ツイステッドワンダーランドの住人が、魔法を使えず、学園長の魔法なしではこちらの言葉も満足に話せない自分を憐れむように、自分はクールベもドービニーもモネもゴッホもクリムトもリベラもいなかったこの世界を憐んでいました。
滔々と魔法史を語るトレイン先生はアンジェの黙示録を知らないし、この世界に貴婦人と一角獣だのヴェルネの嵐の海だのパリッツィの羊飼いと羊の群れの風景だの、そんなものは存在しないのだと分厚いテキストがそれを証明しています。
その当たり前すぎる事実を知った日の錬金術では、危険物と渡された薬品を混ぜ合わせる手が動揺により震えて、「そんなに緊張するな」とクルーウェル先生に変な顔をされたものです。この美しい顔を惜しげもなく晒すこのひとも、あのタペスリーやら絵画やらを見たことがないのだと心から同情しました。
あんなに素晴らしいのに、可哀想に。
かろうじてギリシャ神話の神話画はいくつか存在して、しかし自分が学んだものと全く異なるそれに思わずため息をついたことだってありました。イグニハイド寮の讃える冥界の王の名前を聞いた時、唯一心を元の世界にわずかでも浸らせられると思ったのに。
けれど自分は神話画や宗教画はそこまで好きではなかったし、こちらの美術史に関する分厚くカビ臭い本だって、訳のわからない授業を受けた後に開く気にもなかなかなれません。
それでようやっと、この世界のギリシャ神話を読み解いてやろうという気になって、そのまま寝落ちしてしまったのを、やけにすっきりとした頭と朝の鳥の心地よい囀りが証明しました。連日徹夜や朝方まで終わらない課題をベソをかきながら片付けていたせいでしょうか。
自分の拙い言語能力で、学園長に頂いた辞書でどこまで読めるかしらなどと淡く期待なぞしていたものですから、かなり自分に失望しました。まじか、と起き抜けに呟くと、グリムの「むにゃん」という声が返事の代わりとなりました。
八つ当たりとしてグリムの腹に手を埋めると、いつもの「ぶなぁ」という抗議の声が上がりました。夢の中でさえ、彼は自分に腹を不承不承に撫でさせてくれているらしいのです。
学園長は自分が最低限不自由しない程度に言語能力に関する何かしらの魔法をかけて下さったようでしたが、それでも自分はクルーウェル先生の出すレポート課題にほぼ徹夜で取り組んでも終わらせることはできなかったし(だってないんですよ、翻訳機とか)、トレイン先生の課題として読まなければならない本などは、傍に辞書を置いても、根本的な知識が足りぬせいでちんぷんかんぷんで舌を巻きました。無理じゃん、とある種感心すらした心持ちで巻いた舌は自力で戻ることはありません。
流石に担任であるクルーウェル先生に見咎められ、放課後にマンツーマンでの特別授業が発生しました。自分の言語能力はあまりにも酷かったものですから、クルーウェル先生はさぞ胃を痛めたことでしょう。わからないところもわからないのです。「ここまでは分かったか?」「……?」「……分かった、もうニ段テキストの難易度を下げよう。恥ではないぞ、食らいつけ」といった具合に、難解な単語も、覚えられないような長ったらしい文法も、無理矢理口に詰めるだけ詰めて、クルーウェル先生はその咀嚼と嚥下の方法を、それはもう丁寧に教えてくださいました。自分はそれを味わう暇もなく噛み砕いて、喉に引っ掻き傷をこさえながらも飲み込むことに専念しまして。彼のgood boy という一言のためだけに、それらを紙の上でのたくる文字へと吐き出すこととなりました。
お礼の手紙なぞ書いてみようと拙いながらも言葉を綴り、窓の外がとっぷりと夜にひたる特別授業の終わりの時刻に先生へ提出しますと、翌日採点された手紙が返却されました。やってられるか〜い、と立派な湖の騎士へ恋破れた乙女のような芝居がかった心持ちで、それでも自分はアストラットの彼女ではなく彼の仔犬でありますので復習のため手紙を開きますと、そこには案の定文法や単語の間違いを指摘するものや、その他適切な定型文の例などの赤インクをぐったりと吸った本文がありました。それでも最後には花丸と「心意気や良し」とでも言うかのような「再提出」という文字が踊っておりました。その翌日提出した間違いを正した手紙は、今に至るまで返却されていません。
トレイン先生は課題として出される本の解説を何枚もの紙にまとめたものを用意してくださって、そうしてようやっと周りの生徒の何倍もの時間をかけて読み終わることができました。その上で職員室へ質問をしに行けば「そちらの世界にはないのか」と、自分の無知を責めず、講義時と全く変わらぬ声色で解説していただけました。ルチウスが低いような高いようなよくわからない高さで何度も鳴くので、トレイン先生は何度かルチウスの頭を撫でていたものです。ふわふわとした猫の毛。ぶろろろ、とルチウスは喉を鳴らします。
グリムも一緒に聞いたら良いのに、と彼のことが思い出されました。グリムは「甘やかすから我儘になったんじゃねえか」と呆れたような顔でルチウスを評していましたが、ならグリムがわがままなのは、自分が甘やかしたからなのでしょうか。きっとそうなのでしょう。
トレイン先生への質問がひと段落つきましてから、撫でていいですかとトレイン先生に尋ねれば、ルチウスがなんだかわからない奇妙な鳴き声をあげて嫌がるものでしたから、答えは否でした。グリムの匂いが付いているのではないかというのが、トレイン先生の見解です。それを見たクルーウェル先生は「やはり犬の方がいいよなぁ?」と同意を求めるように自分の方へニヤリとした笑みを向けましたけれど、その言葉の矛先はトレイン先生へ向いており、自分はただ曖昧な笑顔を浮かべるほかありませんでした。
オンボロ寮でグリムと勉強をしていると、時折学園長が訪れることがありました。学園長は「おぉや、勉強熱心ですね」と多少マシになった自分のレポートの点数を覗き込んでは、美しい唇でにっこりと笑います。
見ないでください、マジで。
このひとがオンボロ寮に出没して、自分に何か不便なことはないかを尋ねたあと羽を残して去っていくたび、自分はそう思いました。この寮へ訪れて不便なことはないかと尋ねるあたり凄まじいなと思うのですが、しかし厚かましいような気がして「ありません」とのみ答えます。
そうすると彼はパチンと指を鳴らして数本花を玄関先に飾り(そのためコップを用意しています)、自分はそのささやかな魔法で添えていただく鮮やかさに「すっごい…」と簡単な賞賛を漏らさずにはいられませんでした。
彼はそうでしょう? というように満足げに口角を押し上げると、さらに花弁の色を変えて見せたりさえしました。ハーツラビュル寮での薔薇の色塗りが思い出され、そのことを伝えますと花びらの色がパッと真紅に変わりました。学園長の特徴的な仮面に浮かぶ橙色は、楽しそうに弧を描きます。
「何色がいいですか?」との問いに応えるのは自分ではなくグリムで、「食える花にしてくれ」「あなたねぇ」という会話の雰囲気は、大きく呼吸をして浸っていたいと感じるものでありました。
学園長が去った後のオンボロ寮の沈黙に耐えきれず(だって彼の訪問はそれなりに楽しいのです)、独り言をわざと声を張って呟くのが嫌だというのもあって、自分は彼のようなオンボロ寮への来訪者が苦手になりました。寂しさを慰めるためグリムを構うのですが、「しつけえんだゾ」と本気で嫌がられてより彼との距離感を図りかねています。
さて、お話を戻してこの世界の美術史の話なのですが、元の世界の美術史以外知らぬ自分からすれば、それはもうひっちゃかめっちゃかな有様でした。世界が違うということを、魔法の存在を網膜に焼き付けた時と同等の強さで脳裏に刻まれたような心地がします。魔法が存在することによって発展した文化も異なりますし、まず歴史が違いますので、生まれたもの生まれなかったもの、発展したもの衰退したもの全て異なりました。
それらはワクワクするものではありましたが、なら自分私が学んできた歴史とはなんだったのかと思考に霞がかかります。元の世界に帰れさえすれば良いのですが、その方法は「探しておきます」と言われてよりなんの音沙汰もありません。
かつての世界で聖書の彼らが人気であったように、こちらの世界ではグレートセブンと呼ばれる七人が人気を博しておりました。学園の至る所に彼らの絵画が飾られており、またトレイン先生の授業で使用するテキストにも、かつて存在した国や魔法士ばかりが記されています。そもそも日本がありませんし、アウレリアヌス帝も始皇帝も存在していません。前述の通り自分はそのことに対しての動揺のあまり、錬金術の授業の際怪訝な顔を向けられました。
でも仕方がないだろう、と弁解せずにいられるでしょうか。自分が短いながらに生きてきて心を奪われた絵のほとんどは本物を見たことがありませんでしたけれど、けれど確かに存在はしていたのです。海の向こう側の、立派な建物の中に、しっかりと湿度管理などを受けながら存在していたのです。行きたかった展示も、没後周年記念も、もうどこにもありません。己が心の拠り所としてきた世界は失われてしまいました。
それだから負け惜しみのように、こころのうちで彼らを憐れむことで自分を守っていました。スラヴ叙事詩が存在しないなんて。聖テレサの法悦が存在しないなんて。かわいそうに。彼らはミドルスクール以下の子供ですら知っている知識すら知らぬ無知の自分を、蔑みを孕みながら憐んでいることでしょう。自分が彼らを憐んでいることなど知らずに。
いつ頃からか、自分は通りすがった生徒に頭を軽く叩かれるということが頻繁にありました。ぱしんと乾いた音とともに視界が揺れ、後方から冷やかすような声が飛んでくるおまけ付きでした。エースやデュース、グリムがそばにいる時はそれで終わるのですが、自分一人の時などは終わりませんでした。ペンケースやらノートやらを奪われ放り投げられ、今日はペンケースの中身をぶちまけられてしまったところでした。
これがいじめ初期段階かとやけに冷静になる頭で冷やかしを聞き流しつつ、それでも喉から目の裏にかけ苦しく熱いものが込み上げてくるような感覚に耐えながら、散乱した筆記具を拾い集めます。その姿がおかしいのでしょうか、彼らは笑います。自分が中学生の折、こういった扱いを受けたことをぼんやりと思い出しました。ここでは魔法が使えないという点で「原因がわからない」などとは口が裂けても言えないでしょう。
この世界において、魔法が使えないということはこういうことなのです。
魔法の使えない自分がナイトレイヴンカレッジにいるということは、たしかに彼らのような選ばれるべくして選ばれたような魔法士の卵には鼻につくのでしょう。致し方のないことです。先生方は自分の事情を汲み、なるべく不便のないようにとなにかと便宜を図ってくださりましたが、本来ならばそんなことはあり得ないのです。深く恥いるとともに、あまりの情けなさにとうとう目が熱くなり溶けるようでした。恥です。どうしようもなく恥ずかしかったのです。そこに怒りも不安も劣等感も何もかもが溶け込んだ、八つ当たりのような恥ずかしさでした。
その恥を強く感じたからでしょうか、視界がチカチカと変に眩しく感じられ(屈んでいたのを急に起き上がったからかもしれません)、ざくざくと心臓がうるさく音を立てるのが聞こえます。顔に羞恥とは別の熱が集まるような気がして、たまらず顔を伏せました。立ちくらみでしょう。
彼らはクスクスと笑いながらどこかへ行ってしまいましたが、自分の酷く恥入るような心地はどこかへ消えてはくれませんでした。例えば魔法が使えたらとかもし空を飛べたらとか、そういった自分の世界でのよくある話を遠く感じます。