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    nonkasuneko

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    nonkasuneko

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    11月の新刊その①です。杉尾、戦後パロ。ケツを叩いてください。

    その目の中に、夏の雨が 杉元佐一さんは半年前からの利用者さんだ。今年九十六歳になるのに、まだ本当にお元気で足腰もしっかりしている。ほとんどの事は一人でできるのだけれど、少し膝が悪いのと一人暮らしなことを考えて、ヘルパーを利用している。ヘルパーサービスを利用しだした時から、私がサービスにお伺いしている。サービスの内容は、掃除機かけと雑巾かけ、それからトイレとお風呂の掃除。ときどき、お米のような重たいものの買い物を頼まれる。重たいものを頼む時は、いつも申し訳なさそうに頼む。女の人に悪いな、こんなもの頼んじまってと言う。杉元さんはいつも穏やかで、とても優しい。
     ヘルパーは、高齢者のお宅にお伺いして家事の手伝いや、お風呂に入れたりオムツを交換したりと言った、日常の介護をする仕事だ。私は子供が大きくなってから、もう七年もこの仕事をしている。
    正直な所大変なことも多い。神経質な利用者さんに掃除の仕方が悪いと怒られたり、反対にお家が驚くようなゴミ屋敷だったり。認知症の利用者さんに叩かれたことも、お伺いしたら亡くなっていたこともある。世の中にはいろんな人がいるなあと、つくづく思わされたりする。
     仕事だから選んではいけないのだけれど、私たちヘルパーも人間だから、好きな利用者さん、嫌いな利用者さんというものはいる。
    杉元さんは、私の一番のお気に入りだ。細かいことは言わないし、いつだって気を使ってくれるし、ときどきお疲れさんといってお茶を出してくれたりもする。なにより杉元さんは九十六歳なのに、カッコいいのだ。張りのある白髪をしていて、若い頃はそりゃあモテたんだろうなと思わせるような、整った顔をしている。おじいちゃんなんてみんな一緒に見えるかもしれないけれど、おじいちゃんにもイケメンはいるのだ。
     私は今日も少し楽しい気持ちで、杉元のお宅のチャイムを鳴らした。杉元さんの家は、築年数のいった一戸建てだ。門から玄関までの間に小さな庭があって、そこは柿の木の一本植わっている。渋柿だからそのままでは食べられないけれど、昔は干し柿を作ったりしていたらしい。
     いつも玄関の鍵は開けてくれているので、私はそのまま杉元さんの家に入った。廊下は薄暗い。その奥に動く人影があった。
    「陽子さん」
     私の名前を呼んだのは、杉元さんの声だった。どうしてだが、酷く慌てている。薄闇に眼がなれたところで、私はなるほどと思った。杉元さんはパンツ一丁だった。ちょうど風呂から上がったところだったのか、首からタオルを下げている。気にしなくていいですよ、と言いながら私は笑いかけた。
    「ごめんな。こんな格好」
    「いえいえ。お風呂に入れている方もいるんですから。気になさらず」
     そう言いながらも、私は杉元さんの恥じらいを好ましく思った。幾つになっても羞恥心を忘れないのはいいことだ。それに、こんなおばちゃんだからいいかと思われていないのは、少しだけ嬉しい。
    「すぐに着替えるから、待っててくれ」
     杉元さんが背中を向ける。私はその背中を見て、ぎょっとした。杉元さんの背中には、数えきれないぐらい傷跡があった。
    「驚かせたか」
     私の視線に気づいたのだろう。杉元さんが言った。私はなんと答えたらいいか考え、それから素直に驚きましたと言った。杉元さんは顔にも大きな傷跡がある。だが、こんなにも全身傷だらけだとは知らなかった。
    「みっともないものを見せちまったなあ」
     杉元さんが少し恥ずかしそうに言った。それから、居間で待っててと続けた。私はむくむくと沸いてしまった興味を押さえつけ、いいつけ通りに居間へいった。ダイニングテーブルの椅子に座り、先程見た体を思い出す。当然年齢なりに衰えてはいるけれど、杉元さんの体はまだ筋肉質だった。少し緩んだ肌にあったいくつもの傷。
     ヘルパーをやっていれば、傷跡なんていっぱい見る。高齢者はみんなどこかしら悪いし、手術の跡などたくさんある。けれど杉元さんの傷跡は少し違うように思えた。手術で付いたものではなくて、もっと荒っぽいことで付いたような傷に思えた。
    「ごめんな。お待たせ」
     しばらくして居間にやってきた杉元さんは、すっかり服を着こんでいた。淡いグレーの半袖シャツに、薄茶色のパンツ。夏の盛りらしい、涼し気な装いだ。私は杉元さんの二の腕を見た。その腕にもやはりいくつもの傷跡があった。
    「掃除をしてもらう前に、風呂に入っておこうと思って、時間を間違えちまった」
    「いえいえ」
    「やっぱ呆けてきてるな。時間がわかんねえなんて」
     杉元さんが笑う。なに言ってるんですか、と返して私も笑う。けれど私はやっぱり、杉元さんの傷のことで頭がいっぱいだ。気になってしかたない。ついチラチラと、腕の傷跡を見てしまう。杉元さんがなにかを察したように、ふっと短く鼻を鳴らした。
    「気になるか」
     杉元さんが悪戯っぽい目をして、私の顔を覗き込んだ。私は慌てて目を逸らした。私の好奇心は、相手を知ると必要性という職域を越えていた。
    「すみません」
    「謝らないでくれ。誰かに話したい気もしていたんだ」
     杉元さんがふーっと長い息をついて微笑んだ。私は返事に困り、俯いた。聞いてくれるかい、と杉元さんが言う。私は迷った。杉元さんはなにか大切なことを話そうとしている。それをただのヘルパーである自分が聞いていいのか、よくわからなかった。
    「陽子さん」
     杉元さんが呼んだ。杉元さんは私を下の名前で呼ぶ。最初は名字だったのだけど、慣れた頃からそうなった。嫌らしい感じはまったくしない。なんか娘がいたらと思っちまってなあ、とある時言っていた。杉元さんは一度も結婚しなかったらしい。この年でもこの色男なのだから、若い頃は引く手数多だっただろうに、一生独身だったのだ。当然、子供もいない。
    「迷惑かな」
     杉元さんの顔が少し陰る。私は慌てて首を横に振った。聞きたいです、と声を張った。杉元さんの顔に満足そうな笑みが浮いた。
    「今日は掃除も買い物もいいから、一時間付き合ってくれ」
    「はい。私でよければ」
     私は背筋を伸ばした。そんなに硬くならないでくれ、と杉元さんが喉を鳴らす。
    「なにから話そうか」
     杉元さんがため息をつく。
    「そういえば今日はちょうど、終戦記念日だったな」
     目を細めて、杉元さんが言った。その頬にどこか寂しそうで、どこか懐かしそうな笑みが浮いていた。



     ああ本当になにから話そうか。
     これから話すのは、尾形っていう男の話だ。歳は俺より二つ上。出身は茨城県。そいつとの話を、一回ぐらい誰かに話しておきたかった。いや違うな。単に俺が死ぬ前に一度、思い出したいんだ。
    まあ退屈な話にはなっちまうと思うけれど、勘弁してくれ。一応、これは恋バナってやつだから、ちょっとは面白いかもしれない。男との恋バナなんて気持ちわるくねえかい? いやいけねえな、今時はそういうの差別だって言われるんだろ。気を付けねえとなあ、いくらジジイでも。その前に恋バナなんて今時はいわねえか。そうか。恥ずかしいな。
     陽子さんは知っていると思うけど、俺は器用な人間じゃない。だから、最初から順番に話していこうと思う。退屈だろうが、爺さんの耄碌話だと思って諦めて聞いてくれ。
     俺は横須賀の生まれなんだが、子供の頃、横須賀には海軍の基地があってね。横須賀海軍飛行隊。日本で最初にできた航空部隊で、終戦を迎える最後まであった。
    そう、まだ第二次世界大戦がはじまる随分前だ。俺たちは日本がアジアの盟主となり、欧米の植民地支配を終わらせるんだ。大東亜共栄圏だ。なんて教育を受けて育った。いや、それはもう少し後で言いだしたことだったか。
    とにかく、軍国主義真っ盛りの頃だ。だからってんじゃないんだが、俺は飛行機乗りに憧れていた。日曜日になると、横須賀の基地で海軍の飛行隊がアクロバット飛行をやるんだよ。親父が毎週のように連れていってくれてね。
    「源田サーカス」っていうんだが、そりゃカッコよかった。子供心に空の広さが気持ちよくてな。あれに乗ればどこまでもいける。そんな気がしたんだ。でも、親父は飛行機乗りになりたいっていうと、あまりいい顔をしなかった。佐一は人を殺したいのか、って言った。子供だった俺は、軍隊がどんなもんかなんてなんにも考えてなくて、そうじゃないよ飛行機に乗りたいんだ、なんて言っていた。親父は知的で優しい人だったからな。戦争へと突き走っていく日本を、よく思っていなかったんだろう。
     そんな親父も俺が十四の時に死んだ。結核だった。お袋は俺が子供の頃に死んでいたから、俺は一人になったんだ。俺を養子にして引き取ってくれたのは、幼馴染の一家だった。俺の一つ上の寅次ってやつがいたんだが、そいつの両親がいい人でね。杉元さんにはさんざん世話になったから、うちの子になりなさいって言ってくれて。
     貰われ子だったが、嫌な思いはしなかったな。もちろん気持ちの上では違ったんだろうが、基本的には平等に扱ってくれて、二人とも優しかった。だから、俺も恩を返さねえとなと思っていた。
     太平洋戦争が始まったのは、俺が十六の時だ。中学を出ると同時に働き出していたんだが、寅次の家に恩返しをしたくてね。予科練に進んだ。予科練ったって、若い人にはわからねえよな。海軍飛行予科練習生。海軍の飛行機乗りを育てる制度のひとつだ。戦争がはじまる前はエリート中のエリートがいくところだったんだが、戦火が激しくなると誰でも入れるようになった。予科練と与太者をかけて、「よたれん」なんて呼ばれちまうくらいな。俺はそんな時期の学生だよ。体は丈夫だったが、頭はいまいちだったからな。
     俺が予科練に入った頃から、戦況はどんどん悪化した。南方で飛行機乗りが次々に死んじまうもんだから、学校としても急いで育てるしかない。だから、俺らの予科練の学生の中から、志願者を出して短期育成を行ったりもしていた。俺か。俺は希望したけど、ハネられたんだよ。教官への態度が悪かったからな。不良、と烙印を押されて落選さ。
     まあそれでも戦争が激しくなりゃ、不良だって戦地に行かされる。俺が最初に配属されたのは、鹿児島だった。
     十九年十月のレイテ海戦で、日本海軍が事実上の壊滅をした後で、特攻なんてものが真剣に議論されだした頃だ。まあ、ここからの話はあとでしよう。俺はその後沖縄に配属されて、沖縄が落とされると台湾に転属になり、そこで特攻を命じられた。
     昭和二十年七月のことだ。九三式中間練習機、橙色をしていたから通称を赤とんぼって言ったんだが、それで突撃しろって言われた。
    どんな気分だったかって? わからねえな。俺はあの頃掃いて捨てるほどいた愛国主義者ではなかったし、かと言って本土の家族のためなら死んでもいいっていう気持ちもなかった。家族はいなかったからな。ただベルトコンベヤーに乗せられて、気が付いたらそこにいたような気分だったよ。死にたくねえな、とももちろん思った。
     でも、それから一週間後に配属されてきた人間が俺の気分を変えた。寅次だ。アイツも特攻兵として、台湾にやってきたんだよ。それまでは南方にいたんだが、撤退に次ぐ撤退を生き延びてここまできたって言っていた。
     俺と寅次の関係はちょっと複雑だった。仲のいい幼馴染だったが、俺も寅次も同じ女を好きだったんだ。梅子、俺は梅ちゃんって呼んでいた。親父が生きていた頃は、将来は一緒になるんだと思っていたよ。でも寅次の家に入ってからは、俺から避けるようにしていた。寅次の家と梅子の家は仲が良かったからな。将来はって考えているのは、よくわかっていた。俺はそれから逃げたくて、予科練にはいったっていうのも正直あった。俺が予科練に進んだ後、寅次と梅子は結婚した。
     それを聞いた時、俺は結構さっぱりした気分だったんだ。ああもう可能性がねえなあ、ってすっぱり諦めが付いた。寅次なら間違いなく梅子を幸せにしてくれるって、わかっていたしな。長男だから兵隊にとられるって事もねえだろと思っていた。
     だけど、日本にはもうそんな配慮をする余裕もなくなっていた。結婚したばかりの梅子を残して、アイツは南方の地獄をさ迷い、なんとか生き残ったのに今度は特攻だ。
     それも赤とんぼなんていう、時代遅れのノロノロしか飛べねえ練習機でだ。十中十死。無駄死にしろって言われたようなもんだった。
     その時の俺はな、それで死ななきゃいけねえと思ったんだ。寅次が死ぬなら、俺は生きてちゃいけねえって。なんでだろうな。そういう時代だったんだよ。きっと。
     でも、俺は生きている。なんでだと思う。答えは簡単なことだ。整備不良で西表島近くの海に不時着した。あの時の海のことはよく覚えてるよ。真っ青で、この世のものじゃないみたいに綺麗だった。なんで戦争なんざしてるんだかな、と思ったよ。
     制海権を取られちまっているから、台湾に戻ることもできなくて、そのまま終戦だ。寅次か。寅次は俺が飛んだ一週間後に死んだよ。敵機に体当たりする前に、迎撃されたと聞いてる。
     すっかり前置きが長くなっちまったな。俺が話したかったのは、戦争の思い出話じゃない。その後のことだ。終戦を迎えて、俺は神奈川へと向かった。俺は生き残りました、なんて顔して寅次の家には帰れねえ。同じ隊だった奴らもみんな特攻で死んだんだ。俺だけ生きてのうのうと故郷には帰れねえよ。
     横浜なら仕事があるかと思って、横浜に向かったんだ。終戦のごだごだでなかなか沖縄を出れなくてな。昭和二十一年の一月になっていた。横浜はすっかり変わってしまっていたよ。みんな焼けちまっていた。前の年の五月に大規模な空襲があったらしい。横浜についたのは夜遅くだった。俺は駅からの道をぼんやりと川沿いの道を歩いた。大岡川っていう川が流れていて、あとはバラックばかりだった。
     行先なんてねえから、ぼんやり暗い道を進んだ。今みたいに街灯なんかねえから、月明かりだけだ。
     あの時、俺はなぜかふいに思い立ってバラックの隙間に目をやった。人の気配がしていたからかもしれない。そこには男が二人いた。一人の男が壁に手をついて尻を差し出し、もう一人をその背中に覆いかぶさっている。なにをしているかは、すぐに察しがついたよ。多かったんだ。あの頃は、食うに困って体を売る人間が。だから、ああまたかと思っただけだった。たた男同士というのは珍しいからな。俺はちょっと間、その二人を見ていた。別にそっちの趣味があったわけじゃない。ただの好奇心だ。
     どれぐらいそうしていたか。ふいに抱かれていたほうの男が、こちらを向いた。月明かりだけの闇の中だった筈なのに、俺ははっきりとそいつの目を見たんだ。真っ黒い、光なんか一かけらもないみたいな目だった。絶望とは違う。空洞がそこにあった。俺はなせが酷く怖くなったよ。これが敗北か、と思った。その時まで俺は、戦争に負けたことを深く考えていなかった。生き延びるほうに必死だったからな。でも、その目をみた時、俺はこれが戦争かと思ったんだ。大袈裟か? けど、事実なんだ。
     また話が長くなっちまったな。本当に年寄りってやつは話が長い。ようやく本題だぜ。
     そう。その真っ黒い目をした男。それが尾形だった。



     日本に新型の爆弾が落ちたという話を聞いたのは、八月の七日のことだった。広島に投下されたというその爆弾は、十哩四方を一発で焼き切ったのだという。その話を持ってきたのは、同じ俘虜である中隊付きの書記だった。その男はなにかやたらと興奮しており、一発で広島市内が全滅だと騒ぎ立てていた。
     尾形はその爆弾のことを考えると、今もどこか爽快な気分になる。人間の残虐はここまできたかと思い、ふつふつと満たされた気分になる。俺は間違っていないと、確信を深めてくれる。
    「ふはっ……」
     こみ上げてきた笑いを漏らすと、後頭部を叩かれた。気持ちわりぃな……イカれてんのか、と男の声がする。尾形は奥歯を噛み、笑いを消した。しかし面白いと思う。この男のしていることは、強制的な性交だ。強姦だ。しかし、この男の中でイカれているのは、こちらであるらしい。どういった理論が働いているのだろうかと尾形は考える。
     考えてはみるが、正直なところどうでもよかった。人が人を殺す狂気に比べれば、この程度当然のことのような気がする。広島を一発で壊滅させた爆弾に比べれば、大したことではないのだ。
     尾形はただ男の思うままに揺さぶられる。一定のリズムで繰り返される運動には、思考を奪う効果があると思う。この単調は軍隊に近い。単純運動における個性のはく奪と、軍隊における個性の剝奪は酷似している。そこまで考えて、尾形はまた笑いそうになった。あまりに陳腐で単純な考えだ。利口ぶっているわりに、平凡で退屈だ。それよりも、この肛門の痛みをまぎらわせる冗談でも考えたい。肛門だけに、肛門だけに、なんだろうか。
     いい冗談が浮かばなかったことに、尾形は落胆した。面倒になり思考を手放す。ただ揺さぶられる。それにしても、肛門が痛い。尾形は犬の体勢で犯されている。後ろから尾形に性器を差し込む男が、大きく腰を振りだしている。その度に、裂かれた穴がギシギシと軋む。絶頂間際の激しさで揺さぶられ、尾形は小さく呻く。やはり性交というものは、軍隊に似通っている気がする。あるいは殺人に。
     初めて人が人を殺す瞬間を見たのは、昭和十九年九月のことだった。徴兵され陸軍の兵隊のなったのち、尾形はフィリピンにあるミンドロという島の警備を任された。四国の半分ほどの小さな島には、現地住民によるゲリラが潜伏していた。しかしゲリラによる積極的な攻撃はなく、島はどこか牧歌的であった。
     殺人が行われたのは、九月半ばの夜のことだった。
     尾形は数名の兵と連れ立って、ジャングルを歩いていた。その時、偶然ゲリラと思しきひとりと出くわしたのだ。互いに大きな敵意はなかった。ただお互いに武装し、所属する国家は敵対していた。兵たちは歩兵銃を構えた。ゲリラの男も銃を構え、現地語でなにかを言った。
     ひとりの兵が引き金を引いた。なにかを叫んでいたような記憶がある。近距離で発射された銃弾は、ゲリラの腹を貫いた。ゲリラは現地の言葉で何かを言い、倒れこんで全身を激しく震わせた。そして死んだ。
     この後、米軍の上陸と共に行われた戦闘行為と、それからの敗走での悲惨に比べれば、大したことのない話である。だが、尾形はあの死にこそ、人間の本質が詰まっていたように思う。現地住民の男は、ゲリラであるが故に殺された。殺した兵は、日本に属していたがゆえに殺した。
     ああ、と尾形は思う。そういえば、あの殺人を犯した男に、罪悪感を覚えたかを聞き忘れてしまった。戦争であるから当然の殺人だと考えたのか、あるいは罪の意識に苛まれたのか。
     しかし、男は既に死んでいる。米軍がサンホセに上陸した際の爆撃で、半分に千切れて死んだ。
     男が背中で痙攣する。あの時の死のように痙攣する。腹の中に吐き出される男の体液が、生温かい。ふーっと息をついた男が、性器を抜き取る。肛門からどろりと溢れだしたものが、内腿を伝い落ちていく。男が満足そうに息をついた。
    「おい、金」
     これだけは言わねばと、尾形は口にした。物乞いを犯したのであるから、金ぐらいは払って欲しいというが、正直なところだ。男が舌打ちし、小銭を地面に投げた。尾形は犬の体勢のまま、金を手でかき集めた。大した額ではなかった。だが、これで明日の朝は食事にありつける。十分な気がした。
     物乞いをしているのは、単純に仕事も金もないからだ。尾形は戦地で右目と右手の半分を失っていた。健康体の復員兵ですら溢れているというのに、不具者を雇うものなどいなかった。出来ることといえば、道端に座りこんで哀れを乞う他なかった。
     男が去ったのを確認してから、尾形は体を起こした。垂れた精液を手ぬぐいで拭き、外された褌を締めなおす。ここ数日変えていない褌からは、小便の匂いがしている。明日、もう少し金を恵んでもらえたら、そろそろ風呂に入りたいと思う。それから、俺は犯されたのかとふいに自覚した。
     物乞いに身を落として以来、そういった誘いを受けることはたびたびあった。だが、尾形はそれを拒否してきた。しかし、実際犯されてしまえば、なんということはなかった。ただひと時肛門の痛みに耐えれば、傷跡を晒して哀れを乞うよりも、簡単に金が手に入る。大したことではないのだ、と尾形は考えた。思考には多少強制的な部分があったが、それでも現実として空腹だった。金が欲しかった。
     明日起きたら風呂へ行こうと尾形は考えた。風呂に入って、少し身ぎれいな格好に着替え、体を求めてくる男達の相手をする。それだけで金を貰える。その行動は実に合理的で、正しいように思えた。
     尾形は立ち上がった。尻の鈍い痛みを堪えて歩き出す。寝床のバラックまでは、ほんの僅かな距離だ。川へ続く道を下る。焼野原の街に光はない。月が綺麗に見えた。今日は満月らしい。空の高いところに、まん丸い輝きがあがっている。
     川沿いまで出ると、辺りはトタンとあり合わせの木材で作った、バラック小屋が立ち並ぶようになった。その先に尾形の住処はある。はしけと呼ばれる自走できない船の上に、粗末な小屋を建てただけの水上ホテルが寝床だ。
    水上ホテルなどと横文字で呼べば聞こえがいいが、実際は揺れる犬小屋である。しかし宿賃は安かった。一応は地面に建っているバラック小屋の、三分の一の金で雨風をしのげる。もう少し暖かな時期は野宿をしていたが、年を越したあたりから厳しくなった。凍死するよりはと、食うものを減らして部屋を借りている。
     川沿いに並ぶはしけの上の水上ホテルは、二十八隻もある。尾形が泊っているのは、サンザシという名の宿である。満州から逃げてきた男が、横浜大空襲で焼け残ったはしけを改造して、勝手に作った宿だと聞いた。
     トタン張りの小屋の入り口で金を払い、尾形は部屋に入った。一畳半もないような板張りの空間に、垢で黒ずんだ布団が置かれている。他はなにもない。窓なども当然のようになく、むき出しのトタンに囲まれている。そんな空間でも、帰りつくと気が抜けた。尾形は布団に転がった。軍流れの毛布を引き寄せ、体を包みこむ。布団からなのか毛布からなのか、粘りつくような人間の悪臭がしている。垢と汗と尿の匂いを混ぜたような、汚わいが体を包み込んでいる。しかし、布団はあたたかい。冷えていた四肢が、じわじわと温度を持ち痺れてくる。
     体が温まると、尾形は肛門の痛みを強く意識した。僅かに裂けただけであろうに、なぜか酷く疼く。尾形は尻に手を入れて、肛門に触れた。ぬるりとしていた。手を抜き、指先を確認する。ほとんど闇の覆われた部屋では、なにも見えない。ただ血の匂いがしていた。
     尾形は布団で指を拭い、目を閉じた。明日は風呂に入って、男に抱かれようと思う。



     翌朝尾形は昼過ぎに目覚めた。有り金をかき集めて、風呂屋へと向かう。一月の風が、痛いほどに頬を刺す。しかし故郷の北茨城に比べれば、横浜はまだあたたかい。それでも今年は寒いのだという。去年の夏は冷夏と大きな台風の影響で、ほとんど米が出来なかったらしい。それが今の食糧不足に拍車をかけているのだと聞いた。
     首をすくめて尾形は歩き、焼け残りの銭湯へと来た。番台で金を払い、一週間着たままだった服を脱ぐ。浴室に入ると、清潔な湯の香りがしていた。倒壊した家の廃材だけは売るほどあるので、燃やすものには困っていないらしい。
     体を洗い、垢を落としてから湯に浸かる。冷えて強張っていた体が、ほぐれていくのを感じる。これから体を売るというのに、妙に穏やかなのびのびとした気分だった。
     しかしよく考えてみれば、体を売る程度大したことではないと思うのだ。産まれてこの方味わってきたものに比べれば、肛門に男性器を入れる程度、なんだというのだろうか。
     尾形が生まれたのは、北茨城の小さな浦にある漁村だった。雪は降らぬが風のあたりの強い土地で、海はいつも荒れていた。海と同じように、尾形の育った家も荒れていた。祖父は酒飲みで毎日のように酔っては暴力を振るった。祖母はそんな祖父に愛想を尽かし、村のやもめ男達の間を、ふらふらとしていた。
     そして母は気が狂っていた。尾形を産んだ直後、男に捨てられてまったく壊れてしまったのだと聞いた。ただ日長一日、ぼんやりとどこかを見ているだけの人だった。父はいなかった。
     しかし尾形は自らの育ちを不幸だとは思っていなかった。この程度の話など、ありふれていた。もし自分に不幸というものがあるのだとしたら、それは二つだけだ。ひとつは十七のときに訪ねてきた、腹違いだという弟の存在だ。寒村に似合わぬ小綺麗な身なりをした弟は、一度あなたにお会いして父のしたのを詫びたかったと言った。尾形はその時初めて、自分の身の上というものが、憐れまれる対象であるのだと気が付いた。その弟だという男に、なんら悪意はなかったのだろう。だが、尾形は惨めというものの味を、その時初めて知った。
     二つ目の不幸は、戦争だ。それについては、日本国民の過半が味わった不幸である。尾形は戦前腐るほどいた愛国主義者でもなく、かといって反戦主義者でもなかった。ただぼんやりと戦争という運命のようなものを受け入れ、戦地へと行った。そして、それまで名も知らなかった南の島で、マラリヤにかかり、爆撃を受けて右目と右手を失った。
     命が助かったのは、偶然通りかかった米兵が尾形を俘虜としたからだ。先程まで日本兵を殺すために爆撃を繰り返していた米軍は、寛容で慈愛に満ちていた。ほとんど死体であった尾形に治療を施し、サンホセの野戦病院のベッドへと横たえた。軍部の喧伝していたような、拷問などひとつもなかった。
     眠気を感じ、尾形は過去から醒めた。思い返してしまえば、大したことにない人生だった。親の居ぬものも、戦争で不具となったものも、今の時代にはありふれていた。そして体を売る人間も、ありふれているだろう。近頃は売春婦をさして、パンパンと呼ぶらしい。性交の際、肉を打ちつける音を示したものだろう。
     パンパンという音の乾いた軽さには、敗戦が詰まっている気がする。なにかヤケクソめいた、投げやりな、それでも生きるしかないものの、捨て鉢が詰まっている。
     尾形は風呂から出た。一枚きりしかない手ぬぐいで体を拭き、新しい衣服を身に着ける。尾形はもう一度、自分の中を点検する。売春を行うことに抵抗がないか、再確認をする。やはりなにもなかった。尾形は満足した。
     闇市の立っている私鉄沿線の高架下へ行き、尾形は素うどんを食べた。偽物の醤油で作られた汁は、苦かった。しかしすべて飲み干し、息をつく。それから、夜を待った。
     日の落ちたところで、尾形はパンパンが多いと言われている地区に立った。川沿いに立ちならぶバラック群の中で、女達は美しく着飾っている。戦前にはあまり見なかったブラウスとスカートに身を包み、真っ赤な紅を引いている。
     女達には次々と客がついた。ひとり男の姿のまま立つ尾形は、奇異なものを見る目で見られた。尾形が売る側であると気が付くと、露骨な罵声浴びせるものもいた。ようやく客が付いたのは、夜もすっかり更けた頃だった。尾形は男の手を引き、路地裏へと誘った。
     ズボンをおろし、褌を外す。尻を突き出してみせると、いいねえと客が言った。用意していた油を尻に塗らせ、尾形は男の動きを待った。しばらくして、ずるりと入り込むものがあった。
    「う」
     小さく声を漏らし、尾形は顎を突き出した。昨日の夜ほどではないが、肛門に痛みがあった。長く息を吐き、違和感を誤魔化す。自然と上を向く形になったので、視界には一面の星空が見えていた。月は少しだけ欠け、しかし真ん丸だった。
     尾形は視線を落とした。背後で男の動きがだんだんと激しくなる。肉を打つ音がする。本当にパンパンと聞こえて、尾形は愉快な気分になった。笑いたいな、と思う。その時、ふと視線を感じた。
     尾形はゆっくりと首を横に向けた。そこには男が立っていた。また年若い。長身と充実した肉体が、暗闇の中でもはっきりとわかる。首に特攻隊員の証である、白いマフラーを巻いている。鋭い、狼のような目をした男だった。
     尾形はほんの一瞬だけ、その男を妬ましく思った。若い肉体の充実が、妬ましかった。それは不具者の妬みだった。あの男は、物乞いにすらなれず、肛門を犯されている人間の感情など、理解できないのだろうと思う。
     尾形は男を睨みつけた。しかしすぐに感情は曖昧の中へ消え、興味を失った。ただ揺さぶられた。気が付くと、男はいなくなっていた。
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