どうせならキミの犬になりたい ✩✩✩✩✩
エルガドを訪れてから愛弟子は変わってしまった。
これまで里という閉鎖された空間で、外に出たと言っても狩り場と里の往復。旅程で出会う人とはそこまで密に接することはない。
里も見知った人ばかり。
その中でも俺なんて、愛弟子にとっては飽き飽きするほど顔を合わせた人間だろう。
「はぁ…今日も素敵…」
悩ましいため息が聞こえ、下を覗くとアズキさんの切り盛りする茶屋の席からバハリさんの研究所を見つめる乙女がいる。
ため息の主は俺の愛弟子で視線の先には若い騎士がいた。
背筋の伸びた短髪の騎士はすらりと長い足をロンディーネさんのような衣装に包み、ファロさんと談笑する。時折、彼が笑うとファロさんの頭一つ高い場所で耳元の飾りが揺れた。
彼が愛弟子の視線に気付いてちいさく手をふると、彼女は肩を跳ねさせて同じように返す。その頬がうっすらと色付いているのを仮面越しに見つめて俺は再度、深い深いため息をつく。
すると、背後から低い声がした。
「なあ、ウツシ」
知った声に仮面を上げるか一瞬迷ってお面にかけた手を下げる。今、俺はきっと人に見せられる顔をしてない。それを自覚しながらあくまで平静を装って振り向いた。
「やあ、カガミ。戻ってたんだね。無事でなによりだ」
諜報部隊にしては派手な出で立ちの友は俺のいる梁のそばに立っていた。たまにルーチカさんも佇んでいる見晴らしの良い足場はサンも拠点もよく見える。
その足もとの茶屋では愛弟子がはしゃいだ声を上げ、声に誘われるまま下を覗き込むと、
「今日は何を狩るんですか? ご一緒してもいいですか?」
いつの間にか隣り合わせに座った愛弟子とさっきの騎士が仲良くお団子を食べていて。騎士の声は聞こえない。隣り合わせどころか寄り添って内緒話のように愛弟子の耳元で喋る騎士に彼女はきゃあきゃあと悲鳴を上げていた。
「似合いの二人だな」
同じく茶屋を見下ろして同意を求めるカガミに応えられず、組んでいた腕に自分の爪が食い込む。
「猛き炎はずいぶん奴にご執心のようだ」
カガミの言う通り、愛弟子は新しく観測拠点に赴任したという彼にここのところずっと夢中だった。
狩りにも同行して、拠点でも会えば必ず声をかける。見るからに好意を彼に寄せているのが誰の目からも明らかだった。しばらく拠点へ来られずにいた俺は知らぬ間にすっかり仲良くなった二人を見て声すらかけられずにいる。
若くて美しく凛々しい、女性の扱いもうまく、里にはいないタイプの男の子。愛弟子くらいの歳の子なら気になる存在だろう。
――気になる程度とは到底思えないけれど。
「そうだね、仲良しで…微笑ましいよ」
そうは言いつつ正直なところを言えば面白くない。これまで姿を見れば駆け寄って見上げられていたのは俺だった。狩りにだって一番に俺を誘ってくれていたし、今まで愛弟子があんな反応を男の子に向けることなんてなかった。そりゃあ、愛弟子の世界が広がるのはいいことだ。色んな人と出逢えばいいと思う。彼女がどんな選択をしても見守るつもりでいる。
でも面白くないものは面白くない。
「捨てられた犬みたい目をしやがって」
「誰がだい?」
「お前だよ、ウツシ」
お面の奥を見据えられてすぐに視線をそらした。
ここは俺の負けでいい。彼女とのことにあまり触れないでくれ。そう意思表示をしたつもりだ。
けれど、単身里を出て異国の地で諜報部隊を率いるまでの実力者はそう簡単に引き下がってはくれない。
「嫉妬の権化のような殺気を振りまくのはやめたらどうだ」
「そんなつもりはないんだけどなぁ」
出来る限りの笑みを浮かべてお面をはぐと、カガミはやれやれと言いたそうなため息をつく。同時に肩をすくめるのも忘れない。
「上でフクズクの子が怯えてたぜ」
「大袈裟な、そんなわけないでしょ。冗談はやめてよ」
「俺が無駄口を叩いたことがあるか? お前じゃあるまいし」
「俺だって無駄口なんて…。それにいつだって愛弟子の素晴らしさを人々に知ってもらおうとハモンさんのアドバイス通り要点から話す練習もしてて…」
そこでまた茶屋から愛弟子のはしゃいだ声が響く。
「王都を案内してくれるんですか 本当に? わぁ、どうしよう…何を着ていこうかな」
嬉しそうな愛弟子の隣で微笑む騎士の顔は美麗。物腰も柔らかく、さり気なく彼女の腰を抱いた騎士はまたなにか耳元で囁いていた。その仕草に愛弟子は真っ赤に頬を染めて恥ずかしそうに顔を隠している。
――俺ですら見たことない愛弟子のそんな姿を引き出すなんて。
「あいつは王都の生まれだ。自分の庭みたいなものだろう」
無表情で余計な情報を補足するカガミと奥歯を噛む俺の視線の先では年の頃も、見た目もつり合った二人が楽しげに逢瀬の約束を取り付けていた。
✰✰✰
そんなやり取りを見てから数日、朝から船にこもって出てこなかった愛弟子が昼前に可愛らしい洋装に身を包み、化粧も施して船からの階段を降りて来た。装備はない。武器もない。
彼女のいつもと違う姿に船員のアイルーたちも、まーけっとの面々も目を丸くしている。
「よお、猛き炎。デートか?」
「ふふ、そうなんです。昨日から楽しみで眠れなくて」
「そうか。ウツシ教官に見つかったら尾行されるからな。気をつけていけよ」
「さすがの教官もそこまではしませんよ」
「そうですよ。そんな無粋な真似するわけないでしょう」
「わっ! 教官、いつからそこにいたんですか?」
「キミが慣れない靴に躓きそうになった時かな」
あのまま転んでそのおめかしが台無しになればいいのに。どこかでそう思いながらも、つんのめる彼女に体は無意識に手を伸ばしていたんだからやっぱり俺はどこまでも教官で、心底うんざりしたところだ。
「デートの相手はあいつだな」
ニヤリと笑い、顎を擦りながら言ったアルロー教官と俺の思い浮かべた人物はおそらく同一人物だろう。
そのくらい彼と愛弟子は観測拠点で目立っていた。
「今日は王都を案内してくれるんです。おいしいけーき屋さんもあるから行こうねって約束してて。アルロー教官にもお土産を持って帰りますね」
「いいぞ、気ぃつかうな。せっかくの〝デート〟だ。楽しんでこいよ」
ことさらでーとを強調してから俺を見たアルロー教官からもカガミと同じ、なにか言いたげな含みを感じる。それに胸の内を圧迫するジリジリとした焦燥感は俺の喉も焼いた。
「あっ、もうこんな時間!」
見慣れない懐中時計を取り出し、盤面を見て慌てた愛弟子は俺とアルロー教官にぺこりと頭を下げて
「待ち合わせの時間なので失礼します」とその場から駆けていった。
今度はつんのめらず、カツカツと靴を鳴らして走る彼女の行く手には凛々しい騎士が手を上げていた。
こちらもいつもより軽装ながら洗練された佇まいだ。たった数歩で息を切らしたような仕草をして、彼を見上げる健気な愛弟子の後ろ姿を黙って見送る俺にアルロー教官はぽつりと言った。
「お前さんにしちゃ、ずいぶん行儀がいいじゃねぇか」
その日は一日、いつも通りに過ごした。
着いていくか否か、さほど迷うこともなく。
いつもの梁の上に根を張った。
『待て』くらい出来るんだ。だって俺は教官だから。
これまでの愛弟子の反応を見ていれば彼女が嫌がっていたり困っていないのは明らかで、相手である騎士も評判が悪いわけじゃない。
――なにより愛弟子自身が喜んでいるんだから…。
そう自分に言い聞かせて。
「はぁ…教官としてはここまでか」
このあたりで彼女を見守れる範囲も限られてくるかもしれない。そんな一抹の寂しさを抱える俺の背後からまた呆れた声がする。
「おお、よしよし」
「どうかしたかい? カガミ」
すると、真っ白な装束にさらに白い羽毛の塊を抱いたカガミがこれ見よがしに俺のそばの板の上に立った。
俺も足を伸ばしてそちらに飛び移ると、カガミが胸に抱いているのは観測拠点に巣を持つフクズクの子だ。ガタガタと震える雛の頭を撫でながら彼はというとじとりとした目で俺を見る。
「何処からか遠吠えが聞こえると思ってな」
「遠吠え? モンスターが近くにいるとか?」
「いいや、いるのはただの負け犬だ」
じっと俺から目をそらさずに言うカガミが胸の中の雛を板に下ろした。雛はカガミのコートの影から俺に警戒した目を向けて、すぐに踵を返すと短い足でトコトコと階下に降りていく。
ぴいぴいと悲鳴のような声が指揮所に響くと、心配したルーチカさんの声もした。
「やけ酒くらいなら付き合ってやろうか、負け犬」
そう続けたカガミが次の瞬間、トロッコの線路を支える柱に背中を打ち付けていた。打ち付けたのは俺で、胸ぐらを掴んだ手も俺のものだ。
たった一言で身体中の血が沸き立ったのは俺をよく知る友の言葉だから、それとも図星だからか。
「誰が…、負け犬だって」
「犬のほうがまだ利口で勇敢か」
絞り出した声に淡々と返すカガミの目は氷のように冷たい。一切の感情を読めない瞳は静かに俺を見つめ返していた。
「いつからお前は獲物をただ指をくわえて見ているだけの男に成り下がった」
「そんな言い方…! 俺は何があっても彼女を見守るって決めてる。それ以上のことは…」
「そうやって始まる前から言い訳三昧か。これは里長も手を焼くな」
「始まるも何も、彼女とは師弟関係になった時点で終わってる」
「誰も猛き炎とのことだとは言ってない」
「言ってるよ! さっきからずっと愛弟子の船を見てるじゃないか!」
胸ぐらを掴まれたまま、大きな船を手をかざして仰ぎ見るカガミに言い返すと彼は「ふん」と鼻を鳴らす。
カガミとは気心の知れた仲とは言え俺にだって触れられたくないことの一つや二つあるのに、前回といい彼は俺を責めに来たらしい。
「お前ほどじゃないぜ」
「だから俺は愛弟子を見守ってて…」
「見守るだけでいいのか? 一生? 他の人間に横から火をさらわれても?」
その問いに奥歯を噛み締め、俯いた俺は自分でも驚くほどか細い声で返す。
「だって、教え子に手を出すなんて…」
「お前にしてはめずらしく逃げ腰だ」
「…こんなに苦しいならカガミと一緒に里を出ればよかったかな」
「欠片も思ってないことを言うな。もし、あいつに裾を掴まれたら動けもしやしないくせに」
そして返す言葉もない俺はカガミの握った拳が自分の腹に打ち込まれるのを気付きながら享受する。
至近距離での渾身の一撃は内臓にも響いた。
「ぐっ…容赦ないな、さすがカガミ…だ?」
すると反対に俺の首元をひねり上げるように掴んだカガミは顔を近づけ、低い声でさらに責め立てる。
その声には俺以上の苛立ちが滲んでいた。
「お前が腹の底に飼っているつもりのソイツ…」
「外に出たくてたまらないんじゃないか?」
愛弟子は暗くなる前に彼と拠点に戻り、アルロー教官、それからエルガドの面々に二人仲良くお土産を配って回った。そして最後にパサパト殿のところにいた俺を訪ねると、例の彼に肩を抱かれたままお土産を差し出す。
「教官! 見てください! 王都で見つけたお面です! 舞踏会やぱーてぃーで着けるものらしいんですけど、教官のお面作りのいんすぴれーしょーんになればと思って選びました!」
「ありがとう、愛弟子。でもいいんだよ、そんなに気を使わなくても」
愛弟子は化粧越しにもわかるほど頬を上気させて隣の彼に目配せする。それから俺にはにかんでみせた。
――俺じゃなくてもいいのなら、そんな顔を見せないでよ。
「私が教官に見てほしかったんです!」
――俺じゃなくてもいいのなら、そんなことも言わないでよ。
微かに香るのは彼の着けた香水だろうか。
新緑のように爽やかで若々しい香りは愛弟子からも微かに香る。それが彼女と彼の親密さを物語って吐き気がした。
「今日一番悩んでいたお土産だね。デート中もウツシ教官、ウツシ教官って妬いちゃうよ」
やけに芝居がかった声色で愛弟子に笑いかける彼が悔しそうに笑う。妬けているのはこちらだというのに彼は涼しい顔で言ってのけた。
実はそこで初めて彼とは対峙した。
彼は愛弟子に近寄る男じゃなく、愛弟子が近寄った男だ。彼女の見る目を信じて、二人の邪魔にならないよう声をかけずにいたせいだ。
…いいや、これもまた言い訳だ。
「それじゃあ、お土産はそれで全部だね。今日は楽しかったよ、ありがとう」
カガミに喝を入れられたとしてもやっぱり、惹かれ合う二人に割って入るなんて大人げない事はできない。情けなさに打ちひしがれる俺の前で彼は愛弟子の肩を引き寄せると、慣れた仕草で頬に唇を落とす。
「きゃっ」
「なっ!」
「あとは大好きなウツシ教官に王都の話をしてさしあげるといい」
「じゃあ、またね!」
颯爽とその場を後にする彼の背をうっとりとした目で見送る愛弟子と二人残された俺は、知らず落としたお土産のお面がカラカラと床で音を立てるのをただただ聞いていた。
「あの…お土産はお気に召しましたか?」
「うん、ありがとう。キミからのものならなんでも嬉しいよ! この華美ながら上品な装飾はまさに王都の品…えっと、と、とにかく素晴らしい!」
手の中で弄ぶ半面はジンオウガをモチーフしているようだ。
甲殻を模した緑をベースに角と雷光虫のような色の石を散りばめて王都らしい洗練された造形だ。まったく、見事な出来栄え。愛弟子と彼のデートのお土産でなければ両手を上げて喜んだだろう。
「教官?」
茶屋で隣に腰掛けた愛弟子が心配そうに俺を覗き込む。
「…今日は楽しかった?」
「はい! 充実した一日でりふれっしゅ出来ました」
彼の国の言葉なんだろう。帰ってからやけに横文字を使う愛弟子に淋しい感情を抱く。
これが親離れ…いや、教官離れ…? そのまま王都に嫁いで里離れなんてことになったら、俺は…俺は。
「今度、教官とも行ってみたい場所があるんですがよかったら付き合っていただけませんか?」
「俺と? 具体的にはどういうところだい?」
「騎士の皆さん御用達のれすとらんと、今日はお休みだったじぇらーと屋さんです!」
「じぇらーと」
「甘くて冷たい甘味なんだそうです。オススメは熱帯イチゴ味だって教えてもらいました」
「彼に?」
「彼?」
間髪入れずに尋ねた俺に愛弟子はきょとんと首を傾げておかしな顔をする。まるで思い当たる節がないかのような反応に俺までつられて首を傾げた。
「彼は彼だよ」
「…? 彼って、誰のことですか?」
「だからっ……えっと、」
愛弟子の想い人だと言うのに名前も知らない。
それだけ臆病に避けていたらカガミに殴られたのも納得出来た。なのにこちらの気持ちも知らず彼女は変わらずキョトンと首を傾げて、…ああ、そう、もう。負け犬でもなんでもいいから今すぐ愛弟子の膝にすがって俺のすべてを吐露してしまおうかと胃がせり上がる。
「今日、キミと〝でーと〟してた彼!」
「だから彼って誰ですか、私は今日…」
「とぼけないでよ、愛弟子。今日はこんなに可愛く着飾って楽しそうに出掛けていったじゃないか」
困惑顔の頬を撫でて拭き取ったのは彼の見えない痕跡だった。その指に力が入りすぎたのかもしれない。愛弟子の表情に少しの痛みが見えた。
「教官? どうしたんですか、なにか怒ってますか?」
「どうかされましたかニャ? お店での痴話喧嘩はご遠慮いただいてますニャ」
俺のギスギスとした物言いにアズキさんが気を使って声をかけてくれた。心配そうなまんまるの目が二人を見比べるように動く。
これは申し訳ないことを。
「ごめんよ、アズキさん。なんでもないんだ。あと痴話喧嘩でもないから、俺と愛弟子はそんなことありえないし」
「えっ?」
「だってキミが好きなのは彼で…」
「だからさっきから彼、彼って誰のことを言ってるんですか?」
「だから今日でーとしてた彼のことをキミは」
好きなんだろう? と尋ねる前に愛弟子がハッと顔を上げた。
「教官、もしかして誤解してませんか? 今日、私がでーとしてたのはお姉様です!!」
「一緒に来てください!」
俺の手を引いて立ち上がると、すぐさま辺りを見回した愛弟子に連れて行かれたのはマーケットのフルルさんのところだ。
そこでフルルさんと談笑しながら麗しくも凛々しくドリンクを嗜んでいた彼が俺たちに気付いて手を上げた。
「やあ、二人して手なんか繋いで。ふふ」
「お姉様!」
叫んで俺の手を離すと、彼の平たい胸に飛び込んだ愛弟子。そして受け止める彼…彼? いや、でもたしかに愛弟子はさっき『お姉様』と彼を呼んだ。
「おお、私の可愛いシスター、猛き炎。どうかしたかい?」
「教官が、お姉様とのことを誤解して…」
「なんだって それはいけないね、一緒に誤解を解きに行こうか。いや、それともいっそ、本当のことにしてしまうかい?」
「えっ、そんな、お姉様…♡」
愛弟子の顎を取って顔を近付けた彼…彼? を愛弟子はまたうっとりとした目で見上げる。それはどう見ても美しい光景なのに、愛弟子のセリフが引っかりっぱなしだ。
「ちょ、ちょっと待って、お姉様って…」
「さあ猛き炎、この手を離さないで。ウツシ教官なんて放っておいて私と花園を探しに行こう。そこで二人だけの甘美な時間を過ごそうじゃないか」
再び芝居がかった…ロンディーネさんそっくりな口調でぎゅうぎゅうと愛弟子を抱きしめて頬擦りする騎士が挑むような目で俺を見た。でもそこに敵意は感じない。
それによくよく見ればその顔の骨格は女性のようなまろみがある。骨盤だってよく見れば。
「は? 女の子…?」
「お姉様はれっきとした女性です!」
そうして彼…いや、彼女に手を取られた愛弟子は平然と言い返す。愛弟子の目に嘘はない。長い付き合いだ。そのくらいはわかるつもり…。
男だと思っていたのは騎士の女性?
いや、たしかにロンディーネさんもフィオレーネさんも一見すると男装の麗人で、うちの里でもロンディーネさんに群がる里娘たちはたしかに居た。
いたけど…、
「女性 いや、でも女の子が好きになることもあるかも…」
「お姉様は憧れの方です。それに私が好きなのは…」
そこでチラリと俺を見た愛弟子がすっと目をそらす。そんな愛弟子の言葉を遮るように俺は叫んだ。
「でもっあんなにはしゃいで…今だってそんなに抱き合って!」
「だってお姉様もロンディーネさんやフィオレーネさんみたいでかっこいいじゃないですか! だけど私が好きなのは…!」
「おやおや、そんなに二人の仲を見せつけられたら妬けると言ってるのに」
「あの…見せつけられてるのは俺…」
「お姉様…♡ でも、私には…」
再び目が合った愛弟子はすぐ隠れるように騎士の胸に顔を埋めてしまう。
「よろしい、ではウツシ教官。麗しの猛き炎を賭けて決闘といこうじゃないか」
「いやいやいや…なにこれ、どういうこと…」
もじもじと身を捩る愛弟子の腰を抱きながら口で手袋を脱いで地面に投げた彼女に混乱する俺の背後から、聞き慣れた声と間のあいた拍手の音がした。
それはもう喜々としたアルロー教官の声だ。
「おっ、ついに修羅場か。派手にやれよ、観客なら呼んでやる」
「お姉様と教官が決闘をするなら私も参加しますっ!」
そうしてこちらも頓珍漢なことを言い出した我が愛弟子にマーケットからは歓声が上がった。
なにに対する歓声かはこの際もうどうでもいい。
「お二人に勝って私の想いを証明します!」
「いいぞ、猛き炎! それでこそ英雄だな!」
愛弟子参戦で趣旨がどんどんズレていく俺たちの背後で指笛を鳴らすアルロー教官の適当な言葉に愛弟子は力強く頷いた。果たしてアルロー教官はこの時間でもう一杯引っ掛けているのか。
手袋を投げた男装の麗人は、そんな愛弟子の頭を撫でながら『さすがは私のシスターだ』と楽しげに頷いている。
「うちの諜報部隊の隊長様もいつカムラの里の敏腕教官が本気を出すか気をもんでたからな。呼んできてやるか」
歯を見せて笑いながらアルロー教官は言う。
…ああこれは…。アルロー教官も…おそらくカガミも知っていながら黙っていたな。いや、そもそもこれまで必死に目をそらして気付かなかった俺もどうかと思うわけで。
でも、カガミになじられ殴られまでした俺はこれだけは叫ばずにいられなかった。
「ちょっと待ってよ! なんで誰も教えてくれなかったの」
結局、彼女も俺も愛弟子には手を出せないということで決闘は愛弟子の不戦勝。
優勝した愛弟子はご機嫌で化粧直しに部屋へと戻った。
「猛き炎とあいつのアレはそういう戯れだ。王都にもアレで喜ぶ娘たちがごまんといる。騎士の姉妹がウインクなんてしてみろ、悲鳴が轟き、失神者の山だ」
ようやくアルロー教官が教えてくれた真実は膝から崩れ落ちるほど気が抜けるもので、これまで俺がモヤつき、悩んでいた時間はなんだったんだろうと頭を抱えるしかない。彼女が女性だと気付かないほど冷静さを欠いていた自分にも反省しっぱなしだ。
「まぁ、なんだ。説教くさいことは言いたかないが、教官同士のよしみだ。若ぇのがそんなに小難しく考えるなよ」
そう言って俺の肩を叩いたアルロー教官は指揮所に歩き出し、代わりに床を見て項垂れる俺の視界に綺麗に磨かれた細い足先のブーツが映った。
そして俺の顔を上げさせるように顎に添えられた手は細い女性のものだ。
「まったく、そんな誤解をされていたなんて。弟子に似て…いや、猛き炎の可愛らしさは師匠の貴方譲りなのかな?」
「ちょ、近っ!」
件の男装の麗人は平等・博愛主義らしい。
愛弟子と同じく至近距離で整った顔に覗き込まれて思わず顔を隠した。
すると愛弟子の船から慌てた声がする。
「あっ! お姉様! だめですよ、教官のこと盗らないでください!」
「おっと、見つかってしまったか」
「いくらお姉様でもだめです!」
「ふふ、これはまいったね」
船から飛び降りた愛弟子が俺の腕を取って言うと彼女はオーバーに両手を上げて降参を示した。
「じゃあ誤解も解けたようだし失礼するよ」俺たちに背を向けた彼女は再び歩き出す。
そして一度、思いついたように振り向くと、
「もしもの時はどちらでも私のところに来るといい。夜通し慰めてあげるよ。なんなら二人まとめて面倒をみよう」
「まぁ、君たちには到底ありえないことだけどね」意味深な流し目を俺と愛弟子に向け、またピンと伸びた背を向けて彼女は歩き出した。
エルガドの海は広い。とにかく広い。
里から見る海は湖だったんじゃないかと思うほど、エルガドの周りに広がる海は広かった。
その海を愛弟子と二人、船の甲板から見渡していると遠くを飛竜が飛んでいる。リオレウスだろうか。いいな、モンスターは世間体なんてものはなくて。あるのかな? 今度、パサパト殿に聞いてみよう。
それにしても広い海だ。このくらい狩り場でいくらでも見ているはずなのに、改めて見渡すとその広さに胸の中の閉塞感が取れるようだった。実際、里という周囲の目がある場所とは違う言葉をここでは彼女にかけていた気がする。
「教官、せっかく二人きりですし聞いてほしいことがあるんです」
海風を髪に受け、胸を押さえながら深呼吸した愛弟子がこちらを見た。その表情から覚悟とすこしの不安を読み取ってこちらが先に口を開く。
「愛弟子はさ、好きになっちゃいけない人を好きになったらどうする?」
「え? 好きになっちゃだめな人なんているんですか?」
「俺はいる。いたよ。今日まで」
「今日?」
「そう、でも見守るだけじゃダメみたいだ。教官なのにね」
そこまで話して笑いかけると愛弟子は途端に表情を曇らせた。
「あの、じゃあ教官には好きな人がいて…だからさっき私とはありえないって…」
「だぁ~! 違う! ありえないっていうのは言葉のあやというか、建前というか!」
「なんの建前ですか? 誰に対して?」
「それは…誰にだろう。俺の中の理想の教官に、かなぁ?」
狩り場で彼女を殺さないために彼女にも自分にもずいぶん厳しくしてきたと思う。今も五体満足な愛弟子を見れば教官としてはそれで良かったと胸を張って言えるけれど、彼女と積み上げた年月と実績は厚くなる信頼とともに俺を欲深くした。
「じゃあ本音は?」
久しぶりにこちらを見上げる愛弟子の瞳に真っ直ぐ俺が映る。その光景に彼女が自分のもとに戻ってきてくれた気がしてホッとした。なのにその目を見ても、まだ迷う自分の頬を両手で叩く。
「教官?」
これはチャンスだ。これ以上ない絶好の機会。
なのに緊張でもたつく舌は二の句が継げずにから回った。嘘や誤魔化しが出来ないほど若くもないのに。どうも彼女相手だと調子が狂う。
「キミのせいでおかしくなりそうだ」
「教官はもともと変わってますよ? よく言われませんか?」
「そうなの 俺って変」
「変ですけど、いいんじゃないでしょうか?」
あっけらかんと言って微笑む愛弟子が俺の手を取る。すると笑んだままの頬にその手を寄せて幸せそうに言った。
「だってこんなに私を愛してくれる人を私は他に知りませんから」
「愛じゃないかもしれないよ。もっと幼稚で、自分勝手な感情かもしれない。そんな俺を見たらキミは俺のことを嫌になるんじゃ…」
「教官は私に嫌われたくないんですか?」
「っ、当たり前だ! …けど、」
「けど?」
小さな頃から知っていて、年下の教え子に劣情を抱いているなんて知ったらこの子はどう思うだろう。気持ち悪いと逃げるかもしれない。そうなったときのことを考えるだけで立っているのがやっとだ。情けない鳴き声すら上げそうになる。
「教官? 難しい顔してる。お腹でも痛いんですか?」
こちらを覗き込む愛弟子に取られたままの手で逆に彼女の手を取った。そして胸元へ導くと自分の心臓の位置に触れさせる。
「お腹じゃなくて、わかる? キミのことを想うとこんなに胸が…」
「ごめんなさい、防具が分厚くてわかりません」
「アッ…うん。じゃあこれは今度、防具がない時に…」
「なんですか? ふふ、変な教官」
ああ、もう愛弟子の前ではいつも格好がつかないな。
肩と手を降ろして項垂れたものの、握った小さな手を離すことが出来ずに細い指先を握り直した。小さく聞こえた驚く声に再度、指先を強く握って彼女を見据えて口を開く。
「あのね、愛弟子。教官として長年、キミを指導してきたけど実はまだキミに教えてないことがあるんだ」
キミ以外の人たちにはもう、周知の事実かもしれないけど。
「教えてないこと?」
「教えるなんて烏滸がましいか、えーっと、キミに聞いてほしいことだ」
「はい」
「とはいえなにから話そうか、全部話していたらきっと明日が来てしまう」
「それは悪いことですか?」
「キミにとっては悪いことかもしれない」
「じゃあ先に結論を」
狩り場で過ごす彼女らしい答えだ。
ぎゅっと握り返された指先が熱い。
「キミを誰にもとられたくない」
――ああっ、違う。そうだけど、まず先に言うことがあった。
「キミがほかの男…今回は女の子だったけど。俺以外の男と親密になるのは嫌だ。あっ、でも仕事なら、それは割り切れる…はず! 俺、教官だし!」
――違う違う! でも本音を言えばあんな状況を見るのはもう勘弁してほしい。だから結局なにが言いたいのかと言うと…。
「愛弟子、俺とキミは師弟関係だ。でも、今から…違う関係になれないかな」
「……………」
無言。静寂。
聞こえるのはエルガドの広い海の波が船にぶつかる音とマストを叩く海風の音だ。そしてしばらくして波の音に慣れた耳が微かな声を拾う。
「違う関係?」
「うん、例えば…」
――例えばじゃない。今、なりたいものはたった一つ。
じっと見つめた彼女がそわ、と身をよじる。
「恋人。俺はキミを独り占めしたい」
「………」
再度の無言の前に瞳を揺らした愛弟子が俯いた。
――…ダメだった。それはそうだろう。愛弟子は純粋に俺を教官として慕ってくれていたんだとすれば、その気持ちを踏み躙るようなことを俺は言ったのだから。
繋いだままの手を振り払われないのは愛弟子の慈悲なのか、怯えて動けないのか、俯いたままの彼女の表情からは伺いしれない。
「恋人…」
「ごめんよ、気持ち悪いだろ。やっぱりさっきのは、」
忘れてくれとも、なかったことにしてくれとも言えなかった。
一度、口にしてしまった言葉もぶつけてしまった感情も取り消すなんて都合のいいことは彼女にとって失礼だ。
――ほら、やっぱり師弟になった時点で彼女とは終わっている。
そう諦めをつけようと彼女の手を離すとすぐにその手が捕まった。
「聞かせてもらえますか? 教官の伝えたいこと全部、明日が来るまで」
「え?」
「聞かせてください。私も聞いてほしい」
「でもっ」
「そうと決まれば夜食を買ってこないと! まだマーケットに食料はありましたよね。一緒に選びにいきましょう」
さあ、とまた手を引く愛弟子に手綱を完璧に握られた俺は引きずられるように船の甲板を移動する。けれどマーケットからこちらが見えるギリギリの位置で愛弟子の手を引いて彼女を止めた。
「愛弟子! 俺が何を言ってるのかちゃんとわかってる?」
「わかってます。でもちゃんと言ってほしい言葉もあります」
「ちゃんと言ってほしい言葉?」
「私のことをどう思ってるのか、まだ教えてもらってません」
「どうって」
そういえばさっき一番大切なことを言ってないような…。
「私のこと、好き?」
エルガドの抜けるように青い空は海と同じに広い。里とは違う風景の中で愛しい子は笑っていた。そこには侮蔑も怯えもない。背後の開放的な海も空も、俺にここでは素直になっても良いような気にさせる。
そして情けなくも彼女にリードされ、吸い込まれそうな瞳を見て口から出たのは至極単純な感情だった。
「好きだよ! キミだけが特別だ」
「―! 私も、教官だけが特別です」
頷いた彼女を衝動的に引き寄せると、マストの影から視界の隅を白い大きなフクズクが飛んだ。そして驚いた声を上げる愛弟子を抱きしめて知らないふりで続けた。
「こんど顔を合わせる時は負け犬とは罵られないぞ」
「教官? なにか言いましたか?」
「ううん。こっちの話」
そして首を傾げ、暖かな火を宿した目をじっと見て伝える。
「こんなに好きにさせたんだから、責任とってね」
ねだってから白粉を奪う勢いで頬ずりしていると愛弟子は恥じらいながらも、たしかに頷いた。
でも俺は、どうせ犬ならキミの犬になりたい。
大好きなキミの膝にまとわりついて、三回回ってワンと鳴けと言うなら四回回ってバク転だって出来る。
それから、ワンの代わりに好きだと鳴こう。