マジック・アワー「ロニー・ビードルよ」
きれいに切り揃えられた桜貝のような爪が、音もなく一枚の写真を差し出した。ご挨拶だな、とビリーは思う。ゴーグルの中で目を細めながら肩を竦めてみせる。こちとらまだ店に着いて席に座ったばかりだというのに、間髪入れず仕事の話ときた。無駄がないのは嫌いじゃないが。
胸元がざっくり空いた漆黒のワンピースを纏った彼女は、どうやらビリーと視線を合わせてくれるつもりは無いらしい。小さな顔がすべて隠れてしまいそうなほどのサングラス。ビリーが言えた義理ではないが素顔を露わにしたくないのだろう。緩くウェーブがかった明るい茶髪を耳に掛け、それきり彼女は俯いた。
ビリーは彼女を一瞥してから店内に視線だけを滑らせる。夕暮れのアンクルジムズダイナーは取引の穴場だ。ディナータイム前で客が疎らな時間帯、一番奥のボックス席に呼び出されたビリーを待ち受けたのは一人の女性と、テーブルの上で冷や汗をかいているブラックのアイスコーヒーだった。ニューミリオン随一の情報屋という肩書きだけが先走ったらしく、店に着いたビリーが席に座るなりその若さに彼女が僅かに驚いたような素振りを見せたのがほんの十秒前のこと。アンクルジムズダイナーならばチェリーサイダーかジンジャーエールが良かった。そんなことを宣える空気では無く、ビリーは仕方なくアイスコーヒーのストローに口をつけた。なにせ目の前の女性の口元が、上がった肩が、話の真剣さを物語っていたからだ。
「この写真の人が? なかなかイケメンだネ」
アイスコーヒーの隣に差し出された一枚の写真を手袋越しの指がつまみあげる。そこにはひとりの人物が写っていた。パーツひとつひとつに特徴が無いせいで印象に残りにくい顔ではあるが、鼻筋も通っていて清潔感のある男だ。歳は自分と同じくらいか、それとも——と思ったところではたと気づく。
「これ、セントラルハイスクールの制服じゃん。てことはまだ学生サンだ」
「……そうね」
ニューミリオンが誇る名門校だ。薄いブルーのワイシャツにはビリーも見覚えがあった。しかもこの写真の角度は。
(……隠し撮り)
一気にきな臭くなってきた。顔は写真に向けたままビリーは正面に座る女を見る。手持ち無沙汰そうに爪先を弄っているが、先ほどよりも口角が硬くなっているのが見て取れた。
「彼のことを調べてきて欲しいの」
「彼の、何を?」
間髪入れずに訊き返したことでようやく彼女の真顔が崩れた。小さな唇を開いては閉じ、サングラスの向こうの視線を忙しなく泳がせる。ビリーはいつもの調子で笑い飛ばした。
「ソーリー! こっちも商売だからネ。お客サマのご要望はしっかり把握しておかないと、対等な取引ができないデショ?」
「……」
「ロニー氏の名前は知ってる、通っている高校も。きっと出身地や誕生日なんかも知ってるヨネ。彼のパーソナルな情報ならオイラよりよっぽどキミの方が詳しいんじゃナイ? それを差し置いて、彼のどんな情報が欲しいのかを教えてヨ」
「…………恋人の、有無を」
ビリーは片眉を上げた。強固なガードに包まれた真実が少しずつ露わになってゆく。彼女は居ても立っても居られなくなったのかいささか手荒な動作でカフェオレのグラスに手を伸ばす。ビリーの無言の目線に耐えられないのだろう、その表情には僅かに焦りと怒りが滲んでいた。
「報酬を払えばどんな仕事も引き受けてくれるんでしょう?」
「ははっ! 基本的にはそうだネ。ただありがたいことにこれでも依頼が殺到しててね。最近は仕事を選ばせてもらってるんだ」
「なっ……」
半分嘘で半分本当だ。情報屋としての仕事が舞い込んだのはずいぶん久しぶりだった。最近は常連からの継続的な依頼を中心に絞り、新規の依頼は仕事の内容で引き受けるかどうかを判断している。決め手はふたつだ。ヒーロー業に支障を来さないこと、それから、見知らぬ誰かを傷つけることのない内容であること。
昨晩SNSのアカウントにダイレクトメッセージが届いたときには比較的軽そうな仕事に見えたので、二つ返事で今日の呼び出しを了承したものだ。だがいざ突いてみればどうだ、彼女のサングラスの奥に潜む真相は後味の悪そうな仄暗さを纏っている。ビリーの情報がきっかけで、会ったこともないロニー・ビードルが彼女からの危害を受ける結果になることだけは避けたい。そうなる可能性が少しでもあるのならばこの仕事を引き受けるわけにはいかなかった。たとえ彼の恋人の有無を確認することが、ビリーにとってどんなに簡単なことであったとしても。
「もちろんその情報を調べてくること自体は可能だヨ。そうだな……三日、いや一日もあればお渡しできちゃう」
「報酬は言い値を支払うわ。今すぐにとはいかないかもしれないけれど……」
「報酬だけじゃ受ける理由にはらならないな。俺っちの質問に正直に答えられるなら考えてあげる」
「なに、」
「キミと彼の関係は?」
カラン、とアイスコーヒーの氷が音を立てて踊った。ビリーと彼女のあいだには、店内に流れる軽快なカントリー・ミュージックだけが揺蕩っている。ビリーは指いっぽん動かさなかった。ゴーグルで目元が見えない人間に射竦められることへの底知れぬ恐怖は自覚していた。爪と同じく桜色をした薄いくちびるが、一度ぎゅっと噛み締められる。彼女の肩はみるみる小さくなるようだった、否、虚勢を張ってみせていただけでこれが本当の姿なのかもしれない。
「……幼馴染よ」
「……えっ」
凄腕の情報屋と謳われるには情けなさすぎる声が飛び出して、ビリーは小さく咳払いをする。細く小さな指がサングラスを剥ぎ取る。大人びた衣服やアクセサリーからは対照的な、化粧気のない素顔が飛び出した。
「彼、同級生なの」
「……キミも、セントラルハイスクールの学生ってこと?」
「いいえ、わたしはノースの高校に通っていて……彼とは家が隣同士」
「……」
ビリーは言葉を失いつつも、少しずつ明らかになる真実に全身の力が抜ける思いがした。ようやくまじまじと見ることをゆるされた彼女の表情。頼りなく朱に染まり、所在なさげに大きなひとみを泳がせていて、一般的にいだかれるであろう感情を形容詞に当て嵌めるなら、いじらしい、なのだろうとビリーは思った。
「好きなの。ロニーのことが、ずっと昔から」
(……ああ)
こんな少女にみなまで言わせてしまった。情報屋としての洞察力はどこへ置いてきたのだろうか。ビリーは自身の言動を恥じた。まだうら若き彼女は、きっと決死の思いでビリーのことを頼り、手探りで大人に扮して今日ここへやってきたのだ。そう思うとアイスコーヒーがやけに甘ったるく感じ、気道のあたりが痒くなるような気がした。
「……わかってるわ。そんなの自分で訊けばいいって言うんでしょう」
「……」
「でも訊けない、それだけは訊けないの。ロニーは名門校で忙しいはずなのに今でもわたしなんかと遊んでくれるけれど、彼が学校でどんな交友関係を築いているのかは知らない」
不安でしかたないの、彼がだれかと恋人同士になってしまうことが。
消え失せそうな声だった。恋という名の病に心臓を蝕まれた、あわれで美しい少女。その横顔に反射する橙がゴーグル越しでもまぶしく目に映る。この席はアンクルジムズダイナーの中でも西陽がひどく射し込む席なのだ。ふとビリーはそのことを思い出した。
——ビリーくんの髪、いつも以上にオレンジ色で綺麗だね
「…………」
「……怒らせたなら謝るわ、ミスター・ワイズ。でも……」
「訊けないヨネ。距離が近い相手なら尚更」
「え?」
髪と同じ亜麻色の長い睫毛が瞬くのを他所に、ビリーは羽織っていた薄手のジャンパーのチャックを摘み下ろす。徐に脱ぎ捨てられた上着の下に隠されていたものが特有の職業をあらわす制服だと知り、少女は驚きの表情をみせた。
「あなたって……」
「ゴメンネ。やっぱりキミの依頼は受けられないや」
「……どうして、」
「だって勿体ないデショ、こんなことで大事なお金使うの」
流石に昨日今日知り合ったばかりの相手に無償で情報を提供してあげるほどビリーは献身的な性格をしていない。だからといって、胸を締め付けられる想いに途方に暮れそうな顔をした少女のことを放って置けるほど無慈悲な人間でも無いのだ。ビリー・ワイズという名のヒーローは。
「キミがオイラに支払う予定だった報酬は大事にしまっておいて。ロニー氏のために使うんだヨ」
「え……」
「う〜ん、ノースならアンシェルが新しく出したランチメインのお店があってそこが美味しいんだけど、学生にはちょっぴりお値段が高めカモ? 新しい場所を開拓するならイーストのエメラルドビーチ沿いにあるカジュアルフレンチがオススメ! 気張りすぎなくていいし料理もぜんぶ美味しいヨ。なにより食事しながら海が眺められる!」
「っ? ちょ、ちょっと、」
「ボクちん探偵みたいなこともしてるんだけどさ、サウスの中通りから一本入ったところで変な音が聞こえるって情報聞きつけて確かめに行ったら、どう見ても普通の民家なのにオシャレなカフェだったってことがあって! あの店もデートにピッタリだと思うんだヨネ」
「あの、まって……!」
水をさしてくれるなと不満気にも見える表情を寄越せば、少女は狼狽えたまま『えっと、その』と言葉にならない声を発した。息継ぎのついでにアイスコーヒーをひとくち啜り、彼女の考えがまとまらないのにもお構いなしでビリーは続ける。
「だれよりも大好きで、一番になりたくて、ずっと近くに居たくて、誰かのものになってしまうのがなにより恐ろしくて」
「——!」
「でも今の関係が壊れちゃうのはもっとこわくて訊けないんだよネ」
そうでしょう、と同意を求める気持ちを口角に乗せた。
「……そう、そうなの。もう彼が会ってくれなくなったらって、そればかり考えちゃってわたし、」
「家が隣同士っていうステータスだけで首の皮一枚繋がってるんじゃないかとか思い始めちゃって」
「っ、そう……!」
「一緒にいて楽しいし相手からの好意もちゃんと感じるけど、こんなふうに重たい気持ちを抱えているのは自分だけなんだろうなって」
ぎゅっと狂おしそうに歪められた顔が大きく頷いた。彼女がようやっと年相応の顔になった瞬間だった。ビリーは用意されていた飲み物がブラックのアイスコーヒーで良かったと思う。ふだん好んでは飲まないそれの、冷たく透き通るような苦さに今だけは救われる気がした。
「みんなね、ぜったい好き同士よって言うの。いくら家が隣でも、ふつう高校が離れ離れになったら疎遠になるものだって」
「そんな簡単な話なら苦労しないのにネ。上辺では両想いに見えたって周りからの印象でしか無いんだから……本当のことは、ちゃんと言葉にして伝え合わない限りわからない」
「……ヒーローっていうのは恋愛が難しいものなの?」
「え?」
まさか彼女の興味がこちらに向くとは思わず、ビリーはサマーブルーを丸くする。高揚した気持ちを落ち着けるようにカフェオレに刺さるストローに口をつけてから、彼女はビリーに向かってそっと笑んだ。
「わかるわ。あなた、さっきからわたしのことじゃなくて自分の話をしてる」
「!」
「わたしの話をこんなに親身になって聞いてくれる人もはじめて……わたしたち、もしかして境遇が似てるのかしら」
暗に想い人がいることを言い当てられ、ビリーは苦笑いを返すことしかできなかった。どうだろうネと言葉でははぐらかしてみるものの、すっかり素顔の表情を包み隠さなくなった彼女のひとみが意味深に細められたのが全てだ。
「……ま、普通の職業に比べたら難しいのかもしれないケド。べつに禁止されてるわけでもないしネ! オイラはヒーローという仕事自体は障害にはならないと思ってる」
「じゃあ、仕事は関係なく、近しい人に片想いをしてるのね」
「…………」
諦めて肯定も否定もせずアイスコーヒーを啜る。亜麻色の髪がゆらめき、切なげにもうれしそうにも見える微笑みが降った。大人の女の仮面の下は気が弱い可憐な少女かと思っていたが、案外明るい性格をしているのかもしれなかった。
「ほんとはわかってるのよ、彼に恋人がいないことくらい」
すっかり嵩の減ったカフェオレをストローで弄びながら彼女は言う。伏せられた瞳はどこか達観しているようにさえ見える。
「恋人ができたならきっと真っ先にわたしに教えてくれるはずだもの。恋人がいるのに異性の幼馴染に構いきりなんて、ロニーはそんな無責任な人じゃない」
「たしかに。そう見えるヨ」
「安心したかっただけなの。まだ一番はわたしなんだって……そのためにあなたを利用して、わたしは自分を可愛がりたかっただけ」
ごめんなさい、と正面から謝られ、ビリーは唇を結んだ。自分より歳下で、まだ学生で、まっすぐで、弱くて強い彼女のことが、それでもビリーは自分に重なって見えて仕方がなかった。ひとつだけ違うのは、彼女には行動を起こす勇気があってビリーにはそれが無いことだ。いつからこんなに臆病になってしまったんだろう。失うことも、壊すことも、なにもかもが恐くて、今が一番しあわせだと言い聞かせながらでしかビリーは想いびとの隣に立てなくなってしまった。
「あ、失礼……、」
ポンと明るい通知の音が鳴る。電話ではなくメッセージの報せのようだった。ビリーの手首から爪の先ほどまでしかない小さな鞄の中から、彼女はスマートフォンを取り出す。親指を一度動かしたきり僅かにひとみを見開いて固まってしまう。それでなんとなくビリーは、彼女に連絡を寄越した人物の姿が想像できた。洞察力は無くなってはいなかったらしい。手にしていたままの写真を見下ろし、ふたたび彼女を見上げて言った。
「使えるものはいくらでも利用していいと思うヨ。それで安心していられるならね」
「……今夜会える? だって」
「んふ、今夜と言わず今から会いに行ったら?」
残り少なくなったカフェオレを飲み干し、一度大きく深呼吸をする。閉じていたまぶたを開いた向こうには、榛色の力強い眼差しがあった。
「わたし、諦めない。彼を好きでいることも、いつまでも彼の隣にいることも……今夜何があったって、何も無くたって。ずっとロニーを好きでいる」
「……ヒュウ! その意気だヨ!」
「ありがとう、ミスター・ワイズ。今日ここでわたしと会ってくれて……依頼を断ってくれて」
「お安い御用だヨ。今後ともぜひご贔屓に」
戯けた口調で胸に手を当てて礼をして見せれば、彼女は今日いちばんの笑顔を咲かせた。屈託のない、人懐こいそれだった。
「次に会った時はあなたのサインをお願いできる?」
「Gotcha! 喜んで書きマス、二枚分ね」
「……あなたの恋も、いつか報われることを心から祈ってるわ」
構わないと言ったのにドリンク代をテーブルに置き、彼女は店を飛び出していく。その背中をしかと見送ってから、ビリーはため息と共にソファの背凭れに身体を沈ませた。
(タダ働きしちゃったな……)
らしくないことをしたとは思うが、不思議と嫌な気分ではなかった。親切心よりも使命感の方が強かったように感じる。後悔はなくとも、着実にビリーの胸をじくりじくりと刺すものがあったのは確かだが。
さっさとアイスコーヒーを飲み干してしまおうと氷で薄くなった黒色を手にしたときだった。すぐそばでガラスを小突く高い音が聞こえ、ビリーは窓を見る。
「——!」
同時にポケットの中のハニーが震え出し、ほとんど無意識のままにビリーは彼女を耳元に当てた。視線は窓の向こうに奪われたままで。
「……グレイ」
『えへへ……おつかれさま、ビリーくん』
いつもの決まり文句さえ飛び出さなかったことを、きっとグレイはビリーが驚いているからだと思っているのだろう。間違いではない。ほんの一秒前まで思考を占めていた人物が窓の外にいたとなれば誰だって驚く。傾き始めた西陽をたっぷり浴びながら、グレイはまるで子供のように笑っていた。
『今日ね、ジュニアくんと一緒にウエストのギターショップに行ってたんだ。ビリーくんもこの辺りでお仕事って聞いてたからもしかしてとは思ってたんだけど……ふふ、偶然だね』
左耳に浴びる声が擽ったくてたまらなくなる。ビリーのテーブルに並ぶもうひとつのグラスに一瞬視線を向けてからグレイは続けた。
『って、急にごめんね、お仕事終わってると思ってつい……だいじょうぶだった……?』
「……うん、今終わったとこ」
『よかった……ビリーくんは、まだここにいる?』
「ううん、ちょうど帰ろうと思ってたヨ」
何故か目が離せなくて、ビリーは彼のことをただひたすらに見つめたまま応えた。先ほどまではきはきと喋っていたグレイが途端に口籠もり、こちらを窺うように視線を泳がせる。ビリーは背を伸ばし、今にもガラスに縋りたい気持ちを堪えながら、それでもグレイのことを瞳いっぱいに閉じ込めて、その言葉を口にする。
「……グレイ、一緒に帰ろ」
『! ……うん!』
蜂蜜を溶かしたひとみが大きくなり、目尻がやわらかく綻ぶ。じくりじくりと突き刺された穴から熱くて柔いなにかが溢れていく。グレイの暗髪が西陽で橙混じりになっているさまは、昔父と一緒に観た映画に出てくるマジックアワーの景色のようだった。ビリーはアイスコーヒーを飲み干し、上着を引っ掴んでその場から立ち上がる。繋がった電話は切らないままに会計を済ませて店を出た。逸る気持ちばかりが背を押して居ても立っても居られなかった。走ったってそう変わりはしないのに、らしくもなく息を切らして短い距離を駆け抜ける。店を出た瞬間の西陽のつよさに目を細めることもなく、傍に佇むグレイへと近づいた。グレイはスマートフォンを片耳に当てたままビリーのことを出迎える。植物の芽生えにも似た破顔の表情は、ビリーの穴の空いた胸を締め付けるにはじゅうぶんすぎた。
「……お待たせ、グレイ」
「ううん、ビリーくん」
会えてうれしい。まっすぐな言葉が今度こそビリーの心臓を貫く。グレイのことを好きで好きで仕方がないと叫びたがる気持ちを抑えこむように通話を閉じ、ビリーは彼の隣に並んだ。
——わたし、諦めない。彼を好きでいることも、いつまでも彼の隣にいることも……今夜何があったって、何も無くたって。ずっとロニーを好きでいる
「……俺も諦めたくない」
あきらめという名の魔物は、いつだってビリーのそばに寄り添っている。ときに優しく包み込み、ときに甘い言葉を吐いて、いつでもビリーのことを手招いている。受け入れたら楽になるとわかっていながらも、ビリーはその手を取るつもりは少しもなかった。
「? ビリーくん、なにか言った?」
「ううん! なんでもナイ」
ビリーはグレイに近寄り、半ば抱きつくようにして腕を絡める。ひょわ、と甲高い声が返ってきたのに狂おしくなりながらも調子は崩さない。
「は〜ヤダヤダ! この時間になると冷えるネ。グレイであったまろっと!」
「ぁ、あわ……僕みたいなひょろひょろの身体であったかくなれる……?」
「もっちろん! くっついてたらあったかくなるヨ」
「ふふっ……ほんとだ」
(もうあきらめない、グレイのこと)
グレイを失うこと、グレイとの関係を壊してしまうこと。どちらもおそろしくて時折足元がたよりなくなる感覚に陥るけれど、一度はビリーが離した手をグレイから掴み直しにきてくれた瞬間から、きっとビリーの中からあきらめという選択肢はすっぱり消え去ってしまったのだ。不安に阻まれながら、諦めることもできずに、往き場の無い感情にみっともなくもがきながらも。それでもグレイの隣に立ち続けていたい。彼のいちばんは自分でありたい。
腕を組んだままグレイの肩に頭を預ける。同じように体温をそっと分け与えられ、ビリーの視界にグレイの横髪が散る。ふだんは夜のように静かな色をした毛先が、西陽に浸されてきらきらと光り輝いていた。ビリーは隣の横顔を見上げた。交わった視線の先、長い睫毛が微笑みのかたちに瞬いて、それが泣きたくなるほどにきれいだった。