月の向こう側「お~!イカ焼きに焼きトウモロコシ焼きそばたこ焼き~!!」
提灯に灯る光と同じ色の空の下、長い参道にずらりと並んだ屋台から漂う、香ばしい匂い。クンクンと鼻を蠢かせ、瞳を輝かせたルフィは、一緒に来た友人たちの中から飛び出し一番近い屋台に向かって走り出した。
「ルフィ!」
「急に走ったら……あ、」
「……っと」
だが、一歩踏み出したところで、目の前を横切った男性にぶつかってしまう。
「ごめんな!——じゃなくて、スイマセン!」
学校でもたびたび、目上の人間に対する言葉遣いがなっていない、と注意してくる教師の言葉を思い出し、慌てて頭を下げる。
そんなルフィにぶつかってしまった相手は、「気にしないでいいぞ」と笑った。ふわりとふってきた優しい言葉と、軽くてのひらで頭に触れてきた、そのあたたかい仕草。ほっとして顔をあげたとき、ふと、既視感を覚えた。
ただ、相手は淡い金の髪に青い瞳。ルフィの知り合いに外国人などいないのに。
「すごい人だからなぁ……って、あれ?」
けれど向こうも、ルフィの顔に見覚えがあったらしい。流ちょうな日本語で、体を少し屈めて、ルフィの顔を覗き込んできた。
長くすらりとした指が、目の下、頬に残る薄い傷跡に触れる。
「——もしかして、ルフィ、か?」
見知らぬ人に突然触れられ名前を呼ばれたことよりも、触れられた瞬間勢いよく注ぎ込まれた記憶に、一瞬、呼吸が止まった。
——提灯の中で踊る、炎のかたち。
屋台からは香ばしい匂い、甘い香りが漂ってそぞろ歩きする人々を誘う。広場に目を向ければ、祭囃子にのって、浴衣や法被姿の人々が楽し気に踊っている。
『ルフィ、そんなにきょろきょろしているとはぐれるぞ。さあ、手を繋ごう』
くすりと笑う声に首を動かせば、ルフィよりも頭一つ分大きな少年が手を差し出して——。
「……サボ?ほんとにサボかっ?!」
幼い頃、近所に住んでいた三つ年上の幼馴染。異国の血が混じっているとかで、小学校では、まるで王子様のようだといつも女子に囲まれていた。だが、そんな人気者の少年は、登下校にはたいていルフィと一緒で、放課後もいっぱい遊んでくれた。
祖父と二人暮らしのルフィにとって、幼馴染というよりは兄のような存在だった。
突然引っ越してしまってから、確か十年ほどたつとはいえ、すっかり忘れてしまっていた。大事な幼馴染に内心申し訳なく思いながら名前を呼ぶと、「そうだ。おれだよ、ルフィ」と嬉しそうに抱きしめてきた。
せっかく幼馴染と久しぶりに再会できたのなら、と親友たちが遠慮して立ち去っても、クラスメイトの女子がひっきりなしにサボ目当てで声をかけてくる。中にはルフィがサボに抱きしめられている姿を遠くから見ていた女子もいたようで、「やっぱり外国の人って軽いハグとかキスがあいさつなんですか?」と初対面の相手に対して馴れ馴れしすぎるほどの近さで話しかけていた。
「親しい相手なら、ね。……行こうか、ルフィ」
だが、そんな相手のあしらいに慣れているらしいサボは、口調こそ穏やかだがきっぱりとした態度で女子高生たちの包囲をあっさりと振り払い、ルフィに手を差し出した。
きゃあ、と抑えた悲鳴がどこからかあがる。ついさっき抱きしめられた時も同じで、その時は気恥ずかしさに思わず体を押し返して離れた。
だが、今は。
サボの青い瞳に一瞬見惚れていたルフィは、吸い寄せられるようにその手を取った。
* * *
気が付けば、空の色は薄藍へと変わっていた。
集まる視線がいい加減煩わしい、と呟いたサボが、子どもたちで賑わう屋台で狐の面を選ぶ間、ふと、上へと視線が向く。
空には、細く空に弧を描く月。笑った口元にも見えるそれが、不意に、水面に映った影のように揺らいだ気がした。
まさか、と目を擦ってもう一度見上げれば、気のせいで。月がその軌道を往く姿が肉眼でわかるはずもなく、月はいつものように、ただそこに静止しているように見える。
その時また、既視感を覚えた。
届くはずのないそれを掴もうと——脳裏を過ったそれが、どこかで見た光景なのか夢なのかわからなかったが、うんと背伸びして手を伸ばしてみる。
「——おい」
その手首を、背後から伸びてきたごつい手が掴んだ。ぐい、と痛いほど強く引っ張られるまま、体が反転する。
「!!」
手首を掴んだ力の強さや感触から大人の男だろうとすぐにわかったが、向かい合った男の風貌は想像もしなかったもの。ぴしり、と体が強張らせたルフィは、ごくり、とつばを飲み込んだ。
黒のようにも暗い赤にも見える浴衣の胸を大きく着崩したその男は、どう見ても、映画やドラマの中でしか目にしたことのないその手の人間。先程のようによそ見をしていてぶつかったわけでもないのに、鋭い視線で睨んでくる男に、すう、と血の気が引いた。
ただ、ルフィの怯えを感じ取ったのか、う、と小さく呻いた男が気まずそうに視線を外した。掴まれた手首はそのままだったが、力は簡単に振りほどけそうなほど弱くなる。
前にも、同じようなことがあった。
——泣きじゃくるルフィに憎まれ口をたたいて、無理やり腕を引っ張って立たせようとする、乱暴な年上の少年。
だが、決してルフィに意地悪をしたいわけではないと、すぐにわかった。
一瞬泣きだしそうに表情を歪めて、ルフィがそれに気が付くと、ふい、と目が逸らされる。そして、ぶっきらぼうに押し付けられた、赤いヨーヨー。
螺旋と水玉模様がくるくると動く不思議な水風船を覗き込めば、小さな赤い魚が、ルフィに挨拶するかのようにひれを振って飛び跳ねた。
泣いていたことなど忘れて目を輝かせれば、少年もしかめ面を緩ませ笑みを浮かべた。
『いくぞ、ルフィ!あっちに、もっとおもしれェもんがあるんだ!』
腕をつかまれるのではなく、今度は、指を絡ませるようにしっかりと手を繋いで賑やかな音が鳴る方へ——。
「……エースっ?!」
蘇る記憶と共に浮かんだ名前を驚きとともに呼べば、一瞬、少年のころの面影が喜びとなってよぎる。それでももう、あの頃のように笑ったりしないのか、口元が僅かに緩んでいるように見えるだけ。それでも表情が柔らかくなったことで、ルフィの体からも緊張が解けた。
エースも、サボと同じく三つ年上の幼馴染だ。近所でも評判のガキ大将で、学校でも公園でも、まるで王様のようにふるまっていた。ルフィもエースいわく子分の一人だったが、遊ぶときはルフィ一人だけは離れるな、といいつけられて、一緒にジャングルジムの上でお菓子を食べたり、二人だけの秘密基地を作るぞ、とあちこち連れまわされたりした思い出がある。
サボが優しく甘やかしてくれる兄なら、エースは、一見乱暴に見えても実は面倒見のいい、頼りになる兄だった。
そういえばエースも、サボと同じころに引っ越してしまった。そのあとまったく連絡が取れなくなってしまっていたことが二人を忘れた原因だろうか、と心に引っかかりを覚えた時、掴まれたままだった手が、やんわりと外された。
「——大丈夫か?ルフィ」
「サボ、」
うっすらと指の痕が残った手首に、つるりとした、狐の面が触れる。偶然だろうが、それは、にんまりと笑っているように見える口の部分。
一瞬、心臓が跳ねた。
クラスメイトの女子に見られたら、また揶揄われる。その焦りのせいだと思うのに、とくとくと早く鳴る鼓動は止まらない。
まさかルフィの心音が聞こえたわけではないだろうが、再び険しい表情に戻ったエースが小さく舌打ちする。
「やめろ、エース。ルフィが怖がってるだろ——また逃げられたらどうするつもりだ?」
「抜け駆けしようとしてなかったか?サボ。——それにあんときは、」
「……サボ?エース……?」
三度目の既視感は、ぞくりと、背筋を泡立たせた。理由もわからず震えた声に、二つの声が同時にルフィの名を呼んた。
――終わらない祭囃子と明けない夜の間に見た、長い夢。
半ば夢に囚われたまま時折目を開ければ、ふさふさのしっぽがふたつ。寄り添うように眠るお日様と夜の色を纏った狐は、ルフィが目覚めたのを知ると、夢の中よりも成長した姿に転じてぎゅうぎゅうと抱きしめてくる。
そうして、帰したくない、と切なげに耳元で囁くのだ。
『ルフィ、大きくなったら、おれのお嫁さんになろうか。そしたらずっと一緒に居られるぞ』
『ルフィ、お前はおれのもんだ。ぜってェほかのオスの臭い付けさせんじゃねェぞ』
そんなの無理だと応えれば、また、眠りの世界へ引き戻され――。
はっと我に返れば、いつのまにか、同じ狐の面をかぶったエースとサボに、指をしっかりと絡めて手を繋がれていた。
「いつまでも待たせてんじゃねェぞ、ルフィ」
「おれたちの、花嫁。——さあ、帰ろうか」
揺らいだ月の形が、笑みに変わる。近づいてくる面は、狐の形をしていた。
了