知恵の神がいるこのスメールに生まれたからには、知識や学術への探究心を唆されずに生きていくことは不可能だ。
みんな平等に才能を比べられ、結果を評価されつづけ、研究者の道を選べば、死ぬまで知恵のレールを進み続けることになる。
そしてその道が素晴らしいものだとされるこの国は、はっきり言ってクソだと常々思っているが、だとしても俺がその知識信仰から逃れることはできない。
俺にとって僥倖だったのは、知識と括られるものであるならば、その種類は問わないことだ。
手先の器用さと機術に興味があったこともあり、俺は教令院の妙論派に属しており、立派にレールに乗ったのだった。
その途中で色々とあり、神の目を手にすることになったが、理解できないことがどうにもそのままにしておけない俺は、相変わらず教令院にいる。
知恵を磨くために存在する教令院といえども、3割くらいは人間関係で成り立っているものだ。生まれ持った顔の良さもあり、孤独を感じがちで自己肯定の低い人間の多い教令院で、人を褒めることも励ますことも上手い俺が大抵の人間に好かれるようになるには、そうかからなかった。
クズと言われようとどうでもいい。別に好意を踏み躙ることなんてしないんだし、うまく生きていく方法があるのなら、利用しない手はない。
とはいえ、厄介なことを引き起こすことにもなりうると最近痛感したばかりなのだが、そのせいで起きた時の顔色は悪かった。
ここ数日、徹夜で論文を仕上げていた疲れは、1日の熟睡で解消されるようなものじゃなかったらしい。相変わらず重たい頭でクシャワレー学院を出て、混む前に食堂へ向かおうとした。
「メルレイン!」
振り返ると、いつも声をかけてくる同期だった。
「昨日提出だった論文、お前のおかげでなんとかなったよ。ありがとう。今日は奢らせてくれ」
声は溌剌としているが、隈のある顔をしているのに、俺はいつも通り穏やかに微笑む。
「そんなことしなくていい。お互い様だろ」
「って言われても、お前の研究は俺には難しくて手伝えないだろ?いつも世話になってばっかりだし、なんかお礼出来れば良いんだが」
「今回は余裕があったから手伝っただけだ。俺の勉強にもなるし。余裕がない時は手伝わないからなるべく自分でやってくれ」
「うっ、そりゃそうだけどさあ。確かにお前が隈を作ってるところなんて見た事ないし」
それはそうだろう。『みんなの人気者で頼れるメルレイン』が隈など作るはずはない。
お礼は要らないんだ。周囲の好評価のひとつでいてくれればそれで良い。
教令院内には、化物と呼べそうな学者がたくさんいるもので、情とコネが効く相手はなるべく作っていたかった。中にはそういうものとは無縁の人間もいるが、そんな人間なら純粋に俺の才能で対処すれば良いだけだ。
だが、その中でも書記官のアルハイゼンという男が俺は特に嫌いだった。
書記官という役職についていることからもそいつが優秀だということは分かりきっているが、あまりに理性的で面白みがない。事あるごとに難癖をつけてくるのもそうだが、俺の処世術を見抜いた上で、咎めるようなことを言ってくるのも苛立つ原因だった。自分には何の影響もないだろうに、何のつもりで俺に付き纏うのだろうか。本人にそのつもりがないとしても、この広い教令院の敷地内でやたら出くわすのが余計にストレスだった。
「それでさ、メルレイ…………」
隣を歩いていた奴の声が途切れたのに、何だと俺は前を向く。俺が相手に気付いたのと同時に、周囲も俺たちの遭遇に気づいたようだった。
俺とアルハイゼンが鉢合わせた場には、霧氷花が咲く。
そんな表現をしたのは誰だっただろうか、一気に緊張が張り詰めた食堂前で、俺が無視して通り過ぎる前に、アルハイゼンが口を開く。
「メルレイン。君が昨日提出した論文を読んだよ。君にしては珍しく結論を急いだ内容だった」
挨拶もなく直接本題に入るアルハイゼンに眉を顰める。
「アルハイゼン書記官に読んでもらえるなんて光栄だ。ご指摘に感謝する」
俺の冷たい声音に隣で同期も凍りつく。
『みんなの人気者』のこんな姿をイメージづけたくはないのだが、これでも我慢している方だ。よりにもよって余裕がない今日出会いたくはなかった。
「提出したのは昨日だったのに、もしかして院全公開になってから真っ先に読んでいただいたのかな?一介の学生の論文構成にわざわざ口出ししにくるとは、書記官のお仕事も大変だ」
「将来有望な学生の論文には全て目を通している。君の才能を特別視しているわけじゃない」
じゃあ声かけてこないで貰えます?
舌打ちしそうになるのをなんとか堪えるが、今日はもうこいつの相手をする気力はなく、アルハイゼンを見返した。
「期待してもらっているのは大変ありがたいが、知論派のあなたに助言を求めてない」
派閥、というのは力を持つもので、別の学派(部外者)が口を出すな、と言えばそれが罷り通るのが教令院だ。
「アルハイゼン書記官なら知論派の学生に声をかけた方が、彼らも喜ぶと思う。ここしばらくはご多忙と聞いた。貴重な時間をあなたの後輩に割いたらどうだ?」
これまではアルハイゼンの言葉を一応受け入れる言動はしていたが、そろそろうんざりだ。
これだけ言っても顔色も変えないアルハイゼンのそれ以上の会話をする気もなく、すぐに身を翻した。
「あ、おい!メルレイン!」
慌てた様子で追いかけてくる同期に言葉をかけるのも面倒で、俺はそのまま教令院を出る。
アルハイゼンの視線がずっと俺を追いかけてきているのが分かったが、無視を決め込んだ。
「なあドリー、聞いてくれよ。あのクソ書記官がさあ……」
「あらあらメルレイン!私のお友達にお戻りになる前に、何か大切なことをお忘れではありませんの?」
「ドリーのそういうとこ落ち着くわ……」
傷ついている顔を装って一人にしてくれと同期を追い払った後、俺は気を取り直してドリーの元へやってきていた。旅商人のドリーとは、教令院に入ってからの付き合いだ。愚痴を言える相手もいないので、ドリーに聞いてもらおうとした瞬間そう遮られる。
「ほら、依頼されてた幻化写人投影機だ」
抱えるくらいの機械をドリーの前におき、あらかじめ用意してあった三枚の写真を読み込ませる。壁に向けて角度を整え、ボタンを押せば、投影機が読み込ませた写真の人物を映し出した。映像の中の人物は微笑んだり、首を傾げたり、まるで生きているような仕草をする。写真機を持っていないと意味のない機械ではあるが、依頼主は写真の中の人物に微笑みかけられたいと言ったらしい。それを実現出来る技術者を探して、俺に話が回ってきたのだった。
「なんて素晴らしいんですの!ご依頼した以上の出来!やはり持つべきものはお友達ですわね」
「仕組みについてはこの説明書を読んでくれ。どこを客に説明するのかは任せる。そういうのはドリーの方が向いてるからな」
「まさに、商品の説明は私の得意とするところですわ。機械自体の見た目も美しいなんて、さすがメルレインは分かっておりますのね」
機械は木目の美しい箱に入れて、レンズ部分のカバーも木を削って作った。スメールで好まれる曲線のパターンに削って模様もつけている。
「機能も見た目も良い方がより高く売れる。そう言ってたのはドリーだろ。それを実践しているだけだ」
ドリーの話はためになるものも多い。彼女がその情報の価値を分かっていて俺に話してくれるのは、これから先も良い関係を築いておきたいからだろう。
「時折あなたが教令院の人間ということが不思議になりますわ。念のため付け加えておきますと、これは私にとっての褒め言葉ですのよ」
「教令院は技術の価値を認めはしても、売りはしないからな。分かってるよ」
30万モラでいかがかしら。と言ったドリーに俺は素直に頷いた。最初の頃こそ交渉をしたのだが、最近はお互いのことが分かっているので余計な駆け引きはしない。彼女がどれだけ値段を釣り上げて依頼主に売るのかも気にならない。
はあ、とため息をついた俺に、ドリーはまあ、と大仰に心配してみせる。
「あなたの言うアルハイゼン書記官(彼)のことはもうブラックリストに載せましてよ。他にも希望があるのでしたら、」
「流石に金をかけてどうこうってわけじゃない。ドリーのブラックリストってだけで、確かに少し溜飲はさがるけどさ」
金と信頼は反しないものだ。俺はドリーの商人としての性質と、モラへの忠実さを信頼している。彼女も俺の腕と性格を信頼してくれている。だからこそ、こういう愚痴も安心して言えるのだ。こんな姿、教令院内の誰にも見せられない。
「学者であることに執着があるわけじゃないし、もし、何か問題が起きて、スメールを去ることになったら真っ先にドリーを雇うよ。神の目を持っているとはいえ、一人旅は心もとないからな」
「まあまあ、私があなたに支払ったモラを全て取り戻すことになりますわね」
「お手柔らかに頼む」
苦笑をした俺に、ドリーはこれまで俺が納品した機械を褒め称えるセリフを流れるように紡ぎ出し、更なる商品の追納を期待するセリフで締めた。それは気遣いというよりは、今後の俺の腕を期待してのリップサービスだ。それを聞きながら、アルハイゼンのことで苛々するのも馬鹿らしいかと俺もようやく肩の力を抜く。
「うふふっ、メルレイン、さっきの三枚の写真、あなたが自分で撮ったものですわね?」
「そうだけど、さすがに依頼主はいらないだろ。回収したぞ」
「その写真、私に任せてみませんこと?」
「勘弁してくれ……」
まさか売る気か?売れないだろ、というより売れる確信があるから、余計に嫌だった。
アイドル業はごめんだとにっこりと手を差し出してくるドリーの手を押し戻す。
「残念ですわ……」
本当に心から残念という声を出されて俺は脱力しそうになった。本当にいい友達だ。
「じゃあまた何かあったら声かけてくれ。締切が近くない時にな」
「ええ、ええ。そういえばメルレイン、あなたの好きな稲妻のお酒とモンドの煙草が入りましたのよ。買っていきませんこと?」
「…………」
結局、今日の収入は25万モラになったのだった。
教令院に戻ってくると、あたりはすでに薄暗くなっていた。昼夜問わず学生がいるが、敷地内にも、人のこない穴場の場所というものはある。
俺は少し離れたところにある自宅に帰るか考えて、一息ついてからにすることにした。嫌だが、論文の見返しをしないと気が済まない。俺は提出した自分の論文を手に酒瓶と盃の入った袋を下げて、木に寄りかかって座る。論文を取り出した。
アルハイゼンの指摘は自分でも自覚しているところではあったが、今回は時間がなくてどうしようもなかった。それをアルハイゼンに言い訳するつもりはない。
酒瓶を開ける。ふわりと少し甘いアルコールの香りがした。手作りのオイルライターを取り出して──
「この敷地は喫煙も飲酒も禁止されている」
その声に手を止めた。一番聞きたくない声だった。
「だったら?」
煙草をくわえる。
「報告して俺を教令院から追い出すか?」
「そこでやめるのであれば見逃そう」
「それで俺が感謝するとでも?」
笑ってオイルライターに火を着け、ようとした手首を掴まれた。
「感謝をされたいわけではないが、今の君の自暴さは俺の目に余る」
「知ったようなことを言わないでもらえるか。たくさんの才能のうちの一つが潰れたとして、お前には関係ないことだ」
「関係はあるさ。俺は君の才能を特別視しているわけじゃないが、君個人を特別視している」
「は?」
何言ってんだこいつ、とそこでようやく顔を上げる。俺を見下ろすアルハイゼンが想像していた以上に真剣な顔で俺を見下ろしていたのに、妙に胸がざわついた。
「だから君に問題を起こさせるわけにはいかないんだ」
「お気に入りの学生だから?」
我慢しようとしていたけれど、限界だった。口元に嘲笑するような笑みが浮かぶ。
「あんたもかよ。自暴なんかじゃない。俺にとって、いつものことだ。酒も煙草も、教令院の規則にどれだけ反していると思う?」
「少なくとも、いつもここにくるときは、酒類も煙草も持ち込んだことがないだろう」
なんで知ってるんだ?はったりだろうか。
「……まさかあんたも、いつもの俺の『優等生』の態度が本当のものだと思っているのか?」
アルハイゼンの腕を振り払って立ち上がる。
「あんた『も』?」
「俺のナニが気に入ったのかなんて知らないが、俺を思うなら放っておいてくれ。じゃないと……そうだな、いつも突っかかってくる書記官に手篭めにされそうになった、なんて言いふらされたくないだろ?」
流石に顔でもしかめているかと、表情を確かめようと顔を見た俺は、伸びてきた手に顎を掴まれて驚愕した。
直近に寄ってきた顔と、その瞳に覗き込まれて息が止まる。
「暗いのと、化粧で分かりにくいが、やはり隈があるような」
弱っている証拠と言わんばかりのセリフに苛立った俺に、アルハイゼンは口を開く。
「君の論文は参考論文を揃えるのに時間がかかったゆえの出来だ。内容を確認する限り、どれも君が閲覧するのに問題はないものだった。だが、載せる許可が下りなかったんだろう。補佐官と何か問題があったな」
疑問形ですらなかった。論文の文章だけでそこまで見抜いたのか?
答えずに黙っていると、アルハイゼンは俺から手を放し、ふむ、と考え込んだ。
「君の表面上の性格と本来の性格の意識的な乖離は知っている。俺は君の対人術に口を出すつもりはないよ。君は誠実ではないが、平等であり、情に厚い人間だ」
なんで知っているのか、とか、思いがけないアルハイゼンの俺の評価を聞かされて反応できずにいる俺にアルハイゼンは続ける。
「だが、解せないな。今の君の問題は、君が優等生であることに拘っているから長引いているように推測出来る。それならば……」
「あなたには、分からないよ。アルハイゼン書記官」
ようやく口を開いた俺に、アルハイゼンは俺と目を合わせる。
アルハイゼンに人情や貸し借りの話は通じないことは、教令院の誰もが知っている。一人でも生きていける人間なのだ。
「ご心配とご忠告ありがとう。でもあなたと俺は教令院にいる目的が違うんだ。俺は別に教令院に執着があるわけじゃない。ここに居るために労力を割くよりも、ここを出た方が楽なんだよ」
「メルレイン」
呼びかけられて俺は微笑む。
「俺を特別視していると言ったけど、アルハイゼン書記官はいつも理性的だな。……いつか、どうしようもなく感情的になれる相手に出会ったら、きっと分かるよ」
酒瓶を片付け、袋を下げてこの場を後にする。
早く帰って眠りたかった。
妙論派の補佐官に、関係を持たなければ参考論文の許可を出さないと言われたのは締切の1週間前のことだった。
もちろん突っぱねたが、同時に好意のコントロールに失敗したことを悔やんだ。よりにもよって補佐官相手に見誤るなんて、この先が思いやられる。
今回はなんとか説得して許可をもらったのが、あの様子を見ると次はそうは行かないだろう。
やっぱスメール出るか……。と考えはじめながらクシャワレー学院に向かうと、妙にちらちらと視線を感じる。なんだ?と首を傾げたところで、いつもの同期がやってきた。なんだか様子がおかしい。厄介ごとか?と不思議に思った俺に、同期はそっと問いかけてくる。
「なあ、昨日お前がアルハイゼンとキスしてたってほんとか?」
「は?」
何言ってんだ?と思った次の瞬間、昨夜のことを思い返してはっと俺は拳を握りしめる。
やられた……!あの顎を掴まれた時……!絶対に確信犯だ。
手篭めうんぬんとか言ったので怒ったのだろうかと思っていたが、そういう反撃だとは思わなかった。反応が遅れた俺に、同期は何を勘違いしてか目を丸くする。
「本当なんだな!?」
「い、や。あれは……」
違うといえば、何をやっていたかの説明をしなければならない。
仕方なしに恥じらうように視線を下げる。
「書記官が……」
こう言っておけばあいつが勝手にやったような印象になるだろう。あの野郎絶対泣かす。
「そ、そっか。やっぱアルハイゼンお前のこと……」
やっぱってなんだ?
周囲にどう思われていたのか気になりながらも、この話題をひっぱるより重要なことがあった。アルハイゼンにどういうつもりか問い詰めなければならない。
「じゃあ、俺ちょっと用事があるから」
そう言うと行く先を察したように同期は頷いた。
「分かった。またな、後で話聞かせてくれよ」
曖昧に微笑んで手を振り、人気のないところで俺は頭を押さえる。こちらから会いに行かざるを得ないのが非常に気に食わなかったが、俺はアルハイゼンのところへと向かうことにした。
ノックをして声をかけると、アルハイゼンは立って俺を出迎えた。待っていたよ、なんて声をかけられてアルハイゼンを睨みつける。
「不本意な噂が流れてるみたいなんだが?」
「君がそういう手段に抵抗がない人間だと分かったからな。参考にさせてもらった」
「…………」
じゃあこっちが手篭めにする番だよな?と思った俺の内心を知ってか、綺麗に片付いている書記官室でアルハイゼンは俺を待っていたようだった。片付いているのはみられたら困る論文がたくさんあるからだろうが、それにしてもきちんとしている。性格が伺えた。
「それにその事実はないことを、君が一番よく分かっているだろう。君ならばその噂も利用すると思っていたんだがな」
「相手があんたであることが問題なんだ」
ふむ。とアルハイゼンは腕を組む。
「君に嫌われる覚えはないんだが、俺が何かしただろうか」
まるで好かれてないのがおかしい、と言わんばかりの態度だ。
「すれ違うたび突っかかってきてる自覚がないのか?あんたは」
「それは君が論文の指摘じゃないと、俺に話す機会を与えないからだ。話題は別のものでも構わないし、出来れば俺もそれを望んでいる」
「……俺は自分の性格が悪いことを自覚しているが、あんたは俺のどこがそんなに気に入ってるんだ?」
ふむ、と考えるようにしてアルハイゼンは言う。
「顔だな」
「あんた、付き合っても振られる側だろ」
クズだと言われかねないぞ、と思いながらも人のことを言える性格じゃない。
「一番は君の顔の造形だが、他人の好意を利用しているようにみえて、収支でいえば君はマイナスな点も可愛げを感じる。顔色の悪さは補佐官との問題に加えて、同期の面倒を見ていたからだろう?」
「だからなんで知ってるんだよ」
「君の行動パターンはそれほど複雑じゃない。それに、人気者の足跡を追うのは容易いことだ。マハマトラなら君が朝から夜まで教令院内で何をしていたのか、ためいき一つまで細かに調べ上げることが出来るだろう。君は君の知名度と人気をもう少し自覚した方が良い」
まさか本当に調査していたんじゃないだろうな。
「褒められてる気がしないんだが……」
「褒めていない。どちらかというと不快に思っている。君は、」
息を吐き出しながらアルハイゼンは言った。
「昨日、どうしようもなく感情的になれる相手を見つけたら、と君は言ったが、君が俺のことを理解していないだけだ。俺が俺の追求する『正しさ』を意図的に逸脱するのは君が初めてだ」
全然嬉しくなかったが、つまりアルハイゼンは自分の利用価値を示しているらしい。
「昨日の誤解はあんたにとってどう言う認識なんだ?」
「君の顔色を確かめようとして、結果的にそうはなっただけだ。君がその噂を利用したとして、貸しにするつもりはない」
「分かった。あんたが俺に何も見返りを期待していないのなら良い。邪魔をしたな」
アルハイゼンはじっと俺を見返したが、それ以上何も言わない。
部屋を出て、一連の会話を反芻してふと気づいた。
ものすごく……口説かれてなかったか?
考えると深みにハマりそうだ。取り敢えず、補佐官のことを対処してからだろう。
その足で補佐官の部屋へ行く。ノックをして名前を告げると、中から動揺している声が帰ってきた。
中に入ってドアを閉める。教令院の部屋は基本的に防音になっており、外に話を聞かれることはない。論文のことで、と話を切り出そうとして、先に補佐官が口を開いた。
「今朝、妙な噂を聞いたんだがね」
「はい」
「アルハイゼン書記官と君が関係をしていると言う話は本当か?」
随分と直球だな、と思いながら俺はわざとらしいくらいに視線を逸らした。
「それは……」
「君と彼は犬猿の仲だろう。何か彼に弱みを握られてるんじゃないのかな?だとしたら、私が助けてあげられるよ」
気持ちが悪いくらいの優しい声に、俺は首を横に振る。
「いえ、書記官には優しくしていただいています」
「そう言えと、言われたんだろう。私とのことを相談したのかね?心配しなくていい。君は私を頼りにしていると言っただろう。本当のことを話してみなさい」
頼りにしているなどと言った覚えはないのだが、ことあるごとに、助かりましたと丁寧にお礼を言っていたのが災いしたのかもしれない。
「俺は……」
「まさか私を拒絶するつもりじゃないだろうね?君には融通を利かせてあげていただろう?随分と課題をこなすのが楽だった筈だよ。君は私に礼を尽くすべきだ。今夜、ちゃんと私の部屋に来たら、これから先も君のことを特別に扱ってあげるよ」
殴りてえな。
俺はその顔を見ながら思い切り殴ったら気持ち良いだろうな、と思った。序列が厳しい教令院で理性の真逆の暴力沙汰などと、謹慎処分じゃすまなさそうだが、別に教令院に留まらなくたって──。
アルハイゼンの顔が浮かぶ。俺はため息をついた。
「メルレイン?」
戸惑ったような男に俺は微笑んだ。
「お断りします」
表情と真逆の返事に、男は凍りついたように動きを止める。
「あなた程度の利用価値なんて、俺には必要ありません。コネと他人の手柄を掠め取って今の地位にいるくせに、何を思い上がっているんですか?」
「なっ……!」
かっと怒りで顔を赤くした男に、俺は微笑んだまま、ポケットに隠していた小さな装置を取り出す。
「それは……」
「見覚えがありますよね。これは同期が論文の過程で作った録音装置です。これ自体は珍しくないものですが、論文を手伝ったのでついでに一つ作りました。録音した音声を何度も再生することができる。優秀な補佐官様は、自分がさっきどんな話をしたかお覚えですか?」
「貴っ様……!甘くみてやれば図に乗って……!」
「補佐官こそ、メルレインがどんな人間なのか、きちんと思い出した方が良いですよ。神の目を持ってる人間相手に、殴りかかって無事でいられるのはどちらでしょうね?」
完全に窮した補佐官に、俺は微笑んだまま装置をポケットにしまい直す。
「俺は別にあなたが『正しい』補佐官でいてくだされば、他に何も要求しません。俺の望みはこの教令院で何事もなく過ごすことですから」
将来どうするかの展望はまだないが、もう少しここに留まっていても良いような気はしている。
「…………分かった……。だからその音声を公開しないでくれ」
「公開しないつもりですよ。俺の望みを叶え続けてくれるのならば。贔屓も推薦もいりませんので」
頷いて、そのまま項垂れてる補佐官を横目で見遣り、俺は部屋を出た。
殴った方が良かったんじゃないか、なんて少し思ったが、多分これで良かったのだ。
翌日、珍しく同期の誰とも会わず、一人で食堂に座ると、前の椅子に誰かが座ったのが分かった。
「顔色が戻ったようだな」
「よく眠れたからな」
返事をして、断りもなく座ったアルハイゼンの顔を見遣る。
いつも通りの済ました顔。よくこの表情のまま、あんなセリフを淡々と連ねられたな、と思う。
「あんたのせいで殴り損った」
「君が思い止まってくれて良かったよ。君をスメールに引き止める手立てを考えなければならなくなるところだった。手立てはいくつかあるが、書記官の仕事の片手間というには負担が大きそうだったからな」
認めたくないが、察しが良くて話すのが楽だ。
「顔が好きなだけで?」
「君は昨日の俺の話をきちんと聞いていなかったようだな」
なんでこいつはこんな平然とした顔をしているんだろうか?
「俺はあんたを見ると苛々するよ。人生に余裕があって羨ましいことだ」
「君は理解できないものに執着するタイプだろう。論文の経緯を追えばよく分かる。お互いに相性が良いと思わないか?」
ちょっと考える。
今まで、人情や貸し借りばかりの人間関係を築いてきたが、アルハイゼンを相手にするのは、確かに俺にとって別の意味を得られるような気がした。
「論破されたみたいで腹立つ」
「同意とみよう」
「見透かしたみたいなこと言わないでくれない?」
「これでも知論派の人間だ。会話から相手の機微や意図、性質を調査するのは造作もない」
そうかあ?なんて思いながらようやく昼食のデーツナンに手をつける。
向かいで膝を組んで珈琲を口にしているアルハイゼンと、周囲の好奇な視線を感じる。
「顔だけは好みなのに」
つぶやいた俺に、アルハイゼンの手が止まる。顔を上げたその表情が、存外驚いているようだったのに、俺は多分初めてアルハイゼンの前で笑った。
どうやら、しばらく学生生活は続きそうだ。