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    rani_noab

    @rani_noab
    夢と腐混ざってます

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    rani_noab

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    どむさぶ。先生夢。男主リバ。冒頭9000字。エモだよ。

    心臓の裏側に虚(うろ)がある。
    小石を一つ落としても、底にたどりつく音はしない。そんな深い虚が胸の内にある。その虚はひとつ夜を越えるたび、少しずつゆっくりと広がっている。もしや病気かと血の通う肉体を確かめてみても、そんな虚はどこにもない。だというのに、ふと意識を向けると虚はそこに在る。痛みがあるわけではない。だが、その虚は鍾離から気力や思考、意志、そういう鍾離にとって大切なものを少しずつ吸い込んでいっているように感じる。
    ここ暫く、鍾離は奇妙なこの症状に苛まれていた。蝕まれているといった方が正しいかもしれない。
    医師に相談しようにも、肉体的な病気ではないのだから医師も返答に困るだろう。どちらかといえば呪いの類に近い。精神に影響を及ぼすものだろうと察しはつくのだが、どう探っていても呪いにかけられているような痕跡はない。
    今日会った旅人に相談でもしてみようかと思ったが、旅人とパイモンが仲良さげにこの後出かける依頼について話しているのを聞き、時間を取らせる訳にはいかないと、また次の機会にしようと見送った。自分には時間はたくさんある。機会はいくらでもあるだろう。そう考えた時だった。
    虚がぐ、と自分の心臓を吸い込もうとしたかのような感覚に足を止めた。
    とっさに人気のない路地へと足を踏み入れる。胸を押さえて虚を埋めようとしても、そんなことで埋まるなら今まで苦しんでなどいない。胸元の服を握りしめた時にネクタイを絡めてしまったらしく余計に苦しいが、押さえ込んでいないと、精神がぼろぼろと崩れ吸われて行ってしまいそうだった。地面に膝を着く。立ち上がろうとする意志を持つたびに吸い取られていく。未だにか細く立っている理性の柱がひび割れていきそうだと、思ったその時だった。
    「大丈夫?」
    かけられたその声に、虚から吹く風が止んだ。目の前に誰かがいるようだった。視界がかすんで良く見えない。
    その声は不思議な響きをしていた。知らない声だ。それなのに鍾離を宥める優しい声音。
    「触っていい?」
    頷けたかは分からなかった。声も吸い取られてしまったかのように掠れて息が出ただけだ。手が頭にのせられた瞬間、鍾離のすべてを吸い取らんとしていた虚に底が出来たようだった。
    「よしよし、いい子だ」
    優しく頭を撫でられるのも奇妙な感覚だった。馴染まない、それなのに虚が温まる。指先が自分の頬に触れて、そのぬくもりに驚いた。自分の体は冷え切り、指先が強張って動かない。温めるように手は鍾離の両の頬を包み込む。
    「俺を見て」
    霞んだ視界で声の主の瞳を探す。誰かと目が合った感覚があった。
    「よく出来ました」
    褒められるたびに虚がふさがり、隙間があたたかいもので埋められていく。
    少しずつ視界が戻ってくる。相手の瞳は黒い色をしていた。虚とは違う、光を宿す暗闇に、よく見てきた人間の慈しむまなざしを思い出す。
    手のひらが離れていき、代わりに体を抱きしめられる。めいっぱいを抱くように大きくそして強く。
    「苦しい?」
    「……まだ少し」
    「辛い?」
    「今はもう辛くはない」
    ひとつひとつ虚の形を確かめるように、問いかけてくる声と抱きしめられる確かな感触に目を閉じる。
    「寂しい?」
    そう、問いかけられて、はたと気づいた。
    ああ、あの虚の正体は。
    「寂しい」
    答えると、抱きしめた片手が頭を撫でる。
    「いい子だ。分かったならもう大丈夫だな」
    離れていく腕が惜しくて、離れた途端に自分と相手を隔てる空気を嫌がるように手を伸ばしても、相手は応えてくれない。
    「ほら、あなたの友人が探してる」
    もうだいぶ輪郭が分かるようになった視界で、相手が遠ざかっていくのに声をかけようと口を開く。
    「鍾離!」
    「鍾離先生!」
    自分の前に膝を着いた金髪の人影に、ああ、と溜息を吐く。
    「様子がおかしいって思ってたんだけど、大丈夫?」
    鍾離を心配する旅人の声はあたたかい。それはダイナミクスではなく、友情の表れとして鍾離に響く。
    「ああ、もう問題ない」
    「大丈夫って顔色じゃないぞ、鍾離……」
    パイモンの不安げな声に一度目を閉じ、再び開けば、いつものはっきりとした光景がそこにあった。路地の様子に自分が今どこにいるのかもすぐに分かる。心配して自分を見つめている旅人とパイモンの姿に、笑みを浮かべてみせた。
    「もう大丈夫のようだ。心配をかけた」
    その言葉に、素直に良かった、と胸をなでおろすパイモンとは真逆に、旅人が瞳で大丈夫なのかと問いかけてくる。頷くと、旅人も頷きそれ以上は何も言う様子はなかった。
    「お前たち、依頼は大丈夫なのか?」
    「急ぎのものじゃないから大丈夫。近くの茶屋にでも入ろうよ。鍾離先生、温かいものを飲んで休んだ方が良いと思う」
    「ああ。感謝する」
    連れ立って歩きながら、鍾離はようやく自分の状態を把握した。
    あれは、自分の第二性が引き起こした、精神の不調だ。

    鍾離が凡人になるにあたって、決めなければならないことがあった。
    それは第二性だ。Dom(庇護者)かSub(尊重者)と呼ばれているその第二性(ダイナミクス)は、璃月特有の呼び方はもあるが、テイワットの呼び方に倣っている。テイワットで、神の目を持つ人間は、どういう理由かSubの人間ばかりだった。ゆえに鍾離も凡人の形をとる際に、Subの第二性を持つ体を作った。まがいものとはいえ、元素を扱うのであれば、神の目を持っていることになり、つまりその体はSubということだ。鍾離はこの凡人の体を作るにあたって、自分の第二性を考え、テイワットのルールから外れる理由も取り立ててなかったため、正当にSubを選んでいた。
    庇護と尊重の関係性については、人間と共に生きてきた鍾離もよく見てきたものだった。
    だが、Domと行為をしないことで自分に起こる不調について、鍾離は予測できていなかった。一般的な体調不良も、第二性に関係する体調不良も、その発露は人により様々で分類しがたく、その人間自身でも判断できていないことも多いからだ。
    凡人の体になってから、いくつかの体の変化は自覚していたが、第二性が与える影響については、変化は訪れてからの対処をすることにしていた。不調の周期も度合いもまるで想像がつかない。だが、それを鍾離は問題だととらえてはいなかった。なぜなら、人間は遥か昔から、自分たちの第二性に対処しながら問題なく生きているからだ。それならば自分に出来ないことはないだろう。と。
    その結果が今回の症状だった。
    これ程までに精神に影響を及ぼすのかと、実際体験してみて、第二性と付き合い続けている人に感心することになろうとは、この人生(圏点)分からないものである。
    とはいえ、後から分析すると、急速な摩耗かと思うほど鍾離が陥った不調の程度は大きく、恐ろしいことに誰とも知れない男がケア(調心)をしてくれなければ、あの後、自分がどんな状態に陥ったのか、流石の鍾離でさえ予測を躊躇うほどだ。
    だが、初めて不調に陥ったのなら、対処を始めることが出来る。
    あのような精神状態になるのは、どんな時も思考を緩めることがなかった鍾離にとっては耐えがたいものだ。そしてあんな状態でも鍾離の記憶ははっきりと、自分が抱いていた感情を再現することが出来る。考えるほど二度と味わいたくはないものだった。
    SubやDomの不調は、行為以外で解決出来ない。対処薬は存在しているが、一時的な症状をしのぐだけのもので、きちんとケアをするのであれば、パートナーであるDomを見つけての行為が必要だ。
    璃月にもケアを生業とするDomが存在している。もちろんSubでも同じ職業がある。大抵の人間は家族や親戚の中で調心行為を行い、自分の第二性のコントロールをしているが、そういうサービスを使う者も少なからず居ることを知っている。
    鍾離の知り合いで、家族のように行為に付き合ってもらえるDomはいない。行為は日常的なものではあるが、相手との信頼関係がないとすぐに破綻するものであることを鍾離は文献や伝聞で理解しており、家族ではなく他人に頼む場合はまた違う意味を持ってくることも知っている。
    それらのことを考えると、ケアのサービスを利用することが妥当だろう。
    そう考えた鍾離は、調心屋について調べ、評判が良く、人物的にも信頼が出来そうなDomを何人か見繕うと、出かけることにした。調心屋は中心地から外れた、人目につきにくい場所に建っていることが多い。調心屋に見られることを嫌う人間も多いためだ。また、完全予約制であり、他のSubと出会うことがないようにもされている。鍾離は特に気にすることはなかったが、きちんとそのルールに従った。
    その結果といえば、すべて失敗だった。
    行為に特に問題があったわけではない。きちんとサービスを利用する契約書を書き、その際にセーフワードを取り決めた。Domと信頼を築くために最初の三回は行為をせず、会話を楽しんだ。一人目のDomは話の上手い男だった。相手の話題にある程度合わせるために、教養をきちんと身に着け、流行のものや、利用者に必要ならば利用者に関わりのある勉強もしているそうだ。そのDomは鍾離が知識人と知るが否や、聞き役に回り、興味深そうに話を聞いてくれた。適度なところで質問もいれ、鍾離に関心があると丁寧に対応してくれた。四回目の利用で、いざ行為をしてみるとなった際に、何も起きなかったのだ。何も起きなかった、というのは問題ではなく、行為で感じるはずの安堵や充足感などが訪れなかったことをいう。きちんと手順を踏んでいるし、お互いの関係も行為をする問題ないものであるとお互いが認識しているのに、結果が伴わない。
    調心屋を使うのが初めてと聞いたそのDomは、不慣れが原因かもしれないと教えてくれた。今までパートナーと行ってきたのなら、他のDomに対して上手く信頼できていないのかもしれないと。これまでそんなパートナーは必要なかったし、居もしなかったのだが、丁寧に対応してくれようとするDomに鍾離はこのDomではうまくいかないと判断し、きちんと感謝を告げながら契約を終了した。
    次のDomは、一人目の調心屋とは違い、軽薄そうな男だった。話を聞いてみれば、真剣に付き合ってくれる相手よりも軽薄なDomの方が安心して付き合えるSubもいるらしい。鍾離は素直に前の調心屋ではこういうことがあったと説明し、困っていることを告げた。それを聞いて、二人目のDomもきちんとセーフワードを取り決めた契約書を作り、初回から行為をしてみようと提案した。行為を繰り返せば慣れていくかもしれないと。最初の行為はお互いの好きなものや嫌いなものを話し、話せたら褒める、という流れを繰り返した。五回ほど行為を続け、二人目のDomは分かった、と言わんばかりに鍾離にこう告げた。「褒められ慣れすぎている」と。考えてみればその通りだ。誉め言葉はきちんと嬉しいと思うが、鍾離の心に響きすぎることはない。その感覚のせいで、調心に至らないらしい。というのはそのDomの言で、本当にそうなのかは鍾離自身でも分からなかったが、確かに一理あるとは思った。
    となると、鍾離はあの限界の状態の中でしかケアが出来ないということになる。それは非常に困る推論だった。
    二人目のDomにも感謝を伝え、契約を終了したが、鍾離にとってここまで悩む事態も珍しい。千年単位で久しぶりなことでもあった。流石にこの状況を楽しむほどの余裕はない。あの場にいたのが旅人だったから良かったものの、その他の人間にあんな状態を見せて平気なほど長生きしているわけでもない。いや、他の人間に見せていた。あの声の主、彼は鍾離のケアをこれ以上ないくらい的確に行った。他人に対してのケアに慣れている。あのような状況で動じた様子もなかった。だからこそ縋ったのだが、そうなると、彼はケアに関係する職業についているか、悪い予想としては遊び慣れているということである。この璃月港でたった一人の男を探し出すのは、粉々に砕かれた岩を組み立てるようなものだったが、それでも、探さないよりは希望がある。
    鍾離は三人目の調心屋を選びながら、あの男の記憶を出来るだけ思い出した。だが黒髪黒目に長身の男だったことしか分からない。ほとんど手がかりにならない特徴だ。顔を覚えていればずっと容易になっただろうが、焦点を合わせられなかったために残念に思ってもしかたがないことではあった。
    もう一つ打てる手は、旅人に立ち去った男を見てないか尋ねることだ。鍾離はあちこちを飛び回っている旅人宛てに、冒険者協会を通じて手紙を出した。
    そして、旅人が往生堂に顔をだしたのは、それから三日後のことだった。

    「パートナーか……」
    鍾離の話に対して、旅人とパイモンは鍾離が思っていた以上に難しい表情を浮かべていた。旅人はこの世界のルールに捕らわれず、またパイモンにも第二性はないようだったが、二人は第二性の重要さを鍾離よりもよく理解しているようだった。二人の旅がこの世界の人間と密接に関係していることを感じながら、鍾離は二人の反応を待つ。
    「率直な話をすると、俺たちは鍾離先生を助けた人を知ってる」
    「空?!」
    目を見張るパイモンに、何か訳ありらしいことを理解して鍾離は旅人と目を合わせた。
    「い、良いのか?内緒にしてくれって……」
    「出来るだけの努力はする、としか返事をしてないから大丈夫。彼は話が分からない人じゃないよ」
    「お前たちの交友関係に何らかの影響があるなら、無理に聞かずとも構わない」
    「大丈夫だよ。俺たちにとっても鍾離先生は大切な友人だから。力にならせて」
    「そうだぞ!鍾離を助けてくれたやつは、悪い奴じゃないぞ。ちょっと意地悪だけど」
    むう、と腕を組むパイモンは何か意地悪をされたようだった。だが、その表情が拗ねるようなものであるなら、揶揄い程度のものだったのだろうか。だが、パイモンから意地悪という言葉が出てきたことが気にかかる。
    「俺が頼めば、会ってくれると思う。その人はケアサービスをしている人なんだけど、依頼を受けて誰かの家に直接出向いてプレイをするんだ。主に富裕層が利用してるって聞いた。ケアサービスを始めてもう三年が経つって言ってたから、腕は確かだと思う」
    「家に、か……」
    富裕層なら確かに自分から出向くことをしない。そういう形態があることは聞いてはいたが、実在する情報を手に入れていなかったので予想していなかった。自分のダイナミクスに関係することは口をつぐむだろう。赤裸々な話になる。納得を覚えながら、鍾離は旅人の真剣な目と目を合わせる。
    「その者と会いたい。仲介をしてもらえるか?」
    「分かった。連絡してみる」
    「じゃあ、今日はあいつのところにいこうぜ。あ、でもあらかじめ手紙を送っておいた方が、お菓子いっぱい焼いておいてくれるんじゃないか?」
    どうやら菓子を作る男のようだ。他愛のない情報がパイモンから入ってくる。
    「パイモン、急ぎだよ」
    「う~、作ってたら嬉しいんだけどな」
    柔らかくたしなめるような旅人の声音と、しぶしぶといった様子のパイモンに、二人の仲の良さを見て目を細める。
    「鍾離先生、明日には返事をもらえると思うから、また往生堂に会いに来るよ」
    「ああ。すまないがよろしく頼む」
    「おう!きっと助けてくれるから心配しなくて大丈夫だ!」
    手を振って出かけていく二人を見送り、鍾離は少し散歩をしてくるかと往生堂から足を踏み出した。璃月の街並みは凡人となった今も鍾離の目に変わらず映っている。明日、再会するかもしれない恩人のことを考えながら、散策を始めた。

    翌日、往生堂にやってきた旅人が鍾離に告げたのは、白駒逆旅に予約された部屋の名前と時間だった。ひとまず個室で顔合わせを、ということらしい。旅人と共に来るのだと思っていた鍾離は、どこか性急さを感じる手配だと感じた。
    「その男の人、琉嘉って言うんだけど、多忙みたいで、今日のその時間を逃すと一週間くらい会えないんだって」
    「オイラたちの紹介だから、初回はお試しってことで、琉嘉が料金を持ってくれるらしいぞ!」
    得意げな顔をするパイモンと旅人に感謝を告げる。
    「上手く行くといいね」
    旅人の案じる真摯な言葉に頷いた。鍾離は取り立てて用意をすることもないと旅人たちに見送られ、今日もまた璃月の街に出かけるのだった。

    白駒逆旅の告げられた部屋の名は珀縁という。受付でそう告げると、お待ちしておりましたとスムーズに部屋に案内された。扉をノックし、来訪を告げると中から男の声で応えがある。
    扉を開けて中へと足を踏み入れれば、部屋の上等さがうかがえる広さがあった。どうやら二部屋続きの作りらしく、ベッドルームは別のようだ。向かい合わせのソファの前に、男が立っていた。
    綺麗な顔立ちをしている男だった。首の後ろの髪は縛られず流してあるが、長くしているのはそのあたりだけのようだ。丸い印象の髪型。毛先に癖があるが、わざとつけているように見えた。左側の前髪が少し伸ばされているが、目は良く見えた。少し釣り目の面立ちは、印象だけで言えば我の強い男に見える。顔立ちが整っているので余計にそう見えるが、口元に浮かべられた笑みは意味深で、妙な魅力があった。
    「鍾離先生?」
    話を聞いているらしく、先生の敬称を付けた男は、鍾離が頷くのを見ると胸に手を当てる。
    「琉嘉だ。聞いていると思うが、ケアサービスを生業にしている」
    心地良い声だった。あの時のDomに間違いない。
    「以前、道端で不調が出た際に世話になった。貴殿が助けてくれたと旅人に聞いている」
    「運が良かったな。本来俺は高いんだよ」
    そう冗談のように男は口にする。確かに高いのだろう。目利きばかりの璃月の富裕層相手に成り立っているDomだ。
    「今回も貴殿が持つと聞いているが、初対面で良かったのか?」
    「旅人には世話になっているからな。それにあんたと俺が合うとは限らない。二回Domを振ってるんだろ?」
    面白がるように笑みを浮かべた男は、ソファの向かいに座るよう勧めてきた。その通りに座った鍾離に、琉嘉は向かいに座る。
    琉嘉と目は合わない。雑に扱われているように感じるが、無理な顔合わせだ。そういうこともあるだろう。琉嘉はこれまでの鍾離の話を聞く。その間も視線は合わない。背もたれに背を預けて、足を組んだ男は言う。
    「今日は契約書を書くつもりはない。セーフワードは決めるが、使うような場面も出てくるかもしれない。それでも構わないなら、あんたの状態を探るよ」
    「良いだろう。貴殿はダイナミクスを扱う専門家だ。貴殿の指示に従おう」
    鍾離が頷いたその瞬間、男はゆっくりと鍾離と目を合わせる。その途端、妙に満足した心地がして、鍾離はそれほどまでに扱いが不満に感じていたのだろうか?と不思議に思った。
    「分かった。セーフワードは何が良い?」
    「そうだな……《玖耀》にしよう」
    「玖耀?」
    「黒玉の高価な宝石だ」
    琉嘉の瞳を見て思いついた。琉嘉はちゃんと鍾離を見つめている。
    「じゃああんたのことを教えてくれ。性的なことも聞くが、嫌なら答えなくても良い」
    そう前置きをしてから、琉嘉は問いかけてくる。
    「あの後、寂しいと思ったことは?」
    「ない」
    「Subの不調じゃなく、他に不調を感じたことは?」
    「ないな」
    「じゃあ。」
    琉嘉はゆっくりと言う。
    「俺に会いたいと思っていた?」
    尋ねられて鍾離は目を瞬いた。あれからの自分を思い返す。会いたいと、自分は。
    「そのようだ」
    確かに思っていた。最初から、最初のDomに会う前から、彼が見つかればいいと思っていたのだ。そうしなかったのは現実的ではなかったから。それと自分の不調がいつ来るか分からず、まずは対処を優先したからだ。だからその欲求を除外していた。
    「貴殿のケアは心地良かった。的確であの状態の俺をすぐ引き戻した技量も称賛に値する。出来れば貴殿に頼みたいと考えてはいた」
    琉嘉は微笑む。
    「俺に会いたかった。って言って。鍾離先生」
    それはコマンドでも何でもない。Domのコマンドは独特で、鍾離の心に直接働きかけるような感覚があるのだが、それがなかったということは、琉嘉にその意図はなかったということだ。
    「貴殿に会いたかった」
    ぞくり、と、自分の中で何かがざわめいたのに鍾離はそれを探ろうと自分に意識を向ける。
    「じゃあ、《言って》。鍾離先生。俺に行為をして欲しい。って」
    「っぅ」
    先ほどよりもずっと大きいざわめきが背筋に湧き上がる。
    「して、欲しい……っ、琉嘉」
    自分の胸元を掴む。動悸がした。体が妙に火照る感じがあり、ネクタイを緩めて楽になりたいとの思考がよぎる。
    「よく出来たな(good)。上手く行為を意識出来てる」
    優しく目を細める琉嘉は、ソファの向かいに座ったまま近づいてこようとはしない。鍾離の異変を指摘することもなく、ただ慈しむようだ。その慈しみの感覚の方は鍾離には覚えがあった。間違いを犯さない人間などいない。契約を破ったなら適切な処罰と学習、改善の努力、それらを長い間見守ってきた。鍾離にとって契約は揺るがないが、平等と情の判断を迷うことは未だにある。明確な正答のない人の暮らしを見守ってきた鍾離が、人間に抱く感情に似ているような、そんな共感がある。それを今抱かれている。
    鍾離に対してそんな風な態度を取った者の記憶は遥か昔のことだ。懐かしい。あの頃は今よりもずっと知らないことばかりだった。そして気づく。今は、ダイナミクスについて何も知らない。
    「鍾離先生は欲求が薄いんだろう。それは悪いことじゃない。節制と自律、その精神は常人には辿り着けないものだ。だが、欲がなくては人間じゃない。凡人でいるためには、もっと自分を甘やかしてやらないと」
    甘やかす。
    鍾離がほとんど抱いたことのない思考だ。いや、抱いたことはある。岩王帝君から、凡人に降りるその時に。
    「大抵の人間は、あんたの年に至る前に行為を必ず経験している。でも、あんた、初めてだろ?その高揚が行為が始まっている感覚だ」
    凡人ならば有り得ない初体験を言い当てられ、鍾離は少し上がった息の中で琉嘉を見やった。琉嘉は優しく微笑んでいる。
    「初めてならとても難しかっただろ。大丈夫、今の状態は正常だよ。今日はこれで終わりだ。良い子だったな」
    そんな言葉を投げかけられるのも初めてのようなものだ。可愛がられている、という今までにない感覚に、戸惑いを覚えながらも、自分が満たされているのを自覚する。思っていたよりもずっと飢餓があったようだ。魔神は人よりも許容量が多いだろうと自覚は出来る。だから凡人の自分の感覚と釣り合いが取れていないのだろう。なるほど、これからは感覚を併せていかないとならなそうだ。
    「これからも頼めるだろうか」
    「言っただろ」
    琉嘉は笑った。
    「俺は高いって」
    対価を支払う契約をするのであれば、という遠回しな返事だ。
    「ならばよろしく頼む」
    金額を聞かずにそう口にした鍾離に、琉嘉は目を瞬くとまた笑った。
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