後悔先に立たず「…あの時、ああ言えたなら」
稲妻の鎖国令が解かれ、天領奉行のお尋ね者でなくなった今、万葉は度々そのような後悔に呑まれていた。
あの頃はただひたすらに前を向いていた。立ち止まり振り返れば、自らも死していたから。
時代が移ろい過去を省みる余裕ができた事は、果たして良いことか苦しいことか。
鎮守の地の花を断刀塚に手向け、傍にゆっくりと腰を下ろす。ふらりと稲妻に戻ってくると、万葉は必ずここでただぼんやりと思い出に浸る日を設けるのだ。
「…なぁ、我が友よ。拙者は…」
そして、あの頃が鮮やかに蘇る。
かの青年と万葉との出会いは雷(いかずち)のようなものだった。顔の広い万葉なれど、他のどの出会いよりも鮮明で、運命的。彼らが親友と呼べるほどの仲になるまでさほど時間はかからなかった。
万葉の唯一の親友は、真っ直ぐで飾り気の無い男であった。万葉はそこを大変好ましく思っていた。
万葉は耳が良い。知らなくていい人の裏側まで敏感に感じ取って、表の面との差異に疲弊することもよくあった。だからこそ、裏表のない素直な男の傍は、万葉にとって非常に居心地が良かったのだ。
そのような男であったから、隠し事もまた下手であった。万葉が彼に惹かれたように、彼もまた旅の中で万葉に惹かれていった。万葉は聡い少年であったから、直ぐに彼からの熱い視線に気が付いた。しかし旅は出会いと別れの繰り返し。彼が望まぬなら関係を進めずとも構わない…そう考えて気付かぬふりをした。それ程に、その時の万葉の気持ちは淡く、言い換えれば己の感情には酷く疎かった。
「ああ!俺にはやっぱり隠しておくなんざ無理だ!」
ある時隣を歩く男は突然に声を張り上げ叫んだ。大声にぎょっとして彼の顔を見上げれば、夕日に照らされ真っ赤な顔をした彼と目がかち合った。あぁついにこの日が来たのかと、万葉は密かに拳を握りしめた。
「万葉。驚かないで聞いてほしいんだが」
こくりと一つ頷く。
「俺、俺さ、お前のことが…その、好きだ」
「……」
「嫌なら聞かなかったことにしてくれ、言いたかっただけだから」
「お主の気持ちなど、とうに勘づいていたでござるよ」
「え、」
「…嫌なら、気がついた時点でお主のもとを去っておる。そうしていないのは、紛れもなく拙者の意思でござるよ」
嗚呼何と遠回しな表現だろうか。些か捻くれ者の万葉の、照れ隠しを含んだそれでもその時出せた最大限の愛情表現であった。
「かずはぁ〜ッ!」
「どわっ!?」
幸い、万葉の扱いに慣れた青年にはそれで伝わったらしい。勢いのままに飛びついてきた一回り大きな彼によろめき、仕返しとばかりに腕を回して思い切り抱きしめて、それから彼のあたたかな胸に顔を押し当てた。
彼から告白されることも、関係が進むことも、一応の想定はしていたことのはずだった。だのに、どうしてこんなに心臓が煩いのだ! 治まれと彼の胸元に顔を押し付けるほど、溢れる感情に溺れそうになった。
そうして万葉は口付けもそれ以上のこともこの男で覚えた。旅の目的は変わらない。ただ、人気のないところで指を絡ませたり、肩に頭を預けたり、そういうことが加わった。
「俺との旅を一句詠んでくれよ」と無茶を振る彼に「恋の詩は得意ではない」と返すと、何故だかぱあっと笑顔になり、髪をわしゃわしゃと撫でくり回された。ひとしきりそうされた後、囁くように名を呼ばれ、見上げれば惚れた男の顔がある。ひとつ口付けを落とされて、彼の指がゆっくりと意味深に万葉の指の間を往復した。肯定の代わりに手を握ると、「今夜の宿を探さないとな」とその手を引かれた。
「…ああ万葉、お前本当に可愛い。好き、…好きだよ」
「ッ…」
そっと布団に押し倒されて、帯を解かれた。耳元で愛を囁かれれば、耳の良い万葉はそれだけで駄目になる。彼のたったひと言で調子が崩れ、常は饒舌に詩的な言葉を並べる舌が回らなくなった。熱い火を灯した彼と見つめあって、何か言わねばとはくはくと口を動かすが言葉にならない。それをお強請りと取ったか、唇が重ねられて、舌が蕩けて、いよいよ口から零れるのは小さな喘ぎのみ。
「愛してるよ、万葉」
いつも以上に優しくあたたかく、身体の隅々まで喰らい尽くされて、結局彼と身体を重ねたのはこの時が最後であった。
…あの時の慈しむような笑顔が、脳裏に焼き付いて忘れられない。彼の形にぽっかりと空いた穴は、新たな神の目の持ち主を探しても埋まることはなく、万葉は心の柔い部分を思い出と共に閉ざして錠をかけた。
万葉の下手な愛情表現を丁寧に掬って、信じてくれたあの男に、いつかきちんと言わねばならないと思っていた。縁はそう簡単に切れないからと、次の機会があるからと、先延ばしにした。本当はあの時にはもう覚悟が決まっていたのかもしれない。己ばかり意地を張って、すべてが過去のものになった。
「ッ…う、」
光を失った神の目にパタパタと雫が降る。思えばずっと気を張っていた。強くならなければいけなかった。長い間堰き止められていた愛が、決壊して溢れ出す。
「好き……好きだった、本当に…!」
年若い万葉を、一人の人間として見てくれた。いつでもまっすぐだった彼に、どうして自分は同じように向き合えなかったのだろう。ずっとずっと、言いたかったことがあるのに。
「……愛して、おります」
あの時、そう言えたなら。