庵53『俳優になるのを諦めた僕が、なぜか人気俳優の付き人をやることになった話』⑥ 例の社長が逮捕された、と後輩から連絡がきたのは、自宅アパートの片付けをしている最中のことだった。
『事務所にも強制捜査が入って書類関係ごっそり持っていかれて、所属タレントのほとんどは仕事全部キャンセルになっちゃって、もぉー、大変ですよ!』
ふたつ年下の後輩は今年大学生になったばかりだ。高校生の頃からモデル活動をしており、将来有望株なのだが、どういうわけだかシンジに懐いてよく声をかけてくれる。
「そうなんだ……すごいことになってるね」
あの日のことを他人に話すわけにはいかない。
初耳です、というふうに返事をするしかなかった。
『多分、あの事務所もうダメですよ。僕、移籍しようかと思ってます』
「いいところが見つかるといいね」
『実は、前から引き抜きの話を持ちかけられているところがあって……』
今日の仕事もなくなったというわりに、根が明るく、良くも悪くも脳天気な後輩は、口で言うほど落ち込んではいないらしい。
芸能界で生き抜いていくにはこういう逞しさが必要なんだろうな、と思いながらシンジは話を聞いていた。
『碇さんは、早めにあの事務所と縁を切っておいて正解でしたね。社長はもともとアレですが、マネージャーにはすごくお世話になったので、なかなか辞められなかったんですけど……もっと早めに見切りをつけておけばよかったです。でも碇さん、今後はどうするつもりですか? もしかして役者、やめちゃうんですか?』
「……役者はやめるよ。でも、芸能関係の仕事は続けると思う」
実は今、ある事務所でスタッフとして働くことになって、と言うと後輩はどこの事務所か聞いてきたが、そのへんは適当に濁しておいた。
まさかあの渚カヲルの付き人をしているなんて言えない。
落ち着いたら改めて報告すると告げて、電話を切った。
「……これも捨てようかなぁ」
いらない雑誌関係をまとめていた最中だったシンジは、電話を終えたあと、棚に並んでいた演技トレーニング関係の書籍を床に積みあげてみた。
けっこうたくさん読みあさったつもりだが、知識を身につけただけで、結局その知識を生かせないままなんとなく演技をしていただけのような気がする。
棚から引っ張りだしている最中、本と本の間に挟まっていた一枚の写真がひらりと落ちてきた。
手に取って、思わず頬が緩む。
五人のヒーローと、大勢の子供たちの写真だった。
当時放送していた特撮の戦隊ヒーローのショーでヒーロー役をやっていたことがあったのだ。ちなみにシンジのカラーはブルーだ。
商業施設や住宅展示場で客集めのために無料でやっていたようなショーだから、クオリティも高くないし、ギャラもあまりよくはなかった。
でも、子供たちに応援されたり、握手を求められたり、写真を一緒に取ってあげるだけでキャーキャー言われたり……あれは他ではなかなか経験できない仕事だったと思う。
運動神経は悪くない方なので、立ち回りでもいいところを見せられた。
「あれの本物になれればよかったんだけどなぁ……」
特撮ヒーローは、若手俳優の登竜門だ。シンジも何度かオーディションを受けたが、書類選考ぐらいしか通らなかった。
はぁ、とため息をついて写真をゴミ袋に入れる。
いい思い出だが、こういうのを残しておくと、未練が残るのでよくない。
かつて出演した作品の台本もすべて処分することにした。
「荷物は? これだけ?」
夜九時すぎ。
帰宅したカヲルに、電車でアパートまで行き、帰りは自分の軽自動車に必要なものをだいたい積んで運び込んできたと告げると、部屋を覗き込んだカヲルが首をかしげる。
「テーブルとかタンスは後日、トラックで運んでもらうことになりますが、中身はだいたい……あ、軽自動車、ここのガレージに置かせてもらってもいいですか?」
「もちろんかまわないよ」
「ありがとうございます」
ちょっと買い物に行くだけのためにあの高級車を乗り回すのは気が引ける、と思っていたので、自分の車を持ってこられたのはよかったとシンジはほっとする。
「これは?」
蓋のあいている箱のひとつに、カヲルは興味をそそられたらしい。
「カップ麺です」
シンジは苦笑しながら答えた。
庶民の必需品として大量に買い込んであったものが、まだアパートに残っていたのだ。
「まさか、今日の夕飯はそれだけ?」
「ええ、まあ……」
怒られるのかと一瞬思ったが、予想に反し、カヲルはじっと箱の中を見つめると、カップ焼きそばをひとつ手に取った。
「よければひとつ、もらってもいいかな?」
「えっ、カヲルくんでも、こういうの食べるんですか!?」
「いや、一度も食べたことがないから、どういうものなのかと思って。これは……鍋にあけて調理するものなのかい?」
「容器に直接お湯を入れて、三分後に湯切りしてソースをまぜてふりかけをかければできあがります」
庶民としてはびっくりだが、確かにカヲルとカップ麺のイメージは結びつかない。一度も食べたことがないと言われても、違和感はなかった。
「よ、よかったら僕、作りましょうか……?」
「うん、頼むよ。夕飯の時間が早かったから、お腹がすいてきてね」
「今すぐ作ります!」
シンジもこっちの家に戻ってきた直後だったので疲れていたが、急いで立ち上がる。
「着替えてくるから、ゆっくりで大丈夫だよ」
パタパタと駆けていくシンジを見送りながら、カヲルは声をかけてきた。
「なるほど……チープな味だが、三分でこれが食べられるのなら、楽でいいね」
いったいどんな反応が返ってくるのかと不安に襲われながら見守っていたが、意外にもカヲルはおいしそうに食べている。
「一人暮らしだと、ついついこういうものですませちゃうんですよね」
「だから君はこんなに細いんだね」
「そういうわけじゃないと思いますが……料理も、できなくはないんですよ。おじさんと暮らしてた時は、僕がいつもご飯を作ってたし……だから、カヲルくんといる時はちゃんと僕が料理を作るので、安心してください……!」
自分の数少ないアピールポイントだ。拳を握りしめて主張する。
「ふふ、なんだか、奥さんをもらった気分だね」
「お、おく……!?」
「ありがとう。ご馳走様。そういえば、差し入れで美味しいシュークリームをもらったんだ。食べるかい?」
冗談にしてもどういうつもりだ、と確かめるまでもなく、あっという間に食べ終わったカヲルは席を立ってしまう。
カヲルが持ってきたシュークリームは、銀座にある人気店舗のものだった。
「これ、こないだテレビで見ました! 数量限定で、並ばないと買えないって……」
「へぇ。僕は、その場で食べられない差し入れに関しては、いつも他のスタッフに適当にあげちゃっていたんだけどね。君ならこういうのが好きかと思って、今日は持って帰ってきたんだ」
「僕のために持って帰ってきてくれたんですか!?」
「僕が買ったものじゃなくて悪いんだけど」
「いえ……そんな! ありがたくいただきます」
感動のあまり、食べるのがもったいなくなってきた。
でも、じっと見つめてくるカヲルは明らかにシンジが目の前で食べるのを期待している様子なので、意を決して大きく口を開く。
かじってみると、生クリームと一緒にプリンの味が口の中に広がった。
「わぁ……すごくおいしいです!」
「そう。よかった」
カヲルは微笑みながら、シンジが食べるさまをじっと観察していた。
「……あの、カヲルくんは食べないんですか?」
シュークリームはあと二つ入っている。よく見ればカヲルはそれを皿に出そうともしていなかった。
「僕はいいよ。君が食べている姿を眺めているだけでじゅうぶん」
「……僕、そんなにおもしろい顔して食べてます?」
「いいや。可愛らしいよ。今日は君がそばにいなかったからね。見ていると癒やされるという気持ちが強くなったみたいだ」
仕事から帰宅したあと、猫や犬に癒やしをもらう感覚に近い気がした。やはり、ペット扱いと考えた方がいいかもしれない。
「……明日はお仕事しますので、またよろしくお願いします」
「荷物の片付けは? だいぶ進んだかい?」
「必要なものはだいたい運びだしたので、あとは少しずつ片付けと掃除をすれば大丈夫かと。アパートの管理会社の方には、来月末で転居予定だと連絡しておきました」
「トラックを手配するのは来週の月曜日でもいいかな?」
「はい。なにからなにまですみません」
「かまわないよ。君にはこれから、それ相応の仕事をしてもらうことになるからね。……ああ、そうだ、雇用契約書の準備ができたから、明日事務所で書いて」
「はい……がんばります」
もしかしたらここに置かせてもらえるというのはカヲルの気まぐれでしかなくて、飽きたら突然捨てられてしまうかもしれない、というシンジの不安を払拭するような言葉に、ほっと息を吐く。
「……シュークリーム、やっぱり僕も食べたくなってきちゃったな」
「はい。食べてください。とても美味しいので」
ひとつ皿に乗せてカヲルに差し出すと、カヲルはにこにこした。
「食べさせてくれるかい? 君の手で」
「えっ!?」
「君の手で食べさせてもらえたら、疲れがとれそうだな」
相手は、お世話するべき雇用主だ。
今日は休日だったとはいえ、その程度のお願いを聞けないわけはない。
「それじゃあ、あの、あーん……」
こぼさないように両手で掴んで口元に差し出すと、カヲルは大きく口を開けた。
白い歯が一瞬だけ覗いたのにドキリとした途端、すぐにパクリと食いついてきた。
大量に詰め込まれていたクリームがシンジの手にこぼれてきたが、そんなことを気にしてはいけない。
それになにより、カヲルがシュークリームを食べるさまが妙にエロティックで、目を奪われてしまった。
ドキドキしながら眺めていたら、シンジの指までぺろりと舐められてしまった。
「美味しいね」
「はい……」
指じゃなくてシュークリームのことを言っているんだろうとわかるけど、ついうっかり顔が真っ赤になってしまう。
「ごめん。こぼしてしまって」
「いえ……ダイジョウブデス」
大丈夫じゃない。声が片言になっている。
ふっと口元を緩めたカヲルが、顔を寄せてくる。
「ここにもついてるよ」
顎のあたりを舐められた。
一瞬だったけど、破壊力は抜群だった。
「~~~っ!」
恥ずかしさが限界突破したシンジは、耳まで赤くしながら口をぱくぱくさせる。
その様子をおもしろそうに眺めたカヲルは、くすくす笑いだした。
「ありがとう。君のおかげで、一日のストレスが吹き飛んだよ」
「……カヲルくんでも、ストレスを感じることなんてあるんですね」
ストレスがなさそうといったら失礼だが、何事もうまいこと受け流しそうなタイプだと思っていた。
「そりゃあね。この業界は、癖が強くてわがままな人間が多いからね。ままならないこともある。だから君みたいな無垢な子を見ていると、すごくほっとするよ」
「………」
自分は無垢と呼ばれるほど清らかな人間じゃない。汚いところやみっともないところの方が多いと思う。だけど、せめて彼の前でだけは、まっすぐな気持ちでいようと思えた。
「……シュークリーム、もうひとつ、食べますか?」
「いいや。もうお腹いっぱいだよ。最後のひとつは、明日二人で半分こしようか」
食べていいと言われるのではなく半分こしようと言われたのが嬉しくて、シンジの頬が緩む。
「はい……!」