運命は微笑む 観用少女。
命ある芸術。生きた、しかし人間とは到底呼べない歪な人形達。
年若い少女を模して造られた見目は若輩者と揶揄られる自分でさえ横へ並べば遠き日の、あるいは現在進行形の過ちにしか見えないような代物なのだから。
「神道君!どうだねこの娘は、最高級品だぞ」
「君、観用少女は?……持っていない?何故?あんなに素晴らしいものを」
「すぐにでも買うべきだ。彼女達は君の生活を、いや人生を潤わせてくれるだろう」
人生の先輩として涙が出る程有難いアドバイスを下さる老獪の皆様方が侍らせるさまときたらもう――――。
「犯罪者……」
どこぞに漏れれば叱責では済まされないだろう暴言だが私用車内ならお咎め無しだ。
この街へ来た当初は何かしら窘めてきただろう運転手も今はただ無言で仮住まいへ向かうのみ。その無反応振りを咎めるのも億劫でシートに身を預けた。数か月目にし続けた光景は二人分の気力と体力そして正気を順調に奪いつつある。
それにしても権力と黒い噂渦巻く街が蓋を開ければロリィタ趣味狒々爺の巣窟とは。観用少女の存在自体はうっすら耳に入っていたがこれ程気軽に出回っている物とは知らなかったし、知っていたら自分はこの街を活動拠点に選ばなかっただろう。
当然街の外には老若男女誰もが目の覚めるような美少女を連れまわして良いなんて常識は存在しない。旅行者に紛れ込んだジャーナリストに写真にひとつでも撮られ、それを元に好き勝手書かれでもしたら大変なことになるだろう。まず早々街外には帰れないだろうし、その後誤解が解けたとしても世間の目は変わらない。ひっそりと暮らすだけの人生。こぞってあの人形を手に入れようとするこの街の有力者達にはそれが恐ろしくないのか、はたまた危機管理能力に欠けているのか。ともかく巻き込まれたら堪ったものでは無いと今まで自分は極力観用少女との接触を避けてきた訳だが。その態度が逆に良くなかったのかこうして連日買え買えと迫られる始末。
一説では観用少女は幸福を授けるそうだが自分にとって彼女等は買ってすらいないにも関わらず既に不幸の象徴だ。一体手に入れて解放されるならいっそ、と危険な考えさえ抱きつつある現状、何か手を打たねばなるまい。買えない理由をでっち上げる。買ったふりをする。嘘だとバレたら面倒だ。買う。それは最後の手段にしたいところ。ではこれならどうだ、店が縮小したなど買い辛く勧めにくい状況を秘密裏に作り出す。
「……よし。忠、中心街へ向かえ……心配するな。ただの寄り道だ」
従順に車は進行方向をネオンの目立つ中心街へ。
作戦は決まった。まずは敵情視察といこう。
降車する間も運転手は連れて行くよう再三訴えてきたが全て却下した。いざとなれば自分は阿呆のふりが出来るがあの男はそうではない。不器用な犬に潜入捜査は無理だ。
賑わう街を行く。初秋も過ぎた深夜だが年中温暖なこの街には関係の無い話だった。Tシャツの袖を捲った若者達が様々言葉を交わす頭上でけばけばしく電光掲示板を滑る文字。奇妙に崩れて解読出来ないそれらの中心を物見遊山の顔で闊歩し、香しい匂いが漂う異国中緒に溢れた通りを抜け、周囲を行く人々の恰好が気取った物に変わりだした頃。
目的は恐ろしい程堂々とした店構えでこちらを待ち構えていた。
人形とはいえ人とそう変わらない見た目の品が置かれたショーウィンドウの前を、誰もが平気な顔で歩いていくのは如何なものか。両手いっぱいのプレゼントと共に走って通り過ぎた少女のフリルドレスと中に居る人形の衣装がよく似ているのに気づき心中で毒づく。悪趣味な映像のようだ。観用少女側が見ていなかったのはまだ救いか。まあ人形は人形、見たところで何も感じないだろうが。
ショーウィンドウに並んだ観用少女達は皆目を閉じ動かない。豪華な衣装で着飾られていてもこれでは集客力に欠けるように思えるが、確か理由があるのだと聞かされたような。
何だったか思い出そうとし――しかし途中で止めてしまった。それより優先すべき事柄が目の前にあったのだ。
ショーウィンドウの中にひとり、やけに目を引く観用少女が居た。
肌のせいだろうか。ばら色に染まる頬のなかで唯一血の気の薄い青白さは目立つ。
それとも髪か。他の観用少女より短く肩にも届かないそれはおよそ人間の頭髪では見ることの無い色彩を帯びていた。九月の空のようであり春のあたたかい海のようでもあるその色をより正確に表すとするならば日に照らされる雪。神秘的にさえ感じられる薄くけれど目映い水色はそこに存在するどの観用少女のパーツより、少なくとも自分にとっては良い品に思えた。思わずまじまじと観察し続けてしまう程に。
何分そうしていただろう。気づけば夜風ですっかり身体が冷え切っていた。出鼻もくじかれてしまったことだし一度車に戻った方が良い。分かっているが足が動きかける度つい止め、また食い入るように見つめてしまう。もう少し、もう少しだけ。
まるで欲しい玩具に出会った子供だ。行動もそうなら内心も。数多の芸術品に触れてきた筈の心からは、しかしひどく幼い感想しか出て来ない。
こんなきれいなものはうまれてはじめてみた。
感じ入っていた心がふと思い立つ。もし、もし固く閉ざされたまぶたが開いたなら。見える瞳はきっと美しいに違いない。
何色だろう。どんな風に世界を、自分を見てくれるだろう。是非知りたい。
見たい。
強く願ったその瞬間、観用少女のまぶたが震え。作り物とは思えない繊細さを持ったまつ毛を揺らしそのまま二度三度小さく瞬きしたのち。
「――――」
緩慢な動作で開かれた先、どこまでも鮮やかなターコイズブルーがほんのり細められる。
ああ、笑いかけられた。理解すると同時に全身を稲妻の如き衝撃が走り抜け。
ようやく動けるようになった足は進んでいた――――店内へと。
余程気をもんでいたらしい。車へ近づくなりフロントドアが開き、車外へ転がり出て来た忠は矢継ぎ早に言葉を発する。
「お傍へ行けず申し訳ありません、御無事で何よりです。ところで、何が……」
選択を間違えたとは一切思わないがそれはそれとして少々決まりが悪い。意味深な視線をやや高めに持ち抱えた行きより多い〝手荷物〟で遮りつつ後部座席へさっさと乗り込み、慌ただしく運転席へ戻った男に告げた。
「明日屋敷に店主が来る。用意をしておけ。……それと、運転は慎重に」
腕の中の水色はきっと車など慣れていないだろう。目を回されては堪らない。
「神道先生」
呼びかけてきた声の主に気づき、瞬時に笑顔を作った。
老齢の紳士は良家の出で温順な善人だが見識に深く、事実上この組織の最高権力者でありながら年若い自分にさえ敬語を使う謙虚さは見習う点がある。街で新たに知り合った年長者の中では最も会話する価値のある存在だった。この紳士が筋金入りの観用少女フリークであると知ってしまうまでは。
「聞きましたよ。買われたそうで」
「ああ……はは、そうなんです」
皺を深く寄せ笑う御老人に合わせながら心中で嘆息する。
「皆さんこの話題で持ちきりですよ。あれ程頑なだった神道先生が、と」
「頑なでしたか」
「ええ。嫉妬深い秘密の恋人でも居るのではなんて噂もありましてね。これでもう誰も口にしないでしょうが」
この街に来てから特定の相手どころか損得抜きに他人と接すること自体稀な自分に恋人。まあ人の噂などそんなものだろう。ともあれ今後は痛くも無い腹を探られなくなるのであれば、あの観用少女に少し感謝をしても良いかもしれない。
「初めてとなると疑問も多いでしょう。何でも相談して下さいね」
「ありがとうございます」
いえいえと目尻を下げる老人はおそらく本当に何を尋ねようと完璧な答えを返してくるのだろう。初めて観用少女を買うときは必ずあの方を連れて行けと言われた事も一度や二度ではない、愛好家が太鼓判を押す存在ということだ。
いっそこの場で尋ねてしまおうか。
観用少女はあれ程反応が薄いものなのか、と。
「実は私、観用少女とその持ち主で集まる会を催しておりまして。どうですか、一度」
「……ええ、是非……」
答えた途端、老人がこほこほと喉の奥で空気を転がすように笑いだした。
「何か……」
「いえ、良いのです。私も最初の一体はそうでした。使用人に見せる事も躊躇われて……」
「……ああ、はい」
照れるかのように顔を伏せればまた笑い声が。
どうやらこの御老人は自分が肯定に時間を掛けた理由を大分甘酸っぱく解釈したようだ。誤解だが、都合が良いのでそのまま利用させてもらおう。
「それではしばらくお誘いはやめておきます。しかし神道先生にそのようなお顔をさせるとは……一体どのような観用少女なのか非常に興味が湧きました」
「そんな。普通の子です」
好々爺然とした瞳の中にフリーク特有の鋭さが混じる。これでは、しばらくどころか今後絶対見せられそうにない。期待を裏切ると言う意味で。
勿論質問も差し控えるべきだった。人形を愛する人間は、人形以上には人間を顧みない。
屋敷にいくつか存在する当初より使用していない部屋。〝家〟としては自分に相応しい相手に使わせる算段だっただろう部屋の群れの内、最も日の入らない一室と最も日のあたる一室にこの度少々手を加えた。衣装などの保管用ひとつと生活用、あるいは展示用がひとつ。部屋自身まさかバスルームが併設される日が来るとは想像していなかっただろう。
ドアを開き数秒、静まり返ったままである事には最早不満さえ感じない。
窓近くに座る観用少女はまた知らない衣装に身を包んでいる。ノーブルで華美過ぎないそれは街で売っている既製品を多少加工しただけにはとても見えないがしかし受けた報告と請求書が偽りだとも思えない。〝家〟からの要請で置いている数人のハウスメイド、自分の監視も兼ねているのだろう彼女達はすこぶる優秀で常に暇を持て余しているようではあったが、こんな事にまで卓越しているとは知らなかった。
幸運の運び手観用少女、その恩恵をこの屋敷で最も受けているのは美しい着せ替え人形を手に入れた彼女等ではないだろうか。少なくとも余程幸福だ、持ち主だと言うのに近くまで寄っても顔一つ向けられない自分よりかは。
「やあ」
頬を突けば小さな身体がはっと揺れ、ようやく気付いたらしい観用少女が顔をこちらへ向けた。
「一日ぶりだね、美しい観用少女くん。ご機嫌いかがかな」
問いかけに観用少女はただこちらを見つめるばかりでリアクションのひとつも返さない。言葉を扱えない存在だとは知っているが嬉しがる真似くらいは出来るだろうに。子供のように作られた顔は、そのあどけなさは人間を喜ばすためでは無いのか。
なにより瞳だ。あれほど見惚れたこの世の果ては存在こそしても常に半分ほど伏せられている。当然輝きもしない。見開かれないのだから、細められもしない。
一体何を考えているのやら。数冊観用少女関連の本に目を通したが彼のような観用少女の事は書かれていなかった。
疎ましがられている訳では無い筈だ。まして憎まれているわけでも。店から無理やりに連れ去ってきたならともかく店主と取引は済ませてあるうえ、自分の元に来ると決めたのはこの観用少女自身なのだから。
ここに奇妙な真実がひとつ。
観用少女は――持ち主を選ぶ。
どのような仕組みかは分からないが観用少女は人形でありながら眠ることが出来、かつその眠りは人間より遥かに長い。場合によっては人間の一生以上の時間を長い夢に浸しながら彼女達は待つ。気に入った相手、運命のひとりが目の前に現れる瞬間を。
そのとき初めて彼女達は目を覚ますのだ。
こちらを見て、私に気づいて。
自分の持ち主と見定めた相手にそう訴えかけるために。
観用少女が資産家の間で人気があるのはただ高級な品だからではない。彼女らに選ばれる事そのものがステイタス、一流の職人が手掛けた人形直々に共にある事を許された特別な人間という箔が付くのだ。珍しく美しい観用少女であれば尚のこと。それこそこの自分が手に入れた観用少女なんかは愛好家の好みそうな見目に加え厳密には〝少女〟ですらないのだから、例の会になど連れて行けばその日から自分は羨望とやっかみの混じった視線に絶えず晒される事となるだろう。もっともこの観用少女がにっこりと微笑めばの話だが。
「笑うのは嫌いかい」
頷きも否定もせずただ見つめてくるその目は透明度が高く感情を掴ませない。
「どちらにせよ君は微笑むべきだ。何故なら僕が見たがっているから」
君の選んだ僕がね、と指差せば観用少女は迷うように視線を動かしてから、ぎゅっと両手で頬を押し上げた。いびつに上がった唇はぎこちなく微笑んでいるように見えなくも無いが思わず溜息が出る。自分はこの子供を模した人形に弄ばれているのだろうか。
欲しいのはアレだ。あのときショーウィンドウ越しに見た自然なほほえみ。
「……残念だが時間だ。また来るよ、次こそ可愛らしい笑顔を見せてくれ」
何を勿体ぶっているのか知らないが、自分には拙い焦らしに喜ぶ趣味は無くいつまでも待ち続けていられる程暇でもない。次、その次。それ以降も頑なな態度を崩さないのであればこの生意気な観用少女は己の存在意義を多少理解させられることとなるだろう。気の毒だが所詮は無機物以上人間未満の人形だ。一度躾けて素直になるなら何も問題は無い。
部屋から出る際目の端でとらえた観用少女はまだ両手で頬を押していた。
数日忙しい日々が続き自然と観用少女の部屋から足が遠のいていた、だから報告が届くまで気づかなかったというのは――しかし、言い訳でしか無いだろう。
ミルクにも菓子にも反応せず必要最低限のケアを行うだけで殆どうずくまったまま動かないのだという観用少女は、使用人の手を拒否こそしないものの何か返すこともなく虚空へと眼を向けていた。されるがままの姿は見ていただけの自分の心臓さえ見る間に冷やした。
人形本来の在り方とも言えない、まるで心を失った人間のような。
抱きあげた身体が以前一度そうした時よりずっと軽く感じられたからか。車を回せと命じた声が意図せず叫び混じりになった事に動揺しながら、落ちるように階段を下った。店へ着くまでガラスに浮かんでいた顔ときたら。思い出したくも無い。
「……ふむ、これは」
店主は「あくまで兆候程度ですが」と前置きをしたうえで目を剥くような発言を。
一体何故。この観用少女に、自分は選ばれたのではないのか。
狼狽していたとはいえ日頃の自分であれば決してしないだろう愚にも付かぬ質問はやはり一笑に付され、店主は口元を扇子で覆った。
「選ばれたとしてその後はお客様次第ですので……」
つまり自分が、観用少女に充分な生活を送らせてやっていた筈の自分が悪い客だったと。
有り得ないと憤るつもりで――けれど不思議な程怒りは湧かなかった。
どうすれば良い。
問いかけた声はぼそぼそと聞き取りづらく、自分の物とは思えなかった。思いたくも無かった。顔色一つ変える事無く買い取りましょうかと言ってのけた店主へと、またぼそりと考える時間を求めた。与えられた猶予は数日。その間観用少女をどちらが保管しておくか。店主の問いかけにそちらで預かっておいてくれと自分が頼んだそのとき、観用少女はどんな顔をしていたのだろう。分からない。自分しか見えていなかったから。
車内でも自室に戻ってからもひたすら自己を正当化するための尤もらしい理由を探していた。酷い話だろうが、あの観用少女に訪れた不幸の原因が自分自身である事に自分は耐えられなかったのだ。
信じたくない。あのきれいないきものを。ほんの僅かだとしても、自分が。
――枯らしかけた。
観用少女は精巧であるがゆえにデリケートだ。定められたルールの数こそ少ないが守らなければ簡単に美は損なわれる。壊れる事も多い。単純な損傷、そして栄養不足によって。
最たる栄養、人間からの愛が足りなくなれば観用少女は徐々に衰えていきやがて静かに自壊するのだという。枯れると呼ばれる特殊な壊れ方は具体的な記述こそ無かったが字面からしてろくな結末では無いだろう。そんなものにあの観用少女を導きかけた事実は心を万力のように締め上げ、お前の愛が不充分だったせいだと責め立てる。
分かっている。充分愛せていたとも思わない、けれど自分の失態を認める事もどうしても出来ない己へ、勝手に作動した防衛本能がひどく愚かな答えを示した。
「僕じゃない」
運命で無かったから、本当はあの子に選ばれてなどいなかったから、上手くいかなかっただけだ。だから僕のせいではない。僕の愛が否定された訳では無い。
馬鹿げた妄想だ。しかしこの馬鹿げた妄想を現実にするべく自分は躍起になり、そして――幸運か不運か分かりはしないが――無理を通して密かに入手した監視カメラの映像を目を皿のようにして見続けた結果その馬鹿げた妄想、有り得ざる真実へ本当に到達してしまった。
ショーウィンドウの中で動かない観用少女とその前で突っ立つ自分。しばらく経過を見守れば奇妙な事に辺りからは人が減り、世界はショーウィンドウとその前に立つ自分一人しか存在しないのだと錯覚してしまいそうな程静まり返っていく。
そして観用少女が小さく身動ぎし、目を開くわけだが――。
映像を停止し、その瞬間を目の当たりにすれば口からは何が理由かさえ分からない笑いが漏れていた。
見るべきは自分の背後数メートル。突然飛び出してきた人影は真っ直ぐ同じ位置、同じ目線からショーウィンドウを見ていた。その瞳に何が映っているかなど拡大せずとも分かる。
ああ、なんて単純で馬鹿らしい話。
自分は選ばれてなどいない――――選んだのだ。
他議員の壮行会を兼ねた立食パーティーは数合わせのつもりでの参加だったが欠席者が相次ぎ急遽スピーチに駆り出されたうえ花束まで押し付けられてしまった。今日犬には観光目的で街へ来た親類の案内役を任せている。運転手だけは確保したがパーティー会場内まで連れ歩く訳にもいかない。しばらくの間持ち歩く他ないのだと思うと両手にかかる重みがより増したように感じた。
花束がやけに重い理由はそれだけでは無いだろう。白と青を基調にした清楚なデザインはあの表情に乏しい観用少女を嫌でも連想させる。
あれから例の決定的瞬間を数アングル観察したが観用少女の視線の先を正確に捉えることは出来なかった。しかし長い事見続けていた自分とその瞬間偶然現れたもう一人、どちらに向けて目を開ければより自然に――運命に近く感じるかと言えば。考えるまでも無いだろう。
生まれた疑念を消すことは不可能に等しく、今朝店には丁重に観用少女の返品を申し出た。買い取りを選ばなかったのは単なる意地だが払った金への未練も特に無い。むしろひと時夢を見られた、その料金として考えれば安いくらいだ。あやふやな言葉にのせられて今度こそなんて舞い上がっていた自分が悪い。
運命なんて。
「……僕は」
あの観用少女の運命では無かった。自分は正しかった。間違っていなかった。
では、何故こんな感情を覚える。たった数日同じ家で暮らしただけのろくにコミュニケーションさえ取らないまま別れた観用少女。あの子の事を考えるとどうして胸の奥に空白が生まれ、そのうつろさから目を逸らせなくなってしまうのだろう。
分からない。けれどもう知る術は無いのだ。これから何度あの部屋を訪れたとしても、着飾られ雪だるまのようにふくれた背中とは出会えないのだから――そう思った瞬間、空白の内をふっと風が通った。外で吹く秋風に似たそれはじわりじわりと胸の奥を冷やしていく。
「…………」
早まっただろうか。
思考に気を取られるあまり、反対方向から近づく人影に接触直前まで気づけなかった。咄嗟に回避したから良いものの何をしているのだ。自分らしくも無い。
こちらの謝罪を受け取り「珍しいこともありますね」と老人が眦を下げる。
「ところで先生、その後観用少女とはどうですか?」
「ああ……残念ですが」
不思議な程身を強張らせた老人は「返品してしまったんです」と言えばその緊張を緩め、しかしいかにもがっかりと言うように骨と皮ばかりの肩を丸めた。
「お気に召しませんでしたか」
自分では無く観用少女の方が、と馬鹿正直に伝える気にもならず俯いておく。
「出会いですからね。次を探されると良い」
「次、ですか」
探したところでどうだろうか。あれに似たものがそうそう見つかるとも思えない。
「観用少女もいずれまた別の方と巡り合うでしょう」
「それは……」
脳裏に浮かんだイメージは必要ない程鮮明だった。誰かと、例えば同い年くらいの少年と歩く水色の観用少女。その顔が絶えず微笑むのを偶然目にしたなら。
「少し……気辛いですね」
「いいえ?そうお気になさらずとも。観用少女の方は先生を覚えていませんから」
「御経験が?」
「まさか」
御存知ありませんかと問われ何の事かも分からず首を縦に振る。
「観用少女は新品も多いですが勿論人から人へ渡る物も存在します。彼女等は既に意中の相手が居る訳ですが、これでは販売などできません。可哀そうでしょう?」
人間目線の理屈でないのがこの老人らしい。
「ですので場合により、回収された観用少女は〝メンテナンス〟へ向かわせられるのです。詳しい方法は存じ上げませんが皆驚く程元通りになって帰ってくるのだとか」
成程。初期化、もしくはオーバーホールか。つくづく常識外れの人形だ。愛された記憶を持たせたまま他者へ売り払うのは確かに酷だろう。理に適った処置と言える。
しかしそうされれば。消えるのは、記憶だけでは。
「ところで神道先生、この後の御予定は……申し訳無い。野暮でした」
足を止めた老人がそれではこの辺りで、の始まりのSを発音するより早く動き出した足は一歩で彼を追い抜いていた。礼を欠いた行為だが背中へ掛かる声はむしろ嬉し気だ。
「先生の観用少女はさぞや美しいのでしょうね」
少しだけ迷ったのち振り返った。
「……ええ」
あのぼんやりした顔を思い出す。揺れるまつ毛の落とす影を。蛍光灯の下でさえきらめく薄色の糸を。色をもたない頬。世界に馴染まないたったひとつを。
「あの子はこの世の何より美しい観用少女かもしれません」
全ての観用少女所持者を敵に回すような発言すら老人はからからと笑って受け流し。皆さんそうおっしゃられます、と嘘か本当かも分からない言葉を放った。
花束を片手に観用少女の店へ向かう男。不審であろう姿を気に留める者は居ない。この街において珍しいものでは無いのだ。人形に心を傾ける愚者の巣窟。今自分もその一員に加わりつつある、それを不快に思えないのが何とも恐ろしい。
店主は傍らに椅子を置き手元の書類へ何か書き込んでいるところだった。椅子には観用少女が一人座らせられている。瞳はぼんやりと、身体から力こそ抜けているようだが――ああしかし、まだ眠っていない。
「いらっしゃいませ。何か?」
「……一つ、質問を」
「何なりと」
「――観用少女は、自らが選んだ相手でなくとも共に在れますか」
「私からは観用少女の気性によるとしか申し上げられませんが、ええ、そうですね。お客様へ反応し、抵抗せず付いて来る観用少女であれば問題ないかと。……例えば」
全て分かり切ったような顔で店主は水色の観用少女が座る椅子に手を添えた。
「この子など如何でしょう。戻って来たばかりでお買い得ですよ」
自分が何も答えないうちから支度を始める背中を気が早いと思うものの、止める気にもならずただ見守る。前回より明らか多い小物を鞄へ詰め振り向く笑みの胡散臭いことよ。
「目覚めの途中で持ち主の変わる観用少女などさして珍しくもありません。ただし育てるには多少手間が掛かりますが」
「手間?」
身構えるこちらへ、簡単なことだと。
「運命より、深く愛してやればいい。それだけです」
気を利かせたつもりかしばらく戻ってこないとわざわざ宣言してから店主は店奥へ引っ込んで行った。領収書を用意する、と余計だが正しい一言も添えて。
一呼吸後動き出す。布張りの椅子へ片腕をかけ跪き、うつらうつらと微睡みに揺れる顔となるべく視線を合わせた。美しいなかにいつからか見え隠れするようになった陰り。どうして気にしてやれなかったのだろう。
煌びやかな店内では相変わらず大量の観用少女が目を覚ます日をじっと待ち続けている。
彼女等の有り方はとても健気でこのうえなく哀れだ。孤独な眠りに身を捧げても運命が現れる保証は無く、たとえ現れたとしても己を選ぶとは限らない。時には人間の都合で運命を感じた心ごとまっさらに戻される。
この子も。
目の前に居る観用少女もそうだ。完成した瞬間から宿命を背負わされ、いつか誰かに会えるよなんて無謀な夢を見させられてきたのだ。
いつか。そう希う愚かしさを自分は知っている。
けれど、そのちっぽけな希望がどれだけ心を癒すかも――出会えた瞬間広がる今までの全てが報われるような幸福感を、身を以て良く知っていた。
この観用少女は〝出会って〟いる。運命は確かに見つかったのだ。それが見知らぬ誰かだとしてもこのまま眠らせてしまうなど自分には出来ない。
だからそれだけだ。境遇に同情した。シンパシーを感じた。そういう事にしておく。でないと羞恥で耐えられそうにない。
――忘れられたくない。などと。子供のようではないか。
「気が変わった。君を育ててあげる」
運命でなくとも良ければ一緒に来るといい。言って差し出した花束を小さな手が受け取った。
出迎えた忠は散々迷った末、分からなくなったのだろう。
「おめでとうございます」
真剣な顔に免じて命令ひとつで不問とした。昨日の今日だ、処分するよう命じておいた観用少女用品一式は片一方の部屋に全て詰め込むだけで済んでいたそうだがあれらを元通り配置するのは少々骨が折れるだろう。数日掛けて良いと付けたしたものの勤勉を美徳とする犬がどこまで従うか。
勿論観用少女の寝床など今晩中に用意出来そうも無く。ではどうするのかと言えばまあこれしか思い浮かばなかった。
躊躇のひとかけらも感じていない自分に困惑しながら自室のドアを開ける。
ベッドへそっと観用少女を下ろせばナイトドレス風の衣装がふんだんに使われた柔らかい布を惜しみなくシーツへ広げた。どこぞの姫君のような絢爛具合と本来見劣りしない筈の横顔は、ほんの僅か、初めて屋敷へ連れて来た時と比べ艶が足りていない。
いい加減受け入れるべきだろう。自分とこの観用少女がどんな関係だったとしても、足りなかったのは自分の愛で彼を危険な状態にしかけたのは自分だった。自覚を持たなければ今後何度も同じ過ちを繰り返しかねない。その度慌ててあの店へ駆け込むなど御免だ。
きれいだと思った。欲しいと願った。子供のように。
ならば愛もそうであるべきだった。物だけ与え気に入らなければ蔑ろにされる、そんな大人が愛と呼ぶ何かを子供の自分がどう感じたか覚えていたのに。
ぺたりと座り込む観用少女は、未だ渡した花束を離そうとしない。気に入ったのだろうか。それなら尚更長持ちするようにさっさと生けてやろう。
渡しなさいと声を掛けようとし、
「君、そろそろ……ねえ。ええと……」
口ごもり――そして気づく。
こんな肝心な事まで忘れていた。考えるまでも無く浮かぶ理由は実に愚かしい。
それを忘れる程自分は、彼に選ばれたその一点に胡坐をかいていたのだ。
「はは……」
力が抜けるあまりベッドに寝転がる。すると真似するかのように観用少女もごろりと身を倒した。それも花束を持ったまま。
間の悪いことに一日中振り回され続けた花束はその瞬間限界を迎えたらしい。何かが切れる音が鳴り。
ラッピングペーパーから一斉に飛び出した花々に埋もれた顔が大きく一度目を瞬かせた。そのまま小動物のようにきょとんと固まるものだから思わず笑いを溢してしまう。何だ。こんなに分かりやすかったのか。きっと自分が認識していなかっただけで今までも多彩な表情を見せていたのだろう。勿体ないことをした。もう戻れはしないけれど。
これから少しずつ、何もかもを気にしていこう。
とりあえずは最も大切な決め事から。何が良いかと考えていれば、顔に乗った花からひとつ観用少女が手に取るのが見えた。
「ああ。それが良い」
指先で主張するバラ科から一部名を拝借するのはとても良い考えに思えた。本人のイメージにも合っている。小さく可愛らしい、真白の妖精。
「……スノー」
耳慣れないだろう言葉に、観用少女がただ顔を傾ぐ。
「君の名だよ。……嫌?」
考えるように、あるいは何も考えていないかのように遠くを見た後観用少女はゆっくりと首を横に振った。おそるおそる気に入ったかと尋ねれば――首は、縦に。
「そう。良かった」
胸の奥に何か温かいものが灯る。見ないふりさえ出来ないまま、照れくさいそれを受け入れた。
目を開ければすぐ近くに天使が眠っていた。
数秒してから天使ではなく観用少女であると気付いたが見た瞬間天使と認識した時点で充分問題である。親ばか、いや持ち主馬鹿か。数週間前にはとても想像できなかった未来が今ここに。
始まりはスノーを彼の部屋まで連れて行くのが面倒だとかそんな事だった。君ここで寝るかい、と尋ねたところ素直に了承されたのでじゃあ君はそこで寝なさい僕はこちらで寝るからとソファに向かえばしかし観用少女も当然の顔をしてソファに来るものだからやむを得ずベッドに戻り二人で寝た。するとそれから幾日経とうとも与えた部屋へスノーは帰らなくなり、一言命じれば良いのだろうが自分も彼と眠ると非常に夢見が良く、そんなこんなでずるずると自分の部屋は二人の部屋になりつつある。
出掛ける支度と朝食を済ませ最後に一度部屋へ戻れば、身を起こした観用少女が遠くを見ていた。若干まだ夢の中にある顔へ唇を寄せ今日は何時に帰ってくるからと囁く。意味があるかは分からないが、待つ身の辛さは分からないでもない。小さな約束などいくらでも結んでやろう。
「では、行ってきます」
のろのろとあがった腕が振り子のように揺れた。それだけで少しやる気が湧くなんて、そんな安い男では無い筈だがしかし、参ったな。
観用少女との再挑戦は今のところ順調だ。子供を参考にした愛は観用少女のお気に召したらしく、彼は見違えるように美しく変わった。髪は夜空に落ちる数多の星の群れが描く軌跡で肌は前の家に置かれていたどの彫刻より滑らか。目はやはり伏せ気味なものの時折光のようなものを走らせる。
自分がここまで育て上げたのだと思うと少々自慢したくなる出来栄えには、しかしただ一点だけ気になる点があった。
表情が乏しすぎるのだ。
観用少女に個人差がある事は知っている。しかし多くの笑わない観用少女と比べればスノーには気位の高さも感情の欠如も感じられない。本当に顔に出ないだけらしいと分かりつつ、その滅多に出さない感情表現を自分にだけは見せて欲しいという望みは観用少女所持者の誰もが持つのではないだろうか。勿論その誰もが、には自分も入る。
昼寝と呼ぶにはやや長すぎる眠りから目覚めたスノーが目だけで辺りを見回した。気づいたようだ。起き上がり、それは何だと自分の手にある物目掛け近づいてくる。
用意させてみた道具は持った瞬間からいやに手に馴染んでいた。本物はあの人達の元なので流石に当時そのままではないが真似事ならば充分可能だろう。
「おはようスノー。なに、少し君を愛そうと思ってね」
名に反応する程度になった観用少女は言葉にみるみる表情を変化させた。ぼんやり気味の子供はしかし観用少女としての本質を失ってはいないらしい。愛というたまらない栄養に身体をそわつかせている。これも可愛らしいとは思うがやはり自分は出会った時のあの微笑みが忘れられないのだ。あわよくばそれ以上、いわゆる満面の笑みという物をこの観用少女から向けられてみたい。
その為には別のアプローチ、別の愛を彼に与える必要があるだろうが、元々子供の愛し方など知らない身でこうかなああかなと試している自分にはなかなか難解な問題だ。更に言うなら相手はこの不条理な観用少女、彼が喜んで受け取るそれをぴたりと当てられる自身は正直無い。だが見たい。ので一先ず自分の知る愛を端から試していこうかと思いついた次第だ。激務が続く中よく閃いたと我ながら思う。何かおかしいような気もするが気のせいだろう。
「僕が昔されていたやり方をそのままなぞってみよう。君の振る舞いが正しければ褒める。だが間違えた場合は」
軽く手首を振れば遅れてひゅうんと風を切る音が、続けて床に響く衝撃。
「こうする」
改めて見るとなかなかごつい品を使われていたのだな。我ながらあの歳でよく耐えたものだ。
「それじゃあ始めようか。大丈夫、最初はやさしく…………」
慣れない分やはりあの人達のようにはいかないな、と考えていた脳が著しく停止した。
いつの間にぽかんと呆けていたスノーは徐々に瞬きを速めると同時に顔を青ざめさせ――まるで今にも、涙を流そうとしているような。
「……待て」
勢いをつけ放った道具はダストボックスに着陸したが危機は去る様子さえ無い。自分がしようとした事を思えば当然だった。今後彼に会う際は頭から水を被った後とする。
何も持っていないと示すため両手を見せながらゆっくり距離を縮めていく。
「あれは使わないし二度と話にも出さない。だから泣くのは止めよう。いいね?」
スノーは何かを堪えるように唇を噛み、そして眉をぎゅっと――。
「僕の言葉が聞けないのか君は……!」
ショッキングなシーンのひとつも見せられる前に強引に観用少女を抱き寄せた。人形であることを抜きにしても冷たすぎる身体。強張ったそれへ少しは体温を分けられないものかとより深く腕を回す。
「ほら、落ち着くまではこうしてあげるから」
赤ん坊をあやすように――といっても経験は無いのでイメージだが――軽く身を揺らしつつ小さな背中に手をあて、聞かせないようごく小さく溜息を吐いた。
惨い真似をしてしまった。
疲労で我を忘れていたとしてもああすれば自ずとこうなる事を自分が予想出来ない筈も無い。おそらく予想したうえで実行したのだ。自分はただ彼から色々な表情を引き出したかっただけだったのだといけしゃあしゃあとのたまいながら。実際スノーが何をどう愛と感じるか確認する気もあっただろうが、本心ではスノーから、いたいけな子供の姿と心に似た物を持つ人形からこの反応を引き出せないものかと考えていたに違いない。まったく何とひどいご主人様だろう。
だが――彼には悪いが、実行した価値はあった。こうして今己の行いに幻滅している自分でさえそれを否定出来ない。
「……ああ。やはり、そうか」
背を撫でる手つきは我ながらひどく下手糞だったが、震えて使い物にならない手にしては努力している方だと思う。言葉だって。
平静を装えているかさえ、もう分からない。
「泣いて良かったのか」
今更の話だ。知ったところで過去向けられたそれを憎む程の熱は既に何処にも無い。ただ何故だろう。息が通るような。結び目が解けたかのような。そんなさっぱりとした感覚が胸のうちに広がっていた。
誰にも言えなかった。何も言われたくなかった。
けれど、ずっとこうされたかったような気もする。
それはそれとして一刻も早く彼の機嫌をとるべきだった。いや本当どうしよう。涙は阻止したもののじっとこちらを見る目は何かを訴えるのを止めず、その視線が刺さる度度に噛み砕けない程の罪悪感が身を襲う。
かくなる上はハウスメイドが新作の試着時に使うというアレしかない。あまりスマートな方法ではないが緊急事態だ。
「……ホットミルクでも飲むかい」
きらん、と光った目に安心半分呆れ半分。
疲れ切っているだろう顔を使用人達に見せる気にもならず優秀な犬に扉前まで持ってこさせたカップの乗った盆を観用少女の前にことりと置く。
あれ程そそられていたミルクだ。すぐに飲み出すかと思いきや、見つめるばかりで一向にスノーは手を出そうとしない。
「どうしたの」
温度が悪いかとカップに手を添えてみる。しっかりと温かかった。飲み頃に思えるが何が気に食わないのだろうか。淹れなおさせるかと訊けばスノーは首を横に振り、自分が持つカップへと手を伸ばした。しかし飲みたいならとカップを彼の目の前に置けばまたすんと動きを止める。
自分の考えが正しそうに思えるが万が一間違っていた場合しばらくの間夜中思い出してはベッドを転がる羽目になるだろう。
ええい、ままよ。
「……もしかして、僕の手から渡されたい?」
強く肯定するかのように首が幾度も小さく振られた。
カップは変わらず目の前にあるというのにスノーはこちらばかりを見て両手を差し出してくる。わざとではないだろう上目遣いは実に自然だ。これが甘えるのに特化した人形の本領か。
早く飲ませないとミルクが冷めてしまう、二度手間になるぞ。
心が持ち出してきた都合の良い理屈を今ばかりは利用すると決めカップを取った。手のひらでは覆ってしまうので指先のみを使い、その指先もなるべく広げる。落とさないよう、されど掴み過ぎないように意識を集中。ここまで気を遣いカップを運んだのは生まれて初めてだ。
君のためだぞ、と内心で呟きながら何とか面前に持っていけば『君』は普通に受け取り、柄すら使わずあっという間に飲み干した。思わず言葉を失う。今までハウスメイドや忠に与えられていたときはこくこくと観用少女らしい可愛げある仕草で飲んでいたではないか。何だそのマナーも何もあったものじゃない良い飲みっぷりは。まるで砂漠でオアシスを見つけた旅人だ。飢えを、渇きを満たすかのような。
「……成程」
口の端についた白をぺろりと舐め、ほうとスノーは息をつく。その瞳は欲しくて堪らなかったものをようやく手にしたかのように柔らかな光に包まれていた。
いや――ように、では無いのだろう。
彼が手にする白磁のカップ、その内を先程まで埋めていたミルク。いつもと味も温度も変わらないだろうそれはただ自分の手を経由しただけで観用少女の身を芯から温めたのだ。愛であると、彼が感じた事で。
――愛すれば。
先日の去り際、店主が告げた言葉を思い出す。
――観用少女は、あなたを愛する。
ああ。信じてしまいそうだ。
最近とみに調子が良い。変わった事と言えば睡眠時間くらいなのだが。
すっかり一日中自分の部屋に入り浸るようになった観用少女、彼の就寝時間は普通の子供程度には早い。夜も更ける頃には身を揺らしだすのでベッドまで連れて行くついでに自分も眠る。入りが早い分夜明けには起きてしまうが問題ない。眠る観用少女を見ながらの作業はよく進む。月明かりも良いがやはり朝日こそ映える雪、これが起きたら何をしようかと考えれば手と頭が面白い速度を叩きだすのだ。
ようやく自分にも分かってきた。確かに観用少女は持ち主に幸福を授けるらしい。
「……愛之介様」
どこぞからの通話を終えた忠が言いにくそうに唇を擦り合わせる。通話の内容を聞いた自分の反応も似たようなものだった。発言を少々修正する。幸福は授けるかもしれないが扱いにくいことに変わりはない。
約束の時間に帰宅すればハウスメイドの言った通り観用少女が玄関扉の前に立っていた。自分の姿を見るなりただいまさえ言う暇を与えず両手を大きく広げる。合わせてその腕を、そして全身を包む布地がふっかりと広がった。
着ぐるみのような衣装は、お遊びで作ったところ脱がなくなってしまったのだとか。製作者は今までの物が寒かったかと悩んでいるそうだがこれはおそらく普通に気に入っているだけだ。心なしか目に光を感じるし態勢が明らかに言葉待ち。その期待へ応えるとしよう。
「似合うよ」
スノーはやはり機嫌が良さそうに唇を少しだけ横に。そして身を翻しぽてぽてと自分達の部屋へ帰っていった。UMAにしか見えない後ろ姿は扉の向こうに消え、再び出てくるのは妖精と見紛う観用少女。入れ替わり纏ったのはどうやら先日職人にオーダーしておいた外出着のようだ。出来上がったそれのお披露目のつもりか、先程の立ち位置に戻ってきたスノーはくるりと一度回転したのち背筋を伸ばす。
自分の好みはああですがあなたはこちらが好きでしょう。茶目っ気たっぷりに告げてくる顔に乗せられるまま抱きあげた。
「良い子だ。ミルクをあげよう」
露骨に輝く目に、笑うのを堪えつつ続ける。
「蜂蜜はたっぷり、砂糖菓子も付ける。どうかな」
何て分かりやすい子だろう。または自分が察せるようになったのか。
「ああでもその前に着替えてね」
それはとても大切な衣装だからと言えば素直にスノーは頷いた。何故大切かなど興味も無いのだろう。彼はそれで良い。自身が眠る横で毎朝密かに行われている〝調べもの〟になど気づかないままその日を迎えれば良い。
願いはあっさりと叶ってしまった。
「出掛けてみようか」
店主はスノーを一目見るなり一言愛されているようで何よりと告げその後速やかに新商品のセールスを始めた。呆れる商売精神だが観用少女を知り尽くしているだろう男の目から見てもそう感じられたのならば良いだろう。
取り扱い先が違うのだというミルクをくぴくぴと飲むスノーの動きに合わせ広がった袖が軽く揺れている。装飾多めの外出着を纏った姿は観用〝少女〟にしか見えない。以前の自分であれば真逆の、彼の特別さを際立たせるような衣装を作らせていた筈だ。自分だけ知っていればいいなどと随分甘い考えを選んでしまうようになってしまった。一体いつから。
「メンテナンスは絶対ではありませんよ」
店主から観用少女の生態を聞くうちに自分が大分誤解していた事を知る。
「苦労して眠らせても運命の相手が現れれば目を覚ましてしまう。そんな観用少女も居ます」
「記憶が保たれている?」
「さあ。無くとも分かってしまうのなら、それこそ運命らしいですが」
試してみるかと訊く顔はにやついている。揶揄われているかと思いきや。
「以前の真相は誰にも分かりませんが。今のお客様であれば、選ばれるやもしれません」
目の前の男はこれから自分が何をするつもりかお見通しのようだ。提案は彼からの慈悲かもしれず、であればこちらも多少の真心で返すべきだった。たとえ拒絶だとしても。
「かつて一人の夢見る若者が居ました」
いつか運命の相手に出会えると無邪気に信じていた少年。そうでは無いと気付き苦悩し続けた末にそれでも運命の出会いはこの世に存在するのだと叫んだ愚か者が、運命を望む子供に出会えばどうするかなど分かり切っている。
「僕は彼を裏切れない」
そうですか、と店主は背を柱に預け煙草を燻らせた。
「残念です」
「ええ」
自分もそう思う。だが何もかもを裏切る事さえ出来なくなった身にはこんな選択肢しか残されていなかった。
ミルクは飲みきってしまったようで、観用少女は名残惜し気にカップを見つめている。
いつから。それはきっと彼に出会ったときからだ。彼から恵まれた全て、彼に奪われた全て、今自分の内を満たすもの全てがこの選択を望んでいる。優しさと呼ぶにはあまりに切ない感情の集合体を、けれど否定する気にもなれない以上自分はこの席を立つしか無いのだろう。
「スノー。行くよ」
立ち上がる観用少女へ買ったばかりの手袋を渡す。
「着けておいて。これから少し外で待つからね、冷えたらいけない」
素直に両手へ手袋を着けたスノーは仕上げのように片手をずいと突き出した。苦笑しつつこちらからも手を差し出す。握るそれが厚い布越しで良かった。体温も柔さも分からない、知らない感触で。
店主は別れの挨拶に返す事なく頭を下げた。ロマンチストらしい。
冬に差し掛かる季節、夜の空気は冷たい。
着込んだ人間が大勢居るせいか体感温度はそれ程厳しくないが繋ぐ手に力を込めた。
観用少女は人間と比べ物にならない程繊細な生き物だ。彼女等は人間より遥かな時を生きる。食べずとも、飲まずとも、出会わずとも。生存するだけなら可能だろう。
しかしそれは観用少女にとって真なる生ではない。彼女等の生を真にするのはただひとつ、人間の愛などというとても脆く儚いものだけ。
朝露のようなそれを啜って生きていくしかない存在は、繊細だ。
誰かが守ってやらなければいけなかった。その日まで。
「見えるかい」
再び運命と出会えるまで。
雑踏、十数メートルほど先を似た顔の集団が歩いている。家族だろう。遠いこちらにも感じ取れる和やかな雰囲気の中心には、いつか見た顔があった。
「覚えているだろう。あれが君の」
ほんの僅か痛む喉から吐き出すように言葉を作る。
「――君の――本当だ」
この日が来ることなど初めから知っていた。それなのに言葉は痛みを以てその鋭利さを伝えてくるから嫌になる。
「家族にも後ろ暗い点は無かった。この街では珍しい程善良な一家だ、きっと無下に扱われることも無い。君、見る目があるね」
丁寧に説明する時間は無い。する気も無ければ、説明自体無くともこの観用少女には分かるだろうと確信していた。だって彼自身が無い心臓で選び取ったひとりだ。自分が喉から手が出るほど欲しかった物だ。それが消える痛みを自分は知っている。だから言えない。行くななんて、自分だけは彼に言えやしないのだ。
「大丈夫だよ」
人間は意外と丈夫だ。また代わりだって見つけられるし見つからなくとも生きていける。時折車窓から、その水色が幸福に煌めくのを見るくらいは許してほしいけれど。
「スノー」
言ってから、ああこの名も消えるのかと気付いた。
握った手を軽く振ってやる。うっかりほどけたとして、誰も悪くないように。
「行っておいで。僕のスノー」
消えると理解した名を再度呼ぶ時点で自分も大概だ。
少しずつ、二人の意志に関係なく、手が離れていく。身体の一部を持っていかれるような喪失感を知覚してはいけない。誤魔化すように笑った。
すまない。思っていなかったんだ。これ程までに――僕が、君を。
「……ありがとう」
さようなら、と呪いをかけてやる事さえ出来ないなんて。
そして、手が――――。
「――――」
温かい。温かい何かに手を握り返されている。
何かではない。本当は分かっていた。これは観用少女の手だ。自分が慈しんだたった一人の温もりだ。
分かっているが信じられない。何故もう無くなる筈だった温度が先程よりずっと鮮烈に感じられる。離れないでと祈るかのように、懸命に繋がれている。
「……行ってしまうよ」
遠のく後ろ姿とスノーと名付けた観用少女が巡り合えるチャンスはおそらくもう一度あるかどうかだ。もし今後この子が彼と会いたくなったとしても一人では屋敷の外へ出る事すら叶わない。そしてどんな言葉で頼まれようと自分がそれを聞き入れるとも思えなかった。
だから今だけだ。この子が安全に自分の元から去れるのは今、この瞬間だけなのに。
無理やりに手を解き背中を押す。それだけの事がどうして出来ない。
「いいの」
観用少女の目を見て問う。
「ぼくで、いいの」
答えの代わりにひときわ強く手が握られた。
振りほどける筈も無い。だって――。
「そう」
この子と居るとこんな気持ちばかりだ。生まれて初めて〝選ばれた〟と思わせられる。手を離したくない、この運命を手に入れてしまいたい――危険な筈のそれがひどく温かく感じられるものだから受け止めて良いのかと勘違いしてしまう。
ああでも。勘違いで何がいけない。
「僕もずっと、君が良かったんだ……」
言えばスノーは目を細めた。
胸の内に広がる感覚もやはり初めてで持て余しながら身を翻す。固く握った手につられ小さな身体が跳ねかけたのを見て慌てて抱きあげた。
目が尋ねてくる。
どこへ行くの。
決まっている。家に帰るのだ。二人の家に。
車内の雰囲気は暗いわけでは無いがかつてなく緊迫していた。向かうパーティーは小規模かつ殆どが顔見知りである程度気心も知れている。自分と忠だけなら問題なくこなせるだろう予定だが――しかし車内にもう一人存在するイレギュラーが自分達に決して油断を許さない。
前のミラーは後部座席の様子をありありと、具体的にはやや心配げな自分の顔と車体に合わせ振動する観用少女の頭を覆うボンネット上部を映していた。
今日のスノーはあくまで普通の美しい観用少女であって特殊な観用少女であってはならない。他の客らに気づかれないよう着せた他所の〝少女〟達が纏うような中世風のドレスは重いのだろう。頷く顔はもとより指ひとつ動かすのも億劫そうだ。
とうとう断り切れなかった愛好家たちの集い。その日時が決定してから幾度となく告げた言葉を今再び繰り返す。
「いいかいスノー。誰に何を言われても遠くを見るか瞬き程度にしておきなさい。堂々とぼんやりするんだ、君のそれは見栄えするから下手に動くより誤魔化せる」
頷く顔は本当に分かっているのか怪しい。観用少女として一通りの礼儀作法は覚えているようだがそれとコミュニケーションは全くの別物だ。このぽんやり観用少女が初対面のお偉方相手には上手く振るまえるなどと考えるのは楽観的すぎる。
「表情なんて作らなくとも君は充分美しい。無理に笑おうとはしなくていいから。むしろするんじゃない、僕だって断片的にしかまだ見ていないものを彼らが見ていい筈……」
袖を抓む指先。小さな爪に落ちる仄かな色味は昨夜何となく塗ってあげたものだ。
「……まあいざという時は僕が何とかすれば良いか」
運転席から聞こえた声を黙認する。慌てぶりからして言葉にする気は無かったのだろうし、どこが甘いんだ言ってみろと責めたとして本当に事細かく指摘されれば流石にこちらが敗色濃厚だ。
件の老人が所有する屋敷は郊外にある分桁違いの広さを誇っていた。丸々一棟観用少女だけの住処があるという噂はあながち誰かの広めた嘘でもないのかもしれない。
受付を終わらせ会場へと進む。穏やかな顔を形作りつつ、脳内では自分達が現れた途端受付担当者が浮かべた不可解な表情が引っ掛かり続けていた。取り繕えていたつもりのようだったが客を侮り過ぎだ。その後も絶えずスノーに不躾な視線を浴びせるものだから不愉快極まりなかった。まったく、観用少女など見慣れているだろうに。
一方視線を浴びながらもスノーは何でもない顔で芝生がそよぐ様を眺めていた。今も自分の横でせっせと足を進めている。視線に気づいていなかったのか観用少女ゆえ人の視線如きでは動じないのか。どちらかと言えば後者に思えた。この観用少女が見せる余裕はこうした場に慣れた者のそれと酷似している。
二人会場に足を踏み入れた瞬間。周囲の目が一斉にこちらへ向いた。続けてざわざわと波紋のように声が広がる。静かに入りひっそり過ごし風のように立ち去ろうと画策したが失敗したようだ。仕方ない、二人なるべくぼろを出さないように――。
「…………?」
何かがおかしい。波紋は消えず、向けられる目の数は増加の一途だ。スノーの事を見破られたかとも考えたが顔さえ判別出来ないような遠くからまで視線を感じるのでそうでは無いだろう。しかしだったら何故。
あれは、まさか、と曖昧に囁く声は狼狽と、それ以上の期待で満ちている。
何だ。彼等は何を言いたい。自分達の何が彼らにそうさせている。
思わず一歩退けば誰もかれもが一歩分こちらへにじり寄った。スノーも戸惑っているようだ。寄せられた身に腕を回し、力を込める。何が起きているかも分からないがこの子だけは守らなくては。
覚悟したそのとき人々が二つに分かたれた。
「――神道先生」
自然に出来上がった通路から現れた主催者もまた動揺しているようだった。額に浮いた汗を拭きもせず近付いてくる。
「これ以上騒ぎになるといけません。こちらへ」
この老人が出れば他の者は引き下がるしかない。
それでもなお自分と、そしてスノーへ向けられ続ける視線は異常な程濁っていた。
「申し訳ありません。御挨拶もせず突然このような……」
「いえ」
むしろそれなりに感謝していた。あのまま、何も知らないままなすすべなく彼らの熱狂に飲み込まれていたなら。想像だけで怖気が走る。
庭と面する入り組んだ回廊を進むことしばらく、小部屋の前で老人が立ち止まった。
「ここまでは御客様もいらっしゃらないでしょう。ひとまず騒ぎがおさまるまで神道先生はこちらに。先生の観用少女は……私の娘達が一時過ごすための部屋があります。良ければそちらへ」
どこからか現れた観用少女がスノーの手を引く。尋ねるような視線に頷けば二人は踊るように部屋から出て行った。事態の収拾をしてくると老人も去り、部屋に一人となった途端緊張の糸が切れたらしい。全身からどっと汗が噴き出た。耐えきれず座り込む。
予想の範疇を完全に超える事態に心も体も混乱しているようだ。急ぎ呼吸を整える。一刻も早く精神だけでも立て直さなくては。そして考えねばならない。客達があれほど動揺した理由と、この会場から脱出する方法を。
落ち着くため目を閉じ、そして開けば。
「……ん?」
すぐ側に一体の観用少女が立っていた。
知らない――いや、知っている。先程見た老人の観用少女だ。
「君、スノーと一緒に居てくれていた子だよね。どうかしたのかな?」
こちらの声掛けに観用少女はくしゃりと顔を歪ませ真っ直ぐ横に腕を上げる。
指を一本立て何処か指し示すその手には小さくとも赤い、傷のような。
「……ッ、すまない!」
立ち上がると同時に床を強く踏みつけた。
走る。一目散に。形振り構わず。示された先へ一秒でも早く辿り着くためがむしゃらに腕を、やみくもに足を動かす。
苦しいと心臓が喘ぐ。だからなんだ。あの傷を見ただろう。想像しろ。もしあれを付けられたのが他の観用少女だったなら。自分がたった一人出会えた――自分を選んでくれた、あの子だったなら。
「スノー……!」
叫び、回廊を曲がった瞬間――体内の血が全て凍り付いた。
長く続く廊下の奥。先程居た部屋と似た作りの部屋、その扉横の壁にスノーは寄り掛かっている。けれどどうにもその姿が見え辛い。
覆いかぶさるようにスノーの行く手を塞ぐ巨体を知っていた。それなりに年を食っているにも関わらず使い道の無い男。ようやくこちらに気づいた男はバタバタと大股で数歩下がり、趣味の悪い装飾品を幾重にも着けた手を慌ただしく振る。
「神道君。違うんだ、これは」
「何を」
脳の何処か遠い箇所からもう少し声を和らげるよう指示が下された。印象を良くしろ。善人の仮面を被れ。そうしなければいざという時自分のような後ろ盾に乏しい若者は消されてしまう。
「何をされているのか、教えて頂けませんか」
分かっている。だが駄目だ。制御が効かない。
勝手に足が進む。近づこうと、妨げようとする。
「先生。御存知では無いやもしれませんが、その観用少女は――」
美しい存在だ。特別な品だ。自分の観用少女だ、自分だけの。
「その子は――」
他人が触れて良い筈があるか。ましてや欲に塗れた手など。許される訳も無い。
靴底が床を叩く度やけに長い音が廊下へ響く。近づくにつれだらしなく床へ崩れ落ちる巨体。その足先が広がるスカートの裾に触れたように見え一層足に力が入ったその時、突然視界の下側がフリルの付いた布で埋まり、腹にそれなりの質量が刺さった。
「――っ、……?」
最後の数歩を向こうから詰めこちらの懐へ飛び込んだスノー。余程勢いを付けたのか折角着けさせたボンネットは意味を失っていた。隠していた水色が陽光にきらめくのに気を取られ一瞬白くなった脳内に香りが注がれる。鼻をくすぐる生花に近い芳香には覚えがあった。屋敷でくぐらせた香水だ。自分が選んだ。誰に。そうだ。この子に。
ぐりぐりと動かされる頭、小さなつむじを見るうちに心は凪いでいた。
「スノー」
なるたけ優しく撫でれば頭は止まった。見上げてくる、探るような瞳に案じなくとも良いと目で返し自分の背後へ回るよう密かに示す。
男はまだべったりと尻を床に付けたままだった。
「……失礼しました。この子はまだ人に慣れておらず……」
「あ、ああ。いや、私の方がその、急に近づいたから」
よろめきつつ立ち上がった男が口の端をにたりと吊り上げる。
「そう、スノー、と言うんだね。良い名だねえ。ぴったりだ」
歯の隙間から空気を出すような笑い声に背後の観用少女が身を強張らせた。勘が告げている。スノーについてこれ以上知られるべきでは無い。
「……先生。どうやら僕の観用少女が疲れてしまったようで」
合わせるように聞こえた下手な咳真似は、しかし効果があったようだ。
「それはよろしくないな。皆さんには私から伝えておくからもう帰りなさい」
「ありがとうございます」
「それじゃあスノーちゃん、さようなら。神道君も」
「……ええ。さようなら」
回廊の道順は奔走するうちに粗方覚えていた。
急ぎ会場外へ足を進める自分達に視線が纏わりつく。それら全てが自分宛てでいない事実に最早違和感を抱きもしない。せめて小さな身体にそれが直接触れることの無いようさり気なく遮りながら、感じていたのは後悔、そして決意だった。
可能性を恐れるあまり目を逸らしていた愚かな男。自分はこれからお前と決別する。
時間が掛かるだろうと予想していた申し入れは驚く程速やかに受け入れられ、事件の日から数日経たないうちに自分は再び老人宅へ足を運んでいた。
「申し訳ありません」
秘書も連れず現れた老人は目を合わせるなり深々と頭を下げた。
「彼には然るべき処分を下しました。もう先生の観用少女に近づけはしないでしょう」
回廊では今日も、丁寧にカモフラージュされた監視カメラが無数に作動している。自身の観用少女を害されたのだ、必ず犯人を捜しだし報復するだろうと踏んでいた。自分が手を下せば角が立つがこの老人相手が相手なら周囲も庇えない。
スノーだけでなく観用少女その物と関われないよう徹底的に潰されたであろう男の席は今日も空いていた。おそらく今後戻って来る事もないだろう。
小さな部屋には新たにテーブルと椅子が数脚、湯気の立つカップと少量の菓子が用意されていた。老人の呼びかけに部屋へ入って来た数人の観用少女、差し出される手のなかには包帯を巻かれた物もある。彼女等へ菓子を配り終えた老人は世間話をいくつか、そしてさもその延長のようにあるひとつの言葉を口にした。
「――天国の涙?」
「ええ。神道先生は観用少女の涙を見たことはありますか」
泣かせかけた事なら、と思いつつ否定したのは正しかったようだ。「そうでしょうね。観用少女は普通泣かない」と老人はカップを傾けた。
「しかしある一定の条件を満たした観用少女はときに涙を流すのです。天国の涙――それは美しい宝石になるのだとか」
「それは素晴らしい。真実であれば」
「真実ですよ」
「何を根拠に……」
「見た者が居るのです」
揺れた指先が柄を掠り、ひどく耳障りな音が響く。
「数年ほど前噂が出回りました。持ち主の死を目の当たりにし涙を流した観用少女。業者が回収に来たときには膝元に青い宝石が散らばっていたそうです」
「……もしや、その観用少女がスノーだと?」
「確定ではありませんが。特徴は一致しますね」
宝石の色味にはいくつか説があるのだと老人が続けるなかカップはいつまでも鳴いていた。
「髪色と同じアクアマリン。あるいは瞳に似たターコイズブルー。そんな観用少女を私は知りません――神道先生のいとし子以外」
紅茶が冷めきるまで話は続いていた筈だがその殆どを思い出せない。
唯一思い出せるのは観用少女が涙を流す条件。
極上の環境で愛しみ育まれた極上の観用少女であること。
「しかし神道先生。私はこうも思うのです。観用少女へ至上の愛を与え――そして観用少女に心から愛された持ち主こそ、彼女達の天国を分け与えられるのだと」
帰宅後数時間経過しているにも関わらず、上着さえ脱がずに飛び込んだベッドから自分は抜け出せないでいた。
気分は一向に晴れず食欲は欠片もわかない。ひたすらシーツに顔を埋めているとふてくされた子供のような気分になる。本当に子供であったなら今この身で渦巻く記憶も感情も眠ると共に一掃され朝目覚めれば自然と何処かへ去っていくのだろう。だが生憎自分はとうの昔に大人だった。この部屋で子供と呼べるのは一人だけ、自分の上下左右をうろうろと這いまわる小さな観用少女だけだ。
「……分かった。そろそろ起きるよ」
身を起こしナイトライトを点ける。鮮明になったこちらを見上げてくる視線をつい躱せば尚更興味を抱かれたようで、より遠慮のないそれが向けられた。
魔除けたるターコイズに見つめられて苦しいなど、自分は魔か。魔なのか。
「……スノー」
穢れの無い美しい双眸。ここから透明な液体が落ちたのだと――見知らぬ他人の為にこの子が涙を流したのだと考えただけで、ぞっとする程黒い感情が喉からせり上がる。
そんな事を知る由も無い観用少女が平気で身を寄せてくるのにさえ感情は容易く膨れ上がった。
この身体を抱き締めた者が自分以外に存在する。
想定していなかった訳では無い。むしろその瞬間心を乱さないよう最悪のシミュレーションを何度も繰り返してきた。
しかし改めて己よりスノーに愛されていたかもしれない存在を、その影を目にしただけで容易く心は粘度の高い悪意に侵されていた。
悪意の名を明白にすればより心は悶えるだろう。
しかし、どう見ようとこれは嫉妬だった。
うらやましい。スノーの元持ち主。故人でありながら噂の中で彼からの愛を証明され続けている、自分ではない誰かが。
「スノー」
名前を呼ぶのは暗く沈む心に一筋光を入れるためで、幾度となく呼び続けるのはそうしなければ間に合わないからだ。光は弱いから。何度も呼んでこの子へのあたたかい感情を心の中に蘇らせなければ、すぐにでも心は果ての無い暗闇へ飲み込まれてしまうだろう。溢れ出た欲望と共に。
訊いてしまいたい。
僕が好きか。人間を愛する使命を帯びた人形は必ずや肯定する筈だ。そうされた自分は更に問う。では何故泣いてくれない、何故――。
分かっている、こんな物は性質の悪い八つ当たりだ。観用少女は衝動をぶつける為の道具ではない。彼の存在は人間を愛し、愛される為だけに。
けれどそれならどうして。自分には――。誰かには――。
ひどく揺らぐ視界の中、温かみのある光にスノーが照らされている。
長いこと動き回っていたせいか寝巻はひどく乱れていた。直してあげようと伸ばしかけた手が肌に触れる寸前で止まる。
これで良いのか。子供のような優しく慈しむ愛では駄目なのでは無いか。だってこんなに愛しているのに自分は見ていない。この美しい目から涙の一つも溢せない。
違う愛なら。
暴く愛。深く刻む愛。奪い尽くす愛であれば。この白い肌の下に隠された美しかろう宝石を無理やりに引きずり出す事も、あるいは。
――そうだ。彼が泣くのを待つ必要なんて無い。自分から手に入れてしまえば良い。
泣けば――泣かせれば。
ああ、それは。とても得意だ。
「……おいで」
膝に乗り胸に身を預けてくる姿は愛おしく、底なしに憎らしい。名を呼ぼうとも光が届かなくなるほどに。
「スノー……僕の、スノー……君は僕の物だ……そうだろう?」
スノーは事も無げに頷く。当たり前だ。彼は自分の所有物、何も間違ってなどいない。
「僕は苦しくて……君に助けて欲しい……」
人形に何をと失笑する脳内はしかし嘘を吐くなとは言わない。身の内の全てが知っていた。この小さな体躯へ自分が抱えてしまった滑稽で深く馬鹿らしい真実を。
「助けてくれる……?」
助けてくれ。君だけだ。君だけが見せられる証拠で、どうかこのどうしようもない男を救ってくれ。
きっと何も気づいていないだろうスノーがもう一度頷いた。
哀れな子。可哀そうな子。
なんてかわいいこ。
「ありがとう」
愛している。愛しているんだ。君のせいで人形に向ける筈もない愛を、欲を知ってしまった。まがい物の心から同じ感情を返されたいと切望するようになってしまったのだ。
丁寧に着せてやった服に手を掛けた瞬間頭の奥がふっと重くなった。
この行為で傷つくのは彼一人だ。苦しむのも。ああけれど、結局ここに行き着いてしまった事に自分が何も感じていないわけではないらしい。
いつかの彼に向けてか、もしかするとこれからすぐ気づく彼宛てかもしれない、懺悔のようなそれが独りでに零れる。
「許さなくていい。だから」
だから、どうか。たった一度、一粒を。
愛を――――。
焦点の合わない視界で突如脱がしかけの服が波打った。内から出て来た細い手が首にそっと回ったかと思えば、頭ごと前へ。
どこにそんな力を隠していたのか。無理にこちらを近づけさせた観用少女はいつもの何も分かっていない顔のまま更に近づき。
「――――」
まぶたへひとつ落とされた口づけは涙をぬぐうかのように優しかった。
咄嗟に目頭を押さえたものの当然涙など出ている筈も無い。けれど一度でも瞬きすれば確かに目の奥で溢れる堰き止めきれない程の熱さが零れてしまいそうで、見開いたままただただスノーを見る。当然思考など完全に停止していた。呆けていたと言っても良い。
ほんのわずかの時間が過ぎた後スノーは首を傾げ。
何を勘違いしたのか再び唇を。頬へ、そして。
唇に触れた体温に、虚を突かれ続け阿呆と化した心が呆気なく崩壊した。
首から離した手へきつく指を絡ませ、少し開いた唇へ躊躇うことなく己のそれを重ねる。びくりと跳ねた舌を軽く食めばたちまち甘さが広がった。胸焼けするような濃い味はしかし癖になりそうだ。たまらずより深く口づける。
スノーの口内は熱い。冷たく感じる色薄い肌の内にこれ程の熱が存在するというのはひどく劣情を掻き立てられる。歯列をなぞり、歯の一本一本からさえ取り込むように貪った。自然に行える筈の呼吸を情けなく乱し顎を伝う唾液を拭いもせずキスに没頭する。子供でも有り得ない必死さで彼を求めていた。
いつからそうしていたのだろうか。観用少女の身をベッドへ押し付ける手は、確かに自分の物だった。細い腿の間に足が割り込もうとする。首筋やその下にやたらと目が行く。
どこか遠くで警鐘が鳴り続けている。けれど止められそうもない。この小さな体躯に宿る熱を食らいつくしたくてたまらない――!
「は、っ……は――――」
蹂躙するためねじこんだ舌に――薄いもうひとつが絡んだ。
「……っ!?………………ッッ!」
あまりの事に戻って来た正気を何とか確保。そして全力で己の頬を殴りつけた。
目を閉じ激痛に呻きながらも脳内は次目を開いた時映る光景の事しか考えられない。
心底怯えながら目を開けば、彼にしてみれば突然こちらが奇行に走ったようにしか見えなかったのだろう、スノーは不思議そうに目を瞬かせ――ぱかりと、口を。
真っ赤な顔から差し出すように伸びた舌はなお赤く染まり、軽く動くだけで視線を吸い寄せられる。すっかり染まった唇の端からつうと零れるどちらのものとも思えない線。軽く吐かれる吐息さえ悦びに満ちているように思うのは幻聴だ。そうに決まっている。大きな瞳の奥に妖しい甘さが見え隠れする度ぞくぞくと背筋に震えが走り再び箍が外れそうになるのも錯覚であって欲しかった。
「……自分からしなくていい」
何を言っているのか最早自分自身理解出来ていないのだから同じく理解出来ていないだろうスノーは、しかし頷き目を閉じると少しだけ唇を突き出す。
頭どころか脳が割れそうだ。
急遽生み出した鋼の理性で跳ね起きクローゼットへ走った。清潔な布その他を取り出すとふらふらついてきたスノーの口元をなるたけ丁寧に拭き、まだ事態に追いついていなそうな身をベッドへそっと寝かせ顔を逸らしつつ宣言する。
「もう寝よう」
これは逃亡ではない。今夜の事も服の皺も明日考える。そのために英気を養う必要があるだけだ。
いっそ頭まで被ってやろうかと羽毛布団を両手に持てば自分と布団の間にひょいと何食わぬ顔で観用少女が入って来た。そういえば最近寒くなってきたから、何となく抱きしめて眠るのが恒例になっていたのだった。何を考えているんだ馬鹿――いや、それはどちらかと言うと今の自分に突き付けられるべき指摘だろう。本当に何を考えているのだか。
観用少女は既に目を閉じ眠る姿勢だ。離れてくれなどと言える訳もなく二人横になったが、ついわずかでも距離が置けないものか模索してしまう。
あんな事をされて何故こうも変わらずいられる。自分の方は未だに感情を整理出来ないどころか目下としてあらゆる欲望を抑え付けているのだが。
しかし寒がるように足を擦り合わせているのを感じればより深く抱きしめる他なかった。暖房は作動している。これが観用少女の甘え方なら全く、敵いそうにない。
布団がぼふりと大きく音を立てるなか、隠れてしまっても良いとそんな気持ちで呟いた〝ごめん〟は慣れていないせいかあまりにたどたどしかったが、スノーは変わらず頷き一つで受け入れ返事代わりに軽やかなキスをした。
これと寝るのかと思うと絶望的な気分になるが仕方ない。罰として甘んじて受け入れよう。
問題は――明日からだ。
「……あの、愛之介様。これは」
法の一つや二つ易々引っ掛かるだろう長銃を手渡してから、絶えず忠の顔色は青い。
「撃て」
「は……」
「僕がスノーに不埒な真似をしかけたら撃て。即撃て」
命令と意思の狭間で葛藤した挙句「出来ません」と声どころか身も震わせ犬は言う。仕方ないので構えるだけに緩和して再度命じたがそれでもまだ受け入れ難いらしい。震え続ける手の中で長銃は宙に浮いてさえ見えた。
やり過ぎである事は承知の上だ。しかし命くらい関わらなければ完全に己を止める事は出来ないだろう。
これ程までに自分を信用できなかった事もそう無い。正真正銘彼は特別で、だからこそ無体を働くわけにはいかないのだと説明したところで何か言いたげな目線に気づく。吐けと命じれば「意見ではありませんが」と目を伏せたうえで。
「何故愛之介様が己を律せねばならないのか分かりません。望むままになさってよろしいのでは?人形ですし」
自分も大概社会規範から外れた人間だが時折この男が覗かせる物には正直負ける気がしないでもない。
「数か月前あの爺共に何を思っていたか忘れたか。俺がしたのはあれらと同じだぞ」
もしかするとあれら以下。下種の振る舞いだと自嘲するこちらを「違います」と真顔で忠は一蹴する。
「先生方は愛之介様ではありません」
「……スノー」
日を浴びていた観用少女に手招きすればとことこと駆けてきた。そのまま膝に乗るよう促す。
「昨日と同じようにしてごらん。……見ていろ。視認すれば僕の行いがどれ程か――」
分かるだろう、と言いかけた口が止まる。というか塞がれた。そういえばふりでいいと言わなかったな、とガンガン鳴る頭を押さえつつ。
「忠」
「はい」
「別の方法を考える……」
死ぬくらい受け入れてしまいそうだ。洒落にならない。
喜んでいるのが丸わかりの犬は放置としてスノー。窓から射し込む日の温かさに目を伏せつつある観用少女にどう説明するべきだろう。単純に考えるならば一言やめてねと言えば良いだけの話なのだが、正しいとは思いつつも全然全くそうしたくはない。
観用少女に狂った人間というのは漏れなく堪え性を無くす運命なのかもしれない。
適当な結論で締めつつ手に取るのは昨夜のうちに投げ込まれていた石を包んでいたという紙。汚れたそれにのたくる子供のような字は解読する必要も無い程怨嗟に塗れている。
「まったく、たかが人形一体に必死なことだ。ねえ?」
早くも膝の上でうたた寝に勤しんでいたスノーは目を開き、問いの意味さえ分からないだろうにこくんと首を振った。えらい。功績に応じ撫でを与えればうっとりと目を閉じる。素直でえらい。撫で追加。
「僕に撫でられると嬉しい?ふふ、良かった」
ともあれこのような嫌がらせが続けばハウスメイドからいつ〝家〟へ連絡が行くか分かりはしない。面倒だが早急に手を打たなくては。
「おい。今週中の昼間で長く使える時間は?」
「三日後ですね」
ならそこにしよう。
迫る時間に観用少女を膝から降ろせば眉がほんのり下がったように見えた。名残惜しいと彼も思ってくれているのだろうか。そうであれば良い。
「ところでスノー。君、三日後空いていたりしない?」
わざわざカレンダーを確認してからスノーは揚々と頷く。
「その日君をデートに誘いたいんだけど、どうかな。僕とデートしてくれる?」
期待通りの答えに喜びのあまり抱きしめた。やはりこの観用少女が与えてくれる愛情はこのうえなく自分に活力を与えてくれる。失うのは惜しい。この手が彼を、自分達を引き裂くならともかく他人の意志でなど。認められる訳も無いだろう。
「さてと。三日後に向け働くとするか」
「よろしいのですか」
解決もしていないのに。言葉で続けなくとも訴えてくる目は実に正常だ。先程のアレは何だったのか。
「馬鹿を言え。当然考えている」
趣味と実益を兼ねたいだけだ。
「ハウスメイドへ連絡してスノーにとびきりの衣装を用意しておけ。その方が良い囮になるからな」
働いた働いた粉骨砕身働いた。おかげで昼間数時間どころか午後全部空きになった。加えて一応の保険として数日分の事務作業は済ませたし万が一に備え老人に話は通してある。杞憂で済めば一番だが不測の事態というものはいつ発生してもおかしくない。例えばこんな経験もそうだ。潰すつもりで訪れた店で運命に出会う。ほら、いつ起きたっておかしくないように思える。
しかし、それにしても。
「スノー。あまり僕から離れないで」
呼びかけにくるりと振り返る顔はゆるく染まり、戻って来る歩調は実に軽快だ。
布が纏わりつかず快適なのかいつもより元気良くステップを踏む足が午後の日差しに透ける。白いケープコートの下揺れる水色のリボンタイ。小さく振られる手を覆うミトンのようなふっくらした手袋。動きやすさを重視しつつシンプル過ぎないよう選ばれた布地は日にきらめき、歩き始めてからというものの度々人の流れを止めていた。
時間が足りずあまり手を掛けられなかったと裁縫の鬼になりつつある彼女等は悔し気だったがこちらとしては特別手当を出す他無い出来栄えだ。雪の降らないこの街を憐れみ神が遣わした妖精と言い張っても通じるだろう。まあこの衣装に許可を出したのは自分だし彼は自分のものなのだが。
とにかく彼の、他の観用少女ではまとえない雰囲気が強く感じられるこの衣装ならば間違いなく効果は充分。後はいつ来るか――だが。
「楽しいね」
周囲へ見せつけるように柔らかい頬を撫でる。
「もう少し歩こう。そうだな……あの店にでも行って……」
手ずから着せ替えているところでも見せつけてやろうか。スノーを含む沢山の観用少女に囲まれるさまを手の届かない窓の向こうから眺めさせてもいいかもしれない。
「新作の砂糖菓子が入ったそうだから、買って帰ろうか?」
細かく頷く顔に「嬉しければ抱きしめて」囁けば、兎もかくやという跳躍力で跳びつかれた。良い仕事だ。流石は自分の観用少女。
おかげで完全に釣れた。
「それじゃあ、これが終わったらね」
何があろうと対応可能かつ今から起こる事態においては安全地帯だろう位置にスノーを下ろし、仕上げに頭をぽんと叩き言い含める。
「僕が良いと言うまでそこから動いてはいけないよ」
やや遠い位置で叫び声が上がったのを皮切りに通りの空気が一変した。
数十秒前まで穏やかだった世界に響く怒号と鋭い指示、そしてパニックに陥り逃げ惑う人々の足音。四方八方に散らばるそれのうち明確な目的を持って動いていた幾つかはしかし、こちらの靴の先にさえ辿り着くことなく忠が指揮する護衛達によって取り押さえられた。既に別動隊から隠れ家を制圧した旨の報告も届いている。増援は無いとくくって問題無いだろう。残る一人には隠れ家を多数確保する知恵も金も有りはしない。
立ち止まった通行人を押し退けのっそりと近づいてくる男はぎらついた目にこけた頬。微塵も記憶に無い顔だが何故だろう、見ているだけで吐き気が込み上げる。
男の手には鈍く光る物が握られていた。多数の目撃者が出るだろう場所を選ぶとは余程切羽詰まっていたか、雑踏の中だからこそ通り魔の犯行に見せかけられると思ったのか。何にせよ稚拙なやり方だ。本人が出張って来たのも予想を下回って愚か過ぎて言葉も出ない。
凶器の切っ先は寸分違わず目的へ向けられている。
危害を加えたい相手。すなわち、自分へ。
当然だ。犯人の目的が特別な観用少女であっても天国の涙であってもスノー自体を傷つけたところで意味は無い。
その一方で自分を傷つける意味は大きい。持ち主たる自分が居なくなればスノーは再び眠れる観用少女に戻るのだ。後は店から盗み出し己を愛するよう仕向ければ観用少女も宝石も両方手に入る。
いやまったく、何て浅はかで短絡的な思考だろう。飾り立てられたスノーの姿に煽られ見事に誘導されたとも気づかず向かって来る姿は惨めだ。これが選ばれなかった者の末路か。不幸そのものだな。選ばれて良かった。
自分の身を守れる程度の心得はある。凶器を所持していようと素人など敵ではない。
慌てず対処すれば問題無く制圧出来る――筈だった。
「は」
向かってきた男が実に間抜けな声をあげた。もしくは自分が発したのかもしれない。ともかく自分達二人にとってそれは――割り込むように自分の前へ飛び出した子供の身体は、全くの想定外だったのだ。
ケープコートが翻る。大きく広げた手に似合わない小さな背を目にした瞬間無意識に息を呑んでいた。
迷いもしない人形のおそろしさに思考は止まりかけ――、
「――――ッ!」
けれど間一髪。腕を伸ばし、細い手を引き掴んで強引に背後へ回す事には成功した。
庇うとまでは思っていなかったが、この観用少女が時折自分も驚くような行動を取る事は良く知っていた。こんな真似は流石に驚くという度合を超えているが。
二人の立ち位置が入れ替わった事にようやくスノーも気付いたらしい。だがもう手遅れだ。二回目の場所交代は不可能だろう。
迫る凶器も、走ってくる忠も。何もかもがとてもゆっくりと流れていく。
その中心に最も眩いきみが居た。
丸く見開かれた瞳は初めて会った日とよく似ている。あの頃は毎日これが見られるものだと思っていた。まさか眠そうに伏せられてばかりなんて。
けれどそれから愛情を注ぐうちに、沢山の色がそのターコイズブルーに映るのを知った。
喜びの黄色。悲しみの青。純粋な白。嬉しがって、困り果てて――見られなかったのは涙くらいだ。
それも、これで見せてくれるだろうか。
ああでも。一度だけ泣きかけはしたっけな。泣けない筈の観用少女が懸命に涙を流そうとしていた。
ねえ、スノー。
あの日。君が泣こうとしたのは、もしかして。悲しかったからでも、怖かったからでもなく。
――僕のため、だったんじゃないの。
きっとそうだ。君は僕のために涙を流そうと、僕の心に寄り添おうとしていていたのだ。
ああ。それは、それなら。
やっぱりいいや。
泣いてくれなくていい。泣こうとしてくれた、それだけで良い。
それに君が泣かないでいられたなら。涙を流せるほどの相手と巡り合いながら、それでも常にあのぼんやりした顔のままで――幸福であれたのなら。そんな事を嬉しいと思う僕も、どうやら本当の僕みたいだからさ。
なあんだ。不安になることなんて無かったね。不器用でも、相手に届かなくとも。自覚さえ無かったとしても。僕も君も持っていた。美しいそれを互いに贈り続けていた。
僕等は――愛し合えていたのだ。
だと言うのに僕は君にあんな無体をはたらいたのか。言い訳の余地も無い。
いつかちゃんと謝ってあげなくちゃな。
そして言ってあげたい。大丈夫だと。
大丈夫だ、スノー。僕が居なくなっても君をあっさり捨てる程人間達は薄情では無い。それにもし捨てられたとしても君が恐れなくてはいけない未来など何一つ存在しないだろう。
だって君の中には愛が残る。君が手にした愛、そして僕自身気付いていなかった君への愛がこれ程にあるのだ。
君はきっと枯れない。いつまでだって、僕が願ったまま。美しいまま有り続ける。
そうだろう。僕のスノー。
届かない筈の問いかけに観用少女は口を開き、すう、と息を吸ったように見えた。
「 」
――――へえ。
「 」
そんな声だったのか。いいね。きれいだ。
最後に聞く音としてはそうだな、他の何にも代えがたいくらい――出会ったからこうなったとして、出会って良かったと胸を張って言えてしまうくらいには。上々だ。
けれど君にそう願われて自分ばかり満足して終わる訳にも行かないな。神道愛之介は観用少女スノーに選ばれたのだから彼の望みは全て叶えてあげなければならない。うん。
それじゃあ、少しだけ足掻いてみようか。
強引に身を捻った事で確実に何処かしらの筋肉は痛めたが突き刺さる筈だった凶器の切っ先から急所は逸らせた。転倒を防がんとするあまり間違った方向へ捻じれた片足で躊躇うことなく地を踏みしめもう片足を振り上げる。みしりと鳴ったのは自分の膝か相手の腹か。分からずとも、一瞬怯んだのは相手の方だった。隙を見逃さずそのまま力任せに振り抜けばもう二度と会う事の無いだろう巨体が通りへ飛んだ。
何が自分達の勝敗を分けたかと言えばひとつだろう。あの男は傷を恐れ、自分は恐れなかった。代わりに求めていた。腰へ抱きつく観用少女。彼が望む、彼と共に在る生を。
完全に動かなくなった男へ一斉に跳びかかる警護達。それら全員を踏みつけこちらへ来る忠へ告げるのは一言で良い。
「遅い」
とはいえ彼等の対応が遅れたのは狙われるのはスノーだと事前に知らされていたからであり、それを知らせたのは真の作戦内容を知れば間違いなく余計な気を回すであろうこの男を警戒した自分なのだが、だとしても文句のひとつくらい言う権利はある筈だ。
あまりに遅過ぎるから脳が余計なことまで考えたうえ――少々間に合わなかった。
「……!?愛之介様!」
五月蠅い。軽く掠っただけだ。命に別状はない。少し寝かせろ。
顔をしきりに摩る手がある。うん、君もね。そんなに心配しなくて良いから。
今ので分かっただろう。君が望めば僕は何だって出来るんだよ。
人生初の入院はすこぶる暇だ。ベッドの上で出来る仕事は粗方どころか数週間先の分まで終わらせてしまった。復帰次第挨拶回りに向かわねばならないので日中暇はしないだろうが夜明けから朝までの時間をどう過ごせば良いのやら。
「もう数日ですから」
それでも自分の望み通り本来予定していた日数からかなり縮めさせたのだと交渉係を務めた男は言うが、こんな怪我即日退院で問題ない。このままだと退院の前に退屈で死ぬ。
「芸でもさせますか?観用少女、君は何が出来る」
「スノー。それの言葉は聞かなくて良いからこっちへおいで」
自分の声に応じいそいそとベッド横の丸椅子に腰かける観用少女は病院仕様のつもりか白いブラウスに真っ白なエプロンドレス。よく見ると背に小さな羽まで付いている。他人に見られる可能性のほぼ無い完全個室とはいえ病院に自分達は何を持ち込んでいるのか。
「その情緒の無い呼び方は止めろ。この子にはもう僕が付けた素晴らしい名がある」
「しかし愛之介様の観用少女に私が必要以上接触するのは……」
「僕が居ない間結構話しかけていたくせに」
分かりやすく狼狽える犬へ容赦せず追い打ちを掛けた。
「指示しただろう」
盛大に肩が跳ねる。逆に何故気づかれていないと思っていたのだこの男。
スノーがあの場面で即座に動けたのはどう考えてもおかしい。この知識と経験に偏りが見られる観用少女には迫る凶器に気づき自分を守るべく咄嗟にあの方法を選ぶなど不可能だ。事前に誰かから、君のついでに御主人様が狙われるかもしれないからいざという時は盾になるように、と入れ知恵でもされていない限り。
すっかり萎縮している犬はかつての自分以上に観用少女の有り方に興味が無い、というより主人の生存と幸福以外に興味を持っていない。たとえ自分が溺愛していたとしてもスノーは自分そのものではないうえ人形だ。壊れたとしても直せば良いと考えたのだろう。
確かに身体は、そして内側もあの店に連れて行けば修復可能かもしれない。しかし必ず修復出来るとも限らない。再び出会った彼が再び自分を選んでくれるかも定かでない以上この男の行動を許す気にはなれなかった。しかしその一方で。
「お前の気持ちも分からない事は無い」
何を犠牲にしても守りたい。それが相手の全てであり、自分の全てだとしても。
押しつけがましい感情は愛としても三流だが嘘だとも紛い物だとも思わない。
「特に近頃はな。何故か分かるか?」
「……愛之介様がスノーに対し同種の感情を抱いているから、でしょうか?」
「分かっているなら二度とするんじゃない」
良い返事で応じる犬は、しかし今後似たような事案が発生すれば迷わず同じ選択をするのだろう。そして自分も。
ふいにささやかな重みが身体へ伝わった。
ただ座っているのに飽きたのか上体を倒し頭のみ預けてきたスノーは、退くよう訴える声も放置してじいっとこちらを見つめてくる。
初日こそ自分はしばらく帰ってこないのだといくら言い聞かせても部屋から動かなかったそうだが、その後本当に自分が帰らず夜が明ければ大人しく自室へ戻り、それからはひたすら丸まっていたのだとか。片手で軽く髪を梳いてやれば手のひらに頬が自ら擦りついてきた。動物のような率直な愛情表現を堪能する。会えなくて寂しかったのは自分も同じだ。
己の抱く愛に真摯であろうとすれば愛を素に生まれる感情から逃げる事も許されない。美しく優しいものなどほんの一握りで後はすべからく醜悪で暴力的なそれらは時に他人を、自分を、そして目の前の喜びながらどこか不安げにこちらを見つめる観用少女を傷つける。そんな物を抱きながら、抱く事に苦しみながら、それでも求めていたいのだ。偶然見つけて通わせた一握りの温度を自分は知ってしまったから。
そしてどうか、あのうつくしいものといつか再び出会うその時。この子供に似た救いが傍に居てくれますように。
願いを込めて自分が出来る一番良い表情を作った。
「大丈夫」
言えて良かった。
謝るのもまあいつか、もう一度過ちを犯すまでには済ませたいところだ。そんな日は来ないと言えないのは大問題だがこれもまた愛。
「君が看病してくれるなら明日にでも帰れるさ」
軽口にスノーは真面目な顔で頷き、わかった、まかせて――そんな幻聴が聞こえたような。
白い上体が起こされたことでその膝に置かれた皿の存在に初めて気づく。それどうしたの、と尋ねるより早くこちらの死角から取り出された手はどちらも埋まっていた。
片手はテーブルのフルーツ盛り合わせから取って来たらしいりんご。
もう片手は、先程盛り合わせの傍に忠が置いていた筈のフルーツナイフで。
「……おや?」
ところでこの子に刃物を使わせたことはあっただろうか。無いな。どう考えても無い。
「いや君、待ちなさい。スノー」
当然待たずフルーツナイフをスノーは構え――忠、は間に合いそうにないし片足を固定されている自分も動けない。刃渡り二十センチの凶器より突然のフルーツナイフの方が怖いとは知らなかったな。悠長に考えている場合か。そんな事をしているうちにも、ほらりんごの表面にフルーツナイフが当てられて。
わあ、と自分の口から聞いた事の無い叫びが飛び出すなか。
スノーは――――するすると。
「…………」
小さな指が器用にりんごを回し、俎板代わりの皿に細く切れない赤い螺旋を積もらせていく。淀みなく動き続ける手をぽかんと見るばかりのこちらなど置いて彼は怪我ひとつ負う事無く皮を剥ききり、
「…………は」
そのままスムーズに切り分け始めたところで、駄目だった。
「……ぁは、は……ははっ、ははは……!」
体裁も気にせず大口を開けて笑う。無理だ。こんなもの耐えきれる筈がない。
「……愛之介様、笑うと傷に響きます……」
呆けつつこちらを気にする忠犬へスノーを指差し尋ねる。「知っていたか?」「いいえ……」そうだろう。益々笑えてきた。腹がよじれそうだ。実際よじれている。
「忠」
「は、はい」
「やはり明日には屋敷へ戻る。退院手続きを済ませておけ」
何か言いたげにしつつも犬は早足で病室から出て行った。正直命じつつ通るかは微妙だとも思っているが本人の意思と自宅にあるそれなりの施設が考慮されあれが張り切ればどうにかなるのではないだろうか。
無事切り分け終わったりんごの一片にフォークを刺しこちらへ差し出す顔は相変わらず表情に乏しく、けれど不思議と自分がりんごを食すのを心待ちにしているのだと伝わった。仕方ない。可愛い奉仕に応えてあげるのも持ち主の役目だ。
「あー、ん」
そこそこ薄めに切られていて食べやすい。観用少女に料理機能が付いている訳も無いし一体どこで覚えたのだろう。料理人、ハウスメイド、前の持ち主――では無いと思いたいが有り得ないとも言い難い。そうだとしたらものすごく複雑なのだが。
小さな体にまだまだ潜んでいるらしい秘密を知りたいような知りたくないような。どちらにせよもう目は逸らさないと決めたのだ。何が来ようと受け止めるべく今から心の準備を――。
「 」
「ああ。美味しいよ…………ん?」
思わず観用少女と目を合わせたその時、壊れる勢いで病室のドアが開いた。
「愛之介様!どうにかなりました!」
「でかした。よし帰るぞ」
「えっ?いや明日……」
一人寝ている暇など一日だってあるものか。目を覚ましベッドを抜けて、自由に変わり続ける羽付きの背中を追いかけなくては。
去れないように捕まえて。守れるように抱きしめて。それからきっと手を繋ぐ。
先で待つ何てことの無い現実へ。歩くにしろ飛び込むにしろ、二人一緒に行く方が楽しいに決まっている。
「君もそう思うだろう」
差し出した手を当然のように小さな手で握りしめ。
観用少女はターコイズブルーを細めた――だけではなく。にっこりと。
「……笑っ……た……?」
「……お前は観用少女を何だと思っている。この子達には心があるのだから、笑いたくなれば笑う。当たり前だ」
口では何とでも言えるなと我ながら感心してしまった。勿論初めて見る笑顔に脳内は総出で腰を抜かしている。取り繕えているのは殆ど奇跡に近い。
ああやっぱり君には驚かされてばかりだな。
「良いよ。スノー」
それでこそ僕の運命だ。
言えばスノーはでしょう?とまた溶けるように表情を崩す。この世の何より美しいそれを連日快晴の続く空から太陽がやわらかく照らした。春はもうすぐそこだ。