瞼を透かして、朝の淡いこがねの光にやさしく意識が呼び起こされる。
理性を紡ぎ上げるまでのわずかな思考の空白の中、穏やかさに満ちた目覚ましにカーヴェはゆるりと瞼をあけた。
「っ……!?」
それを台無しにするかのように頭に響いた鈍痛にカーヴェは呻くと力を入れていた体を弛緩させてそのままシーツに崩れ落ちる。
この不調には覚えがありすぎる。カーヴェは昨夜の自分がどれだけアルコールと仲良しだったか理解をし、そして記憶を探ることを放棄した。頭痛に耐える心構えができると同時に、今度は気持ち悪さに襲われる。歴代の最悪な二日酔いを更新するほどではなかったのが幸いだ。
室内に人の気配がしたのにカーヴェは安心した。
どうやら同居人はまだ出勤前だったようだ。だったら出ていく前に水を持ってきておいてもらおうとカーヴェは口を開く。
「アルハイゼン……!っう……あたまにひびく……わるいが水を持ってきてくれないか……」
カーヴェが声をかけると、人の気配は返事をせずに衣擦れの音をさせてカーヴェの近くから去っていく。
なんだよ、返事のひとつもなしか?
と、腹立たしいのと、返されたら返されたで嫌味がひとつどころではなくついてきただろうことを考えてカーヴェはため息をついた。
「君の“アルハイゼン“ではないが」
不意にかけられたその聞き覚えのない声にカーヴェははっと目を開く。
「それで良かったらこれを」
視線を上げた先に立っていた男を見て、この世界の何もかもが静止したような錯覚に陥った。
知らない──男だ。
身を起こしながら、カーヴェは自分がいったいなにに見惚れているのか理解したくて男を見つめた。
美しい男だ。美しいが、彼の何が美しい?
カーヴェを見返している目は目頭から目尻までの流線が完璧だ。丸すぎないところが好みだった。青い瞳は朝日が入っているせいか、どこか水を思わせる涼やかさがある。この前まで仕事をしていたあの現場、一番近くのオアシスの朝4時の水の色だった。
頬の輪郭は滑らかであの目を収めるなら最適解。鼻梁も通り、顔のひとつひとつの配置が天才的だ。そして今のわずかな笑みの割合が最高に彼の良さを引き立ててる。これ以上笑っても無表情でも駄目だ。
黒髪なのは少し重たい色合いに思えるが、男のミステリアスさに一役買っているようなのでよしとした。髪型は自分が支持して人に切らせた方がもっと良くなる。今の前髪がアシンメトリーに分けられて右目に少しにかかっているのは悪くはなかったが、もうすこし額を見せてもいい。
「……大丈夫か?」
呼びかけられてはっとカーヴェは意識を取り戻す。
そして。
「うおえっ……」
急に身を起こした時の衝撃と急に戻ってきたひどい頭痛のショックでカーヴェは初対面の好みの顔の前で吐いたのだった。
男は特に嫌がることもなく、カーヴェの粗相を片付けてくれ、適当な寝巻きを貸してくれ、シャワーも貸してくれた。
与えられた水を少しずつ飲みながらシャワーを浴びて部屋に戻ってくるころには、カーヴェの体調はかなりマシになっていた。
とはいえ気分は最悪だ。
よりによってこんな好みの顔の前であんな失態をするなんて。
カーヴェは新しく取り替えられていたグラスの水を飲み、清涼な香りに気づく。
「清心だよ。アレルギーはないと聞いたから入れたんだ。苦味を隠すのに少しだけ蜂蜜。二日酔いの時に飲みやすい」
カーヴェが顔を上げると、男が奥の部屋からこのリビングに戻ってくるところだった。
「ありがとう。随分と迷惑をかけてしまったな。すまない」
「気にしなくていい。君を拾った理由は好奇心だ。感謝をされるようなものじゃない」
「好奇心?」
どういうことだろう?と首を傾げると、男は続ける。
「昨日の夜、君は俺の家の裏で眠ってたんだよ。俺の作りかけのテーブルに突っ伏するようにしてな。泥棒をするようには見えないし、あまりに気持ちよさそうだったから起こすのも可哀想だなと思って勝手に宿を提供したんだ」
「……もしかして僕が寝ていたあのベッドは君の?」
問いかけると男はあっさりと頷く。
「寝心地は良いはずだ」
カーヴェは項垂れた。謝罪は散々したのでこれ以上はしつこい気がしたが謝る以外に自分ができることがない。
「君に何かお礼をしたい」
せめてとそう続けたカーヴェのセリフに上手に割り込んで男が言う。
「好奇心と言っただろ。気にするな。体調が戻ったのなら君のおうちに帰るんだな」
男はそのまま玄関の方へと向かう。
「俺は用事があるから出かけるよ。鍵はそのチェストの上。出る時にかけて植木鉢の下に置いておいてくれ」
「え?ちょ、ちょっとまってくれ!」
「じゃあ、さようなら」
ひらりと手を振って男はカーヴェの制止も聞かずにさっさとドアから出て行ってしまった。
唖然とその背を見送って、カーヴェはふと気づく。
「名前聞いてない…………」
カーヴェは名前も知らぬ男の見知らぬ部屋に一人残されたのだった。
男がカーヴェに入っていいと許した、というより自分でドアを開いた部屋はリビング、ベッドルーム、シャワールームだ。カーヴェはその中をぐるりと見回した。一軒家だ。クロスも床も張りかえてあるが、経ってから30年は経っている。家具も丁寧に磨き直さ、作りなおされようだった。彫刻の跡が新しいことから男が自分で掘ったのだろう。誰かに依頼したのだろうとも思ったが、内装の調和を見るに全て自分でやっているものだとわかった。
顔が好みだ。そして趣味も合いそうだ。
ここで僕なら、という考えが起きもしないのは、彼が全て大切に扱っていることがわかるからだ。自分のこだわりを大事に扱っている人間に気づくとき、カーヴェは機嫌が良くなる。
とはいえ、男はおそらく家具職人でも内装士でも、ましてや建築家でもないだろう。技術自体は個人の趣味の範囲に収まる。
なんの職業をしているのかさっぱりわからないな。と思いながら、カーヴェはグラスの水を飲み干した。
他の部屋を覗いて帰るほど無礼者になるつもりはない。それはカーヴェの自尊心が許さない。
カーヴェはテーブルの上のペンとメモ帳を手に取る。
何も要求しなかった男に、せめてと自分の名と、また会いたいから連絡してくれ、と連絡先に付け加える。
「これでよし!と」
まだ頭痛はするがかなり良くなった。それより次に会う時はもっと良い印象を残したい。
それに、好みの顔の相手とどう付き合いたいかもまだ整理しきれてなかった。
それから1週間、そして1ヶ月が経っても、男からの連絡はなかった。
初印象が最悪だったのは間違いない。だが、彼は想定の範囲内と言わんばかりにカーヴェに優しかった。
カーヴェが妙論派のカーヴェだと気づいていたのなら、金銭どころか厄介な謝礼を要求されてもおかしくなかったのに、彼はそんなものには興味がなさそうだった。好奇心で拾ってもう興味がなくなったということだろうか?
それとも酒に酔って人の家で泥酔する人間と付き合いたくないということだろうか。
自然に考えればそれが一番理由として自然だとは思うが、自分で考えてカーヴェは少々落ち込んだ。
酒に酔っていなかったら彼に出会えていなかった。酒に酔っていたから彼に嫌煙された。完全に迷宮入りだ。
また会ってくれるならなんとか挽回の余地がありそうだが、あの置き手紙を残して反応がないところを見ると、望みは薄そうだ。
仕事が終わった瞬間にこうして彼のことばかり考えているのだから始末に負えない。
どうしたものかと考えながら、薄暗さを通り越して夜が降りた道を辿り、自宅──後輩の家に到着した。
鍵を取り出してドアに差し込むと、お気に入りの愛らしい虎のキーホルダーが揺れる。
「ただいまー……」
部屋に明かりがついていなくてもついつい言ってしまうのだが、アルハイゼンと同居を始めたせいで余計に黙って帰宅することが出来なくなってしまった。
「おかえり」
返事が返ってきたのにカーヴェは顔を上げる。いつもは自室で読書に興じている男が、珍しくリビングでくつろいだように座っている。その手元には雑誌があるが、カーヴェが視線を向けたと同時に閉じられた。
「君に聞きたいことがある」
「な、なんだ?」
まるでカーヴェを待っていたかのようにすぐさま切り出されてカーヴェはここ数日の自分の行動を思い返した。
あの男のことばかり考えていて過度な飲酒はしていない。ツケ……も、いつもに比べたらかなり控えめなはずだ。きちんと仕事をこなしているし、アルハイゼンの定めたこの家のルールを破っていない。……と思う。
そこまで考えてからカーヴェは腕を組んだ。特に弱みになりそうな事実はない。それなら堂々としているべきだ。この後輩が相手なら特に。
「この1、2ヶ月の間、君はどこかで酔い潰れた挙句、見知らぬ男に拾われた覚えはないか?」
「は?」
そんなことある訳ないだろ!と返事をしようとしてカーヴェははっとした。
ある。とてもある。なんならそのことでずっと頭を悩ませている。
「あ、あったとしてそれがどうしたんだ。君に迷惑はかけてないだろ」
「ああ。確かに迷惑はかけてられていない。だが、好奇心から明らかにしたいことがある。その様子を見ると心当たりがあるようだな」
アルハイゼンは何か考えるようにすると、それ以上は何も言わずに踵を返した。
「おい、せめて何を明らかにしたかったか教えていけ!」
一人で完結するな!と言ったカーヴェに、アルハイゼンは嘆息すると、持っていた雑誌を差し出してきた。
思わず受け取る。
確かこれは稲妻で有名な文芸書だ。娯楽色の強い稲妻小説は、教令院の改革があって以降、輸入が緩和され、スメール内でかなりの人気が出てきている。
この雑誌はその中でも、八重堂が刊行している人気作家の短編を載せたもので、本にはならない短編や、作家が連載している作品のスピンオフなどが収録されることもあり、冊数が限られていることもあってスメールでは入手困難なものだ。
何故カーヴェがその雑誌について知っているのかというと、つい最近クライアントにコレクター品として見せてもらったことがあるからだった。
アルハイゼンの入手経緯について疑問はないが、アルハイゼンがこの娯楽小説雑誌を読んでいるという事実に違和感がある。
「76ページからの短編だ」
そう言って自室にもどり、ぱたんとドアを閉めたのを見送って、カーヴェはアルハイゼンが座っていたソファにすぐに座ると該当ページを開く。
一行目で興味をそそられ、三行目で引き込まれた。
内容は金髪の男がとある事情でやけ酒を飲み、気がついたら見知らぬ部屋で目覚めたことから始まる。男を介抱してくれたのは性別もわからないローブのフードを深く被った老人で、もう目が悪くて読めないから本を一冊貰ってくれないか、と言われる。部屋にある本棚の中に収められた本の中の一冊に、タイトルのない本があった。
適当にそれを選んで男は老人に礼を行って家に帰り、本を開くと、そこには聞いたこともない技術が記されていた。男が老人の家を訪ねてもその家は跡形もなく、男は悩みながらも、必要に駆られてその技術を使い、成功していくこととなる。
ストーリー自体はそれほど目新しいものじゃない。だが、カーヴェはそんな物語など今まで読んだことがないかのように没頭して小説を読んだ。
主人公の男には愛嬌があり、悩み、喜び、苦悩するたびに男と同じ感情を覚えた。展開を想像させる余裕すら与えず、小説はカーヴェを捕えてその先へと引きずり込んでいく。
男が誰のものとも知れない技術を使い、成り上がったことを苦悩していく前半を越えて、男はとうとう抱えきれなくなった真実を告白することにした。その相手に選んだのは親友の男だ。この技術は自分のものではない、と言った男に、親友は驚きながらも言う。その持ち帰ってきた本を見せてくれ。と。言われた通り本を開いて男は驚いた。その本の筆跡は、明らかに男のものだったのだ。製図の書き方も、筆圧の掛け方までまるで一緒だった。混乱した男は、ふと糊で閉じられたページに気づく。そこには、驚くべき真実が書かれていた──。
読み終わってから数秒、ほう、と息をつき、それから数秒、はたとカーヴェは気づく。
「これ、僕のことだ……!?」
慌てて読み返してから、カーヴェは部屋がカーヴェが目覚めたあの部屋をイメージして書かれていることに気づいた。主人公視点で進んでいくため描写は少ないが、容姿がカーヴェと一致している。雑誌を握りしめ、カーヴェは玄関から外へと飛び出す。
目指すはあの男の家だった。
途中で不安になったように、男の家がなくなっていることはなかった。
室内には明かりがある。いささか乱暴にドアをノックすると、しばらくしてドアが開き、あの男が顔を覗かせた。
その顔にむかってびし!とカーヴェは指差し指を突きつける。
「一つ言っておく!僕はたとえそれが未来の自分の技術だったとしても、自分のものじゃない技術を使ったりしない!」
男はドア枠にもたれてカーヴェを眺めるように見返す。
「なんの話だ?」
口元に浮かんでいるのは、どこか面白がるような笑みだ。
うっ、そう言う意地の悪い顔も絵になりすぎる……!とたじろぎながらもカーヴェは続ける。
「これ!この雑誌に載っている小説!これの作者は君だろう!」
「例えそうだっとして……」
低い声音が、夜に密やかに響いたのにカーヴェは今の時間帯を思い出して慌てて口をつぐむ。
「君はどうしたいんだ?」
問いかけられてカーヴェは男が何が言いたいのか掴めずに首を傾げる。
「どう……とは?」
「君の話から察するに、君は俺がその雑誌に載っている小説の作者で、君のことを勝手にモデルにしたと主張をしているんだろう?」
そこまではまだ言ってないのだが、男は遠回しに正解だと言いながらも、カーヴェを試しているようだ。
「その要求は一体なんだ?と聞いているんだ」
カーヴェはまじまじと男の顔を見返した。見れば見るほど好みの顔だ。
自分がモデルだと気づいた時の興奮やその他の様々な感情で何も考えていなかったが、また会えて嬉しいの感情の方が先に立ってしまう。
「それは……」
「それは?」
促す男に焦りながら考え、それからカーヴェは答えを捻り出した。
「この前介抱してくれたお礼をさせて欲しい」
「んん?」
男も首を傾げてカーヴェを見返してから、少ししてくすくすと笑い出す。
「そこはサインって言えよな」
滅多に人前に出ないから高く売れるのに、と言う男に、ようやくカーヴェは目の前のこの男が稲妻の人気作家だという事実を思い出した。
「まあいいさ。そんなアルバイト代で良かったら出そう。とはいえ今夜はもう遅い。明日以降、都合が良ければ訪ねてきてくれ」
「分かった。絶対に来る」
頷いたカーヴェに男は頷く。
「ああ。気が向いたら待ってるよ」
じゃあ、おやすみ、そう言って男はひらりと手を振るとドアを閉めようとしたところで、あ、とカーヴェは声を出した。
「ん?」
「鍵を持って出てくるのを忘れた……」
「つまり?」
「締め出された…………」
この時間の鍵を持たない帰宅に、アルハイゼンは応じないだろう。鍵を開けに出てきてくれる可能性は限りなく低い。
手持ちはあったかな、またツケか……。と思いながらこの時間に開いてそうな宿屋の心当たりはない。主人を叩き起こして頭を下げ、泊まらせてもらう上にツケにするしかないだろう。最悪すぎる。
はあ、とため息をついたカーヴェは、それから、別れるはずだったのに男を引き止めてしまったことに気づく。
「いや、なんでもない。おやすみ。またあし……」
「泊まっていくか?」
思いもがけない問いかけにカーヴェは目を丸くする。
「正気か?」
思わずそんな失礼な問いかけをしてしまうほどだった。
「親切心をそんな風に問い返される謂れはないんだがな」
「だ、だって酔い潰れて人様の家に入り込み寝落ちるような人間だぞ?」
「自覚があるようでなによりだ。でも別に構わないさ。盗まれて困るようなものは何もないし、何より一度助けたのに二度は助けないというわけにもいかないだろう?」
「う…………」
挽回したいと思っていたはずなのに、この展開にカーヴェは肩を落としながらも、提案の魅力に抗えずに頷いた。
「ああ。よろしく頼む」
開かれたドアの中に入る。
背後で鍵をかけた音にどきりとして振り返ると、男はカーヴェを通り過ぎて先にリビングへと入っていく。
「食事は出さないぞ。ハーブティーを淹れるつもりだったが必要ならついでにご馳走するが?」
「ありがとう。いただくよ」
テーブルは二人用だが、キッチンはカウンターキッチンの形式だ。少し悩んで、カーヴェはカウンターの椅子に座った。男がハーブティーを入れている姿を見ながら、そういえば、とカーヴェは口を開く。
「君の名前を聞いてなかった」
すると男は顔を上げてカーヴェを見る。その顔が奇妙に驚いたようなものであるのに、カーヴェはなんだ?と目を瞬く。
「読んだんじゃないのか?」
「君の小説か?ああ、読んだ」
「作者の名前を読まなかったのか?」
「あっ…………!」
読んだが結びついていなかった。完全に情報と現実のこの男が結びついていなかったのだ。カーヴェは記憶に残っているその名前を口にする。
「佐神蒼唯」
「正解だ。妙論派のカーヴェ」
微笑んだ男が自分の名前を呼んだのに、思わず溶けそうな気分になりながらカーヴェは頬杖をつく。
美しいものが目の前で自分のためにお茶を入れているのを眺めていると、この先、1ヶ月の仕事は酒がなくてもやってけそうなくらいだった。
「ところで、君のベッドは一つしかないと聞いたが、どうするつもりなんだ?」
「君が使うといい。君が朝起きて出かけたら寝るとするさ。ああ、シーツは変えておく」
「ありがとう。世話をかけてすまない。……って、いくら自由業といえ僕のせいで昼夜逆転させられない。どうせ現場で寝ることもある。僕は床で構わない」
「気遣ってるわけじゃない。夜に筆が捗るんだ。少し物入りでな。もう一作何か書こうと考えている」
カップを口元に運んだ男の姿は絵になる。
絵画とするなら正面よりも少し斜めから横顔の輪郭を描きたい。
「安心してくれ。もう君を題材にすることはない」
「……それは……」
それで残念な気がする。だからといってぜひモデルにしてくれと言うのも流石に面の皮が厚い。
作中の男の描写は美しかった。容姿が美しく描かれていたわけじゃない。その人となり、言葉遣い、思考や感情、一人の人間としてありありと思い描ける。挿絵一つなかった。あったとしたらむしろ興醒めだろう。
「君は執筆中は喋らないタイプか?」
「いいや、多少効率は落ちるが、会話しながら文章を書くことが出来る」
「器用なんだな。僕は一度没頭すると喋れない。というか人の話が聞こえないんだ」
感心したカーヴェに佐神は笑った。その友人に向けるような会話を楽しんでいる表情にどきりとする。
「ああ、そんな感じがする」
理解を示す言葉に落ち着かない気分になりながら、カーヴェはおずおずと佐神を見やった。
「その……君さえ良ければだが…………」
言いかけてカーヴェはやっぱりやめることにした。作家と建築家では作業内容は違うが、己の想像を形にするプロセスは同じとも言える。邪魔をしたくない。
「一晩お喋りしたいって?別に構わないが、話題は君が振ってくれ」
カーヴェは目を丸くする。
拒否の返事が返ってくることを半ば覚悟していたからだ。それよりもカーヴェの心情を汲み取ってくれたことにも嬉しさが湧き上がる。
「良いのか?」
「締め切りがあるわけじゃない。だが今の稲妻で作家としての人気を保つなら、新作にあまり期間をあけないほうがいいんだ」
優しい。とカーヴェは感心してから、自分が存外同居人の男に毒されていることに気づいた。大抵の人間は一言目から皮肉を口にしない。
「ありがとう。色々聞きたいことがあったんだ」
すると佐神は目を見張ってから苦笑する。
「そんなに喜ばれても面白いものは何も出ない」
「そ、そんなに顔に出てるか?」
「ああ。酒が飲みたいならキッチンの戸棚から好きなものを開けていい。金には困ってないから遠慮も必要ない」
酒の単語に反応してから、カーヴェは大きな葛藤のあと首を横に振った。せっかく一晩付き合ってくれるというのだ。酒で台無しにはしたくない。
「君は稲妻の作家だろう?スメールにはどうして?」
「新たな題材探しだ。稲妻は開国してから他国への興味が高まっている。その流行に乗っかろうと思ったのと、ひと処に定住できない性質でな。鎖国中は息が詰まって仕方がなかった」
「来てからどれくらい経つんだ?」
「まだ1ヶ月だ」
となると、スメールで大賢者の失脚があってからすぐ来たことになる。
「これから2年ほど滞在してから稲妻に戻る予定だな。まあ決めているわけじゃない。何か心が動かされたらすぐに立つこともある」
あっさり訪れるかもしれない別れの可能性に内心で息を飲みながらも、カーヴェはまた問いかけた。
「この家具は君が?」
「ああ。趣味の範囲だ。大建築士様に言及されると少し居心地が悪いな」
「人の趣味に口を出すほど無粋じゃない。職業は関係なく、君の家の居心地は良いと思う。僕は好きだ」
佐神の趣味が良いのだろう。この家でどういう感情で過ごそうと思っているのかが明確だ。意識に触れすぎないバランスの色合いとデザイン。自宅で仕事をするならば快適だろう。
「ありがとう」
微笑んでお茶のおかわりは?と問いかけてくる佐神に、カーヴェはありがたく貰うことにした。
「じゃあ、困ってることはないか?僕に出来る範囲のことになってしまうが……」
「お礼の話か?今の所困ってないよ。まあ酒は好きだな。君が美味しいと思うスメールの酒を教えてくれ」
謙虚であり、またカーヴェが出来る範囲のことには違いなく、カーヴェは佐神の器の大きさに、勝手に距離をあけられたような気がした。
「そんなのは礼にならない。他に何かないか?」
なおも問い詰めると、佐神はわずかに首を傾ける。
「なくはないが、君の分野の話じゃないな」
「言ってみてくれ」
意気込んで身を乗り出したカーヴェに、佐神は口を開く。その唇はこう言った。
「知恵の殿堂への入館許可証が欲しい」
「…………え?」
思っていたような物質が出てこなかったのに、カーヴェは一瞬きょとんとした。
「職業上、資料はあればあるほど良いんだ。だが教令院は学生と学者しか入れないだろう?知恵の殿堂なんてもってのほかだ。スメールは過ごしやすい国ではあるが、作家が暮らせば良質な資料が揃っているというのに、手が届かないもどかしさに苦しむだろうな」
佐神の声音は淡々としていて、台詞ほど理不尽を感じているようではなかった。
それがスメールだと受け入れているのだろう。
「教令院は学術的価値のない娯楽小説は嫌煙しがちだ。窓口で却下されてしまった」
「そうだったのか」
カーヴェは肩を落とした。教令院の在り方はよく知っている。どんなふうに門前払いされたのか想像すら出来そうだ。
「君のせいじゃないだろう」
話しているうちにリラックスしたのか、頬杖をついた佐神が苦笑しながら言うのに、ああ、とカーヴェは返事をする。
カーヴェのせいではない。だが、素晴らしい芸術が生まれる可能性を狭めているとなれば、心苦しい。それが好みの人間の可能性なら尚更だ。
だが、カーヴェには一つ、許可証を手に入れるための当てがあった。
「もしかすると、なんとか出来るかもしれない」
佐神は目を丸くしたが、大袈裟な反応はせずに微笑んだ。
「それは朗報だな。だが納得していることではあるんだ。君のお礼をしたい気持ちは理解したが、無理をしてまで返さなくていい」
「無理はしないさ。まあ、期待して待っててくれ」
何せカーヴェの当ては優秀だ。
可愛げのない後輩だが、彼には許可証を出すだけの権力がある。話せば分かってくれるだろう。……多分。
彼の望みを叶えるのが純粋な自分の力じゃないのが残念だが、カーヴェの感情よりも佐神の望みの方が大切だ。
佐神はそんなカーヴェをみると、ふと少し笑った。それが目を細めるようであったのにどきりと心臓が跳ねる。
「なんだ?」
動悸を隠して首を傾げると、佐神はいや、と首を横に振る。
「期待して待ってるよ。カーヴェ」
名前を呼んでくれたのは2回目だ。
「っああ!」
許可証を用意する事ができれば、彼ともっと親しくなる機会になるかもしれない。友人までなれば、お茶をしてこの容姿を眺める機会も得られるだろう。
そうなったら、佐神に絵のモデルになってもらえるか頼んでみようか。
絵画は専門じゃないが、彼を描くことはインスピレーションのきっかけにもなりそうだ。
明るい未来が見えた気がして、カーヴェは機嫌良く一晩佐神とお喋りを楽しんだ。