花神誕祭が繰り返されていることに気づくのはもう何回目か分からない。
ナヒーダに導かれながら少しずつ真実へ足を進める蛍とパイモンは、想像が追いつかない状況に苦しんでいた。
なにより、1日の終わりに目にした自分たちの友人だったはずの彼への疑問と不安が尽きない。
相談している途中で、我慢できなくなったのか、パイモンがおずおずと口を開いた。
「なぁ、ナヒーダ。ナヒーダは……、エルネって学者を知ってるか?」
するとこれまで思慮深く、落ち着いた様子だった少女は、初めて目を見張った表情でパイモンを見上げる。
「まず確認するのだけど、私の知っているエルネと、あなたたちの知っているエルネが同一人物かしら」
そう問われて、パイモンと蛍は顔を見合わせる。
「えーっと、エルネは、大賢者みたいなんだ。アザールって呼ばれてたけど、オイラたちには自分のことをエルネって自己紹介してた」
「そう……。アザールもエルネも、彼の名前よ。彼は、エルネスト・ヴァン・アザールという名前なの。ただ、彼は教令院でアザール以外の名を名乗ったことはないわ」
「そうだったのか!?じゃあ嘘をついていた訳じゃないんだな」
騙されたわけではなかったのか、と思いかけたらしいパイモンは、それからぶんぶんと首を横に振ると腕を組む。
「でもあいつ!大賢者ってことを黙ってたぞ!それに、ニィロウにも酷いことを言って!」
怒っているパイモンに、ナヒーダは思案するように少しだけ間を開ける。
「ええ。確かに彼は嘘をつかないわ。そして本当のことも言わない」
そのナヒーダをパイモンと蛍は顔を見合わせた。
「ナヒーダはエルネのことをよく知ってるのか?」
「良く……は知らないわ。でも、彼は私と1番多く会話をしてくれた人よ」
その台詞にパイモンはどう反応したものか、迷ったようにナヒーダをみる。
「たくさん話したことがあるなら、良く知ってることにならないか?」
「あら?一般的な感覚だとそうなの?でも確かに、彼の個人情報は私が1番知っていることになるのかしら」
考えるようにしたナヒーダに、パイモンはやれやれというように肩をすくめた。
「ナヒーダの感覚はともかく、ナヒーダはエルネがどうしてこんなことをしているのかも知らないのか?」
「それについて話すことも出来るけれど、今回の事件の動機については、今は考えるべきではないわ。この輪廻を止めることが最優先よ」
「うー、それもそうだけど、でも、オイラ、エルネが酷いやつだと思ってなかったから余計にショックだったんだぞ……」
パイモンの感情に同じくと頷いた蛍は、それからナヒーダに向き直る。
「確かに、この状況から抜け出すのが先。エルネには直接聞きに行く」
蛍がそういうと、パイモンはぱっと目を見張ってからおう!と頷いた。
「そうだな。エルネは話してくれないわけじゃないし、直接聞きに行けばきっと答えてくれるよな」
蛍が頷いたのを見て、パイモンは、うーん、と今度は考えるような声をあげる。
「でもまだ手がかりは少ないし、もう一度考えてみようぜ。今分かってることは……」
指を立てて情報の整理を始めるパイモンの言葉を聞きながら、蛍はそっとナヒーダの方を見る。
ナヒーダはパイモンの方を見上げながら、いつもの見守る様子ではなく、何か考えているような表情をしていた。
そして今日が終わる。
また今日が始まる瞬間に、その声は聞こえた。
『……を過ぎた。これを境に可能性は0に近くなる。……引き継ぐデータをまとめておかなくては』
目覚めは悪かった。目覚め、というよりもナヒーダの前で記憶を適応させているだけだが、徐々に頭が重たくなっていくような気がしている。
少しの忘却から立ち直る時間があり、蛍とパイモンは顔を見合わせると、自分たちの前に立っているナヒーダに視線を向けた。
『昨日』の情報のおさらい。新たな発想。それはディシアへの協力へつながり、アーカーシャ装置への不信から、賢者たちへの疑惑へと変わる。
「……エルネは一体何をしようとしてるんだ……」
困惑と疑問、少しの悲しさを含んだパイモンの呟きに、蛍は何度か舞台の上で見たエルネの冷たい視線を思い返す。
エルネに話しかけたこともあったが、冷たくあしらわれただけで終わったのだ。パイモンにはそのショックを引きずっているのだろう。
真実に遠く届かないような気がしていた輪廻の日々は、それでも少しずつ到達しようとしていた。
ナヒーダとの問答を済ませ、その正体をクラクサナリデビだと答えた蛍たちは、そしてようやくこの夢を終わらせるために歩き始める。
夢の主であるニィロウに真実を告げた時、エルネの姿は彼女が望んだようにこの場から掻き消えた。
金色の光の粒子と共に夢が覚めていく。
その光の中、ニィロウの舞いを見つめながら、蛍はエルネの憂いを帯びた表情を思い出していた。
賢者たちの絶望や苦悩の声を聞きながら、エルネは深くため息をついた。
途端に訪れる静寂。プロジェクトは失敗した。スメールの未来をかけた実験は泡沫へと帰した。
「みんな、ご苦労だった。今日は解散するとしよう。長い実験で疲れただろう。今日一日、休息を取って欲しい」
「ですが、大賢者様……、これだけの資金と労力を費やして、結果失敗では……」
項垂れる学者たちに、エルネは僅かにだけ微笑んでみせた。
「失敗する可能性は初めからあった。我々は誰も踏み入れたことのない叡智へと足を踏み進めている。大切なのは、この道を諦めないことだ。私は私の先生、あなた方にそう教わった」
エルネの言葉に、疲労を隠せないながらも学者たちは、黙ると悲痛な決意を抱えた表情で頷いた。
「そうだ。我々がやり遂げなければ」
「アザール様、あなたのおっしゃる通りだ」
挫折からの一体感は、ある意味での鼓舞となる。力を取り戻した学者たちは、エルネがいった通り、休息を取るために部屋を出ていった。
エルネだけが部屋に残される。エルネは手元の実験結果を見下ろす。
「ふ……」
溢れでた声は、悲しみではない。
「ふふ、は、はは、ははっ!あそこから持ち直すとは……!」
肩を震わせてひとしきり笑うと、エルネは椅子に座り込んだ。精神的な疲労が大きすぎるが、それを興奮が麻痺させているのも自覚していた。
何度か深呼吸をする。喜びすぎてはダメだ。冷静さを欠いてはならない。スメールで誰よりも冷静で鋭く在らなければ。
「……セタレに少し自由な時間をあげないとな……」
呟きながらエルネはアーカーシャをつける。
この端末は今日は神の心とは繋がっていない。エルネが構築したシステムに繋がっている。
眠る必要がある。疲れを取るために。夢を見るために。明日に歩き続けるために。
輪廻を破るために奔走しただろう旅人たちのことを思い浮かべながらエルネは背もたれによりかかり目を閉じた。
次に会う時は、敵同士だろう。
「楽しみだな……」
エルネは眠りに落ちた。
「エルネ」
エルネは目を開けた。
穏やかな午後の日差しが床に落ちているのが見える。太陽は高い場所にあり、まどろむに最適な時間が永遠と続いている。
「……無理をしているな。賢しい者が取る手段とは思えない」
「賢さの定義は人それぞれだと教えてくれたのはあなたよ。エルネ」
もたれ掛かった椅子の背から身を起こす。目の前の小さな椅子に座った幼い少女の姿を見返す。
「心配してくれているのね」
「君を損いたい訳じゃない」
「ええ。そのつもりだったら、あなたは私の講義なんてしないわ。あなたの人生に綻びはない。でも、完成したプログラムが導く答えが正解だとは限らないわ」
肘掛けに頬杖をつく。あまり長引かせたくはなかった。
「エルネ」
もう一度呼びかけられる。
「『昨日』決めたのだけれど、あなたのプロジェクトには賛同しないわ」
「元から君に助力を求めたことなんてない」
「そして、クラクサナリデビとして、あなたのプロジェクトを阻止することにしたの」
「そうか」
エルネの返答は簡素なものだった。だが、ナヒーダは気を害した様子はない。
「心配しないで。今日の要件はこれだけよ」
「君のすることに、私が何の心配をすると言うんだ?」
「そうじゃなくて、きっとあなたは私を……」
ナヒーダの行動に脅威の欠片も感じていないと言わんばかりのエルネに、ナヒーダは何か否定しようとして物憂げに俯く。それは自分の力不足を実感する時の表情で、エルネは深々とため息をついた。
「宣戦布告をするのなら、もう少し自信ありげにすると良い。まだ20そこらの私の生徒たちよりも下手だ。彼らは私と議論をする時に、私から視線を逸らしたりはしない」
「宣戦布告というわけではないの。私は大丈夫よ。って伝えたかったの」
「…………」
エルネは唇を閉じる。ナヒーダに視線を向けたまま、背を伸ばす。
「私は未熟な神だけれど、だからと言って自分の信徒を守らない理由にはならないわ。あなたはしてはならないことをした。だから、私はクラクサナリデビとしてあなたの目的を暴き、計画を阻止するわ、エルネスト」
胸に手を当て、まっすぐにエルネを見つめたナヒーダを見返し、ふとエルネは微笑む。
「……ああ、待ってるよ」
ナヒーダが頷くのを見、エルネは目を閉じる。
過去の賢者たちは、どうして、彼女が間に合わないと思ったのだろう。
こんなにも聡明で懸命な自らの神を、知恵を教え探究する者たちがどうして。
嘆きはもはや意味がないことだ。
そしてすでにエルネは彼女の信徒ではない。つい昨日、信仰する神を乗り換えた。いや、乗り換えようとしている。
エルネは部屋からナヒーダ去ったのを感じた。エルネだけの夢境。ナヒーダにだけ許した教室。
目を閉じる。夢は終わりだ。明日からは彼女が入ってこれないようにイナモスト装置を調整しないとならない。
目覚めはすぐだった。
「おはよう。学者というのは知識があるというだけの意味しかないのかい?机で寝落ちるなんて、随分と自己管理が疎かだ」
「…………」
夢による酩酊で少しだけ状況を理解するのに時間がかかった。
「スカラマシュ」
名を呼ぶと、机の上に腰をかけ、自分を見下ろす少年の姿をした相手を見上げる。
「賢者たちが大層なことを言っていたけど、夢境量産とやらは失敗したようだね?」
嘲笑うような笑みを浮かべたスカラマシュに、アザールはなんと返すか少し考え、それから口を開いた。
「あなたに今回の実験の成功確率を伝えたことがあっただろうか」
「ん?…………まさか、プロジェクトリーダーの君は成功を信じてなかったとでも?面白いことを言うね」
「元より本命はあなただ。スカラマシュ。すでに夢境量産の重要度は下がっている」
アザールの返事にふうん?とスカラマシュは目を細める。
「他の賢者たちは、君のその考えを知らなかった。随分と食わせ者だね。君、ファデュイに向いてるよ」
スカラマシュは自身が所属している組織の名をあげているが、それが褒め言葉じゃないことは明白だった。
「主人のいる集団行動には向いていない。好奇心に駆られ、あっという間に死ぬだろう」
「だから誰にも束縛されない大賢者になったって?どっちでも良いさ。僕が神になった後も、君にはその地位にいさせてあげるよ。人と違って、僕は約束を破ったりはしないからね」
机から飛び降りると、スカラマシュは部屋のドアへと向かう。
「ああ、そうだ。博士が呼んでいたよ。あいつに興味を持たれるだなんて、君が無事に大賢者でいられる保証は無くなったかも知れないね」
口元に笑みを浮かべたまま、スカラマシュは外へと出ていった。
夢境量産プロジェクトが失敗した今、この部屋は片付けなければならない。元から全てアーカーシャのみに記録していたため、書類の一つも存在していない。
実験室は密かに作られたスラサタンナ聖処の後ろの施設へと移る。
一晩眠り、興奮からは覚めていた。
光芒をずっと辿り続けている。今の所、見失っていないようだ。
「……………」
顔を覆い、記録には残されていなかった博士のスカラマシュを使った実験の数々のことを考える。アザールに興味を示した博士に見せられたデータは、読み解けば彼の体が特殊であるが故の非人道的なものばかりだった。輪廻で引き継がれるのは、データだけだ。付随する感情や不必要と思われる情報はアザール自身によって削除されている。確かに引き継ぐ必要がない情報だ。今回のエルネでも削除する。それでも。
「感情を持つ者こそ人である。か」
理性を重んじる学者から真逆にあるもの。
感情から離れていくほど、自分は人らしさから外れていっているのだろうか。
なんでもいい。
誰かの人生を背負うのが、これで最後になるのなら、握りしめてきた心を手放したって構わなかった。