「アザール様」
呼びかけられてアザールは目の前の書類から顔をあげた。
他の賢者に囲まれながら、実験のデータを確認している最中だった。
セタレが捕えられたため、アザールの補佐の教令官は別の者へと代わっている。
「なんだ。取り込んでいるのが見て分からないのか?」
賢者の言葉に萎縮した教令官にアザールは宥めるように微笑む。
「少し休憩にしましょう。先生たちもお疲れでしょうから」
「ああ……。もうこんな時間か。確かに、次の行程までの時間を考えると、休憩を取った方が良さそうだ」
「ではまた後ほど」
賢者までのし上がったからこそ、物事の計算も早い。
アザールは萎縮したままの教令か官に声をかける。
「何かあったのか?」
「いえ……、その、大したことではないのですが、来客がありまして……」
「来客?」
わざわざ知らせに来るような相手を思い浮かべたアザールに、教令官は続ける。
「その、アムリタの学者のティナリです。以前、他の賢者様がお声がけするほど優秀とお聞きしていたので、一応お知らせをしておこうかと……」
「どう対応した?」
「言いつけ通り、多忙を理由にお断りしました」
「分かった。知らせてくれてありがとう。君の今の仕事は重要なものだ。感謝するよ」
「いえ、そんな……!大賢者様に感謝されるほどの気遣いでは……。では、私はこれで失礼します」
アザールに褒められたことによる高揚を隠すように、あっという間に去っていった教令官のせを見送り、アザールは少し考える。
どうせ、今更何も出来ることはない。
そう結論を出すと、アザールは歩き出した。実験室を出て、教令院の方へと向かう。そうでもないはずなのに、濃密な時間を送っているせいで、時間感覚が鈍くなっており、日差しをあびるのは久しぶりな気がした。
すれ違う学生たちに挨拶をされながら、アザールはラザンガーデンへと足を踏み入れる。
「あと3分で来なかったら、帰るところでした」
そうはっきりとした物言いで声をかけてきた青年に、アザールは微笑む。
「教令官が私を見つけるのに時間がかかったようだ。会えて何よりだよ、ティナリ」
そう返すと、ティナリはため息をついて腕を組んだ。
「食事は?睡眠は?あまり取られていないようですが、今行っているプロジェクトにはそれだけの価値があるんですか?」
「あると思いたいね」
穏やかに返事をして、その隣へと立ち、景色へと視線を投げかける。
「何をしているのか、お聞きしたら答えていただけますか」
「君はすでに我々の誘いを拒んだ。私が君に話せることはない」
「実を言うと、参加しなかったことを後悔しています。先生を止めるための証拠を得られた」
「君は我々の誘いを受けなかったよ。だから教令院を去ったんだ」
「去ったつもりはありません。僕は他にやりたいことを見つけただけです」
「そうだな。……今の教令院は、何をおいても残りたいほどの価値はない」
ティナリがこちらを振り向いた視線を感じる。
アザールは目を伏せた。
目を伏せたアザールの見やり、ティナリはもどかしさを堪えるように、組んだ腕の指に力を込める。
会話をして確信した。己の師は、自分が行なっている傲慢なプロジェクトの罪を客観的に把握している。それでいて、実行しているのだ。
「正直、僕は今日、あなたが会いに来てくれると思っていませんでした」
「……ああ、そうだね。お前は私が何をしているのか分かっているようだし……。まあ、ただ、ここまで来たらあまり私に出来ることはないんだ」
「え?」
何を言っているのか分からずにティナリはそのいつもと何も変わらないアザールを見つめる。
「事態はもう教令院の外で進行しているからね。あとは自分が丁寧に蒔いた種が身を結ぶのを待つばかりだよ」
そんなことを言ったアザールにティナリはまた前を向く。
「初めてお会いした時のこと、僕はよく覚えていますよ」
教令院に入りたての頃から、非凡な才を発揮してきたティナリは、最初の頃は嫉妬による嫌がらせを受けるばかりだった。憤りと、まともに相手をしたら負けだという冷静な判断、そしてプライド。まだ幼いティナリに上級生たちは、教令院で慣れきった嫌がらせを行なっていた。
それに屈するような性格をしていなかったが、うんざりしていたのは事実だ。
「今思い返しても酷いですね」
そう言ったティナリにアザールは小さく笑う。
「君は私の助けなどいらないだろうと思っていたからな」
そんなことはなかった。
ティナリは年こそ経たが、ずっと変わらないままの隣の師との記憶を思い返す。
あの日、ティナリが提出しようとしていたレポートは、故意にこぼされたインクによって台無しになった。
完成したレポートを与えられた実験室のテーブルの上に置いておいたのが失敗だったとは思うが、嫌がらせの度を越していた。
ファイルには入れてあったが、遠慮なくかけられたインクが入り込み、滲みとなってしまっている。
黙ってファイルを手に取ると、インクが滴たり、それをわざとらしく通りがかった生徒たちが、同情する声を上げる。
もう退学してやろう、そう思った時だった。
「何の騒ぎだ?」
冷たい印象を受ける声に、はっと教室が静まり返る。
教室に足を踏み入れたのは、ルタワヒストの有名人、アザールだった。
そのころはまだ一介の学者であったが、その名は教令院中に轟き、次期大賢者の噂すらあった。
「あ、いえ……、不幸な事故がありまして……」
しどろもどろの学生に、アザールの瞳は感情もなくただ観察するようだった。
足を踏み入れてきて、ティナリが手にしたレポートを見つけたアザールは、沈黙する。
その空気に耐えかねたのか、そそくさと教室を去っていった学生を、アザールは引き止めはしなかった。
あの状況から見れば、彼らが嫌がらせをしたことを察せそうなものなのに、何も言わないアザールにも八つ当たりをしそうになったティナリは、もう辞める、という意思の下でなんとか踏みとどまる。
と。
「これを」
そう言って差し出された紙束に、ティナリは反射的にそれを受け取った。
見てみれば、それはインクで台無しにされたはずのレポートであり、一字一句、そしてティナリの筆跡そのままのものだった。
「な、これ……」
驚いたティナリに彼は言った。
「言い出すのが遅くなってすまないな。流石に密かに行なっていた観察を知られるのも問題だろうと思ったんだ」
「観察?」
「教令院という環境が及ぼす人格への影響とストレスの発散についての観察を行なっていた。君はちょうど嫉妬の対象になる。ここしばらく君の周囲を観察していたが、見過ごせない行為を行おうとしていたため、あらかじめレポートをすり替えておいた」
「……なんて言いました?」
「簡単に言えばレポート三昧でストレスを感じた学生が如何に性格が悪いことをするのかその傾向を探っていた」
流石に絶句したティナリにアザールは、嘆息する。
「逸脱した人間に対する周囲の反応のデータはあまり取る機会がないんだ」
「良心は痛まなかったんですか?」
声がトゲトゲしくなるのも仕方がないことだろう。
ティナリはアザールの授業を受けたこともないし、そもそも学派も違う。アザールにはティナリの学習環境の改善の義務はないが、それにしたって今まで黙ってデータを取っていたというのは良心に欠ける行いだ。
「心配ない。君はもうあの手のくだらない人間関係には悩まなくて済むようになる」
「……どう言う意味ですか?」
問いかけたティナリに、アザールは微笑んだ。
「データを取っている、と言っただろう。彼らの些細だが数々の人間性を疑う行いの記録も取ってあるということだ。君に渡してもいいが、後々のことを考えると私が対処した方が禍根が残らないだろう。君はこれからも教令院で学んでいくのだからね」
そしてアザールは続けた。
「そして今日発表になるが、レポートのコンテストがある。仮想シチュエーションで与えられたデータを元に、レポートを書く課題だ。君はおそらくそれで一位を取り、賢者たちに覚えてもらえるだろう。くだらないことだが、教令院での生活の半分は人間関係で成り立っている。君が後ろ盾を得られるのなら、より快適な学生生活を送れるだろう」
「僕が一位を取れると思ってるんですか?」
「ああ。この観察を始めてからずっと君のレポートには目を通してきた。賭けても構わないよ」
賭け、という単語が出てきたことに驚きながらも、ティナリは少し考える。
「僕もそう思いますから、賭けは成立しません。でも、これまでのことをあなたが申し訳なく思うなら、一つ頼みを聞いてもらっても?」
「うん?別に構わないよ。私に出来ることなら」
あっさりと承諾したアザールのあまりに余裕がある態度を妙に悔しく思いながら、ティナリは言う。
「あなたの授業を受ける資格をください」
目を瞬いたアザールに続ける。
「異なる学派の授業を受けるには、許可証が必要です。あなたがどんな授業をするのか確かめたい」
「……構わないと言ってしまったから、仕方ないな。手配しておくよ」
想定外だったのか、息を吐き出しながらもそう言ってアザールは微笑む。
「来月君のレポートを読むのを楽しみにしているよ」
その声に偽りはなさそうで、ティナリはその時、この男について、よく観察してみようと思ったのだ。
その結果、アザールの顔をみればその体調がわかるようになってしまったのだが、彼の精神性は揺らいでいないらしい。
「ここに来たのは、君にお願いしたいことがあるからだ」
「そんなことだろうと思いました。でもお断りします」
「まあ聞くだけ聞いてくれ。何かあったら、私のデスクの右の1番下の引き出しを見るように、言ってくれ」
「誰に?」
「その時ふさわしい者に」
アザールはティナリを振り返り、目と目が合う。
「なんにしても、プロジェクトを立ち上げたなら結果はいずれ出るだろう。ティナリ、それでは元気で」
返事も聞かずに歩き出したその背を呼び止めようとして、ティナリは踏みとどまった。
同じだ。いつだって同じだ。彼は求める結果のために行動している。
ティナリがここで静止したとして、例えば彼を武力的に拘束したとして、もう流れは止まらないのだろう。
それに、ティナリの信条として、証拠も根拠もない仮定を元にした疑いで、彼を害することはできない。
「体を壊さないでください」
だからそうその背に声をかける。
少し顔を上げたアザールは、返事はせずにティナリの前から立ち去っていった。