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    20220530 呼称のすごい捏造その他全て大暴れ 閲覧注意
    忠とランガが海行って歩いたり走ったり

    これも続きがでてきた うわー

    ##暗い
    ##全年齢

    人間いじょう未満 明け方抜けた台風の名残か。明るい空に反し、海はやや荒れていた。
     完璧とは言えないロケーションに菊池忠は一瞬ひやりとしたが幸い彼に己を此処へ連れて行くよう頼んだ同乗者は不満など感じていないようだ。いつもと変わらない無表情で窓越しの浜辺を眺めている。
     安堵しつつロックを外し、忠は運転席を降りた。
     日光を浴びた車体の照り返しに思わず目を眇める。並んでいたレンタカーの中では一番無難な色味の物を選んだがそれでも見慣れた黒に比べると派手だ。
     後部座席側のドアを開ければ即座に地を踏む真新しい一足。久方ぶりの外出の為先程下ろした品だった。衣服も同様に今朝箱の山から選んだばかり。普段着せているものよりシンプルな作りだからか薄い生地からは常よりやや青みの強い肌が透けて見えている。モーターボートを降りる際日焼け止めは塗り直させたがこの陽射しだ、それだけでは不十分かもしれないと更なる日焼け対策の準備を整えていた忠はしかし、同乗者こと馳河ランガが彼を待たず歩き始めたのに手の動きを速めた。
     急ぎ日傘だけ持ち出して、忠は進んでいくランガを呼び止める。
    「ランガさん」
     忠がランガをそのように呼び始めたのはいつだったか、正確な日付を答えられない程度には時間が経過していた。一方で切っ掛けとなった出来事は鮮明に思い出せる。忠の主人でありランガとも浅からぬ繋がりを持つ今此処に居ない男から自分の同胞であるランガに相応しい扱いをと命じられたのだ。その日以来忠は――表面上かつ主人へ向けるものとは比べ物にならない度合いでだが――ランガへ敬意を払い、彼を汚れに関わらせないよう配慮し続けている。
    「待ってください。夕方とはいえまだ日差しが強い。直に浴びれば肌を痛めます、どうぞこちらへ」
     言って日傘を広げれば、ランガが無言で踵を返した。忠より僅かに背の低い少年の体躯はすんなり傘の内へ収まったように思えたがしかし、流れるように出て来た手は忠の持つ傘の柄を奪おうとしてくる。さほど突飛でもない行動は予想の範囲内だった。優しく叩き落とすことは容易くないが難しくもない。
    「お気になさらず。私が持ちますから手を下ろし、ランガさん、手を」
     多少もたついたものの手を下ろさせる。すると、うっすら眉間にしわを寄せたランガがぽつり呟いた。
    「ただしくんこそ気にしなくていいのに」
    「……いえ。私は何も」
    「何もなことないよ。ここまで運転し通しで疲れてるだろ。俺はひとりでも平気だから、ただしくんは休んでいて」
     十以上年の離れた男向けとは言えない呼称を耳にする度忠はいたたまれない気分になる。そして呼称の提案者である主人、神道愛之介へほんの少し複雑な感情を抱くのだった。
    『お前がランガくんを年長者のように扱い、ランガくんがお前を同年代か年下のように扱う。良いんじゃないか』
     遊びであることを強調するようにくすくす笑う愛之介へ忠はからかわないでくれとも「呼称を揃わせたくないのならそうおっしゃってください」とも言えなかった。何故主人が本音を隠すのかは分からなくとも、隠した本音を晒されて良い気分になる者が居ないことは分かっていたからだ。
     忠は主人の一切を理解出来る訳ではない。
     だからこそ理解出来た部分には寄り添いたいと思っている。
     出来ない部分であってもせめて寄り添おうとする志は持っていたい。ランガについてもそうだ。何故彼を己の主人が傍に置くのか忠には明確な理由が見えているわけではない。だが求められれば別邸へ誘い込み、意を汲んで留まらせ、帰さないようにとの命にも返事一つで従える。部屋に外から鍵を掛ける間だって僅かの疑問も抱かなかった。主人が望んでいる。それだけで充分人の道を外れられた。頭に靄をかけ目を曇らせることが出来た。
     現に今も忠は、隣を歩く人間を意思ある個人というよりか主人の所有物に偶然生命が宿っている稀有な例として見ている。
     否。
     そうとしか見られない。
     ランガが別邸へ来てから、忠はランガの手となり足となり生活を支えてきた。今後も命令が撤回されるか新たな命令を下されるまでは出来るだけの面倒を見るつもりでいる。許可が下りれば部屋の鍵を開けこのように行きたい場所へ送迎することもやぶさかではない。しかしそれはランガの安寧がそのまま愛之介の安寧に繋がるからだ。
     あくまで忠が尊重するのは心に決めた主ひとりだけ。だからランガの気遣いを突っぱねてでも彼の側を離れないようにという主人からの言い付けを優先するし、穏やかな横顔より腕時計の記す時間を重視する。
    「気は済みましたか」
     返事は無かった。
     だが聞こえてはいたようだ。分かりやすく彼方を向いたランガへ引き続き忠は声を掛ける。
    「済んでいなくともそろそろ帰りましょう。じきに日が沈みます。今夜は冷えるそうですから早めに」
    「俺なら大丈夫」
    「いけません。油断しているとまた伏せることになりますよ」
     身軽な動きのせいでそう見えないがランガの心身には数度の投薬の影響が未だ残っている。今の彼は以前に比べ遥かに脆い。詳しく伝えてはいないがランガ自身もそのことに気付いているだろうと忠は推測していた。遠ざかったとはいえスポーツ経験者、精神はともかく肉体の変化については自然と敏感になるものだ。
    「それに約束は守らなければ。お忘れですか?」
    「……ううん。忘れてない。ちゃんと覚えてる。夜には帰るってあの人へ約束した」
    「でしたら」
     伸ばされた手、押し退けられる傘。
     高く上がった腿は始まりを予感させる。
     日の下に飛び出した爪先が向いているのは車を停めてある場所とはまるで逆方向だ。
    「ランガさん!」
    「わかってる」
     呼び掛ける忠へ振り返り、一度笑ったなら、
    「だから、あと少し」
     それだけ言ってまた前を向き、何事も無かったかのようにランガはずんずんと砂浜を進んで行った。
     あっさり背中が遠ざかる。
     ひとつ溜息を吐くと忠は日傘を畳んだ。とぼとぼと出来たての足跡を辿っていく、常にランガを視界の中心に収めながら。
     強い風が薄色の髪を乱し首筋をあらわにする。傷ひとつ、赤みひとつ見つからない肌は好意的に見ればうつくしく、穿った見方をすれば人らしい生気に欠けていた。主人の感性に近いのは前者だろう。後者は忠の勝手な、おそらく間違った感想だ。たとえ、深く傷付けられた肌がいつの間にか元の色を取り戻す、不可思議な現象を幾度となく目にしたすえ抱いたものだとしても。
     目立つ容姿だ。しかしその程度。観察したところでは性格も価値観も多少のズレこそあれいたって普通。主人と共に滑れるだけの才と奇跡を期待したくなるような不思議な佇まいを除けば何処にでも居る子供でしかない。
     当初抱いていた印象は関われば関わる程無残に変化していった。
     口に出した事は無い。これからも、一生無い。愛之介とランガが同胞であるならばランガへ向けた言葉はそのまま愛之介へ向きかねない。だから言わない。けれど、ランガの肌から傷が消える度、その目が光を取り戻す度、声にはならない心中で忠は思い続けている。
     外見も内面も。何処にでも居る子供にしては。
     ランガは特異だ。
    「気持ちいい……そうだ、この辺りの風ってこんな匂いだった……。何か懐かしいな。しばらく外には出られてなかったし、出ても匂いなんて感じる暇無かったから。ふふ」
     突然奪われた自由をどうして笑い話に出来る。度胸が据わっている、それだけでは耐えられない不幸だろう。特段苦痛だと感じていない、流石に有り得ない。己が置かれた状況を正確に認識出来ていない、これも違う。だとすれば長期間ベッドからろくに出られなくなった原因、度重なる逃亡騒ぎを起こす理由が見付からない。しかしでは何かと問うたところで脳は雑な回答さえ示さない。
     ランガについて深く思考することを拒む己を自覚する度忠は苦々しい気分になる。
     このような目にあってなお陰らない人間性は理解し難いが密かに評価もしていた。そしてこちらの方がずっと重要だが、主人好みだとも思う。
     だがそれでも――愛之介がランガを望んでおりランガの存在は愛之介を喜ばすと理解しながら、なお――主人の傍にランガを置き続けてよいものか、簡単な筈の結論が忠には出せない。
     予測の付かない行動。耐性の無い忠どころか時に主人も振り回す爆発力。抱えているだけで厄介が舞い込むイレギュラー。あえて危険を冒したがる主人のさがを否定するつもりは無いが、ただでさえ人間一人宝箱にしまうのは容易いことでは無いのに選んだのがこんなリスクそのものと呼んで差し支えない少年なせいで余計な問題まで背負いこんでいないだろうか。せめてもう少し賢いか阿呆か、一度壊せば二度と戻らない者を選んでいたなら、都度部屋の鍵を丈夫な物へ変更するよう言い付けず済むだろうに。
     それほどか。いくら特異で主人にとっては特別だとしてもランガでなくてはいけないのか。
     いけないのだろうな、と忠は己の問いに自ら答えを出し、靴底で砂をかきまわした。
     理解出来なくとも寄り添いたい。同時になるべく面倒の無い道を進んで欲しくなってしまう。
     これが正しい人生を歩むことこそ幸福という思想に繋がり最終的にどのような悲劇が起きたか知っているのに、性根とはなかなか変えられないものだ。
     自嘲して前を向く。
     つまるところ過保護なのだろう。大人が大人に、それも主に向ける情では無いけれど、真実だ。
     自覚があるから思考を避けてきた。だがこの情景、他に誰もおらずランガばかり目に入る浜辺では否応も無く彼と彼を通した自分を見つめざるを得ない。見ないふりをしたところで意思関係無く脳が彼にまつわる記憶を出してくる、例えば今朝急に予定が入り君を構えなくなった代わりに何でもひとつ言うことを聞こうと提案した愛之介へ向け以前行った離島へ連れて行って欲しいとのたまった時の顔であるとかを。
     何をねだるかと思えばよりにもよって。横に居た忠が内心どれだけ冷や汗をかいたか。許可が下りた以上モーターボートだろうが派手なレンタカーだろうが走らせるがもう少しどうにかならなかったかと道中何度か問い掛けそうになった。監視付きでの移動を許されてからしばらく、奇妙な程大人しくしていたと思えばこれだ。正直自分の手には余る、と忠は漏らす。これもまた心中でだが。
     忠がどう思おうとランガは愛之介のお気に入りだ。連れて帰る義務が忠にはある。
    「気に入ったならまた送りますから。帰りますよ。愛之介様が心配される」
    「心配?」
     聞き返してランガは大きく伸びをした。能天気な仕草とその背後沈む夕日が無性に忠を急かす。
    「ええ。心配です。あの方はいつもあなたを案じていらっしゃる」
    「そうかな……」
     含みを持たせた言い方に忠が反論しかけたその時、やにわにランガが身を反転させた。そのまま猛烈な勢いで駆けだし一瞬で二人の間の距離を一歩未満まで詰める。
     突然の事に反応が間に合わない忠は伸びてきたランガの手も避けられなかった。あっさりと胸元に差してあった筆記具を抜き取られる。我に返り筆記具を取り返そうとしたものの、忠の手の届かない後方へランガが逃げる方が早い。宙をうろうろとさ迷わせたのち諦めと共に手を下ろす。
     ランガは顔の前へ筆記具を掲げると、
    「心配だって。する?」
     筆記具へ、正確には筆記具を模したカメラへと笑いかけた。
    「しないよね」
     指先でカメラを回すと弄びつつ歩き出すランガ。彼を傍観していることしか出来なかった忠だが、その足取りが走る以前より若干どころではなくゆったりと明らか疲れを感じさせるものに変わっているのに気づき、早足で彼の元へ向かう。歩きにくい砂浜でもランガに追いつくことは難しくなかった。やはり限界が近いのだろう。
     今声を掛けるのは躊躇われるが悠長にもしていられない。意を決し再度の帰宅を促そうとしていた忠の先を取るようにランガが呟いた。
    「大丈夫」
     声にも疲労の色が滲んでいる。僅かだが、堪えているのだと訴えるような濁りが。
    「ただしくんもあの人もこれが無かったら行っていいって言わなかったの、わかってるから。気にしてない」
     忠の方へ向いた顔が笑みを作った。そのぎこちなさには、残念だが当人は気付いていないのだろう。
     生え際から首まであからさまなほど肌は青白い。
    「前ここへ来た時はこれより大きいのが幾つも用意されてたし二人からもこんなに離れられなかった。あれよりはずっといいよ」
    「……そうですか」
    「うん。ありがとう」
    「……私は前回と同様の用意をするつもりでした。それひとつで良いとおっしゃったのは愛之介様です」
     告げた真実は忠からすると主人のフォローのつもりだったのだが、しかし、ランガの反応は忠の予想とはまるで違っていた。
    「ああ、そっか。そうなんだ……」
     掻き毟るような音をたて真新しい靴の半分ほどが砂に埋まった。
     次を踏み出さずランガは忠を呼ぶ。瞬間、直感的に忠は悟った。これは独り言のようなものだ。この後ランガが何を言うとしてもそれについて彼は忠の返答を一切必要としていない。彼の言葉がそのまま彼にとっての真実だから。
    「見透かされてるんだな、俺」
     声音は軽やかで心地好く、遥か先にも届きそうで、そして、どこまでも乾ききっていた。
    「違いますランガさん、愛之介様はあなたを」
    「違わない。あの人は気付いてるんだ。俺がとっくに逃げる気を無くしてしまったって。おかしいな。何で俺わかってなかったんだろ。でなきゃこんな遠く、許すわけがないのに」
     言いながらランガは踵を上げようとしていた。だが身を大きく振ってでも前へ進もうとする彼を嘲笑うように、持ち上がらない足は何度だろうと靴を砂に埋める。無意味な動作の繰り返しにいよいよ身も支えきれなくなり、小さな叫び声と共にランガが砂浜へ崩れ落ちるまで、そう大した時間はかからなかった。
     そろそろと取り出した手を顔に這わそうとするランガを目にした忠の全身からさっと血の気が引く。砂が入って傷付きでもしたらおおごとだ。医者の手配もだが主人がどのような反応をするか想像に難くない。
     走り寄る忠にも疲れきった己にも気付いていないかのようにランガは喋り続ける。
    「気付いているからこんな、こんなところだって見張り一人つけただけで送り出せて。どうせ戻って来るから。だからあの人は俺を」
     顔に押し当てられた手は片方だけ震えていた。強く握り過ぎだ。証拠に、カメラの筆記具を模した部分が曲がりかけている。
     みしみしと。
     きしみ、悲鳴をあげている。
    「おれを」
     絞るように言う、ランガの顔は見えない。
     見られる者が居るとするならひとり。その手の内から彼を撮り続ける小さなカメラだけだろう。
     そして撮影された映像の所有者もまたひとりなのだ。
    「どこへでも行かせる…………どこへだって、……俺を……連れていって、くれる…………」
     立たせるため触れかけていた手を忠は静かに下ろした。
     つくづくランガは愛之介好みだ。愛之介の為の鑑賞物としてなら――いっそ不憫と感じるほど――完成し過ぎている。
     鈍感だが敏い。何も気付かないが常に理解は終えている。その惨さは他者だけでなく自身へも向けられているらしい。生まれ持った性質から、彼は自身の置かれた状況を絶対に肯定しない。しかしかと言ってペットに与えるような束の間の自由に紛れる愛之介からの情を見て見ぬふりも己にさせない。本来美徳であるそれがあだとなり鎖となって今彼自身を縛り付けている。
     知ったうえで愛之介は今日の離島行きを許可したのだろう。おそらくはランガからこの表情を、感情を引き出すために。ランガの願いを聞き届けながら愛之介自身の目的も果たしたのだ。
     それでも満足するつもりはないのだから全く恐ろしい人だと忠は身を震わせたが、次の行動を躊躇うことは無かった。
     屈みこみ、ランガの手を取る。うっすら濡れた手にまとわりつく砂とついでに顔を拭って忠は傘を広げた。ランガが持たなくていいよう工夫して置き、ひとり立ち上がる。
    「全ては払いきれませんね。車内の準備をしてきます。すぐ戻りますから少しここで待っていてください」
     車まで戻る最中一度だけ、両者が互いを目視出来なくなる直前ちらりと様子を伺った忠を、うっすら濡れた瞳は瞬きもせずじっと見つめ続けていた。
     後部座席に乗り込んだ忠はすぐさま助手席の荷物を取り出し起動済みのPCを開いた。
     繋げたままだった小型カメラの映像はただただ暗くそのうえ一分も経たず大量のノイズが混じりだしたが気にせず周辺一帯の航空地図へ切り替え、地図上に表示された赤い点にひとまずの安堵を得る。靴に埋め込んだ小型端末には気付かれなかったようだ。あるいは気付き、しかし裸足になることを選べなかったのかもしれない。
     どちらにせよ端末内臓のGPSは正常に機能している。この様子だとどうやら防風林の方へ向かったらしい。無理に隙間を通ろうとして怪我をしないと良いが。
     面倒な事にならないよう祈りながら、潜ませていたドローンを浮上させる。
     操作に淀みは無い。ドローンをどこへ向かわせるかは決められていた。この島へ着く遥か前、早朝出発の直前呼び出されたときから。
     突如道なき道を進み始めた赤い点に、忠は小さく息を飲む。
     改装も出来ない立地にあることから観光名所にもなれず島民もあまり近付かない洞窟。細かく分かたれた道は人ひとり程度しか通れず、一人で行くには暗くぬるつく道は危険だ。ただ身を潜めるであるとか多人数から逃げる際にはうってつけだろう。そしてこれは知られていないことだが点在する出口の中に一つひどく草の茂った場に通じるものがある。一見行き止まりのようだが実はそれは獣道に続いており、恐れず進めば通常の道を行くよりも早く開けた道へと出られる代物だ。
     回るなら車を使った方が良いとはいえ小さな島だ。決死の覚悟で走り続ければいずれは船着き場へ着く。そこで船の持ち主に、もしかするとそれ以前に誰かと会うかもしれない。臆せず助けを呼べればその瞬間勝利は確定する。忠の、ひいては主人の敗北も。
     首筋に不快な汗を感じながら忠は己に出来る事を続けた。
     前回は一帯を車で回ったのと浜辺を少し歩いただけだったのに一体いつどうやってこの道に気付いたのだろう。何も考えず動いた結果だとしたら大層な天運の持ち主だ。
     恵まれている。だからこそあわれに思う。
     その天運が無ければいつかの夜の奇跡もその先の勝利も無かったかもしれない。もしあの場で敗北していたなら苦い経験を得ていただろう。しかしだとしても今頃自由ではあれた筈だ。天の意思に選ばれ、選ばれたせいで奪われる、己と何の関係も無いものに翻弄される人生は充分あわれと表して良いのではないだろうか。
     それともう一つ。
     こと天運での勝負において、己の主人が敗北する姿を忠は見たことが無い。
     指定された地点、刈られた草の残骸を越えてやって来た人物は早速ドローンに気付いたようだ。見開いた目を暗く染め、ひとつ名を呟いた。忠にとってはそれなりに懐かしい響きだった。敬称付きで呼ばれるよりかは余程耳に馴染む。
    「お疲れ様でした。私もスノーとお呼びしましょうか」
    『……いい』
    「承知いたしました。ではランガさん。迎えに行きますので、今度こそ動かれないように』
    『……わかった!』
     やけのように叫ぶとランガは映像内から姿を消した。背後へ身を放り出したらしい。草の山からは枝など除いてあり危険は無い筈だが間違いなく汚れはするだろう。
     落とした肩を戻し忠はドローンを上昇させる。
     草に支えられながらランガは大きく息をはいていた。汗と涙の残滓が張り付く顔だけでなく全身泥など跳ねているが特に気にする様子は見られず、はーあ、と漏れる声からは気が抜けきっている。のんきだ。一応残念そうではあるもののつい先程まで本気で逃亡しようとしていた者とはとても思えない。
    『帰ったら怒られるだろうな。巻き込んでごめん』
     怒られるどころでは済まないことをしかけておいて随分あっけらかんと言うものだ。あおられたか、言うつもりの無かった言葉が忠の口から飛び出す。
    「いえ。ご心配には及びません」
     察したらしい。数度瞬きしたのちランガは片目を歪ませた。
    『演技上手いね、スネーク』
    「あなた程では」
    『それって皮肉?だったら皮肉も上手い』
     ふ、と息を吐いた口が半開きのまま弱弱しい呼吸ばかり繰り返す。一呼吸ごとに落ちていく瞼。手足は投げ出されたまま動かず、先だけを僅かに震わせている。
     揶揄こそすれ全てが演技でないことは忠にも分かっていた。忠と別れた時点で既に満身創痍だったのだろう。それでも絶好のチャンスを前にして、こうなる事は予測出来ていただろうにも関わらず、臆することなくランガは賭けに出た。おそらくは勝つつもりで。
     無謀ともいえる挑戦を忠は笑えない。
     逃亡すると事前に聞かされず待ち伏せ地点も指定されなかったとして。それでも病み上がりの子供一人だ、難なく捕まえられた――そう言い切ることがどうしても出来ない。
    『見てる?』
    「はい」
    『だよね』
     苦笑とも呻きともつかぬものを溢しランガは目を閉じ、再び開くとどこにそんな余力を残していたのか、強く輝く瞳で真正面からカメラを見据えた。敵意の感じられない視線はしかし鋭く貫いて来るようで思わず忠は背筋を伸ばしたが、実際に目が合っている訳は無い。カメラを通し直接見られているように感じたのは単なる錯覚。そして万が一通っていたとしても、ランガが見る相手は忠では無いのだから。
    『わるいひとだ。スネークも、愛抱夢も』
     遠く離れた主人を想う。喜ぶ顔が目に浮かぶようで、そうすることを罪と感じながら忠は笑いを堪えきれなかった。
     
     ランガの元へ向かった忠がまず行ったのは一応用意した拘束具を使う必要は無いと判断することだった。
     ついに精根尽き果てたランガは僅かな振動にも眉をひそめ苦しげに身をよじるので忠は細心の注意を払い彼を別邸へ帰さなければならなかった。加えて帰宅直後の連絡。これから来ると言うだけ言って切れた通話に慌てて忠はランガを浴室へ押し込み、数秒後どさりとたった音に自身も浴室へ駆け込んだ。
     愛之介が別邸を訪れたのはそれから数十分後だった。ドライヤー片手に舟をこぐのを見かね代わりに乾かしてやっていた、目の前に現れるまで主人の来訪に気付かなかったのはそのせいだろうと忠が苦し紛れの結論で己を慰める横で、条件反射かランガが行動を起こした。乾ききらない髪もそのまま立ち上がりしかし足に力を入れていなかったらしい。見事に前へとバランスを崩す。
     あわや転倒と思いきやランガの身は容易く受け止められた。背に回った腕が片方だけなのは当然、もう片腕には別の役割があるからだ。ランガも理解しているようだ。支えを基に立ちなおし手足の位置を整えている。
    「ただいま。上手に逃げられたかい」
    「お帰り。全然駄目」
    「それは何より。あちらまでエスコートしよう。手を」
    「ありがとう」
     閉じ込めた者が踏み出し閉じ込められた者がそれに合わせる。逃げようとした者がおろそかにしたステップは逃がさなかった者にさりげなくカバーされていた。嘘をついた者同士、裏切った者同士が揺れながら踊る。笑みすら浮かべ会話を交わす。目の前で繰り広げられる光景は不可解を通り越し最早不気味に思えた。だが付いて行く以外忠には選択肢など無い。
    「破る前提の約束なんて悲しいことをする。それ程までに僕を傷つけたかった?」
    「ううん。傷つけたいなんて思ったことない。俺が逃げて愛抱夢が傷つくなら、そういうことになるのかもしれないけど」
    「もちろん傷つくさ。君は僕のだもの」
    「違うよ」
    「君からすればね……ふ、ああ楽しい。最近の君も良かったけどやっぱりこうでなきゃ。おかえり、僕のランガくん」
     手を離し、ふらつくランガを誘導すると愛之介はソファへ掛けた。引きずられるようにランガが座るのは彼の膝上。器用なことだ。
     何処からか取り出されたリボンがランガの首に巻かれていく。
     作り終えられた蝶々結びの端、口づけは呪いをかけるように贈られた。
    「しばらく不自由な生活になるけど我慢出来るだろう?君が蒔いた種だ。出来ないとは言わせない」
     明らか渋々という様子で頷いたランガを愛之介は抱きしめよいこだと褒めそやす。ますますランガの表情が渋くなるのも計算の内なのだろう。むしろそれが愛おしいとばかりに頬へ触れる。
     なすがままにされていたランガがふいにもぞりと身を動かし、そういえば、と愛之介へ話しかけた。
    「俺が逃げるってどこで気付いたの」
    「知りたい?」
    「うん。参考にする」
     率直な物言いに忠は身を強張らせたが、想像したような事態が起こることは無かった。しかし代わって目にしたのはそれと同等かそれ以上に心臓に悪いシーン。
     にっこりと笑った愛之介が指先をランガの耳朶近くで動かし、応じるように傾いたランガの顔へ唇を、何故だか耳ではなく瞼近くに寄せる。
     そして大きく口を。
     決定的瞬間は見えなかった。すぐに愛之介はランガから離れていたしランガの二つの目はぴったり嵌まったままだったので、食らう気だ、と叫んだ忠の勘は外れていたのだろう。片目の周囲に些細な違和感があるから舐めたか触れたかはしたかもしれないが、ともかく怪我は無さそうだ。案ずる必要は無いと忠は己の心臓をなだめた。
     食われないにしても何かしら危害を加えられたなら態度なり雰囲気なりに出るものだが、ランガの様子に変化は無く、ランガと愛之介の間に流れる空気にも何ら変わりは無い。先程の洞窟前と同じ。ただただのんきでそこはかとなく穏やかだ。見ている忠の心をざわつかせるほどに。
    「目?」
    「そう。最後だからといってあんなふうに見てはいけないよ。ただでさえ君は分かりやすいんだ、本心は逃げきるまで殺しておくくらいでいい」
    「なるほど。わかった。次は気を付ける」
    「ああ、頑張って」
     意気込みと応援には何の裏も感じられない。このやり取りだけ抜きだし『次』が何を指すのか知らない者に聞かせれば、彼等を良好な関係と認識するだろう。その後今の彼等を見せたとしても、パートナー同士が仲睦まじく寄り添っていると認識しかねない。何せ全て知っている忠の目さえ、捕まらなければ、捕まえられなければそこで終わる関係を二人が楽しんでいるように見えるのだから。
     そんな事はありえない。思いながら忠は心中にて小さな疑念を抱いていた。つまり、本当に楽しんでいるのではないか。これが彼等の正当な愛情表現なのではないかと。
     しっくりとは来る。彼等は忠達の居る世界の一線先に居り感性から常識からまるきり違う生き物だ。だから分からずとも良い、理解を諦めて切り離しても仕方ない。信じ込めば随分楽になれそうな真実だった。確実にこの異常な空気の中でも今より呼吸しやすくなる。
     だが忠はそれを選ばない。
     脳が甦らせる記憶、ふたつ。
     ひとつは今朝。ランガに別れを告げたのち忠を呼び付けた主人はいたく機嫌が良さそうだった。細かい指示をしながら何度も未来を幻視し身を躍らせる、侮りはせずとも間違いなく彼は己の勝利を確信していただろう。こんなことも主人にとっては単なる遊びに過ぎないのだと思っていた忠は、けれど退出の瞬間見てしまった。ひとり俯く主人を。
    「逃がすものか」
     呟く声は低く僅かに震えており、内に押さえ込まれた激情を痛いほどに感じさせ、だがそれだけに忠を困惑させた。
     俯いた顔には何も無かった。激しい感情どころかどのような心の揺れも忠は読み取ることが出来なかったのだ。
     もうひとつは数時間前、迎えに行ったとき。
     小型カメラもドローンも遠ざけ洞窟の入り口でうずくまったランガは顔半分を影に浸していたが遠くからでも泣いていると分かった。けれどランガ自身がそれに気付いていたかどうか。更に言うならあの時己が内と外を彼はどの程度知覚出来ていたのか。忠の見立てでは少なくとも視覚は使えていなかった筈だ。素人目だがあながち間違ってはいないと思う。目は従順な器官だからうつしたくないと願えば何だってうつらなくなってもおかしくない。
     なにより、だ。強い意思も意思に基づく輝きも消えた、はらはらと涙をこぼすだけの目に見えるものなどあっただろうか。
     二つの表情無き顔。あれらを忘れない限り目の前にあるような光景をただ良かったと眺める事は出来ないだろうと感じ取った忠の目が一瞬かすむ。主人等の座るソファが今にも壊れそうな椅子に見え思わず強く目を擦った忠は、しまった、と慌てて手を下ろしたが、既に手遅れ。彼の元には二人分の視線と気遣わしげな声が集まっていた。
     いなしきれず不器用な優しさに襲われながら、このようにされては忘れられるものも忘れられないと忠は唇をすり合わせる。
     正解。特別。悪。まがいもの。一言で表せるようであれば話は簡単だ。けれどそうはならない。彼等は彼等であるから忠含めた誰の思い通りにもなるわけがない。まったく。
     へんな人たち。
     こぼした声は思いの外小さく、聞き取れなかったか二人が顔を見合わせる。
     それでいい、と忠は目を細めた。
     ただのひとにしては特異で、ただのひとでないとするには人間らしい彼等。彼等の多くを忠が理解出来ないように忠がどれほどの決意を以て彼等をそう呼んだかなど彼等は理解しなくて良いのだ。どうであっても忠の意志は変わらない。ここに居る。主の忠実な犬である。うるさい心中も足元を這ういやな冷気も他一切無視してでもそうしたい。正しさには遠くみっともない己を忠は否定せず受け入れた。それくらいの感情は誰だって持つものだろう。人ならば、誰だって。
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