生ぬるい風が流れている。頬を掠め、髪を揺らしたそれが、審神者の意識をふっと引き上げた。瞼はまだ、重い。
低く、唸る音がした。それから、キ、キと規則的になにかが軋んでいる。風に紛れるようで、かき消されてしまいそうなそれは、目を閉じているから聞こえるのだろう。薄っすらと目を開くと、天井の板目が飛び込んできた。
誰かがやってきたのだろう、審神者の記憶が途切れるまでにはなかったタオルケットがかけられていた。審神者の目覚めを誘ったのは、審神者よりも前からこの本丸にいた扇風機だ。首を降る以外には、色違いの大振りなボタンで三通りに風の勢いを変えることと、ツマミを回してスイッチを切るタイマー機能しか持たないが、羽根が回ると網の中に薄青い膜のように見えるのが、涼し気でいい。
弱に設定されたそれが、緩やかに首を振っていた。低く唸る音はモーターの駆動音だ。キ、とまた軋んでしばらくすると、風が戻ってくる。カバーかどこかが擦れているのか、緩んでいるのか。あとで確認してやらなければ。
まだ重い瞼を何度か瞬かせた審神者は、そこでやっと気がついた。誰かがいる。
外が明るければ明るいほど、室内の影は濃ゆいものとなる。真昼の夏の庭はまばゆいほどで、それゆえに審神者からは、逆光になって彼の横顔も見えない。けれど、それが誰だかはひと目でわかった。
くせの強い髪を適当にくくり、横に流している。片袖だけ抜いて、審神者からは背中の半分くらいが見えていた。片膝を立て、床においた何かを見ているーー紙をめくるかすかな音がする。本を、読んでいる。何を読んでいるのだろう。
輪郭ばかりが外の明かりに透き通るようで、時折動く腕と、丸まった背中、つま先まで整った足、それらをぼうっと眺める。刀を振るう体に無駄な肉はなく、引き締まったものだ。幾度となく見てきたものながら、何度見ても格好いいな、と思う。かさ、とまた頁がめくられる。
扇風機の風は、半分は彼のものだった。さもありなん、あちらは半分は日向にいる。きっと暑い。白に流水模様の着物が、ささやかな風で揺れる。次の頁を開く動きでわずかに陽の当たる向きが変わって、汗の浮いた首筋がほんの一瞬だけ、きらりと反射した。ああ。
ーー舐めたい。
何を思っているのか、浮かんだ考えを払うように首を振った。まったく、暑さに茹だっている。いくら陸奥守が審神者の恋人であっても、真っ昼間からこんな、煩悩にまみれたことを。でも、だって、乾きを覚えた喉がこくりとツバを飲む。
だめだ、そうして審神者は目を閉じ、深く息を吸った。浮ついた思考を落ち着かせようと吸って、吐いて、キィ、と軋む音がして、風が動く。それから、ざり、と何かが擦れた。すぐ近くで、空気が動く。
気配、におい、熱。近い。すぐそこに、いる。顔の横で、畳が僅かに沈んでギュッと鳴いた。
「ーー今日はまっこと、暑いにゃあ」
そろそろと目を開く。垂れた髪が触れるかどうかという距離で、額にも汗を浮かべた陸奥守が笑っていた。審神者に半ば覆いかぶさるようにして、影を作っている。
「むっちゃん……」
「こそばい視線を向けよって」
かあ、と暑さだけでなく頬が熱くなる。考えてみれば、当然だ。相手は人知を超えた力を持つ刀剣男士、審神者などの人の視線や気配に気づかないはずがない。
ゆっくり陸奥守が傾ぐ。着物と審神者のシャツがこすれ、くせ毛の尻尾が畳に落ちる。額が合わさってなお目は開いたまま、鼻先が触れる。吐息が、近い。
むっちゃん、と呼んだはずの声が掠れる。審神者よりも厚みのある胸が、熱が布越しでも感じられる。あつい。伸ばした腕で触れた肩はしっとりと汗ばんでいた。ぬるりと滑ったのがくすぐったかったのか、ふ、とこぼれた吐息が唇を舐めて、影もまたひとつに重なった。