少し心配していたが、仕事中に鍾離のことを思い出すこともなく、集中して今日の約束の契約者たちとのプレイを終わらせた。契約者の顔色が良くなったり、安心したりする反応を見ると自分もほっとする。
次の予約の話や、契約料の話で適度に突き放すことも忘れない。プレイが終わると仕事相手への態度に戻すことも心がけている。
琉嘉と契約したSubの中には、契約を終了させた者たちもいる。恋人が見つかり、彼らとのプレイを幸福だと話すSubを見送るのは好きだった。この仕事は自分に向いているし、それにこの世界で自分がやっていくには、調心屋が適切だとも思っている。
鍾離とプライベートなパートナー関係になった時に、自分がプロの調心屋として誠実さを保てるのかが、琉嘉が一番気にしているところだ。だが、鍾離が来てくれなかったら、今日の自分の仕事の質は今までで最悪なものになっていただろう。この自分の不安定さがいつまで続くかは分からない。生活が安定してきた子らこそ、元の世界を恋しく考える余裕が出てきたのだとしたら、対策を考えなければならない。
その対策の案はすでに出されている。それは、言うまでもなく鍾離とのパートナー契約だ。
答えが出ないまま、思ったよりも早く帰路につき、自宅の戸に手をかける。そういえば鍵を渡さなかったなと試しに開けてみると、やはり鍵はかかっていなかった。
「ああ、琉嘉。帰ったか。おかえり」
玄関から見えるテーブルの席に着いていた鍾離が顔をあげて、目が合ったのに琉嘉は立ち尽くした。
お帰り。
ああ、駄目だな。と琉嘉は諦めた。この一言でもう褒めてやりたい自分がいる。
「ただいま。鍾離先生。もしかしてあの後ずっとここに?」
「ああ。蔵書も多いようだから、好きに読ませてもらっていた。勿論、お前の仕事に関するものには手を付けていない」
「心配してない。それに好きに触っていいと言った覚えがあるしな」
契約者のプライベートは重要だが、それらの書類は全てきちんと鍵のかかる部屋と机の引き出しにしまわれている。
荷物を片付けて、上着を脱いで、楽に支度を整え直し、居間に戻ってきた琉嘉に鍾離が寄ってきた。
「時間もあったから夕食の仕込みをしていた。鳥肉を使った煮込み料理だが、絶雲の唐辛子が入っていて食欲を刺激する。他にもあるぞ」
作ったものを一つ一つ報告するような鍾離に琉嘉は笑みを浮かべる。案の定、関係を築いた琉嘉が見れば分かる些細な違いだが、期待のまなざしを向けられた。
「おいで先生」
長い足ですぐに距離を詰めてくるのに、可愛いと思ってしまうのや昨夜の夢が抜けきらないせいだということにしたい。
「ありがとう。よく出来ました」
髪を梳いてやるように頭を撫でる。気持ちよさそうに細めらえる金色の目がずっと琉嘉を捉えている。与えられるものを素直に受け入れている姿には、まだギャップがあるようで慣れない。こんな規律と清廉の塊のような男の、好奇心と情欲が琉嘉を煽る。
「こんなに時間をかけて、よしよしと撫でられるだけであんたの気は済むのか?」
琉嘉は、自分のために買った高い酒を出すと、適当なグラスを用意する。対のグラスはない。ただの独り身の男の家だ。酒を注いでやり、テーブルに向かい合って座る。
綺麗な仕草で食べ始める鍾離は、考えていたらしく、そこでようやく口を開いた。
「お前に褒められたくてやっている。俺の体は不満を感じていない」
「俺の腕が良いから、というだけで、実質恋人になってくれと言ってるようなものだが」
直接的な単語にしてはいないが、時間制限がないということを利点としての契約の拡張かもしれない。念のため確認を、と口にしてみると、鍾離は少し首を傾けるようにした。
「そのつもりだったがお前は違うのか?」
そのつもり。
鍾離という男から恋人という関係性を持ちかけられていたことに今更ながら驚いて琉嘉はまじまじと鍾離を見返した。
「待ってくれ。今のうちに聞いておこう。何が目的だ?」
はぐらかすのなら、適度にcommandを使ってもいいとまで考える。これは重要なことだ。
「目的はない」
すぐに答えた鍾離は、それからわずかに笑む。
「が、目標はある。Subspaceに入ってみたい。他のDomとなら到底無理だろうと考えていたが、お前となら経験できるのではないかと考えている」
「Subspace目的で相手を口説くのは、少し不誠実じゃないか?」
揶揄うように聞いてみれば、首を横に振られた。
「目標と言っただろう。目的じゃない。俺はお前に最後まで手解きをしてもらいたい。お前が調心屋の仕事を続けるのも問題ない。俺はお前が調心屋であるからこそ縁があった。お前には調心屋を続けてもらいたい」
「…………」
どちらにしても、琉嘉はもう選択している。これ以上引き伸ばすのは無粋だ。この人のまえで格好悪い態度はしたくなかった。
「分かった。……鍾離先生」
箸を置き、鍾離と目を合わせる。
「俺からも頼む。俺とパートナーになって欲しい。あなたの気が変わるまで」
鍾離は笑った。
「謙虚だな。お前は。だが、俺は一度選んだものを早々変えることはない」
「そうかもしれないな」
本当に熱烈で困るな、と琉嘉は思った。本当は大して困っていないことに困っている。
「よろしく頼む」
もしかしてこれにも、と危惧していたが、鍾離は書面に起こすつもりはないようだった。本当に口約束の、それ(凡人)らしい関係だ。
こうして身構えてしまうことを考えると、鍾離が凡人ではないと知っていることを、伝えなくてはならないかもしれない。余計なことを言う前に、自分の出身についても伝えるべきだ。伝えたところで何か変わるとは思っていないが、琉嘉にとってそれは、自分の人生の一端を預けることと同義だった。
パートナーはお互いの信頼の強さでプレイがより良質なものになる。お互いの嗜好を把握し、お互いを喜ばせることで、人生を充実させることができる。そしてSubspaceもそうだ。
果たして自分はこの男を導いてやれるのだろうか。
でも確かに、この男の第二性の初めての経験を共にするのは、眩暈がするほど魅力的だ。
食事を楽しみ、鍾離が淹れてくれたお茶でゆっくりと過ごしたあと、そろそろ帰ると椅子を立った鍾離に琉嘉も見送ろうと立ち上がる。
「鍾離先生、おいで」
振り返った鍾離が自分の前まで来たのに琉嘉は微笑む。
「今ならキスしてくれる?」
あのセーフワードの練習で痛んだ精神はまだそのままだ。返された信頼の拒絶の回復をしたくて、狡いと自覚しながら琉嘉は言う。
「ああ。でも命令してくれ」
その方がもっと気持ち良いとでも言いたげな鍾離に琉嘉はすぐに告げた。
「キスして。先生」
commandに鍾離は顔を寄せて琉嘉に触れるだけの口づけをする。目を閉じた鍾離の顔がすぐそばにある。
「良い子だ。おやすみ」
頬にキスをしてやると、鍾離はまた目を閉じる。安心した仕草にこちらも指先からじんわりと体が温まる。
「また来る。おやすみ、琉嘉」
コートの裾を揺らして夜の璃月の中に去っていく鍾離が見えなくなるまで見送ってから、扉を閉める。離れていく体温を名残惜しいと思った。関係性に名前をつけただけで現金で強欲なことだと浮かれすぎないように、自分に言い聞かせる。
満たされている。幸福すら感じ取るようだ。
琉嘉のプレイを上質だと鍾離は褒めるが、それを言うなら鍾離はDomにとって極上の男だ。
琉嘉が鍾離に対して恋愛感情を抱いているかと聞かれると、答えは否となる。
そもそも、鍾離と出会った時から鍾離に対しては一線以上の注意を払ってきた。それは、琉嘉が鍾離の正体を知っているからだ。琉嘉は、他に世界が存在していると想定していない、名のない世界から来た。星の名を口にするなら地球だ。その世界で、テイワットはあるゲームの舞台だった。琉嘉自身は遊んではいなかったが、わざわざ妹が琉嘉の部屋に来てあれこれ言いながらゲームをしていたのを見ていた。テイワットのことを考えるときに、妹の話していたことを思い返して余計に郷愁の念にかられる。帰れるのか、帰れないのか。テイワットに来てからもう6年経っていることに気づいた。
寂しさを紛らわせるのにあの男を利用するのは、自分こそ不誠実なのではないだろうか。でももう約束してしまった。
起きてから、そう昨日のことを考えながら朝食までとり、記録の整理でもしようかと思ったところで戸が叩かれた。
手紙でも届いたのだろうかと、顔をだすとそこには。
「……鍾離先生?」
「おはよう。琉嘉。邪魔をしても良いだろうか」
「駄目って言えないだろ……」
呆れたように言いながらも琉嘉は戸を大きく開くと、鍾離が中に入ってきた。
「お前に一つ頼みがある」
「どんな?」
「一つ、空部屋があっただろう。その部屋を俺に貸してもらいたい」
琉嘉が今住んでいる家は大きい。これは前の契約者に口止め料として与えられたモラで購入したものだ。調心屋と契約していたことを知られたくない人間もたくさんいる。琉嘉はいらないと言ったのだが、安心したいから貰ってくれというので、この家にまとめて使い切った。その時は、何かあったら家ごと返すつもりだった。
「住むつもりか?」
「今のところ住むことは考えていないが、泊まらせてもらうこともあるだろうと思った」
鍾離をじっと見る。
「それは俺とシたいってことか?」
情緒のない問いかけだったが、琉嘉には鍾離が自分にどこまで望んでいるのか掴み切れていない。すると鍾離もじっと琉嘉を見返してくる。
「してくれるのか?」
しばらく見つめあってから琉嘉は目を覆うようにする。可愛い。完全に琉嘉の負けだった。
「先生、俺で遊んでるだろ……」
「はは。そんなことはない。そもそもお前がそう俺を躾けてるんだぞ」
言いがかりだと琉嘉は思った。いやでも確かに琉嘉の好みではあった。俺のせいか?