それは、学校に着いた頃からにわかに感じていた。この、なんとも言えない浮かれた空気。大々的な行事があるとか聞いていないし、もしかしてオレが忘れてるだけとか。ずっと頭の中にはてなマークを浮かべながら教室へ入ると、いくつか視線がこちらに向かって飛んできた。男女問わず送られる視線に、どこか居心地の悪さを感じる。それでも何食わぬ顔して自分の席に着くと、クラスの中でよく話すヤツがそろそろと近づいたきた。
「なあ、新開はもうもらったよな」
「……何を?」
こっそと耳打ちするように聞いてきたそいつに、首を傾げ尋ねる。すると目を丸くした後で、そいつはぽかんと口を開けた。
「え、ほんと何?」
「いや、まさかと思うけどさ……新開今日がなんの日か気づいてない?」
「やっぱ、今日なんかあんの?」
こいつはさっき、もらうとか、もらわないとか言っていた。もしかして課題の提出日だった? それともテストが返ってくる日だったか。ぼんやりと記憶をたどるオレの前で、そいつは大げさなため息をつく。
「モテるやつは余裕だよなー」
「は?」
やっぱりこいつの言っていることの意味がわからない。いまの流れでモテるとか関係ないだろう。
「バレンタインだよ」
「へ?」
「だから、今日はバレンタインだって」
呆れたようにそう言われ、改めて周りを見渡した。すると、あちこちにチョコが飛び交っている。慌てて机の中に手を突っ込むと、触れた硬い感触。掴んで取り出すと、可愛くラッピングされた小さな箱。少し屈んで中を覗くと、まだ二、三個入っているのが見えた。
「やっぱあんじゃん!」
「いや、こんなん気づかねぇって」
「もう見た目が本命だけど、メッセージとかついてんの?」
「わかんねぇよ」
ちゃんと確認せずバックの中に押し込むと、クラスメートにまたため息をつかれる。
「もう少し嬉しそうにしろよなー」
「だって、誰からかもわかんねぇんだぞ」
「あー、確かに。手作りとかはちょっと怖いな」
「だろ?」
「でも、おまえはやっぱ贅沢だって」
「……好きでもないヤツにもらっても困るだけだよ」
「好きなやつからは欲しいんだ?」
「え?」
「ん? そういうことじゃねーの?」
そいつが小さく首を傾げると同時に始業のチャイムが鳴った。
「お、じゃあオレ戻るわ」
いそいそと自分の席に戻っていくそいつの背中を見つめながら、言われたことを頭の中で反芻する。
好きな人からのチョコ。
オレの好きな人は靖友で、それはつまり靖友からチョコを貰うってこと。靖友がチョコ……くれないだろ。だって靖友だぜ。オレ以上にイベントごとに疎そうだ。……ん? そうでもないか。そういえばクリスマスも一緒に過ごしてくれて、プレゼントもくれた。元旦にはメールもくれたし、当日はムリだったけど初詣も行ったな。どれも靖友が誘ってくれた。
あれ? もしかして、もしかしなくても靖友ちゃんと考えてくれてた。というか、オレはいままでそれに気づかずにいたってことか。ダメじゃんオレ! 毎回ただ嬉しくてふわふわした気持ちでいたよ。
これって、せめてチョコはオレがやらなきゃダメじゃない? それくらいしたってバチはあたらないぞ。どうする? コンビニで買ってくる? でもそんな適当な感じは嫌だ。だからって、いまさら買いに行く時間なんかないだろ。だってバレンタインは今日だぜ。なんでいまのいままで気づかないんだよ! オレって本当にバカだ。
ぐるぐるとどうするべきか考えても、いつまでも結論は出ない。靖友と二人で過ごす貴重な昼休みも、上手く話もできなかった。たまに女子に呼び止められ、渡されるチョコも面倒くさくて受け取らなかった。別に感じ悪いとか思われてもいい。だって、オレには靖友がいるから。他の子の気持ちなんかいらないんだ。
なのにオレは自分の気持ちを、靖友に渡すすべを持っていない。結局どうしたらいいのかわからないまま時間だけ過ぎていた。ベッドの上でぼんやりと天井を見つめながら、やっぱりいまからでもコンビニに行こうかと考える。お手軽かもしれないけど、ないよりはマシじゃないか。ぐっと腹に力を込め体を起こす。するとそこに扉をノックする音が響いた。
「新開いるか?」
次に聞こえてきた靖友の声に、ドクリと心臓が跳ねた。パッと時計へ目をやると、いつも二人で過ごす時間になっている。でも今日はとくに約束しなかったのに、どうして靖友がここへ来るのだろう。
「おーい、いねェの?」
「あ、いる! いるよ」
ぐるぐる回る思考のせいで、もう少しで居留守を使ってしまうところだった。
「んだヨ、さっさと返事しろっての」
扉を開け入ってきた靖友は、口調のわりに柔らかな表情をしている。真っ直ぐこちらまで歩いてきた靖友は、じっとオレの顔を見つめていた。
「……なに?」
「んー、なんか変なこと考えてねェ?」
「へんなこと?」
隣に腰かけ、靖友はまじまじとオレの顔を覗いてくる。その探るような瞳がどうにも落ち着かなくて、思わず逸らしてしまう。すると小さく笑う声が耳に届き、次には頭の上に何かが乗った感触がした。
「へ?」
まぬけな声と共に顔を上げると、目の前の靖友がニッと口角をあげる。そうして目の前に突き出されたのは小さな紙袋。きっとさっきの感触の正体だ。
「やる」
「え?」
「おまえチョコ好きだろ」
そう言ってオレの手に持たせたそれの中身は、可愛いピンクのリボンがかかった小さな箱。
「言っとっけど本命だぞ」
ふんわりと優しく笑う靖友に、胸がぎゅうっと苦しくなる。どうしよう、またオレがもらってしまった。いつも、いつもオレは靖友にもらってばかりだ。
「……オレ、なんも用意してない」
零れそうになる涙をこらえるよう、うつむきポツリと呟く。すると今度は靖友の手が、オレの頭をふわりと撫でる。
「しんかい、こっち見て」
ふわふわと頭を撫でてくれていた手が、頬まで降りてきて優しく包まれた。つられるよう、ゆっくり顔を上げると靖友の額がオレの額にコツリとぶつかる。そうして啄むようなキスをひとつした。
「これでいーヨ」
「え」
「おまえ、今日一日ずっと悩んでたんだろ?」
「……な、んで」
「そりゃ、あんだけ挙動がおかしいんだ。わかるつーの」
目の前でくつくつと笑う靖友に、だんだん恥ずかしくなってくる。
「新開」
「へ?」
恥ずかしさを誤魔化すように、尖らせていた唇にまた靖友のそれが触れた。
「今日さ頭の中、オレのことでいっぱいだったんだろ?」
ふんわりと微笑み靖友は、オレの背中に手を回してくる。
「チョコなんかよりそのほうが嬉しい」
きつく抱きしめられ耳元で囁かれた言葉に、一度は止まった涙が零れてしまった。
「うん。でも、オレちゃんとお返したい」
「ならホワイトデーはおまえがなんかよこせヨ」
「うん、いまから考える。ずっと靖友のこと考えるよ」
何度も頷き抱きしめ返すと、靖友の笑う音も耳元で聞こえる。
「それ、最高のお返しだな」
少しだけ靖友の体が離れ、もう一度唇が触れ合う。靖友がオレのためにくれたチョコレート。きっと甘くて、とろけるような味わいなんだろう。でも靖友とのキスは、もっともっと甘くて最高の味なんだ。