い、もう一度向こうを向いて彼が近づいてくるまで待つ。この子の小さな足。青い長靴のつけた浅い足跡を、けぶった雪が均して平らにする。アルジュナにとって、近づく前のカルナがじっと表情を見てくれること、性急に追いかけず、ゆっくり歩いてくれることは特別らしい。見下ろすカルナが目線を下ろし、
    「アルジュナ」
    と言うと、
    「カルナ!」
    と応えて振り向き、その場で軽く足踏みする。握りしめた拳は、抱きつきたいと訴えている。でも一度も許さなかった。カルナはもてもてだったし、何度も受けた求婚で、唯一うれしかった相手は父だけだったから。甘い驚き、完全に寝耳に水で、振ったあともにこにこ笑ってカルナを褒めてくれたのは父だけだ。彼があまりに上品だったゆえに、同世代の子たちやずっと年上の大人たちの見せる、プロポーズの予備動作には若干辟易した。無言で見つめ合うようそれとなく視線で示したり、手を繋げない代わりに服の裾を抓んだり、一つ一つの仕草は雄弁で、どれか一つくらいなら尊重しても良かった。途方もない罪を犯したと青ざめたのは、プロポーズを求めたのはカルナの方だと暗に言われたときだ。以来寂しいとわかる素振りをするようにした。寂しいカルナからの誘惑だったなら、すべてが終わったあとで飽き飽きしてもらえる。プロポーズの言葉で、誰から何度聴いても胸が震え、このままときが止まってしまえば良いと思うほど大好きなものもある。ありがとうと言うカルナの心臓の高鳴りを、血まみれのまま取り出して見せてあげたい。アルジュナはまだカルナにうんざりできる年齢じゃない。やさしくして大丈夫。ただ充分素っ気なくして。
     手の中で雪を丸め、転がして玉を大きくする。木々の狭くした庭を冬はより小さくし、反射する微かな日の光が遠近を粉々にする。鼻歌を聴くたび、アルジュナがかわいくてたまらなく感じられおかしい。
    「なんの歌だ?」
     この子は途端に内気になりはにかむ。教えてくれるようせがむと喜ばれるだろうから言わなかった。押して押してどんどん大きくなる雪玉を玄関脇で止め、手袋に付着し水滴となりつつある雪片を払う。真似をしたアルジュナが腕一杯に玉を持ち上げて雪だるまにしたがった。刹那、逡巡する。日に当たる雪の良い匂いに表情が映るかと思った。代わりに想像した顔は眉間に皺を寄せ、きゅっと唇を噤んでいる。頭にしてあげた。アルジュナが手を腰にあてて胸をそらし、バランスを崩して尻餅をつく。屈み込んだ。
    「大丈夫か?」
    「平気ですっ」
     隣に座り、目鼻のない雪だるまと玄関の屋根を見上げる。と、ティーセットを一式盆に捧げ持った母が顔を出した。コジーをかけ忘れ、ポットから湯気が立っている。二人が見つめ合い、なで肩の背が再び扉をくぐった。屋根の傾斜を滑り降りた雪が青灰色の影を滴らせ、地上に真っ白な角を生やす。か細い先端がすぐさまひしゃげ、角は枠と変わって家を囲んだ。生まれたばかりのホッキョクグマのように両脚を投げ出してカルナは座る。膝を抱えると、余計なものまでかき集めてしまいそうだった。つまるところ感慨。
     雪を払って立ち上がり、アルジュナへ手を差し伸べた。手袋は重なり合わず、日差しを受けてカルナの手のひらが輝きだす。淡く湯気を立ち上らせながら、きらきらと雪片が溶けていく。綿入りの、ナイロンの手袋を、従弟ののせた雪玉が湿らせる。手をはみ出した雪はやわらかな氷として固まり、ぱらぱらと地面へ落ちた。ぎゅっと握る。肺の一部が針にでも変わったみたいな居心地の悪さに喉が詰まる。黒い目はただ純粋な鏡で、カルナを見上げ瞬きのたび像を揺るがせる。
     この子はなにも気付いていないようだった。
    「アルジュナ、立とう」
     雪玉を捨てた。途端に彼がぐずりだす。物言いたげに下唇を上唇で押さえつけ、アーモンド型の目を細める。アルジュナはきっとカルナと母の無言の合図に疎外感を覚えており、それをきちんと訴えるには図々しさの足りない自分を歯がゆく感じている。反射的に溢れ出てきたのが鼻水と涙で、抑えようにも苦しさを伴う。カルナが泣いている小さい子を放っておけないなんてもちろんわかっていて、つまり彼にあやされたがり、抱擁を求めていた。抱っこと呼ばれる種類の。身を震わせ抱っこしてと訴える小さな従弟の姿に、気が遠くなる。不満を覚えたのだ。アルジュナの希望を叶えるよう促されていることに。
     全身がひどく冷えていたので、いまさら雪に膝をついてもかまわなかった。カシミヤのセーターを着る母の背中を見たあとは、自分に縋り、頼ろうとする子の相手は耐えがたかった。グラスに入ったゼリーをスプーンで砕くように、かき混ぜるように、かき乱されている。身体の影に入り、従弟は真っ黒く佇んでいる。義務の瞬間だ。オレがこれからすることは、とカルナは思った。母さんのためにするんだ。腕を開くと同時にアルジュナを抱き締めた。この子の喉の感触がカルナの喉の上を迸り、激しい呼吸が耳鳴りのように脳を浸す。のぼせ上がった体温を知覚して、同じように手足が熱くなり、心臓は切なく幻覚を見た。アルジュナの鼓動を数えると、それが褒め言葉に聞こえる。誰からの? 考えようとしても途端に混乱し、天から見下ろす風に抱き合う二人の様子がくっきりと胸に浮かぶ。アルジュナの髪は細く、小さな束を作ってカルナの指に乱されながら咲き誇るみたいに甘いシャンプーの香りを放ち、形の良い鼻はカルナの首筋を嗅いで、耳の裏のよりデリケートな箇所を探ろうとした。力を弱めようとして、上手くいかなかったのは発情を呼び起こされたからだ。舌に浮かんだ刻印用の淫紋が膿むように爛熟し、唾液に溺れ引き攣っていた。
    「カルナ……!」
     この子の声は半分以上男の響きに変わってしまっている。人間の男が愛しい相手を手に入れたと安堵し、巣に連れ帰る期待に胸を逸らせているときの声だ。カルナには雌のそれに聞こえる。あらんかぎり精を搾りあげ吸い尽くし糧にしてほしいという雌の哀願。そっと顔を覗き込み、アルジュナの目を見つめた。たまらなく魅力的に感じる。もう彼としか思えなくなってしまった彼の、いまも流れる甘ったれた涙が、清らかで甘い蜜に思える。拭い取った肌が喜んで吸啜してしまいそうだ。丸い頭はいかにも賢そうで、むずがりうんうんと唸りながら齧り付いてくる顔が愛おしい。
    「大きくなったら私のお嫁さんになってください」
     頷いた。顎の揺れにしまったと思ってももう遅い。ぼんやりしつつ、伸びてくる手の子どもらしいふくらみを見ていた。やわらかな手がカルナの耳を摘まみ、アルジュナが遠ざかる。どさりと音がして、覆い被さっていた。雪上に広がる黒髪へ手を入れ、頭を支えてやる。従順に俯いたり横を向く彼に弱りきる。キスをして、舌と舌をぴったりと重ね合わせ、唾液の味を確かめ紋を刻みたい。欲望を感じると、欲望の形が細部まではっきりまなうらに広がってしまってとてもダメだ。肉厚の舌が叱りつけるみたいにカルナの舌に組み付き、荒い息が煩いほどの近くでべたっと伸びる。頭が真っ白になった。痺れる。熟れた紋がじくじくと彼の粘膜を焼く音がした。背筋が震え、下半身が火照って感覚がなくなる。離れたときにはすでに胎の奥がきゅうきゅうと収縮し勃起していた。アルジュナは力を失ったカルナの上に乗り、頬に手をあてうっとりと目を閉じる。
    「私、貴方の夫になれました?」
     んべっと見せつけられた舌の紋は未完成だった。かっと血がのぼり、首を抱き寄せもう一度キスをする。触れるだけの。歯と歯がぶつかりがちんと鳴った。アルジュナの唇の端から流れ出た血に、カルナは駆け出し母のいるリビングへ行く。
    「どうしたの。静かになさい」
     母が口元に一本指を立てた。興奮が置き去りにされる。彼女の心は少しも波立っておらず、代わりに揺らぎを殺すための岩がどっかりと置かれ、背後の空の色もくすむほど凪いでいた。
     カルナと交わした合図はどこにもない。ちかちか点滅してもいない。
     それで彼は、自分が取り返しのつかない間違いを犯したと気付いた。

     それから十三年会っていない。母親が乳房を切除して、両親は離婚し、母の持ち家だった生家を出てマンションで暮らした。時計技師をしていた父の職場は西日のあたる平屋建てで、学校を終え訪ねるたび異界に迷い込んだ気がした。以前暮らしていた一戸建ては、東側に玄関があり朝がはやい。二階にある八帖の洋室に親子全員の布団を敷き、川の字になって眠ることがカルナの楽しみだった。父の求婚もその布団の中で行われた。秘密にする理由がないから、きっと母も知っていたのだと思う。
    「カルナがいると、嫉妬しちゃうからね」
     別居前の夜、眠れないカルナが水を飲みに下りていったキッチンで、二人が話していた。
    「私がそういう人間だって、知っているでしょう。ようするに、さみしがり屋だってこと」
    「さみしがり屋の貴方と離れるのを私がどれほど嫌がるか、知ってて言ってる? ……いや、こういう言葉が我慢できない貴方なのはとてもよくわかっているよ」
    「そう。ワガママなの」
    「違う。誇り高い貴方を病気が弱気にさせて頑なにしてるんだ。ワガママなかわいこちゃんぶるにはあまりにも努力してきたじゃないか。貴方はまた努力したがっている。一人きりで自分の身体と向き合いたがっている」
    「だって、私の身体ですから」
     二人はなにかを口に入れていた。口腔内をぶつかる硬質な音に、飴だと気付いた。薄荷飴だ。道内を巡る修学旅行の土産に、カルナが買ってきた。二人はそれを片側の頬に詰め、会話しながら染み出る涼しい甘みを時折吸う。じゅうっと啜り上げ、母の声が捩れる。
    「私の身体、私の病気。皆私のものなら、欠けたおっぱいも弱気で補うことができるの。治っても受け入れたくないし、再建もしたくない。すべてが自然寛解するまで待ちたい。それってもう手術もした私には分不相応だけど、自然寛解だけ待ちたいの。貴方から離れたいし、カルナから離れたい。妻も母もやめて病人として神様を待ちたい」
    「神様?」
    「天使かも。カルナとは真逆。きっとあの子よりかわいくも素敵でもないんでしょうね」
     あの家が好きだった。一人を選んだ母が家を出なかったのは、姉の口添えあってだ。両親より継いだ家まで売ってしまってはいけない。必要なら貴方の助けになることはなんでもやるし、息子たちも手伝わせるが、一時の思いで捨てるのは早計すぎる。
     伯母はほんとうになんでもやり、五人に増えた息子たちにも手伝わせたらしい。父と母とはその後もしばしば連絡を取っており、男手の必要な際に、アルジュナとその兄弟がたびたび借り出されたときいた。
    「オレに会いたがっていたか?」
     そうカルナが尋ねると、父はいとも容易く、
    「もちろん。あの子は君の気持ちをざわつかせるのが一等好きだ。悪い子じゃないが、気持ちいい子だと言えるほど初心でもない。四、五歳の頃は初心だったがね。僕たちと初めて会ったとき、君の腹に浮かぶ模様を見たあの子の顔ときたら。いまにして考えると、幼稚園で人気だっただろうに、まごつきすぎたね」
     確かにアルジュナは王子様みたいだった。アイドルの演じるような。真面目で誠実であると同時に、ぶりっこしているとも感じた。だからあの子が自分だけにこだわることに優越感をもった。疲れもしたけれど。
     けれどそんなことは彼を表すことになんの意味もない。アルジュナにはアルジュナの人生があり、カルナよりカルナの母を助けた。
     ふだん雨の降らない六月の、雨の来訪者が彼だなんて、どういう啓示だろう。
     規定の場所にバンを駐め、階段までの短い道のりの間傘を開く。仕事の休憩中、汗ばんだ身体を拭こうにも、悪魔は不自由した。カルナの意思とは無関係の誘惑は父と二人で暮らすようになってからいっそう悪化し、求婚は毎日されるもの、求婚しなくとも友人は親友になりたがり、いずれ遠巻きにされるようになった。肌を晒せば淫乱と見られる気がして、夏でも手首まで隠す服を着る。残って仕事をすると誰も帰れなくなるから、いつも定時であがって車へ飛び込んだ。袖を捲れば肌は汗にしっとりと湿り、脇を伝う滴は花の香りがする。植物の中には人とそう見目の変わらない皮膚を有するものがあり、ヘリアンフォラやウツボカズラといった食虫植物は筋や斑の入り方がペニスに似ているが、悪魔の場合、植物と人との混合したそれらの皮膚組織の中に花を白く見せるための無色色素が含まれ、「虫」であり「獲物」である人類種にはなんとも魅力的に映るよう作用する。瞳が嘘をついて、各々の好みの光、色彩を淡く帯びた恋人に見せるのだ。もともとの髪や肌、目の色の表面へ、対象の角膜に応じたそれが被さるらしい。どう否定してもカルナはすべての人々にとって運命の相手で、父も認める幼さや本来の実直さは魔性の粋と受け取られる。ダッシュボードからボディシートをひきだして、手早く耳と首、脇を拭く。体臭のこもる箇所は清潔にしておいた方が良い。カルナに求婚し、カルナを恋人と思った人々は決まってそこへ鼻を寄せたがる。鍵付きのポーチにゴミを突っ込み、施錠してドアを開けた。雨は土砂降りで、薄手の靴下がはね返った水にぐっしょり濡れる。雨宿りする余裕はない。他の住人に見られてはまずい。階段前にできた水溜まりを飛び越え、段差に足をかけた。歩きながら傘を閉じる。
     一度アルジュナがきたということは。手首を回し露を払った。
     二度目があるということだ。天気は関係ない。彼はきっと台風でも隕石が降ろうとやってくる。
     雨の日に狙いをすましている、といっても良い。カルナは家へ招き入れてくれる。
     果たして彼は立っていた。頭から靴の先までびしょ濡れで、髪は頬に張り付いている。
    「入れてもらえますよね?」
     これでくしゃみの一つでもするならほんとうにずるい。明暗の均質化されていない日暮れ時に、ひときわ暗い闇を纏って、アルジュナは黒く佇んでいる。背丈は同じくらいだ。シャツの張り付いた背中は太い骨のまわりにしなやかな筋肉がつき、上腕の太さと手首の細さが怖いくらいだ。濡れそぼった髪が頬を指が指が払い、賢そうな額が露わになる。
    「……もちろんだ」
     鍵をさしに隣へ立てば、高い体温が鼻先へ迫った。
    「あがっていけ」
     舌は彼を覚えている。彼の唾液の味。あの日はクリスマスイブだった。もしもきょうのアルジュナが、ケーキを食べてからきていたらどうしよう。それはカルナの欲情の味だ。

     玄関に足を踏み入れ、彼は彼に扉の向こうに行くように言って肩からリュックを下ろした。ジップ袋からバスタオル、替えの下着、衣服を取り出して、その場で着替え、新しい袋へ詰めていく。最後にフェイスタオルで髪と顔を拭き、カルナの待つダイニングへやってきた。ケトルで湯を沸かし、ポーチのゴミを蓋付きのゴミ箱へ入れ替えて、温かい麦茶を淹れる。来客はない家だから、客用の湯呑みはなかった。一人暮らしをする際にもってきた父のマグカップへ注ぎ、テーブルへ出す。
    「髪を乾かすか?」
    「ドライヤーがあるのは脱衣所ですか? この部屋へ持ってきても?」
    「ここでするのか?」
    「隣に風呂場があるでしょう。貴方のふだん浸かる浴槽が目に入ったらどうなるかわからない」
    「慎重なんだな……?」
     立っていってコンセントを外した。テレビボードから延長コードを出し繋ぐ。乾かし方は雑だった。手ぐしで整えたアルジュナがクッションに座り直し礼を言う。
    「もしや、プロポーズじゃないのか?」
    「それはもう小さい頃に約束したでしょう。結婚するんですよね? 私たち。十三年ぶりに会う婚約者相手にがっついて嫌われるなんて愚かな過ち、私は犯しません。それで、あのときカルナにそんなつもりなかったことも、プロポーズ慣れした貴方が警戒していることもわかっているつもりです。でも私は貴方の伴侶になりたいですし、私を夫にしたらいかにメリットがあるかプレゼンするつもりで来ました。今年で二十歳なんです。一人暮らしもしています」
     いただきます。軽く礼をして彼が麦茶を飲み、時計を気にする。
    「これから料理をしますか? 夜に予定はありませんか? リュックに作り置きの副菜とちょっと良い肉が入っています。カルナさえ良ければ台所を借りて準備するので、食べながら話しましょう」
     肉はローストビーフだった。盛り付けの終わった波佐見焼のワンプレート皿に、アルジュナは自分の分だけ飯もよそい、洗ったマグに味噌汁を注いだ。
    「私を夫にしたらいかにメリットがあるか、だったな」
    「はい。まず売りに出されていたカルナの生家を管理するバイトにありつきました。叔母さんは結局あの家を売ったとは知っていましたか? 八年前です。彼女はいま私の実家で暮らしています」
    「知っている。父から聞いたし、母からも文章で連絡を受けた。離婚して二、三ヶ月は彼女とオレとの交流はなかったが、翌年の春にはメッセージをやりとりするようになった。顔を合わせて通話したのはそのすぐあとだ。会うようになったのはオレが中学一年の春。その知らせはLINEでもらった。維持が大変だったんだろう。家電も軒並み寿命を迎える時期だったとかで。それでお前の家に間借りして、そのまま住んだ」
    「そうです。罹患してから五年すぎましたし、再発も一度もなくて良さそうに見えたんですけれどね。私はあの家にプランターを置いて夏休みの宿題として花を育てていて、夕方立ち寄った矢先、壊れた冷蔵庫の前に座り込んで泣きながらビールを飲んでいる叔母を見つけたんです。水が漏れ出て食材はダメになりかけていて、はやく食べなきゃと思って扉を開けたらビールがあったので一口飲んで、そのまま座り込んで動けなくなり泣いていたらしいのですが」
    「そうなのか? それは……その、母は大丈夫だったのか? オレは一度もそんなこと話された覚えがない」
    「大丈夫です」
    とアルジュナは答えた。
    「でも自然寛解はやっぱりしなかった、と言っていました。カルナから離れたのは意味がなかった、夫に愛されているあの子が妬ましくて別れて、あの子の人生にとって大事な時期、傍にいる権利を放棄してしまった」
    「……」
    「なにもかもが自然に上手くいく、なんてありえないのに、努力の方向性を間違えた。カルナと夫の人生に立ち入れなくなった。あの子は私の及びもつかない人に育つだろうし、私はきっとそれを寂しく思うだろうにもう取り返しがつかない」
     私は叔母さんの選択を間違いだとは言えないですけどね。十三年の間にカルナが及びもつかない人に育っているとして、私の初恋が成就する理由になるかもしれませんし。アルジュナがローストビーフの切れ端を口へ運ぶ。
    「自信家なんだな」
    「カルナは自分が変わっていないと思いますか? まだまだ変わっていけるのに?」
     答えられなかった。後片付けはカルナがやり、残った惣菜にラップをかけ冷蔵庫にしまった。陶器の肌についた泡を流し、水切り籠へ食器を伏せると、アルジュナがしなやかに手を伸ばし拭いていった。
    「あの家、見に来ませんか?」
     彼は絶対にこの誘いを口にすると決意してやってきたようだ。
     ステンレスの洗い桶に、水は半分注がれている。泡は完璧に空気を内包し、カルナの指のつくる水流を内外でかわしながら虫の翅めいた黒い縁取りを帯びている。シンクの反射は左右の前腕の上に斜めに被さる薄墨色の光。コンロ脇の一輪挿しで父より送られてきたヒメヒマワリが灯りに見蕩れている。窓にかかる西日の名残がキッチンのそこかしこで粘つき融解する。後ずさるとテーブルの脚に触れた。カーテンで仕切られた寝室の床にはバスケットいっぱいの紫陽花の造花。紫色と緑色の混色、見られたくないな、とふいに羞恥に襲われた。父に愛されている証を。手を拭き、シンクの縁を掴んで視線を落とす。紫陽花はきっとバスケットの中で身動きの一つもしないだろう。
    「いまさらあの家を見に行って、オレにどうしろと言うんだ?」
    「私にそれしか手札がないんです。十三年会っていない間に、カルナがなにを好み、なにを大事に思うようになったかまったくわからないんですよ。知っているのは、貴方があの家をとても大事に思っていること。家族で会うときはいつも私が訪ねてましたね。母に聞くとカルナがよその家に行くのを好まないからだと教えられました。貴方に価値があったと思うものを盾にするしかないんです。私にはあの家が頼りなんです。あるいは、他にいま大切に思うものを教えてくれますか? カルナに喜んでもらうためならなんでも用意します」
    「昔のオレはそこまでしてもらえるほどお前を助けていたのか? 違うだろう?」
    「そんな、初めて会ったときは八歳で、別れたときだってたった十歳の貴方に、私を助けるだの救うだのできた筈がないでしょう。ましてや私はもっと子どもで、カルナの救助の意味もわからないのに」
    「じゃあどうして」
    「そんなの、こっちが聞きたいですよ」
     アルジュナが肩をすくめる。見てください、と舌を出し、半端に焼き付いたカルナの模様を指し示す。
    「これ。完全じゃないから、ふつうに生活する分にはなんの効果もないんですってね。じゃあなんで私は十三年間毎晩貴方としたキスを夢に見るんですか。初めてのオナニーのときも疼いてここをいじりながら精通しました。わかりますか? いまだにお前に抱っこされる感触で抱き枕相手に腰を振って夢精してるんですよ。毎朝恋しくて泣きながら目覚める自分が情けない」
     きょうだってホールケーキを持ってこようか迷ったんだ。お前だって後ろめたく思うくらいには私の味を覚えているだろう。あのときと同じ味の舌には堪え性なく欲情すると思った。だけどケーキの箱を持った私を見たらより警戒するだろうし、避けられて会えないのは嫌だ。ケーキは家を出る前に四号を一人で食べた。勿体なかったから。
    「お前にとって大事だったあの家を維持し、お前の理想の伴侶になるために自立するしか私にはやりたいことがなかった。結婚してくれるでしょう?」
     いま、アルジュナを抱き締めたら、とカルナは考える。
     彼はカルナを抱き返して唇を求め、カルナの舌は待ちかねていたみたいに彼の舌に絡む。のぼせ上がったカルナがアルジュナを寝室に呼び、紫陽花の入ったバスケットになど目もくれず服を脱がせ首へ縋り付く。抱く腕の強さを緩めたりなんて考えない。ひたすら彼をきつく抱擁し、恋しくてたまらなかったみたいに涙を流して早々に脚を開く。
     一瞬で想像できた。嫌悪感はなく、それはカルナにカルナを捨てさせるような惨めな未来でもなく、カルナを擽り笑わせる望ましい未来でもなかった。
    「結婚する。あの家を見に行く」
     彼は目を閉じ、たちまち開いた。カーテン越しに差し込む街灯の明かりがぼやけ、けぶるように瞳を洗う。
     別れ際アルジュナを惜しく思う気持ちがカルナの心に氷を張った。その上を渡らせるように、モスグリーンの傘を差し出す。
     彼が濡れずに帰れてほんとうに良かった。
     彼はまた空を見上げてから駆けだした。
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