Recent Search
    Create an account to bookmark works.
    Sign Up, Sign In

    nonkasuneko

    @nonkasuneko

    ☆quiet follow Send AirSkeb request Yell with Emoji 💖 👍 🎉 😍
    POIPOI 6

    nonkasuneko

    ☆quiet follow

    戦後パロの杉尾。

    その目の中に、夏の雨が② 尾形は上機嫌だった。パンパンになって一か月。すっかり生活は変わった。相変わらず暮らしているのは、はしけ船の上に作られたバラックだが、それでも三畳はある部屋を借りられるようになった。三度の飯にもありつけている。身売りをはじめた当初は、男などさして客が付かないだろうと思っていた。だが、不思議と尾形を買いたがる男は多かった。巡りのいい日などは、三人も客が付く。
     その真っ白い蝋みたいな肌がいいんだ、とある男が言っていた。尾形にはよくわからぬ感覚だったが、どうも自分は男というものを惹きつけるらしい。
     白い肌は母に似たものだった。死体のようで薄気味が悪いと陰口をたたかれることもあったか、こうなった今としては、都合のいい肌だったと言える。
     枕の下に隠してある金を掴み、尾形は暮らしているバラックを出た。大岡川沿いをゆっくりと国鉄の駅へと向かう。右手の土地は米軍に接収され、かまぼこ型の兵舎が立ち並ぶようになった。整然とした米軍接収地とは対照的に、左手側は雑然としている。区画などという概念はなく、ただ好き勝手にバラックが立ち、駅に近づくに従って露天が増える。焼き芋を売る店、正体の知れぬごった煮を売る店、軍流れの鉄兜を鍋に加工して売っている店に、古着を積み上げた店。ゴザを敷いた上によくわからぬガラクタを並べただけの店もある。
     辺りは既に薄暗かった。普段であれば客を取るために街角へ立つ時間だが、今日は一休みだ。なにか旨いものでも食おうと、国鉄の駅前へと出てきた。関東大震災で焼失した桜木町の駅舎は、まだ新しい。去年の五月に横浜を焼き尽くした空襲でも、こちらは燃えなかった。なにを食おうかと考えながら、尾形は駅前に広がる闇市へと入った。終戦から数か月が経ち、掘っ立て小屋ながら店舗を構える店も増えてきた。比較的小綺麗な店舗を選び、尾形は中に入る。カウンターだけの店は、もうもうとした煙で白くけぶっていた。
     焼き鳥と称して、モツ焼きを売る店らしい。尾形はカウンターの端に腰掛け、豚のもつ焼きを三本と日本酒を注文した。
     肉と酒はすぐに出てきた。どこの部位かもわからぬ肉を、尾形は噛む。しかしいくら噛んでも噛み切れない。ゴムを食っているような気分になるが、それでもたんぱく質はたんぱく質だ。脂のうま味もある。硬いまま飲み込み、今度はコップ酒に手を付ける。酒を飲むのは、復員して以来初めてだ。金魚が泳げるほど薄められた金魚酒だが、それでも胃が熱くなりくらりと酔いがきた。
     いい気分で尾形は肉を噛み、酒を飲んだ。夜が更けるに従って、店は混雑してきた。十席のうち八席が埋まっている。客たちは陽気だ。なぜか笑っている。笑うしかないのかもしれない。
     客たちの喧噪を聞きながら、尾形はちまちまと肉を食った。店内に満ちた肉の焼ける匂いが染みついた頃、ひとりの客が入ってきた。
     あ、と尾形は思った。荒々しい動きで隣に座ったのは、初めて体を売った日に尾形を見ていた男だった。相変わらず特攻帰りを示す、白いマフラーを巻いている。その奇妙に清潔な白が、尾形を僅かに苛立たせた。
     肉三本、と男が声を張る。気が立っているのか、男の動きは乱雑だ。よく見れば、頬に殴られたような痣があった。差し出された肉串に齧り付き、男が舌打ちをする。尾形は男を観察した。
     こうして明るいところで見ると、男は随分な美男子だった。少し野性味が強すぎるきらいはあるが、俳優でも食っていけそうだ。しかし、その顔には大きな傷があった。鼻の上を横切り、大きく切り裂かれた跡がある。両目の下にも涙のような傷跡がある。傷と傷は繋がりちょうどカタカナのサの字の形をしている。
     尾形はもう一杯、日本酒を注文した。ちみちみと舐めながら、肉を食う男を眺める。ふいに男がこちらを見た。
    「アンタ、酒なんか飲んで金持ちだね」
     男が笑った。笑うと、途端に尖っていた気配が緩み、花が咲くような男だった。尾形は再び小さく苛立った。
    「別にそうでもねえ」
    「そうかい。酒なんか飲んでるから」
     男は酷く羨ましそうな目をしていた。そこにある伸びやかな図々しさは、男の頑強さをそのまま表していた。優れた肉体を持つものの特権のようだった。
    「一口なら飲ませてやってもいいぜ」
     尾形はコップを掲げてみせた。男の目が途端に輝いた。
    「いいのかい」
    「一口だけだがな」
    「ああ、ありがたいぜ」
     口元を綻ばせて、男がコップに口をつけた。遠慮がちに、しかし我慢しきれないと言った様子で、コップを傾ける。じっくりと口に酒を溜めて味わい、飲み干すと長いため息をついた。幸福そうな音だった。
    「ああ、うめえ……。何時ぶりだ」
    「ははっ、俺もだ」
    「なんだい。そんな貴重なもんを貰ってよかったのか」
    「別にいい」
     尾形は残りのコップ酒を飲み干した。
    「なあお兄さん、どっかに仕事はねえか」
     男が肉を齧りながら、人懐こそうな笑みを浮かべる。だが、どこかに人懐こさを演じているかのような嘘臭さがあった。
    「あるなら俺が欲しいぐらいだ」
     尾形は右の手を差し出して見せた。こちらの手は爆撃にやられて、親指と人差し指が吹き飛んでいる。神経が麻痺し、他の指もあまり動かない。男が眉をしかめた。
    「ひでぇな。戦争でかい」
    「ああ、爆弾で吹き飛んでこの様だ」
    「どこに行ったんだ」
    「ルソンだ。ミンドロ島」
    「随分だったらしいな」
    「お前は特攻帰りか」
     尾形は顎で杉元のマフラーを指した。杉元が一瞬、恥ずかしそうに目を伏せる。それから、外せなくてなと言った。尾形はそこにある自己憐憫とそれに対する羞恥を、疎ましく感じ、同時に好ましく思った。
    「まあ、そんな事はいいんだ。それより仕事がねえ」
    「港へ行け。米軍の荷下ろしで日雇い仕事がある」
     尾形も最初はそれを目当てに横浜へと来たのだ。しかし、片手が使えないのでは使い物にならないと、どこも雇ってはくれなかった。
    「お前なら、いくらでも雇って貰えるだろう」
    「いや、揉めちまって」
    「なんだ」
    「今日、ケンカで首を切られたところだ」
    「ははっ、血の気の多いことだ」
    「アイツ、舐めたこと言いやがったんだ」
     アンタなんの仕事をしてるんだい、と男が訊く。尾形は少しだけ意地の悪い気分になった。すぐ隣にある男の伸びやかで健康な肉体が、憎たらしかった。
     少なくとも、この男は仕事がないからと身を売ったりはしないのだろう。たがだかの発言に苛立って、生活を壊せる健全さが粘るような苛立ちを生む。
    「お前もやってみるか」
    「儲かるのか」
    「ああ、酒が飲める程度にはな」
    「へえ、教えてくれよ」
     男が身を乗り出してくる。尾形はニヤリと笑った。胸の中で、男への悪意が育っていた。
    「街角に立って、声を掛けてきた男にケツを貸してやればいい」
     お前ならよく客が付くだろうな、と尾形は言った。
    「それって」
    「なんだ。売春だ。近頃はパンパンというらしい」
     男の顔に明らかな戸惑いの色が浮かんだ。そこにある軽い嫌悪の気配が尾形を満足させた。同時に、もっとこの男をいたぶりたいという衝動が生まれた。
    「どうだ。試してみねえか」
     尾形はそっと男の肩を抱いた。男の体に明らかな緊張が走る。尾形は男の横顔を伺った。男の顔は強張っている。何度か口を開き、そして閉じては唇を舐める。言葉を探しているようだった。
    「なんだ。はっきり言え」
     尾形は露骨に顔を近づけた。男に薄気味が悪いと拒絶されたい衝動が沸いていた。男の身で男に抱かれる自分を、汚いものとして蔑まれたかった。そうすれば、爽快な気がしていた。しかし、男は悪かったと謝罪の言葉を口にした。
    「悪い。事情も知らねえで、余計なことを聞いた」
     男がこちらを見た。その目に軽蔑の色はなかった。つまらないな、と尾形は思った。もっと薄汚れたものとして扱われたかった。なぜなら自分は、売春婦なのだ。パンパンなのだ。ほんの半年前までは、大日本帝国の男子であったというのに、今では誰彼構わず抱かれている。
    「お前、名前は」
     尾形は訊いた。杉元だ、と男か答える。杉元ぉ、と尾形は呼んだ。この男を汚したいと思った。
    「金が欲しいなら、一晩俺に付き合え」
     尾形は唇を歪めた。悪意が体に充満していた。


     はしけ船の上に建つバラックの前まで来ると、杉元が急に足を止めた。なあやっぱり、という声に弱気な色がある。尾形はははっと笑った。
    「悪い話じゃねえだろ」
    「ああ、まあな」
    「なら付き合え」
     尾形は先に立って、はしけに足をかけた。陸上とは違う不確かな感触が、足の裏にある。杉元はまだ陸地にいる。鋭い目をしてこちらを見ている。尾形はただじっと待った。杉元というこの男が、自ら汚れていくのを眺めていたかった。
     しばらくして、意を決したように杉元がはしけへと入ってきた。尾形はにんまりと唇を歪めた。
    「こっちだ」
     はしけの上には、五軒のバラックが押し合うように建っている。尾形は一番奥にある、自分の借りているバラックへと入った。
    「へえ、案外綺麗だな」
     ベニヤ板てトタンに覆われただけの部屋には、なにも置いていなかった。水を貯めておく瓶と、寝床にしているせんべい布団、米軍流れと思しき軍用毛布だけがある。あとは部屋の端に、一組だけの着替えと下履きが板張りの床に積んである。
    「物を買う余裕がないだけだ」
     三畳ほどの部屋は、男が二人はいると狭苦しかった。布団の上に座り込み、尾形は羽織っていた上着を脱いだ。お前も座れと促す。杉元が戸惑いを残した顔のまま、隣に腰を下ろした。
    「ほら、先に金をやる」
     尾形は財布から、札を取り出して杉元に握らせた。自分がどこかの男に抱かれる一回分の金額だった。杉元が複雑そうにその金を見つめ、それからポケットへと押し込んだ。
    「で、どうすりゃいい」
     目を伏せたまま、杉元が訊いてくる。その頬に僅かな屈辱の色を見つけ出し、尾形はいい気分になった。今日一晩という約束で、尾形は杉元を買った。
    「安心しろ。別にお前の尻を犯そうってんじゃない。抱いてくれればいい」
    「男なんざ抱いたことねえよ」
    「俺が教えてやる」
     尾形は胸元を開けてみせた。白い肌を杉元に見せつけて、笑う。これが男を煽るのだと、既に学習していた。杉元の目に、うっすらとした欲望の光が灯った。尾形は満足し、杉元の首に腕を回した。
    「バイタなんざやっていると半端に煽られてな。たまには満足する交合がしたい」
     実際のところ、性的な欲求はなかった。ただこの男に体を売らせたいという衝動だけがあった。尾形は杉元のマフラーを緩め、首筋に口付けた。胸の上を手の平で撫で、股間へと顔を埋める。杉元の下衣は軍袴のままだった。ボタンを外し、褌ごと中のものを取り出す。濃く、男の匂いがした。
    「風呂、入ってねえから」
     漂った悪臭に気が付いたのか、杉元が言い訳めいたことを口にする。尾形は目だけで笑った。それから、男のものを取り出した。性器はまだ萎えている。半分ほど皮に覆われて、寒さに縮こまっていた。
    「なんだ。洗ってねえから縮んだのか」
    「ちげせえ。寒いから」
    「はは、くせえ……」
     尾形は故意にそこの臭いを吸い込んだ。小便の臭いに、垢じみた臭いが混じっている。しかし、尾形は悪くない気分だった。汚れている、という感覚がなぜか満足感をくれる。尾形はそこを口に含んだ。まだ柔らかな亀頭を舌先で舐る。唇で包皮を剥いてやり、むき出しになった亀頭に、舌を絡みつかせる。
    「っ……」
     杉元が息をつめた。尾形の口の中で、男が熱を帯びていく。杉元は簡単に硬くなった。欲望の形になったものを握り、尾形はははっと笑った。今度は根元の部分から、裏筋を舐め上げる。亀頭の捲れた部分へ舌を這わせると、ふーっと杉元が息を吐いた。
     口淫を覚えたのは、客に求められてだ。尻に入れるのは不潔だから口でしてくれと頼まれて、舐めることをはじめた。尻を使われる以上に、口を犯されるのは気色が悪かった。けれど、それもすぐに慣れた。慣れてしまえば、こちらで快感を調整出来る分、口での奉仕は楽だった。
    「う……」
     呻く杉元を、尾形は上目遣いに見つめた。整った顔を薄っすらと歪めて、杉元は奉仕に耐えている。じゅるると音を立てて、尾形は性器を吸い込む。息をつめて、杉元がこちらを見た。
    「それ」
    「強いか」
    「ああ、出る」
    「まだ出すな」
     根本を手で扱き、尾形は見せつけるように舌を絡ませる。杉元があれと声をあげた。
    「お前、右目」
    「ああ、義眼だ。本物は爆弾で飛びだして、それきり行方不明だ」
     義眼は米軍の俘虜収容所で貰った。入れていないと顔が歪んでしまうから、と日系二世だという通訳は言っていた。尾形はその時、酷く不思議な気分になったのを覚えている。尾形の目と指を奪った爆弾は、米軍の投下したものだった。しかし、同じ軍隊が「顔が歪んでしまうから」と言って義眼をくれるのだ。優しい笑みを浮かべて。
    「薄気味が悪いか」
     尾形は笑って見せる。正常な左の目は尾形の意識する方向へと、視線を動かすことができる。だが、作り物である右は視線が動かない。つまり尾形が大きく視線を動かすほどに、右目と左目はそっぽを向いてしまうのだ。
    「別に。戦傷者なんざ見慣れてる」
    「はは、そうだな」
     尾形は奉仕を再開した。再び亀頭を口に入れ、頬の肉に擦りつけてやる。
    「っ、はあ……」
     杉元が湿った息を吐く。快楽は性器に現れていた。ぐっと上を向き、血管を滾らせている。もういいかと、尾形は下衣を脱いだ。褌を外し、自らの尻の谷間へ手をやる。行為用に用意してある油を塗り、肛門へ指を含ませる。指を使って狭窄な穴を拡げ、油をなじませる。それから男のものへと跨った。
    「いいと言うまで動くなよ」
     釘を刺してから、腰を落としていく。一瞬の抵抗があり、ずるずると男のものが体の中に入り込んでくる。あ、と尾形は短く喘いだ。尻に性器を入れられても、取り立てて快感は覚えない。単に強い圧迫を感じるだけだ。だが、今日はなにか満たされるものがあった。この男を汚したのだという満足が、胸の内にじわりと染みている。
    「あ、あ……」
     尾形は細く声を漏らし、男を受け入れていく。根元まで飲み込んだところで、一旦動きを止めてふーっと息を吐く。それから杉元の顔を覗き込んだ。杉元は濃い眉を寄せて、耐えるように歯を食いしばっている。気持ちいいか、と尾形は訊いた。
    「ああ、狭い」
     杉元の腕が背中を抱いてくる。尾形は振りほどいた。抱擁など求めていなかった。尾形は杉元の肩を押し、布団の上に横たわらせた。胸の上に手を付き、ゆっくりと腰を揺らしはじめる。
    「う、う…っ、はあ」
     ずるずると、肛門の擦られる感覚がある。排泄の感触に似た、しかしもっと鮮明な刺激。なあ、と杉元が呼ぶ。俺にも動かせろ、と訴える。尾形は頷いた。杉元が下からの突き上げを開始する。尾形の腰を掴み、肉を打ちこんでくる。
    「あ、あっ、あ」
     その荒々しさに、尾形は体を躍らせた。杉元は獣のように動く。切れ長の目が、らんっと光っていた。尾形は体の力を抜いた。好きにしていい、と息のような声で言う。杉元が体を起こし、体勢を反転させた。
    「はあっ!」
     深く突きこまれ、尾形は布団の上で身を捩った。杉元が体重をかけて、男を叩きこんでくる。勢いが強すぎて、腹の奥が鈍く痛む。しかし逃げようとしても、杉元はきつく抱きついてきている。
    「う、ぐっ」
     呻きを漏らし、杉元が更に加速する。潰れたカエルの体勢で、尾形は男の思うままにされる。息も出来ぬほどに、体の中を支配される。
     杉元が射精した。熱を帯びたままの体が、ぐったりと崩れ落ちてくる。湿った肉体を、尾形は受け止めた。ぬるりと性器が肛門から出ていく。ぶぴゅと濡れた音を立てて、中に出された精液が漏れた。
    「はあっ、はあ…悪い、出しちまった」
     杉元が頬を撫でてくる。それは愛しさからの行動というよりは、女を抱きなれた男の手クセの臭いがしていた。
    「別に女じゃねえんだ……」
    「ああ、そうか」
     ふーっと息をついた杉元が、体を離した。急に体温を失い、尾形は寒さを感じた。毛布を引き寄せ、むき出しの下半身を覆う。杉元が瓶のところまで膝立ちで歩き、喉を鳴らして水を飲んだ。
    「俺にもくれ」
     上体を起こし、尾形は言った。杉元が瓶に入れてあるひしゃくを差し出した。受け取り、喉を潤す。それからチリ紙で濡れた肛門を拭う。腹に力を入れると、肛門から男の液体が排出される。快楽の証は、粘るように月明かりを反射する。
    「悪くねえもんだな、男も」
     杉元が隣に腰を下ろした。その態度には、先程はなかった馴れ馴れしさがある。肌の味を知った者同士の気安さのようなものが、杉元からにじみ出ていた。
    「生意気だな。女をよく知ってるかのように」
     そう指摘すると、杉元がへへっと笑った。これだけ容姿のいい男だ。童貞ではないだろうと思っていたが、案外遊んでいるのかもしれない。
    「別に、そうでもねえよ」
     杉元が布団の上に転がった。すっかり寛いだ気配だ。はあ~とため息を漏らし、好きな女が居たんだと杉元が言った。
    「へえ、いいじゃねえか。抱いたのか」
    「いや……」
     ガキの頃の話さ、と杉元が笑う。そこにある自己憐憫の香りが、尾形の鼻についた。ヤっちまえばよかったじゃねえか、と尾形は言った。汚してやりたいという衝動が、また湧いていた。
    「まだ十五の頃の話だ。手を繋ぐだけで精一杯さ」
     口は吸ったな、と杉元が言う。その横顔が幸せそうで、尾形は苛立った。
    「それが金を貰って、男の尻に突っ込むようになったって訳か」
    「お前がやらせたんだろ」
    「はは、その女はどうした」
    「予科練にはいる時に別れて、それきりさ。幼馴染と結婚したって聞いた」
     まあその幼馴染も戦争で死んだが、と杉元は続ける。
    「ならその女のところへ行って、抱けばいいだろう」
    「そんな簡単な話じゃねえんだよ」
     杉元はそれきり口を噤んでしまった。尾形はその無言が気に食わず、杉元を見つめる。杉元の中にある、美しい女の幻影はそのままこの男の健全さだった。戦争というものが汚せなかった、杉元の断片だった。尾形は舌打ちした。
    「女なんざ、ヤッちまえばお前に転がるだろう」
     尾形は杉元の頬に手を添えた。月明かりの下で見る杉元の顔は、疑いようもなく美しかった。長いまつげの落とす影に、獣じみた色の薄い目に、尖った鼻に、ほどよく厚い唇に、手に入れられぬものはないように見えた。
    「梅ちゃんは、アイツはそんな女じゃねえよ」
     杉元の声には小さな怒りがあった。尾形は聞えよがしのため息をついた。この杉元という男は、単純なように見えて案外面倒なのかもしれないと思った。しかし、関係のないことだった。尾形にこの関係を継続する気はない。ただの気まぐれで一晩、他人を買ってみたかっただけだ。杉元がどんな人間であろうと、本質としては関係がなかった。ただ男を汚したという満足を得たかった。それだけの行為だ。
    「アンタはどうしてパンパンなんざやってるんだ」
    「言っただろう、この手と目じゃ、仕事がない」
    「故郷には帰らないのかい」
    「帰る場所がありゃ帰っている」
     尾形は笑った。杉元がまあそうだな、と言う。この男も帰れないのか、と尾形は思う。もうどこにも帰れない男が二人、バラックで身を寄せ合っている。ふいに敗戦という言葉が浮かんだ。尾形は杉元の首に巻かれたままの、白いマフラーを見た。それは戦争の作り上げた首輪のように見えた。
     雨が降り出した。バラックのトタン屋根を水が打つ。夜が静かに更けていく。



     尾形との出会いは、そんなろくでもないものだった。俺はアイツの名前さえ知らないで、アイツを抱いた。僅かな金を貰ってな。プライドが傷ついたとか、そういうのはなかったな。なんとなく、俺はアイツの空洞を感じていたんだと思う。そうすることでしか保てなかった、アイツの自我のようなものもな。親近感に近いが、少し違う。なんて言ったらいいんだろうな。これは今もわからない。いや、今になってしまったから、わからないのかもしれねえ。
     とにかく、俺はその一回限りで終わらせるつもりだった。でもな、一か月後にまた尾形のバラックを訪ねていたんだ。
     あれは雪の降る日だった。俺は港での仕事をケンカで首になった後、ヤミ市の飲み屋に雇い先を見つけていたんだが、そこもケンカで首になっちまったんだ。なんでかって。馬鹿にされたんだよ。特攻崩れの厄介ものがって。今となっては信じにくい話だろうが、あの頃、復員した兵隊ってのは嫌われていた。祖国のために命を賭けた英雄なんかじゃない。戦争が終わったという安堵と解放は、今まで抑えていた軍部への反発に変わっていたんだよ。GHQがそれを加速させたっていうのもある。対日心理作戦のひとつさ。軍部が国民と天皇陛下を操り、悲惨な戦争へと突き進ませたっていうな。日本の戦争犯罪を書き立てる新聞も、それに一役買っていた。
     でも、国民がどの程度それを信じていたのかはわからない。ただ人間ってのは、本当に弱い生き物なんだよ。疑うよりも信じちまったほうが楽なことは、信じちまう。
     俺みたいな元航空兵へ対する風当たりは、特に強かった。戦犯呼ばわりされたり、真珠湾に参加したんだろう殺されるぞと脅されたりなんざ可愛いほうで、石を投げられることもあった。俺は航空兵の目印である白いマフラーを巻いたままだったから、余計に攻められることが多かった。戦争帰りの英雄気取りか、敗残兵が。なんて言われたこともあった。その度に大ゲンカさ。警察沙汰になることも多くて、交番のオマワリにはすっかり顔を覚えられていた。
     そんな風には見えねえか。そうだな。九十年も生きてりゃ、嫌でも丸くなる。今はそういう時代だったと思うだけだ。あの時、俺を罵った人間には、罵らなきゃいけない辛さがあったんだろうとな。前を向くには、憎むしかないこともある。
     話を戻そうか。俺は雪の降る日に仕事を首になって、なんだか酷くくさくさした気分だった。うどんでも食おうか駅前へ行けば、帰還兵と家族が感動の再会をしている。会いたかったと泣く家族の肖像が、一人きりの俺には染みてね。駅前で流れていたリンゴの歌が、余計に俺の胸を騒がせた。流石に知っているだろう。赤いりんごに唇よせて、だまってみている青い空。ってやつだ。明るい曲だよ。だから余計に痛かった。だってよ、あまりに遠いだろう。
    それでも当時は寂しいなんざ男は思うもんじゃないなんて、肩で風を切って歩いていた。だが、実際はなんとも落ち着かない。実際、落ち着いている場合でもなかった。
    雇われ先の店で寝起きをしていたから、職と一緒に住処まで失ったわけだ。雪降る寒空の下、俺はどこにも行き場がなかった。いっそ横浜を離れて、光は新宿からなんて言っている新宿へでも行こうかと思った。でもな、その時ふと尾形の顔を思い出したんだ。
    さっき言ったが、アイツは爆弾にやられて右目がなかった。そのせいで視線を動かすと斜視になる。左の眼球は動くが、右は動かないからな。無表情なようで、結構表情豊かな男だったから、動かない目は目立つんだ。その動かない右側の目を思い出して、どうにもならなくなった。そこにある硬直は、俺の中にあった硬直に似ていた。分かりにくい言い方で、悪いな。
    とにかく俺は尾形を訪ねた。あのはしけ船の上に浮かぶ、ぼろ家へと行った。でも尾形はいなかった。俺はぼんやりとアイツの帰りを待った。寒かったよ。雪はどんどん降ってきて、俺は真っ白になった。傘なんて上等なもんは持ってなかったからな。
    そろそろ雪だるまになっちまうんじゃないかと思った頃、ようやく尾形が帰ってきた。尾形は少しふらついていて、酒に酔っているみたいだった。また吞んでたのかと言ったのを覚えている。でも違った。アイツは客の男に抱かれて、疲れ切っていたんだ。
    尾形は少しだけ面倒くさそうな顔をして、でも俺をバラックに入れてくれた。俺は話したい事がたくさんあるような気がした。でも尾形はすぐに寝ちまったんだ。なんにも言わないで。俺は布団に押し入って、アイツの隣に横たわった。本当に寒い日だったから、隣に人間がいる温かさが妙に染みた。俺もすぐに寝ちまったよ。
    それで。夜が明けて、もう昼ぐらいになっていたか、起きた尾形が言ったんだ。抱かれるのは気持ちいいな、杉元。って。それから俺に唇を重ねてきた。
    俺はそのままアイツを抱いた。女性にこんな話をするのは申し訳ねえが、聞いてくれ。アイツの反応はまったく違っていた。前回は苦しそうに呻くだけだったんだが、今回は蕩けていた。高い声をだして、ぐずくずになっていた。
    終わってから俺は訊いた。お前いつもこうなのかって。残酷な質問だよな。だけど、俺は知りたかったんだ。尾形はニタッと笑って、ああそうだと言った。近頃、気持ちよくてしょうがねえって笑った。



    昨日の夜突然訪ねてきた男は、なぜか傷ついた顔をして目の前に座っている。面倒なやつだと思いながら、尾形は脱ぎ捨ててあったズボンに足を通した。先程まで杉元と交わっていた。体の相性がいいのか、さして大きくない杉元の男はいいところに当たる。尾形は乱れた。たくさんの声を漏らし、尻を振った。
    その間、杉元はずっと納得のいっていない顔をしていた。あげく、お前は抱かれて感じるのかと訊いた。
    尾形は気持ちがいいと答えた。それは真実だった。抱かれることを覚えた頃は、痛みと圧迫感ばかりがあった。だが、ある時から快感を知るようになった。毎晩抱かれるうちに、体が溶けていく感覚を知った。
    それに対して、なぜか杉元は傷ついた顔をしている。
    「なんだ、淫売が感じるのは気に食わねえか」
     尾形はあえて挑発的な物言いをした。杉元が憐れむような事を口にしたら、追い出そうと思っていた。しかし、杉元は敏感だった。こちらの苛立ちを感じ取り、すぐに表情を改めた。そして、都合がいいじゃねえかと鼻で笑った。
    「ああ、そうだろう」
     その返答は尾形を満足させた。にんまりと笑った。杉元が曖昧に視線をそらし、腹が減ったなと言った。それから、金がねえんだと付け足した。
    「なんだ。いきなり来たと思ったら、たかりにきたのか」
    「またクビになっちまったんだよ」
    「なにをしたんだ」
    「ケンカだ。ヤミの飲み屋で雇って貰ってたんだが、客に喧嘩を売られて殴った」
     杉元は悪びれた風もなく、へへっと笑った。それから平気な顔をして、なんか食わせてくれよと言った。
    「はは、次は乞食になったらどうだ。お前は才能がありそうだ」
     嫌味を言いながら、おがたは立ち上がった。うどんでいいかと言いながら、バラックを出る。やったぜと声をあげて、杉元が後ろをついてくる。昨日からの雪で道は白くなっていた。米軍兵舎のかまぼこも、真っ白になっている。
     寒いなと杉元がいう。吐き出す息が白い。ヤミ屋で薄いうどんを食い、じゃあなと尾形は言った。朝から抱かれたせいか、眠気が来ていた。しかし、杉元はこちらの言葉が聞こえなかったかのように、付いてくる。バラックまで来ても、平然と後ろにいた。
    「おい、なんだ」
     はしけの上まで付いてこられ、尾形は流石に声をあげた。杉元が上目遣いをして、へへっと笑う。一晩だけ置いてくれよ、という声は、やはり悪びれたところがなかった。尾形は杉元を見た。
    「女でも引っ掛けろ。お前なら飼いたい女はいるだろ」
    「趣味じゃねえよ」
    「惚れた女に操でも立ててんのか」
    「馬鹿。今更なんもねえよ」
     まだ許可もしていないのに、杉元はバラックの中へと入っていく。尾形はため息をついた。面倒だと思ったが、しかし眠かった。
    「どけ」
     いつの間にか布団の上に座り込んでいる杉元を押しのけ、尾形は寝転がった。どうせこの雪では、客は付かないだろう。それならば、ゆっくり眠ろうと目を閉じる。俺も眠くなっちまったと言った杉元が、横に転がってくる。狭い布団の上で、背を向け合って眠ると、奇妙なほど体温を感じた。
     あたたかいという感覚は、少しだけ尾形を落ち着かなくさせた。


    Tap to full screen .Repost is prohibited
    😭🙏🙏🙏💘💗💖☺👍👏👏👏👏💖💘💞💘💞💞💞💞😍😍🙏👏🙏🙏🙏🙏💴🙏🙏🙏🙏🙏💖💖💖💖💖❤❤❤❤👏👏👏👏👏👏👏💒🍭💞☺☺☺💘🙏
    Let's send reactions!
    Replies from the creator

    recommended works