「初めまして、お嬢さん」
彼女が夢を通して子供達と交流を図っていることは知っていた。それが彼女をかろうじて維持する信仰に繋がっていることも知っていた。
「初めまして」
意図的に彼女を訪れさせた夢の中で彼女と話をする。
彼女が少し驚いた面持ちでじっと私を見つめているのに、儀礼的に胸に手を当てる。
「新たに大賢者に就任しました。エルネスト・ヴァン・アザールです。以後お見知り置きを」
反応したように幼い少女は胸に手を当てた。
「私は……」
言いかけて彼女は止まる。
「なんて名乗ったら、あなたに満足してもらえるのかしら。こんな丁寧な挨拶を受けるのは初めてよ」
そんなふうに言った彼女に、きちんと閉じていたはずの心に響いて私は視線を逸らさないように努力しなければならなかった。
「お嬢さん。名前を名乗る時は、相手に読んでほしい名前を名乗るんだよ」
「そうなの?それじゃあ、エルネスト、私の名前はナヒーダよ」
思えば、今生で1番心を打ち震わせたのは、彼女がそう名乗った時だった。
繰り返すたびに記憶ではなくデータだけを引き継ぐせいで、人間関係のコントロールがぎこちなかった私は、その時に大賢者の地位を手に入れるために、疲れ果ててもいたのだ。
「大変な思いをしたのね……」
ナヒーダはその私をみて、そんなことを言った。
「私のために……?」
彼女が私の目を見つめて何かを読み取ろうとしていることに気づいた瞬間、ぞっと背筋が冷える。
反射的に思考言語を転生前の言語に切り替えた。
その情報は“知らない”。
私の動揺が伝わったのか、ナヒーダは目を丸くして私を見ていた。
「もしかして……、良くないことだったのかしら」
私は首を横にふる。
「いいや。でも君が心を読めることは、信頼できると思った相手にしか言わない方がいい。これまで出会った子に嫌がられたりしなかったのか?」
「ええ。みんな、気にしなかったわ。心を読むのは私の特別な能力だと知ってはいるけど、打ち明ける機会はなかったの。この能力の特別さが分かる大人と話ができるくらいに成長したときには、大人は夢を見なくなっていたわ」
「……ナヒーダ」
痛ましいものを見るような気持ちになり、私は名前を呼んで、ただ言葉を見つけられずにいた。
「どうしてそんなに悲しんでるの?エルネスト。あなたの考えている言語は、私の知らないものよ。隠しているの?」
彼女は私のすぐ目の前に近寄ってくる。彼女の視線に合わせて、気がつけば私は地面に膝をつけていた。
「…………貴女が」
貴女が、私の神であったらどんなに良かったことか。
彼女の成長を邪魔するものを全て叩き壊し、スラサタンナ聖処から出して、その愛らしさと賢さでもって、この国を導いてくれたらどんなに良かっただろう。
「エルネスト」
私の名前を呼んで、彼女は小さな手をそっと私の頭に乗せる。
「大丈夫よ。心配しなくても、私が出来る限りあなたを守るわ。賢者の中で、私に会いにきてくれたのは、あなたが初めてよ。エルネスト」
その優しい声を聞いて目を閉じる。
世界樹の枯凋を癒すためのプロセスは決まっている。どんな寄り道をしようと通らないとならないイベントがある。
全てのシナリオは決まっている。その通りに進まなければ、セーブポイントまで戻されてしまう。まるでフリーズしたゲームを再起動した時のように、記憶されたポイントから再び始まるだろう。
彼女をこの環境から自由にするためには、必ず彼女を貶める必要がある。
多くの私はおそらく、彼女への罪悪感を理由に失敗した経験がある。分かっているのに、分かっているから、彼女に会いにきてしまう。これは克服しなければ結末へ辿り着けない茨となる。
「……ありがとう。君はきっと素晴らしい神になるよ」
思考は理解できずとも、感情は読めてしまうらしい彼女には、この嘘偽りのない声も分かってしまうのだろうか。
彼女との交流は、ナヒーダをいずれ深く傷つけることにもなるだろう。私は自分の内心感情を偽るほど器用な人間ではないし、だからといって、全てが終わったのち、この未熟なナヒーダを、あっさりとスメールのトップへ放り出すほど無情にもなれない。
いずれ手放す庭だとしても、手をかけるほど栄えるだろう。
あなたの創意の庭が、背を伸ばしていくのをいつまでも眺めていたかった。
そのために、私はアザールにならなければならないのだ。
ジュニャーナガルバの日。
教令院にとってもっとも重要な日の説明を旅人に施しながら、アルハイゼンは大賢者の執務室への道をたどっていた。
声をかけてきた学者を適当に言いくるめながら、ふと既視感を覚えるが、足を止めない。
「アザールが執務室を留守にした瞬間がチャンスだ。アザールの1週間の行動はほとんどルーチンで成り立っているが、この日だけは彼の動きは分からない」
「それじゃあ、今日の結構は危険だったんじゃないか?」
「いや、今日の教令院でなければ、君たちが知恵の殿堂まで侵入することは難しかっただろう。そしてアザールの居場所よりも、教令院の人間の多くの視線をそらせる方がいい」
パイモンの緊張した声にアルハイゼンはいつも通りの声で返す。
「ひとまず様子を見よう。アザールの現在地を突き止めなければ──」
言いかけてアルハイゼンは言葉を止めると、その背後を振り返る。
同じく視線を向けたパイモンと旅人は、あ、と声を上げた。
「エルネ!」
名前を呼んだパイモンに、アザールはいつもと同じ様子で佇んでいた。
周囲には彼だけだ。自分たちを注視する人間はいない。
「答えは出たか?アルハイゼン」
黙ってアザールを見つめ返すアルハイゼンに、アザールは小さく笑んだ。
「おいで3人とも。私の執務室に案内しよう」
身を翻したアザールに、アルハイゼンが躊躇もなくついていくのに、蛍とパイモンは顔を見合わせてから足を踏み出した。
エレベーターに乗りこんで、4人の沈黙が訪れる。
「その、エルネ……、元気だった……か……?」
沈黙に耐えきれないとばかりに口を開いたパイモンが、悩んだ末に掛けたのはそんな言葉だった。
「人には、生まれ持っている美徳があるものだが、君のそれは称賛に値するものだ。パイモン」
「え?」
「ああ。どうも率直な言い回しが苦手ですまない。心配してくれてありがとう。と言っている」
「エルネ……」
エレベーターの浮遊感が止まり、開いたドアにアザールは一足先に部屋へと足を進める。
なおも声をかけようとしたパイモンは、振り向いたアザールの冷たい視線と、嘲るような微笑に動きを止めた。
「答え合わせと行こうか」
一瞬で場が緊迫し、視線を交えたアザールの威圧にパイモンが蛍の隣に少しだけ近寄ってくる。
「エルネ。早く実験を止めて。ファデュイは危険な存在」
「そうだろうね」
「エルネ!分かってるならどうして止めないんだ!たくさんの人が、辛い思いをしたんだぞ!」
「そうだね。でも君たちは同時にこの国の行末、週末を見たんじゃないか?」
問われて、蛍とパイモンは口を閉じた。
死域。砂漠の異常気象。そして魔鱗病。
この国を覆う災厄は、確かに人智ではどうにもならないものだ。
かのマハールッカデヴァータが、その身を賭しても、食い止めただけに過ぎないほどに。
「でも、でも……!民たちに真実を隠してまでやることじゃないだろ!」
「隠した?違うな、知ろうとしなかった、だ」
言ってアザールは腕を組む。
「君たちは、一度完成した統治機構を壊すために1番大変なことはなんだと思う?」
「えっと……、教令院を壊す方法って話だよな?それは……」
考え込んでいるパイモンに、蛍とアルハイゼンはその言葉が示す憂いまで読み取っていた。
「ずいぶんと感傷的だな」
アルハイゼンが腕を組むのに、アザールは肩をすくめた。
「君も大賢者になってみれば分かるだろう。この閉塞した状況下で、神の想像は最後に残された『希望』であり、教令院がもつ知恵の大成となる『偉業』だと思わないか?」
「思わない。私は学者じゃないけど、あなたが間違っていることだけは分かる。エルネスト」
蛍の返答に、アザールは微笑んだ。
「あなたは、すごく傲慢だ」
「ああ、出会った時のことを思い出すな。君の印象は正解だった、というわけだ」
面白そうに言って、エルネは3人を眺める。
「私たち人間は、たとえ目を持っていたところで神になることは出来ない。だからこそ、知恵の頂点となる神の創造は、私だけではなく全ての学徒の夢なんだよ」
「それは結局、神頼みってことだよ。エルネ」
蛍の痛烈な切り返しに、アザールは目を瞬く。
「どうして、ナヒーダを信じないの?」
ナヒーダとアザールは知り合いだ。少なくとも、ナヒーダがアザールに親しみを覚えているということは、アザールはどんな意図にせよ彼女に優しくしたのだ。彼女のことをよく知っているだず。
「……彼女が」
蛍を見据えてアザールの瞳に浮かんだ一瞬の揺らぎが、悔しさだに見えて蛍はその目を見つめる。
「私の神だったら良かったのに」
その一言だけで、アザールがもう全てクラクサナリデビを切り捨てたことがはっきりと分かった。
アザールにとって、もう信仰するべき神は彼女ではない。
「アザール様」
それまで黙っていたアルハイゼンが、ゆっくりと口を開いた。
「あなたには聞きたいことがある。もし、俺の質問に答えると誓約するのであれば、この場で旅人を拘束し、あなたのプロジェクトに協力しよう」
「アルハイゼン!?」
悲鳴のようにアルハイゼンを振り向いたパイモンの視線に反応せず、アルハイゼンはアザールを食い入るように見つめる。
「やっぱり、お前!エルネの方が大事なんだな!?」
アルハイゼンを非難するパイモンの声よりも、アルハイゼンはアザールの瞬き一つすら見逃さないようにその顔を見つめる。
「俺はあなたの1番弟子だ。何故、俺にプロジェクトのことを話さなかった?」
「話したとして、君は協力しただろうか?」
「他でもないあなたが望むのであれば。アザール様」
アザールの口元の微笑が、少しだけ崩れる。
「私は君をそのように育てた覚えはないよ。アルハイゼン。私は最初から今まで、ずっと君を信用していた。信用していたからこそ、話さなかった。いや、理解をしていたかな。君はそもそも、この教令院を『馬鹿みたいだ』と思っているんじゃなかったかな?まあ、でも」
アザールは苦く笑った。
「今の嘘はなかなか効いたよ。アルハイゼン」
「何故です」
アルハイゼンは問いかける。問うことがまだ許されているが、アルハイゼンが敬愛した師はもういない。
「アザール様」
彼は浮かべ直した美しい微笑みで首を傾げた。
生徒の純真な質問に答える時のような顔でアルハイゼンを見返している。
「このプロジェクトの中で、君の目を誤魔化すのが一番大変だったよ。アルハイゼン。君が裏切ることは、確実な未来だったからね」
舌打ちをする。
「俺が教令院を裏切ったというが、君こそ、このスメールを裏切り、そして神に背いた者だろう!」
「……衛兵」
静かながらもよく通る声に、アルハイゼンたちの周囲を槍を持った衛兵が取り囲む。
逃げるには絶望的な状況で、アルハイゼンは懐のものに触れた。
「どちらにしても君たちの──」
「ぐぅ……!」
歯を食いしばる。細工をしておいたアーカーシャのシステムを起動する。視界に不穏な赤い光がちらつき、アルハイゼンは既に学習した、『狂人』の意識にその身を預ける。
「アザール……!」
関節に力を込め、おぼつかない足取りでアルハイゼンはアザールへと近寄っていった。
懐から同じ赤い光を放つ缶詰知識を落とせば、驚いた眼差しが自分に注がれる。
「アルハイゼン……?」
「アザール……、裏切り者め……!」
衛兵を振り切って跳躍したアルハイゼンは、アザールへと飛びかかった。
アザールがそれを避けるのはぎりぎりではあったが、驚いていないように見えた。
避けられたせいで机に派手に乗り上げたように演出する。
衛兵に体が引きずり戻される。拘束されて、アザールを見上げた次の瞬間、頭に鈍い衝撃がある。
その表情を知る前に、アルハイゼンは計画を遂行して、意識を失ったのだった。
少し物悲しいような気がした。
どうやら、アルハイゼンのアーカーシャシステムへの命令の書き換えはうまくいったようで、知恵の殿堂を出ると、教令院は静かだった。
衛兵のすがたは1人もない。
すこしだけぼんやりと立っていると、通りがかったらしいウダイが声を掛けてくる。
「アザール様。お疲れ様でした。ジュニャーナガルバの儀式は滞りなく終わったようですね」
「ああ、ウダイ。ありがとう。……大変なことが起こっているようだが」
言いながら歩き出すと、ウダイが驚いたように言う。
「アザール様、どちらへ?」
「クラクサナリデビのことを確認しようと思ってね。スラサタンナ聖処へ向かう」
「それは……、ですがアーカーシャで確認すれば良いことではありませんか?お疲れのところをわざわざ行かずとも……」
困惑しているウダイに微笑んで見せる。
「行かないとならないんだ」
「大賢者様……?ですが衛兵はもうシティに向かってしまい、お一人では……」
「気にしなくていい。ウダイ、君も今日はもう帰って休みなさい。また明日から大変なのだから」
「そう……ですか。大賢者様がそうおっしゃるなら分かりました」
頷いたウダイの視線に見送られて、教令院を出てスラサタンナ聖処へと赴く。
本当のところ、エルネのアーカーシャの見た目をしたイナモストシステムにはアルハイゼンが仕込んだ命令の書き換えは作用していない。そう言う書き換えがあったと知らせてきているだけだ。
スラサタンナ聖処を訪れ、扉を開いたアザールは、鎖に囚われ浮かんだままの幼い神を見上げた。
そういえば、実際に会うのはこれが初めてだ。
「ずいぶんと愚かな真似をしたな、アザール」
背後から聞こえた声に、アザールは一度めを閉じる。唇に浮かんだ微笑をすぐに消して、振り返る。
外からの日差しを背に受けながら、立っているセノは久しぶりに会うが、元気な様子だった。
「来ると思っていたよ。セノ」
「それはアーカーシャの演算か?」
「いいや。君の性格なら、真実を知ったあと私のことを許しはしないだろう。だから来ると思っていた」
「お前は、過ちだと分かった上でなおもプロジェクトを肯定するのか!?」
「それが、今の私の全てだから」
返事をすると、セノは憤りを押さえつけるように槍を握る。その姿から雷の光が、怒りのように迸る。
「アザール。お前にはもう選択肢など残されていない」
静かに、だが吠えるようなセノの声。
殺気を放つセノを前にして、アザールは無防備にも背を向けた。その視線はクラクサナリデビへと持ち上げられる。
「俺がこの教令院では今や何の価値もない、と言ったな。アザール。だが、その教令院は今、神の名の下に審判を受ける」
正解だ。とアザールは心の中で呟いた。
私がいない教令院でこそ、マハマトラは真に学術の番人となるだろう。
「神の前で罪を認めろ。アザール」
目を伏せる。
ずっと、この日を待ち望んでいた。