夜の10時半を回った頃。
窓を少し空けて夜風を楽しみながらハイウェイを走る1台の車があった。
最低限の音量で流しっぱなしにしているラジオからは、近日公開の映画の話が繰り広げられている。MCはやや大げさなリアクションを交えて物語のあらすじを紹介し、監督の創作秘話や見どころを述べている。
運転席に座る立香はその話題に耳を傾け、ラジオのつまみを少し捻って音量を上げた。ラジオパーソナリティがかなりの映画好きのようで、この映画の主役がいかに素晴らしい演技をするかということを熱く語っている。それを得意げに聞きながら、立香は満足そうにふぅと息を吐いて運転に集中した。
なにしろ今まさにその話題の主役俳優をホテルに送り届けている最中なのだから。
高速道路を降りて眠らない街中に差し掛かると、後部座席がぎしりと音を立てた。唸るような重いため息が聞こえる。
「ごめん、ラジオうるさかった?」
言いながら立香はラジオを切り、少しだけ空けていた窓を閉める。
「いや…。…オレはどれくらい眠っていた?」
「ほんの2、30分だよ。あと少しで着くからまだ寝てて大丈夫。」
立香が答えると「そうする」と消え入りそうな声がして、まもなく沈黙が車内に流れた。ちらりとバックミラーを覗けば胸元で腕を組んで難しそうな顔で眠るデイビットが見える。目を閉じているだけで完全に眠っているわけではないのだろう。忙しい彼のことだ。きっとここ数日満足に休息が取れていない。立香も長時間の運転疲れを誤魔化すようにドアポケットに突っ込んだ激辛のミントを口に数粒放り込んだ。
立香はもともと小さなファッション雑誌の編集マネージャーだった。マネージャーと言ってもほとんど奴隷みたいなもので、気難しい編集長の元に着いたのが運の尽き。毎日毎日無理難題や私情のわがままを黙々とこなしていく日々だった。映画に使う衣装の取材がきっかけで収録現場に出入りしていくうち、ひょんなことから制作会社の社長に気に入られ、臨時でいいからとデイビットのマネージャーを務めることになったのだ。
マネージャー業といってもファッション業界と映画業界ではやることがかなり違うのだが、前任が丁寧に引き継ぎをしてくれたおかげでなんとかやれている。
立香がマネジメントするデイビットは新進気鋭の俳優で、その端正な顔立ちとミステリアスでクールな言動が人気だった。特にアクションが得意でスタントマンを使わずに己の身一つでどんなに難しい役もこなしていく。徹底した役作りと身体機能の高さで人々を魅了していた。雑誌の取材やインタビューはあまり受けず、私生活も一切明かさないそのストイックな姿勢が大いにウケていた。
そんな有名人のマネージャーなんて到底無理だと立香は困惑したが、現場でこき使われながらもあらゆる困難を解決していく根性とどんな人とでも分け隔てなく接することのできる点を大いに気に入られ、デイビットの保護者権所属事務所の社長であるテスカトリポカに半ば強制的に抜擢されたのだった。
「デイビットはあれでかなりの変人だからな。あれについていける人間なんざそうそういない。俺の目に狂いはない。お嬢ならデイビットともうまくやっていけるさ」
高そうなタバコをふかしながら不敵に笑う社長の言葉の意味を立香は身をもって知ることとなる。
デイビットは売り出し中のこともあってかなりのハードスケジュールだった。分刻みの予定を疲れた顔ひとつせずこなしていく様はさすがプロといったところだが、私生活は全く味気ないものだった。日付が変わる頃家に帰り、シャワーを浴びて4時間ほど就寝。早朝日課のランニングと基礎トレーニングをこなし、すぐにあちこちへ出掛けていく。食事はもっぱらカロリーバーやプロテイン、サプリメントなどで、彼が腰を落ち着けて食事するところを見たことがない。まるで生き急ぐように移動中も台本を読んだり役作りの勉強をしたりととにかく忙しい。スケジュールを組んでも自分がやりたいことを優先するので調整するのに苦労するし、アクションで必要な動きがあれば納得するまで練習した。とにかく自由気ままで頑固、掴みどころのない男だった。
デイビットが勝手に予定を変えるのには理由があった。これは彼の、ひいては事務所のトップシークレットであり、立香がマネージャーに就任する際、唯一このことは他言無用と契約書を交わしたほどの重要事項。
デイビットは幼い頃の事故の影響で1日のうち5分間しか記憶できない。
どんなに衝撃的な出来事であろうと彼が5分のうちに収めると決めた事柄しか覚えていられないのだ。にわかには信じられないことだったが、立香が初めてデイビットと言葉を交わした翌日、彼は立香のことを忘れていたのでいやでもその事実を理解することになった。
それでも彼が傍目から見て問題なくコミュニケーションが取れているのは並外れた洞察力と彼の頭の良さに起因している。立香はそんなデイビットのためにできる限り関係者からの受け答えを引き受け、どうしてもインタビューや公の場で話さなければならない時は昨日あった出来事や対応するのに必要な事柄をまとめてデイビットをサポートした。マネージャー業務はこっちがメインと言っても過言ではない。
彼の記憶を担う。
それが立香に課されたオーダーだった。たとえデイビットが立香のことを忘れてしまうとしても。
そんなデイビットのマイペースに振り回されながら、勝手に予定をねじ曲げられれば関係各所に謝り倒し、まともな食事を摂らないデイビットの健康管理にも注意した。
立香の努力の賜物か、最近のデイビットは演技に磨きがかかり、それなりに健康的に仕事に専念できているといっても過言ではない。
「オレはもう君なしではいられないかもな」とふいにデイビットからなんでもないように告げられた時は、不覚にもどきりとしたものだ。てっきり自分のことなど5分のうちの勘定に入れられていないと思っていたので、認識されて必要とされていることに今までの苦労が報われた気さえした。
(マネージャーがいないとダメってことだよね!)
数ヶ月前の出来事に思いを馳せながら、思い出さなくてもいい部分まで思い出してしまい頭を思い切り振った。このロケが終われば臨時契約も解消され立香はもとの編集部に戻ることになっている。少し寂しい気もするが、もともと次の人が決まるまでという約束だったし、
そんなことを思っているとやっと予約していたホテルの建物が見えてきた。
駐車場に車を回し、VIP専用入り口のロータリーに停める。ここは芸能人御用達の高級ホテルで、関係者しか予約が取れない。デイビットも常連の1人で、今回のロケ地にはデイビットの自宅からよりホテルの方が近いので何泊かする予定だ。セキュリティ及びパパラッチ対策もバッチリで、安心して休むことができる。1泊が目の飛び出るような値段なので、もちろん立香が泊まったことはない。
厳重なガラス張りの入り口からドアマンが出てきて、恭しく車のドアを開けた。浅い眠りから覚めたデイビットを降ろし、トランクから宿泊用の荷物を取り出す。
「ようこそ、お待ちしておりました」
「予約していた藤丸です。荷物、よろしくお願いします。明日の朝迎えにきますので、ルームクリーニングは10時以降にお願いします」
「いつもありがとうございます。ヴォイド様、お部屋は7階でございます。どうぞこちらへ」
荷物を預けて再び車に乗り込む。デイビットは何か言いたげに運転席側のドアの前に立った。きっと挨拶してくれるのだろう。
「じゃあデイビット、明日の朝9時に迎えにくるからしっかり休んでね。お腹が空いてたらルームサービス頼んでもいいし…。あ、これさっき買ったんだけど、デイビットが前に好きだって言ってたサンドイッチ。保冷剤入れてもらったから大丈夫だと思うけど、こっち食べる?」
早口で捲し立てるように言って助手席に置いた自分の荷物から包みの入った袋を取り出す。やや偏食気味のデイビットが前に美味しいと言っていたのでメモして買っておいたものだ。
「ありがとう。そっちを食べるよ。…君は泊まらないのか」
「えっわたし?いやいやまさか〜。ここすごく高いんだよ。わたしみたいな一般人には無理かな」
「オレが支払うが…」
「ふふ、デイビットもジョーク言えるんだね」
「いや、冗談のつもりではない。君はこれから自宅に帰るんだろう?オレに1日付き合って疲れているはずだ。その状態で運転して帰るよりここに泊まった方がいいだろう」
「予約はデイビット1人分だからね。お部屋空いてないと思うよ。大丈夫!わたしこう見えて結構体力に自信あるから!」
なかなかドアの前から退かないデイビット。こちらが取り込み中なのを見てドアマンの男性が様子を伺っているので、先に部屋に荷物を置いてもらうよう目配せする。
「オレと…同じ部屋は?スイートルームをとっているはずだ」
「さ…すがにそれは、その…。今日はどうしたの?寂しくなっちゃったとか?デイビットって結構かわいいところあるんだね!気を遣ってくれて本当にありがとう。でも、いくらここが芸能人御用達だとしても変な噂とか流れちゃったらまずいし、気持ちだけ受け取っておくよ」
勘違いしそうになるから。
わざと茶化すように言ってみたのに、立香の返事を待つデイビットの顔があまりにも真剣で、いやでも心臓が速く脈打ってしまう。ここはそういうホテルじゃないとしても、男女が同じ部屋で寝泊まりするっていうのは、少なからず何かが起こりうるというわけで。きっと彼は本当に自分の体を気遣っていってくれているだけなのに、誘われているんだと解釈してしまう自分が浅ましくて嫌になる。
頬が赤くなってないか確認するためにバックミラーに目をやるのもできなかった。それくらい真剣に見つめられていた。
「…君を困らせるつもりはなかった。すまない」
「ううん、デイビットが優しいの、知ってるから…。あの、本当にありがとう。今日だけじゃなくて、いつも…」
自分が今どんな顔をしているか、平静を装うことができているか自信がなくて立香は下を向いた。こんなに気まずい思いをするならいっそ提案にのるべきだった?それとももっと他にいい返しがあっただろうか。男性経験の少ない立香にはわからなかった。それでなくても、デイビットの囁くような甘い声とまるで懇願するみたいな顔に絆されている自覚があったのだから。
彼は俳優で、自分はただの仕事上のパートナーに過ぎない。その契約関係も直に終わるのにこんな気持ちを向けるのは間違っている。
「あ、あんまり車停めてると迷惑かも…。わたしもう行くね。おやすみ、デイビット」
これ以上そばにいるといけない気がして、立香は慌ててキーを回しエンジンをかけた。鈍い音がして車体が小刻みに揺れる。とにかくこの場から早く立ち去りたかった。それなのに、
「立香」
珍しく名前を呼ばれ、まだ何かあるのかと顔を上げると、開いた窓に身を屈め、デイビットが近づいてくる。
そしてそのまま、小さなリップ音と共に額に柔らかいものが当たった。
「おやすみ。気をつけて」
口付けを落とされたと気づいたのは、デイビットがくしゃりと立香の頭を撫でてホテルのフロントに消えていった後だった。
遠くなっていく背中を見つめながら今し方触れられた額に手をやる。燃えるように熱いのは指先なのか額なのかもはやわからない。
(彼はアメリカ人、彼はアメリカ人…これは挨拶、これは挨拶…!)
言い聞かせるように繰り返しても立香はしばらく車を動かせず、車内で1人唸っていることしかできなかった。
※※※
バイブ音がなり、テーブルに置いていた携帯が振動している。
シャワーを浴びて髪を濡らしたまま、デイビットは通話ボタンを押した。液晶に数滴しずくが落ちたのを指で拭う。
「…はい」
「デイビット、さっきお嬢からお前をホテルに送ったと定時連絡がきたが。まさかと思うがお前さん…」
「ここにはオレ1人だ。彼女は帰ったよ」
短く告げると電話の向こうであからさまに落胆するテスカトリポカの声が聞こえた。デイビットは心底うんざりした様子で髪をかきあげると、そのまま広すぎるキングサイズのベッドに深く深く腰を沈めた。真新しい糊のきいたシーツは重さに抗うことなく波を作っていく。
「なんのためにスイートルームなんざ取ったと思ってる。そこは多少強引でも連れ込むべきだろう」
「下世話な話なら切る。誰もこんな部屋を取ってくれと頼んでいない。いつもと同じ部屋でよかったんだ。それに…」
「それに?」
「一度は、誘ったが断られた。同じ部屋でなくとも、もう一つ部屋を借りると。こんな時間まで運転していたんだ、疲れているんじゃないかと。お前に連絡が入ったのなら、事故に遭わず無事家に着いたんだろうか」
「それに関しちゃ心配いらんが…日本人ってのは慎ましいというかなんというか。まだその段階になかったか?」
「下心が…なかったとは言い切れないが。結構落ち込むものがあるな」
「ちなみになんて言って誘ったんだ」
「新しく部屋を取ると提案したが遠慮するのでオレと同じ部屋ならどうか、と」
そう告げた瞬間あー…とかおお…とか意味の無さない不明瞭な声がした。ついで深いため息が聞こえる。
「そりゃお前、いくらなんでも…。いいか、日本人てのはまず告白ありきの文化圏なんだよ。段階を踏まなきゃならない」
「いきなりあからさまな部屋を取ったお前に言われたくないな」
「こりゃあお嬢を落とすのは難しいかもしれないな。役で恋人を作る練習でもしてみるか?」
「必要ない。たしかに彼女は手強いが、嫌われたという感触はなかった。急いては事を仕損じる、だったか?次はもっと別のアプローチを考えよう」
帰り際に触れた立香の様子を反芻する。今日の記憶は残り20秒もなかったが、あの瞬間だけは覚えていた。自分のそれとは違う鮮やかで柔らかい赤毛。化粧品とも違う彼女独特の甘い匂い。そして何よりうっすらと頬を赤らめて就寝のキスに戸惑うあの恥じらった表情。そこに嫌悪の感情は見られなかった。あと少し、あと少しできっとこの手は彼女に届く。
立香の前髪に触れた手を愛おしそうに握って、デイビットは目を閉じた。