『僕たち結婚します!?』① ―1-
「三日以内に、すべての荷物をまとめておきなさい」
七歳の誕生日の前日、久しぶりに声を聞いた父から、電話越しにそう告げられた時、とうとう自分は捨てられるのだと思った。
「……っく、ひっく……ひ……」
途切れ途切れのすすり泣きが、森のように木が生い茂る豪邸の庭にかすかに響く。
太陽はまだ空のてっぺんあたりにいて、地上を眩しく照らしていたが、木の陰に隠れて膝を抱え込む少年の上には葉の影が落ちて、ほんのりと暗くなっていた。
今日は、一年ぶりに父に会う約束をしている日だった。
シンジが預けられていた家には運転手つきの車が迎えにきただけで、父の姿はまだ見ていないが、約束の時間はとうにすぎている。きっとあの大きなお屋敷にはすでに父が到着しているはずだ。
父に会いたい。
でも会えば、『おまえは今日からこの家の子になりなさい』と言われてしまうかもしれない。
そう思うと怖くなって、シンジはトイレに行くふりをして、こっそりと屋敷を抜け出していた。
さっき、遠くで自分の名を呼ぶ誰かの声を聞いた気がするが、父の声ではない。若い女の人の声だから、きっとこの家の使用人だろう。
シンジは見つからないように体を丸め、木の陰に隠れてやりすごした。
ずっとここにいるわけにはいかない。でも、戻ってもきっと怒られる。
どうしていいのかわからなくて、ただ泣いていた。
しばらくして、近くでカサリと音がした。
おそるおそる顔をあげたら、真っ白な猫が近くにいた。
よかった、大人に見つかったわけじゃないんだ。
ほっと息をついたのも束の間、葉っぱとは異なる影がシンジの上に落ちた。
「大丈夫? 泣いているのかい?」
見上げたら、綺麗な男の子がこちらを覗き込んでいた。
年は、シンジより少し上くらい。艶のある銀髪が、葉の隙間からこぼれた光を弾いて、きらりときらめいている。
しかしなによりも目を引いたのは、血みたいに真っ赤な瞳だった。
「だ、だれ……」
怖くて声が震える。
木の幹に背中がぴったりくっつくぐらい後ずさったら、怖がらせてしまったことに気づいた赤い瞳の少年が、口元をゆるめた。
「君を探しにきたんだよ、碇シンジくん」
「なんで僕の名前を……」
「君がくるのを、ずっと待っていたから」
しゃがみこんできた彼が、濡れた頬を白いハンカチでそっと拭いてくれる。
「可愛い目が真っ赤になってしまっているよ。もうそんなに泣かないで」
絵本に出てくる王子様みたいだ。
シンジは惚けたように少年を見上つめてしまう。
頬の水分のほとんどが拭き取られて、ハンカチが引っ込められる頃には、涙は止まっていた。
「…………君はこのおうちの子なの?」
弱々しい声で、おそるおそるシンジは聞いてみる。
「そうだよ。碇くんがいなくなったって大人たちが騒いでいたから……ほんとは、『家の中で待っていなさい』って言われてたんだけど、心配でつい、部屋を抜け出してきてしまったんだ」
ふわっと微笑む顔は、天使のように神々しかった。
思わず、シンジの頬が赤くなり、恥ずかしさのあまり俯く。
「……あの、僕の父さんって、もう来てる……?」
「ああ、来ているよ。いま、応接室で待っているはずだ」
「僕がいなくなったって聞いて、怒ってる、よね……?」
「そんなことはないよ。口数は少なかったけど、僕には君を心配しているように見えたよ」
「ほんと……?」
そんなはずはない、と思いつつも、そうだったらいいな、と期待してしまう自分がいた。
「僕も君と同罪だ。勝手にいなくなってごめんなさい、って一緒に大人たちに謝ろう? 君がくるというから、うちのコックが、朝から気合いを入れてケーキを焼いていたんだ。きっと美味しいはずだよ。戻って、一緒に食べよう」
「ケーキ?」
シンジを預かっていた老人は甘い物が苦手だったから、誕生日もクリスマスも、ケーキが出てきたことはない。たまに人からもらった時に食べるぐらいだ。
幼い瞳が、ケーキにつられて輝く。
「しろくまのケーキだよ。食べたことある?」
「ない!」
「クリームがたくさんのっていてね、すごく可愛いんだ。僕も大好きなケーキだよ。碇くんも気に入ってくれると嬉しいな」
手を差し出される。白くて綺麗な手。まるでダンスにでも誘うような仕草だった。
どうしよう。この手を取ったら、屋敷に戻らなければならない。聞きたくない話を聞かされてしまうかもしれない。
でも、父さんが心配しているのなら戻りたい。
それに――ここで嫌だと突っぱねてしまったら、彼は呆れてどこかにいってしまうかもしれない。せっかく、大人に怒られるのも承知で探しにきてくれたのに。
おずおずと見上げたら、彼は優しく微笑んだ。なにも心配いらないよ、とでも言うように。
「……そういえば、君の名前は?」
今さらながら、まだ名前を聞いていなかったことを思い出す。
「僕はカヲル。渚カヲル。――君と同じ、運命を仕組まれた子供さ」
「渚、くん……?」
運命がどうとかはよくわからなかったけど、天使みたいな容姿によく似合う、綺麗な名前だと思った。
「カヲル、でいいよ」
「あの……じゃあ、僕も、シンジでいいよ」
ためらいがちに手を取れば、ぎゅっと握りしめられる。
「行こう。みんな、僕たちを待ってるよ」
一歩踏み出したら徐々に歩調が速まっていって、いつの間か、芝生が敷き詰められた庭を手を繋いだまま駆けていた。
走ったことで呼吸が速くなる。初夏の陽気で、肌が汗ばんだ。
胸がドキドキしたのは、多分、走ったせいだけじゃないと思うけど。
屋敷に戻ったら、さっきシンジを呼んでいたらしいメイドのお姉さんが、「心配させないでください」と言いながら涙ぐんでいた。
他のメイドさんたちも次々と優しい声をかけてくれた。
だけど、あたたかな空気に包まれていたのは、応接室に入るまでのことだった。
テーブルを挟んで、三人掛けのソファが向かい合わせで並んでいる。
その片側に、父の姿があった。
「遅かったな、シンジ」
咎めるような低い声に、緊張感が走る。
「ごめんなさい……あの……」
どうしていなくなったのか言わなければ、と思ったけど、怖くて、それ以上の言葉は出てこなかった。
「いいから座れ」
焦れた父が促してくる。
「……はい」
シンジが父の隣に座ると、カヲルは、父の向かい側に座るスーツ姿の青年の横に腰をおろした。
「待たせてすまなかったね」
「いいえ。こちらこそ、坊ちゃんのお手を煩わせて申し訳ありません」
「いいんだ。僕が彼を迎えに行きたかっただけだから」
スーツの人はカヲルくんのお父さんだろうか、と思っていたけど、どうやら使用人だったらしい。
「本日は、会長本人が来られず申し訳ありません。秘書である私が、代理として話をさせていただきます」
青年の言葉に、父が頷く。
「こちらの条件は、すべて呑んでもらったと判断していいのだな?」
「概ね問題ありません。詳細につきましては、後日書面を出すので、そちらにてご確認ください」
仕事の話みたいな雰囲気だ。硬い空気にシンジが俯いていると、おもむろに父に声をかけられる。
「シンジ」
「……は、はい」
「今日からここがおまえの家だ」
「…………」
予想していた言葉だから、驚きはしなかった。だけどやっぱりショックで、言葉はなにも出てこない。
「――時がきたらその少年と結婚しろ」
「……え?」
しかし、続く言葉は完全に予想外のもので、驚きを通り越して呆然とする。
「話は終わりだ」
父はそれだけ言うとさっさと立ち上がるものだから、シンジはわけがわからない。
「待ってよ、父さん! どういうこと!?」
「私はこれからパリで仕事の予定が入っている。フライトの時間までもうあまりない」
掴もうとした手は振り払われた。
無情にも扉はバタンと閉まって、父の足音が遠ざかっていく。
「碇ゲンドウ氏は親権を放棄したわけではありません。ただ、あなたはこの渚家の次期当主であるカヲル様の婚約者として、今後は渚家で暮らしていただきます」
秘書の男が丁寧に説明してくれたが、まだ子供であるシンジには理解できない言葉も多かった。
「こんやくしゃ……?」
「将来結婚する相手、ってことだよ」
カヲルはすでに事情を聞いていたらしく、驚いた様子もない。
「でも、僕も君も男の子、だよね……?」
「今年から同性同士――男の子同士や女の子同士でも結婚できるように、法律が変わったんだよ。僕らが籍を入れるのはおそらく、大学卒業後だ。その頃には男同士の夫婦なんて、珍しいものでもなくなってるよ」
「けっこんって……あのけっこんだよね?」
信じられずに確認しようとするシンジに微笑んで、カヲルはシンジの隣に移動してきた。
「そうだよ。君と僕は、生涯を共にする伴侶になるんだ」
ぎゅっと握りしめられた手はあたたかかった。意味を知らない単語も含まれていたけど、嫌な気分にはならなかったから、おそらくそれは自分にとっては『いいこと』なのだろうと思えた。
「でも、なんで僕……?」
こういうのはきっと『政略結婚』というのだ。この間見たドラマでそういう話が出てきたので、なんとなく知っている。
だけど、父の家柄が、この豪勢なお屋敷を持つ家柄と釣り合うとは、到底思えなかった。
「カヲル様のおじい様――現在の渚家の当主である会長は、以前からあなたの父親の研究に資金援助をしていました。先日、新たな研究のため、多額の追加援助を求められましたが、会長は断りました。しかしどうしてもと食い下がるので……『息子をうちの孫にくれてやってもいいのなら追加援助を行おう』と提案したところ、碇氏はその条件を呑みました。つまりあなたは、碇氏が金だけもらって逃げないようにするための保険であり、今後も会長が望む研究成果をあげさせるための人質です」
「鈴谷、余計なことは言わなくていい」
ご丁寧に聞きたくなかった情報を伝えてくれた秘書を、カヲルが鋭く睨む。
「ほけん……? ひとじち……?」
完全に、甘い雰囲気に水を差されたかたちとなって、シンジの顔が引きつる。
「失礼。しかし、ご自分の立場をわきまえておいた方がよろしいかと思いまして」
「おまえこそ、自分の立場をわきまえておくんだな。僕の婚約者を傷つける言葉を使うのは許さない。話がもうすんだのなら、出て行ってくれ」
さっきまでとは別人のような冷たい声に、急に怖くなったシンジは、カヲルの手を振り払っていた。
「シンジくん……!」
「け、けっきょく、売られたのとおんなじことじゃないか……! 父さんにとってもこの家にとっても、僕はただの道具なんだろ!?」
叫んで、応接室の窓を開け放つ。生ぬるい風が吹き込んできて、白いレースのカーテンを大きく膨らませた。
転がるように、芝生の上に飛び出した。さっき替えてもらったばかりの白い靴下がまた泥で汚れたが、かまわなかった。
今から走れば、父に追いつくかもしれない。追いかけて、『パリでもどこでも連れていってよ』と言いたかった。
外からのルートを選んだのは、たくさんいるメイドさんたちに引き留められるのを避けるためだ。
正面玄関の方に向かって走る。
両開きの大きな扉の前に、黒い車が停まっているのが見えた。
「父さん!」
後部座席に、父の黒い頭があるのがちらりと見えた気がしたが、一瞬だった。
たどりつく前に、車は無情にも走り去っていく。
「あ……」
置いていかれた。
まただ。前もそうだった。
三歳ぐらいの時にも、父はいきなり、実の祖父でもなんでもない『知り合い』だとかいうおじいさんにシンジを預けて、仕事に行ってしまった。
「やだよ……知らないところで暮らすなんてやだよ……おじいさんの家に帰りたいよぉ……」
涙がぽろぽろ溢れてきて、頬を濡らす。
連れて行ってくれないならせめて、慣れ親しんだ場所に戻してほしかった。
「残念ながら、あの家に帰ってもおじいさんはもういないよ」
あとから追いかけてきたカヲルが、地面にへたりこむシンジの背後からそう告げた。
「どう、して……?」
「検査で、病気が見つかったらしくてね。今日から入院だ。手術がうまくいっても、退院後は高齢者施設に入ることになっているようだ。君はどのみち、あの家を出ていかなきゃいけなかったんだよ」
「そんな……」
ついこの間まで自分の居場所だったところすらもうない。足元が崩れていくような感覚に襲われる。
「……本当はね、僕が、君をほしいと言ったんだよ」
「え……?」
正面に回り込んできたカヲルが目の前に跪いて、両手でシンジの頬を持ち上げる。
「君のお父さんはね、資金援助の話とは別に、君の新しい預け先についてうちのおじいさまに相談を持ちかけてきたんだ。僕はたまたま、おじいさまが秘書とその話をしているのを聞いていて……書類についていた君の写真を見て、一目で君のことを気に入ってしまったんだ。だから、『だったらうちで暮らせばいいのに』とおじいさまに言った。そしたら、なにを勘違いしたのか、おじいさまが勝手に結婚の約束を取りつけてきてしまった」
声音は淡々としていたが、まっすぐに見つめてくる眼差しは、ただひたすらに真摯だった。
「だからね、君がうちに来ることになったのも、好きでもない男と結婚しなきゃいけなくなったのも、全部僕のせいだ。恨むなら僕を恨むといい」
「恨むなんて……」
とてもじゃないけど、こんなに真剣に語りかけてくれる人に文句を言う気にはなれなかった。
「……あの、勘違いなら、今から『やっぱりやめます』って言ってもいいんじゃないの? カヲルくんだって、僕みたいなのと結婚させられるのは迷惑、だよね……?」
こんなに綺麗で優しくて、大きなおうちも持っているのだ。きっと、同じぐらいお金持ちの可愛いお嬢様と結婚した方がいいに決まっている。
「迷惑? そんなわけないさ。君はとても魅力的だよ。写真で見るよりずっと、ね」
にこりと笑みを向けられたかと思うと、おでこにちょんと口をくっつけられる。
今のはもしかしてキスというやつでは? と気づいて、涙で濡れていたはずの顔が熱くなった。
「ねぇ、僕のお嫁さんになってくれないかい?」
おままごとみたいな可愛らしいプロポーズ。
相手はなにしろ王子様みたいな人だったから、お伽話の世界に迷い込んだような錯覚に陥った。
「…………うん」
ふわふわとした気分に浮かされて、シンジは気づいたら頷いていた。
その時、カヲルが浮かべた表情は、決して一生忘れることができないだろう。
「約束だよ」
握りしめられた手が熱い。ドクドクと脈打つ心臓の鼓動が聞こえる。
これが恋に落ちた瞬間であったと気づくのは数年後のことになるが、心臓を打ち抜かれたような衝撃は、幼心にもしっかり刻み込まれた。
――長い、長い恋の物語は、ここから始まったのだ。