暁闇で道化師とワルツ 無理に詰め込まれた札束のせいで張り詰めた茶封筒の角が痛い。着古したフード付きジャンパーの内側で、ひどく尖りを持ったそれは不規則にビリーの左胸を突き刺している。これだから現金払いは嫌なのだ。現金だろうと振り込みだろうと目を輝かせて大袈裟に喜んでみせるのに変わりはないが、受け取ったときの掌に沈みこむ生々しい重さがビリーはいつまで経っても苦手だった。お金は好きでも現金は好きになれないなんて、情報屋が聞いて呆れる。こんな紙切れでいったい何が変わるのか。自分はこんなもののために悪事も厭わないのだ。いやでもそれは父の治療費のためだから。ほんとうに、ほんとうに父は病気が良くなるのだろうか。——がむしゃらになって駆けずり廻る傍らでいつも、冷静な自分が蔑んだ目をしていた。お金が好きで稼ぐことはもっと好き。魔法の言葉だった。
すっかり照明が落とされたエリオスタワーのロビーは、ぞっとするほどに静かである。社員用のカードを翳して居住エリアへ向かうエレベーターを呼び寄せる。音もなく口を開いたそれに足を踏み入れたら、暖房が抑えられているせいか体が勝手に身震いした。肌寒さを紛らわせようとボトムスのポケットからスマートフォンを取り出す。ビリーの相棒でもある愛しき存在は、知らぬ間にどうやら力尽きてしまったらしい。暗転したままのハニーをポケットに戻し、ジャンパーの襟を手繰り寄せた。静寂が煩くてかなわない。口から息を吐いたら白い空気が出そうだ、と思いながらもビリーはそうしなかった。寒いのも、暗いのも、静かなのも。全部嫌いだ。
夜闇に似つかわしくない軽快な音が散って、居住エリアのあるフロアに降り立つ。いつもは明るく賑やかな談話室を横目に広い廊下の中央を突き進んだ。履き慣れたスニーカーとリノリウムの床は相性が良く、ビリーが何歩進んでもその足音は僅かな葉擦れの音にも満たない。ふだん制服のときに履く革靴は足音がひどく響くから、こっそり談話室の会話に聞き耳を立てるときなんかは苦労するのだ。
「……さむ、」
ビリーは母が子を背負い直すように再びジャンパーの襟元を手繰り寄せ、自らの身体に腕を回した。ニューイヤーの盛り上がりもすっかり鳴りを潜めた一月の半ばとくれば、残されたのは凍えるような寒さくらいである。こんな夜は部屋に戻らずに旧友のいるクラブにでも赴こうと思わないこともなかったが、SNSを見るに今晩は彼も部屋で大人しく過ごしているようだった。ああ、寒い。いくら気を紛らわせても寒いものは寒い。
無防備な首元から舞い込んだ冷気が服の下を駆け抜けボトムスの裾から吐き出されていく。それなりに着込んできたはずなのに、真冬の寒さの前ではそれも殆ど意味を成さなかった。握りしめた襟元に顔を埋めてみる。暖を奪う冷気は抑えられても、代わりに安い煙草のにおいが鼻腔を刺激して、ビリーは人知れず顔を顰めた。吸っている煙草は臭いし報酬は現金払い。碌なところがひとつもない客だ。それでもビリーにとっては大事な収入源のひとりなのだから無碍にはできない。ひとつふたつ政治家の悪事をささやくだけで、茶封筒が破れそうになるほどの報酬を差し出してくれるのだ。いまさら煙草の臭いなんかで手放すわけにはいかなかった。
「…………」
——まさかお前が本当にヒーローになっちまうなんてな。そりゃあこの街じゃ一番の高給取りなんだから当然か……でなけりゃあんな職業、
「望んでなるわけない、ね」
はは、と乾いた声が出た。仰る通りですと戯けてみせた自分の笑顔が一瞬でもぎこちなかったように思えて、ビリーはそれが苦痛で仕方なかった。なんとも思わなかったことをなんとも思わなくなることほど胸糞の悪い話はないのだと、身を以て知らされるようで悍ましかった。
真夏であれば空が白みはじめているであろう時間、イーストセクターのリビングは物音ひとつさえしない。ビリーはほっと息を吐いた。万が一でもチームのメンバーが居ようものなら面倒なことになると危惧していたが、それも杞憂に終わったようだ。見知った部屋の変わらぬ風貌を眺め、今度は津波のような睡魔がビリーの身体を襲った。バスルームへ向かう扉を数秒見つめる。少しばかり汗もかいたし煙草のにおいもきっと染み付いてしまっただろうから、シャワーを浴びて清潔になりたい。だけど今すぐ泥のようにベッドへ沈んでしまいたい。白旗を揚げたのは前者だった。一時間、いや三十分だけ。とうに始まった明日のことを何も考えずに眠りたかった。
共同部屋である寝室の扉を潜れば、微かに時計の針の音と、それからようやく自分以外の人間の気配が漂った。入り口でおざなりに靴を脱ぎ、履き慣れたルームシューズへ爪先を押し込む。ベッドまでのたった数歩の距離が砂漠のように果てしなく思える。シャワーを浴びるどころか服も着替えずベッドに入るなんて、ここで暮らすようになってからはじめてのことかもしれなかった。汚れた身体もくしゃくしゃのシーツも、ぜんぶ明日どうにかすればいい。せっかく頭が必死に宥めても、不快に思う心は遠慮を辞める様子がなくて参る。すべてを投げ出してベッドにダイブするには、ビリーにとって懸念材料が多すぎるのだ。同室相手が先に起きたらめんどうだなとか、煙草くさいと思われたら嫌だな、とか。
一瞬の躊躇いを睡魔と自棄が蹴散らして、とうとうビリーはベッドに沈み込んだ。上着さえ脱がなかったものだから内ポケットの札束がしっかりと左胸を圧迫して、おもわず舌打ちが出る。もはやここまできたら意地でも動いてやりたくなんかない。うつ伏せになって顔を枕に埋めたまま、器用に上着の袖から腕を引く。ベッドの脇に上着を落としたら中の茶封筒がどさりと硬い音を立てた。わずかに腰を浮かせてベルトを引き抜き、それも床に放る。アラームをセットしようとポケットからハニーを取り出したが、いくら押しても反応のない彼女の様子を見て、ようやく充電が切れていることを思い出した。あとあと困るのは自分だ、充電をしておかなければならない。それからまだゴーグルも着けたままで、アイマスクもクローゼットの中で。ああもう、何もかも。
「……っ」
くしゃみが出そうになってビリーは枕に顔を押し付けた。ここで物音を立てて自分の睡魔を逃すのも同室相手を起こすのも避けたかった。そんなことを考えている時点で、目前に迫っていた夢はビリーの手からみるみる逃げ、目は冴え渡る一方でしか無いのだけれど。
首と名のつく場所を冷やすと体調を崩しやすいと、子どもの頃にそう教えられてきた。自らの首に手のひらを当ててみる。外気に散々晒されてつめたくなった首筋に、手のひらの体温がじんわりと溶けていく。仕事が何件も入っていて、今日も彼方此方と外を駆け回った。そうなることは最初からわかっていた。それでも、ビリーはマフラーを巻いていかなかった。このまま毛布も被らず眠りに落ちてあっけなく風邪を引いたとして、寒空の中でマフラーも巻かずに過ごしていたのだと知られたら。きっとひどく悲しげな顔をして、それでもビリーのことをめいっぱい心配するのだろう。そうなったときにビリーが弁解する権利なんてない。贈られたマフラーを巻いていかなかった本当の理由も、ふたりの本当の出会いも、小さな鳩に託して隠した本心さえも。なにひとつ、なにひとつだって彼に打ち明けることはゆるされないのだ。
途端に苦しくなって枕に埋めていた顔を右に向けた。暗がりの中でぼんやりと映し出されるピクチャーフレームの隙間を、理由もなくビリーは眺める。相変わらず目はいやに冴えているし肌寒さは失せないし、煙草のにおいだって増した気がする。それでもビリーの中に降り積もった疲労が天秤を傾けて、それに抗うこともなくゴーグルのなかで目を閉じた。真白い紙に一滴のインクが落ちたように、寂しげな物音が立ったのはほんの一秒後だった。
「…………」
下ろしたばかりの瞼をひらいて、ビリーは背後に神経のすべてを集らせる。寝返りではない。明らかに意思を伴った他人の気配に、瞬時に意識が覚醒していく。そのくせ柄にもなく頭がまっしろになった。ベッドにうつ伏せに転がったままどうにもできないビリーを他所に、背後から聴こえてくる足音の種類が変化する。すぐそばまで彼が来た証拠だった。まるで石にされてしまったようにビリーは動けない。
静寂が辛い。寝たふりを選択した自分を引っ叩いてやりたくなる。暗闇に溶け込んだ琥珀色の視線に刺されながら、せめて自然な寝息を演じようと努めた。やがて張り詰めた糸は解け、もうひとつの息吹が遠さがる気配がした。寝惚けていただけだろうか。今日に限ってそんなことが? ほっと安堵しながらも思考を張り巡らせていたから、ビリーは彼がふたたび戻ってきたことに気づけなかった。
「————!」
ふわりと一瞬冷気が肌を撫で、それからすぐに重めのぬくもりがビリーの背中を覆った。はみ出していた足先と、それから吹き曝しの首筋が遅れて包みこまれる。長めの毛足が顎のあたりを擽った。すぐそばで人肌のにおいがする。ビリーは慌てて閉じた目をひらくことができないままだ。
デスクの方へ回り込んできた彼は、ビリーが床に落とした上着とベルトの存在に気が付いたようだった。カチャ、と金具の音がして血の気が引く。衣擦れ。潔いほどの沈黙。きっと上着を拾い上げた瞬間の不自然な重さに彼が気づかないわけがない。ビリーはそっとゴーグルの中で薄目を開けた。ぼやけた視界を埋めるのは灰色の寝巻きに包まれた長い脚。少しばかり視線を辿らせれば、ビリーの上着とベルトを持つ両手が見える。そこから上は暗さも相まって見えなかった。
「…………」
なにをするわけでもなく、ビリーの上着とベルトは連れ去られてしまう。遠くの方でまた金属の軽い音がした。あれはきっと、クローゼットのハンガーだ。
(……見ないんだ、中身)
べつに今更上着の内ポケットを見られて茶封筒に詰め込まれた札束の存在を知られたところで、たいした損失があるわけもない。情報屋の仕事で商売をしているのは周知の事実であるし、お金へのがめつさは彼の前でだって必要以上なほど示してきたつもりだ。それに、勝手な予測でしかないけれど、この状況ならば見るだろうな、と思っていた。今だって許可なくビリーのスペースに入り込んで、頼まれてもいないお節介を焼いてしまう彼だから。
遠ざかったはずの気配がまたも帰ってきた。ビリーは慌てて視界を断つ。枕のすぐとなり、投げ出した右手に軽く握られたままのハニーが、するりと引き抜かれていく。さすがに驚いた。ビリーが眠る前には充電を欠かさずしていることを彼は知っていたのだ。数秒経って、軽やかな電子音が寝室の静けさに溶けた。充電器に挿されたハニーが目を覚ました音だった。
てきぱきと動いていた人影が、急にビリーの前で立ち止まる。見られている。ビリーにできるのは、出来るだけ穏やかな寝息を繰り返すことだけだ。
「……おかえり、ビリーくん。おつかれさま」
「…………」
寝てないな、と直感で気づいて、呼吸が止まりそうになった。ビリーの帰宅で起きたのではなくビリーの帰宅を起きて待っていたのだ。あきらかに寝起きではない声色がそれを物語っていた。今晩は夜中まで仕事が立て込んでいるから遅くなると告げてあったのに。
ふあ、と小さなあくびとともに足音が消えていく。向こう岸のベッドのシーツが擦れる音がして、もぞもぞといくらか身じろぐ気配のあと、ようやく控えめな寝息が部屋に広がりはじめた。帰ってきたとき、寝ているにしては息が静かすぎていたことにビリーは今更になって気づく。
——苦しい。苦しくてどうにかなりそうだった。どうして苦しいのかなんてわかるようでわかるはずもない。凍えるような寒さ、足の竦む暗闇、狂いそうになる静寂、それから。勝手に自分のテリトリーに入られることも、頼んでもいないお節介を焼かれることも、ぜんぜん思い通りになってくれない他人も。なにもかも嫌いだ。優しくて気が小さくてこちらの都合を阻まないと思わせておきながら、いつだって土足で遠慮なくビリーの中に踏み込んでくる。彼の、グレイのそういうところが、
「っ……」
じっとしていられるはずもなくなってビリーは身体を起こした。肩まで掛かっていた毛布がずり落ちる。毛足が長くあたたかいそれはグレイの私物らしかった。デスクの上で充電器に繋がれたスマートフォン、クローゼットのハンガーラックに丁寧に掛けられた上着とベルト。部屋の中をぐるりと見渡して、ビリーの視線は反対側のベッドへ吸い込まれていく。寝息でゆっくりと上下する塊。時折不規則に衣擦れの音がする。ビリーはゴーグルを剥ぎ、頭を乱暴に掻きながら俯いた。込み上げる乾いた笑いを抑え込むのに必死だった。
大丈夫だ。自分はまだやれる。いや、やれるかどうかでなく、成し遂げないといけないのだ。父のため、それからちっぽけな自分の矜持のため。このまま欺き続け騙し続けることがビリーがグレイに出来る唯一の償いなのだから。だけどもう。
「……痛……」
今にも飛び出そうとするなにかを詰め込んで押し固めた袋が、少しずつ破れていく。何度も何度も初心にかえって、ビリーはその綻びを直そうとするのに。そのたびにグレイがそれを引き留めてくるのだ。札束で張り裂けそうな茶封筒なんて比じゃない。いつ決壊してもおかしくないものをビリーは心臓のあたりに抱えていて、それが時折痛んで痛んで仕方がなかった。限界が近かった。
「…………ただいま、」
グレイ。呼んだ名前は掠れて音にもならない。ビリーは俯いたまま微笑んだ。もしも、そのときが来るのだとしたら。受け入れるほか無いと覚悟している。どんなに巧妙に隠し通していたって、自らの罪の重さを忘れたことなど一瞬もないからだ。
けれど叶うことならば、いつか明るみに出る日がきてしまうのならば。それを暴き糾弾するのは、他の誰でもなくグレイだったらいい。そう思うことだけは赦されたいと、ビリーは願わずにはいられないでいる。