naked くぐもった音を合図に前方の景色が開かれたのを見て、ビリーは雨が降り出したのだと悟った。車窓に流れゆく景色は変わらず、等間隔で背の高い街灯をうつし出している。きれいに舗装された広い道には人はおろか他の車だって見当たらない。眠らない街・ニューミリオンでもさすがに深夜のハイウェイは閑散としていた。
「もうそろそろブルーノースに入るヨ。サービスエリアがあるけど寄る?」
「……まだいいかな」
ビリーは僅かに眉を上げ、スマートフォンの灯りを消した。それならばしばらくナビゲーションの必要は無い。出る幕なしだ。口を閉ざしてしまえば、そこに残ったのは息が詰まるほどの静寂だった。タイヤがアスファルトを削る低音を背後に、フロントガラスに降り注ぐ霧雨を拭うワイパーの間抜けな音だけが続く。彼の実家の車とは違ってエリオス社貸し出しの車のシートは硬く、けれどそれよりも遥かにぶっきらぼうな返事の方が固かった。ビリーくんは大丈夫? トイレとか平気? 普段ならかけられるであろう言葉もかけられないほど、今のふたりの間には薄く張り詰めた氷のようななにかがあった。
喧嘩をしたわけでは無かった。喧嘩と言うにはふたりが醸し出す雰囲気は悪くなさすぎた。ただ日中のトレーニングで一瞬だけ意見の相違が生まれて、その場では譲り合って、ぶつかりあっていません、べつに喧嘩なんてしてませんなんて顔をしながら少しずつ膨らむ蟠りを持て余した、それだけ。ビリーにはひとつ心に決めたことがあって、自分の考えや想いは思っている以上に彼には伝わっていないのだとしっかり心に留めて、だからこそちゃんと自分の想いを言葉にして伝えていこうと思っていたのだけれど。どうしてもその場での空気だったり相手を不快にさせたくないという気遣いだったりが先走ってこんな時ばかりよく回るはずの口が回らなかった。だけどきっとそれは、グレイも同じことだった。
「……」
「……」
手持ち無沙汰になって、でもハンドルを握っているグレイのことを思うとスマートフォンを弄る気にもなれなくて、ただただビリーは車窓の中の景色を眺めた。こんなときでさえグレイの運転は丁寧で、きっと相当年季も入っているであろう社用車の古さも感じさせないほどに穏やかだった。グレイの左膝の近く、ハンドルのすぐそばでは黄緑色のシンプルなネームキーホルダーが揺れている。いつまでも浮かない顔をしたグレイの様子に見かねたジェイが、数時間前に総務から借りてきたものだった。『明日はオフなんだろう、たまにはドライブでもしてきたらどうだ』。そんな言葉とともに手渡されてグレイはひどく困惑していたし、てっきり厚意だけ受け取って実行には移さないと思っていたものだから、一度は床に就いたグレイがのそりと起きて鍵を握ったときにはビリーも驚いた。
どうしたの、どこ行くの。……せっかくジェイさんが借りてきてくれたし、と思って。こんな夜中に行くの?会社の車なんて乗ったことないから、車通りが少ないほうが怖くないかなって。……俺も行く。そんなやりとりをしたのがほんの三十分ばかり前のことだった。駐車場を出て高速道路の入り口に向かい、セントラルスクエアから環状線に乗り込むまで。ふたりの間にこれといった会話は無かった。
夜のハイウェイはどこか底知れぬ恐ろしさに包まれている。霧雨に紛れて何処にでも行けてしまうのだと、浮き足立つような心地になる。ビリーは多少強引でもグレイのドライブに同行したことに安堵した。ほんとうはついてこない方が良かったのかもしれないけれど、こんな夜の道にグレイをひとりぽっちにさせるのを想像しただけで背筋が心許なくなったから。
代わり映えのない景色に飽きて、運転席を盗み見る。普段は気配を隠すように丸められた背がしゃんと伸び、俯きがちな琥珀色の瞳は真っ直ぐに前だけを見据えている。ハンドルに添えられた両手の長い指も、時折バックミラーを見て後方を確認するのも。ぜんぶが丁寧できめ細やかで、だからビリーはグレイが運転している姿を見るのが好きだった。
「……今日、さ」
「……」
仲直りがしたいな、と思って、だからこそまずはちゃんと伝えなければと思った。グレイとならば苦手なはずの沈黙だって心地よいけれど、できることなら楽しいドライブがしたい。その一心だけがビリーの喉を震わせた。
「トレーニングの模擬戦のとき、取りこぼしたエネミーもぜんぶ拾おうとしたデショ」
「……うん」
「あれ……ちょっと、結構嫌だった」
「……、うん」
グレイの攻撃を逃れた模擬戦用のエネミーが飛んできてさあ討ち落とそうと構えた瞬間、振り向きざまにナイフを振り下ろしたグレイに横取りされる形になった。あのときグレイの身体の軸は大きくぶれていて無理をしていたのは明白であったし、あれが本当の戦場であれば決して褒められた行動ではないのも確実だった。今のはオイラが拾えたのに、といつもの調子で訴えたものの、声色に紛れもない苛立ちが混ざってしまって一瞬だけその場が凍りついたのを覚えている。息の合ったコンビネーションを売りにしているのに、どうしてビリーの攻撃を阻むような行動に出たのか。その場では何事もなく収束しても、ビリーの中にはずっとしこりが残ったままだった。
「グレイ、信じてほしいって言ってたじゃん。それはああいう場でもそうじゃないの? まるでひとりで戦ってるみたいで……オイラのことは要らないって言われてるみたいで、嫌な気持ちになった」
「……うん……、ごめん」
自分でもわかっていたのだろう、ひどく小さな声でもそこに驚きや絶望は滲んでいない。そればかりか、ようやくグレイが張り詰めていたものが少しだけ緩んだような気もした。
「要らないなんて思ってるわけじゃないよ。ただ……、僕も、その、思うところがあって」
「……なに?」
顔ごとグレイに向けて言葉の続きを待った。環状線を走る車は一定のスピードを保ちながら、今度はふたりをグリーンイーストヴィレッジへと導いていく。
「……午前中、サブスタンスを回収したとき、右の手首を痛めたでしょ」
「……!」
「ビリーくん、何も言わないから……平気なのかと思ったら、僕には何も言わないで医務室行くし」
気付かれていたのか、とビリーは視線を俯けた。以前怪我を負ったときのことを活かしてすぐに治療を受けたから今はもう完治したと言ってもいいくらいだけれど、午後のトレーニングでは少しだけ右手を庇う動きをしてしまったことは否めない。
「怪我したり本調子じゃなくたって、無理にいつも通りにしなくてもその分ほかでカバーすればいいと思う…………し、それに」
「それに?」
「…………言って欲しかった。僕には」
心配の中に寂しさが混ざっているのをビリーは聞き逃さなかった。固くなっていた心臓が柔らかく解れて、静寂が耳に馴染んでいく。一度俯いてからふたたびグレイの横顔を見る。普段通りの横顔がそこにはあった。
「……うん。ごめん。ごめんネ、グレイ」
「……僕のほうこそ。ごめんね、ビリーくん」
「ううん、ありがと……これからはちゃんと言うから」
「うん……僕も。ちゃんと言うよ」
ウインカーの乾いた音が三回響き、車はそっと本線から外れていく。ビリーは看板を仰ぎ見た。グリーンイーストヴィレッジに降りる出口だ。
「高速降りるの? もう帰る?」
「うん……下道でこのまま帰ろうかなって……」
「そっか」
「……ドライブもいいけど、やっぱり……お部屋でゆっくりお話し、したくて」
ビリーが顔ごと振り向いたのを視界の端で捉えているだろうに、運転中のせいで顔を背けることも許されないグレイは居た堪れなさそうにくちびるを噛み締めた。頬から耳にかけてが真っ赤に染まっている。
「俺っち、思うんだけど」
「な、なに?」
「仲の良さがアドバンテージだと思うんだよネ、オイラたち」
「……う、ん」
うれしさなのか照れ臭さなのか、グレイのくちびるが不規則に動いていておもわず噴き出しそうになる。なんだか煩わしくなってビリーはゴーグルを首元に落とした。
「でも、まだまだこれからなんだなって。だってまだ全然上手に喧嘩もできないの」
「……!」
「ね、グレイ。これからもたくさん話し合おう。たまにはぶつかったり喧嘩することもあるかもしれないけど……そのときは、またこうやってドライブしながら向き合おうよ」
グレイの長い睫毛が忙しなく瞬き、唇は何かを告げようと開いては閉じを繰り返し、そうして。込み上げる想いをいっぱいに閉じ込めたグレイの横顔が、『うん』と大きく頷いた。
「えへへ。下道走るならオイラがしっかりナビゲートするネ!」
「……ふふ、よろしくお願いします」
「普段護ってる街だからある程度は頭に入ってるケド……敢えて海沿い通って帰らナイ?」
「あ、いいね……それならスタンドに寄って飲み物買おうか。ちょっとだけ海で涼もう」
「ヒュ〜! 夜のエメラルドビーチ! 深夜のドライブって感じでいいネ」
高速の出口を抜けた車はスピードを落としながら坂を降り、グリーンイーストの大通りへ滑り込む。疎らな街灯と静けさがふたりの乗る車を出迎えた。まるでこの街に居るのがビリーとグレイのふたりだけであるような気にさえなってくる。ひとりきりなら押し潰されてしまいそうな夜でも、隣にグレイがいるだけでやさしいものになるのだから不思議だ、とビリーは思った。つよがりを脱ぎ捨てたばかりの心がグレイのことを求めている。ビリーはなにも纏わない瞳でグレイのことを見つめた。ハンドルを優しく握り、深夜で誰もいない道でもウインカーを出す。極力ビリーに負担が掛からないよう、蝶が舞うように交差点を曲がる。ただ唐突に漠然と、このひとのことが好きだ、と強く感じた。
「……ねえ、グレイ」
「うん?」
「次信号で止まったらさ、五秒だけこっち向いてヨ」
「え……う、うん。わかったよ……」
どうして、と顔に大きく書いてあるのでビリーは素直に教えてあげることにする。きっとその不安げな表情が一瞬で崩れてしまうのだろうなと思いながら。
「仲直りのチューしたいから」
「! な、なか……っ⁉︎」
「ホラホラちゃんと前向いて! 次の信号を左ネ」
「あ、ぅう〜っ……」
手袋なのかハンドルの革なのかが軋むほどに力強く拳を握りながら『はわ、あの信号もうすぐ変わっちゃいそう……』などと半泣きで言うので、とうとうビリーは噴き出して大きく笑った。ビリーの笑い声とグレイの呻き声に混ざって、慌てた右手に操作されたワイパーが元の位置に戻っていく。フロントガラスを濡らしていた細かい雨は、いつの間にかすっかり止んでいた。