かなしい 逃げようよと言ったとき嬉しそうにしてくれた。その訳を知っている。
窓ガラスの向こう側、古そうな平家の扉が開くのが見えた。咄嗟に身を助手席におさまるように屈める。一言二言言葉を聞き取れない程度の会話が流れてきたなら続いて向かってくる足音が、そして運転席側のドアが開く音がして男が乗り込んできた。腕の中には大きな紙袋。こっちへ渡してシートベルトを着ける。
「待たせたね。行こうか」
口から出たのは空咳だった。大丈夫かと尋ねられて頷く。喉の奥まで上がっていた言葉を無理矢理留めたから少し誤作動を起こしただけだ、掠れて小さい声でなら喋ることも出来る。けどそれでは男にとって不十分だったようだ。心配そうに背をさすっていたのを止め、下ろした荷物をさっと開く。
「空気が乾燥しているかな。今温かいものをもらってきたから、よければ飲むかい」
傷付いた喉から、それよりも早くここを出た方が良い、と途切れ途切れに訴えても男はうっすら微笑むだけで。
「少しくらいは見逃してくれるよ。さあ」
突き出された湯気たつタンブラーを取る。良い香りがした。男が好んで飲んでいるそれの香りに違いなかった。
覗いた紙袋の中身も男好みの料理と小物ばかりだ。男にこれを渡した相手が良い夜食になるようにと心を込めて詰めたのだろう。おそらくはあの平屋の窓、カーテンの合間からこちらを見続ける目の持ち主。
「落ち着いた?」
「……うん」
「良かった。それじゃあ」
「愛抱夢」
「何だい」
「どこへ行くの」
「君が行きたい場所があるならそこへ」
「無い」
「であれば別の協力してくれそうな人のもとへ向かおう。子供の頃の家庭教師でね、勉強以外のことも随分親身になってもらった。しばらく会っていないけど事情を話せば必ず力になってくれる……」
限界だった。
やめて、と言えば男はあっさりと喋るのをやめた。足元が振動する。動き出したのだ。振り返れば、遠くはなっていたけれどはっきりと、目が居なくなっているのが見えた。
暗い夜を車に乗って進むなか、何回も唇を噛んだ。
いつの間にか世界は仄かに滲んでいた。目元を拭ってこようとする男の手をのける。けれど男はわずかな怒りも見せず眉を下げ唇を歪めるように笑うだけで、それがますます体内に暗い熱を渦巻かせた。
「行きたい場所思い付いた」
「どこ?」
「誰も居ないところ」
言って顔を伏せた。返事を訊く気もない、ひどい意思表示。やっぱり男は怒らない。そして、いいよ、連れていってあげるよ、といつもの飄々とした態度で請け負うこともないのだ。
腕に力が入ったか紙袋がくしゃと音をたてた。それくらいでは壊れないように丁寧に詰められた情は理解し難い。そんなに大事に想っているならどうしてこんなものしかくれないのだろう。
わからない人だらけだ。あの家の、今頃どこかへ連絡しているだろう目の持ち主も、気付いているだろうに何食わぬ顔で運転を続ける男も。
「逃げたくなかった?」
「ううん」
「だったら逃げてよ。俺と誰も居ないところに行ってよ」
肯定でも否定でもなくすまないとそう言うのならせめてもう少しすまなそうな顔をして欲しい。思うのは我儘だろうか。大人である彼と同じく大人である彼らがちゃんとわかっていることを、わかりたくないと抗ってしまうのは子供過ぎるだろうか。
「……君がああ言ってくれたとき僕は嬉しかったよ。実のところ中々疲れていたから。身に沁みた。今も、そう言ってくれてとても嬉しい」
知っている。嬉しそうだったし嬉しそうだ。
一方で、もし本当に逃げられるなら同じようにはしてくれなかったと、それだって知っているのだ。
「だからランガくん、そんな顔をしないで。君がくれるささやかな楽しみは確かに僕を救っているんだから」
ささやかな楽しみ。自分の決意は男にとってその程度にしかならない。けどこれが偽りの逃避行だからこそ男は嬉しいと言い、監視の中をある程度まで、ふりだとしても、二人で駆けて行こうとするのだろう。そこに救いがあるのならそれはおそらく幸福なことで、そしてどうしようもなく。