「起きた?」
***
視界は最悪だった。
前方に手を伸ばせば、自分の手すら見えなくなるほどの吹雪。おまけにただでさえ寒かった気温がさらにぐんと下がってきた。きっと日が沈んだのだろう。夜が明けるのを待つよりも先に、動けなくなるほうがずっと早いに決まっている。木の根にうずくまれば、多少は生きている時間が伸びるかもしれないが、それでも雪に埋もれた死体が一つ、早朝に見つかるだけだろう。
はぁ、と息を吐く。白い息が見えるのは、雪の照り返しで異様に明るいからだ。厚手の手袋をはめた手のひらを見る。雪が少しずつ染みてきていた。指先が冷たいのを通り越してほとんど感覚がなかった。
さく、と自分以外の足音が聞こえた。どきりと心臓が早鐘を打ち始める。
雪の隙間から、灰色の毛並みを持つ双眸がいくつかこちらをうかがっている。それがけっして犬ではないということを、アヤックスは父親から嫌というほど教えられていた。犬なら、人間に従えば良い生活ができることを知っている。ひゅう、と喉が鳴った。
(いいか、アヤックス)
一歩、後ろに下がる。積もったばかりの雪の上に、いくつもの足跡が見える。ひとつ、ふたつ、みっつ、よっつ。数えられたのはそこまで。おそらく、群れで生活している。この森が危険なことは百も承知だった。だから、手にはナイフがある。古いが、その分手入れの行き届いたきれいなナイフ。父親と冒険を共にしたナイフ。
(奴らに囲まれたときは)
もう一歩、後ろに下がる。完全な睨み合い。獣同士の生存競争。縄張りに足を踏み入れた時点で、アヤックスは人としてその場に立っていなかった。森で出会う仲間か。それとも恰好の餌なのか、あるいは都合のいい暇つぶしのおもちゃなのか。
(ゆっくり後ろに下がるんだ)
相手を刺激しないよう、ゆっくりと距離を取る。そして、焦らず急がず、その場から逃げること。あの牙に噛みつかれて無事な人間はそういない。戦おうとしなくていい。逃げることだけ考えるんだ。
「……ははっ」
乾いた笑いが口から洩れる。
――冒険ってのはこうでなくっちゃ。
そこから後のことはよく覚えていない。ナイフを振りかぶって、とびかかってきた一匹を仕留めた。生の肉を断つ感覚がじかに伝わってくる。包丁で肉を斬るのとは違う。毛皮と皮膚と筋肉と血管と内臓と骨と。白銀の上に散るのは赤黒い液体。動かなくなった、と確認する暇はない。二匹目が口を開けてやってくる。三匹目もほとんど同時だった。たった一匹を斬っただけで血と脂に汚れた刀身を二匹目に突き立てたが、場所が悪かったのだろうか即死させることはできなかった。ナイフを抜くと血しぶきが顔にはねる。三匹目が足に食いつこうとするのを、後ろに下がって避けたところで、四匹目が死角から飛び込んできた。痛みが先に来る。次いで、腕を噛まれたことを理解した。他の三匹よりすこし大きい個体だった。握ったナイフでどうにか眉間を突いてやったが、今度はナイフが抜けなかった。仕留め損ねた二匹目が確実に腹を狙ってきたのがみえて――ぐらり、と足元から地面が消えた。
「あ、れ?」
はじめは、雪に足元を取られただけかと思った。それなのに、いつまでたっても落ちていく。ああ、そう。きっと崖から落ちたんだ。雪でみえなくて。なんて、終わり方。
「まだ、これからなのに」
こんなんじゃ、死んでも死にきれない。
***
「……っ」
痛みで意識が浮上する。ぼやけた視界が、薄暗い室内を映し出す。石造りの天井と、発光する石が室内を淡く照らしていた。眠りの妨げにならないようなのか、元からそれだけの明りしか出せないのか、朦朧とした頭では判断が付けられそうになかった。ただ、光源が火ではないことだけは、見慣れたランプの揺らめきとはかけ離れていたために理解できた。なぜそれが光っているのかまでは、分からなかったが。
体を起こすと、頭から冷たい布が落ちる。かけられていた布団――誰かの外套にみえる――に、わずかにシミを作った。
「起きた?」
アヤックスと同じ年ぐらいの女の子だった。白い異国風のワンピースに、薄い金色の髪の毛。頭には花の髪飾りを付けている。武器らしいものは持っていない。代わりに、手には古い本、もう片方の手にはランタンを持っている。ランタンの明りは、薄黄色にぼんやりと光っていて、その明りは部屋を照らしているそれと同じ石だということに気が付いた。
「まだ痛いでしょ、それ」
少女はアヤックスが寝ているそばに寄ってくる。モンドの人間なら蒼い瞳を持っている。だが、彼女の瞳は蜂蜜のような金色をしていた。スネージナヤでは考えられないほどの薄着に、少しだけ心配を覚える。
「まだ少し熱い。薬と、水。それと、お腹がすいてるなら何か持ってこさせるけど」
「このナイフはあなたの?」
「そう……そうだよ」
腕には、噛みついたまま離れない狼が一緒だった。眉間にしっかり刺さったナイフ
――ここで終わり?
アヤックスの初恋の話
姫蛍ちゃんと簡単に世界を見て回って、世界はどんなに美しくて、この世界を守りたいかという話(アビス姫として気丈に振る舞う蛍ちゃんと、旅をして楽しそうにしている普通の女の子の蛍ちゃん)
ずっと蛍ちゃんの横顔を見ているタルタリヤ
蛍ちゃんが愛した世界を壊す人は空であろうと許さない、世界の異物かもしれない魔神を許さない 許せなくなってくる
いつかまた空と旅に戻るはずの彼女を、タルタリヤはずっと待つことになる
君が愛したこの世界で生まれた俺は、はたして君に選ばれるひとりになれるだろうか?
「君みたいな人と旅が出来たら楽しいだろうなあ」
「ひとりの旅は嫌?」
「嫌じゃないけど、きっと寂しいと思う。それに、君が旅の話をするときとても楽しそうだから」
「そうね。とても楽しかったよ。二人の旅は、とても」
「殿下、外套を渡してしまっても良かったのですか? それに、額にキスなど」
「つばつけといたの。深い意味なんてないよ」
アビスとファデュイの二重のタルタリヤ
「執行官に? すごいね」
「いい力。私が見込んだとおり」
空くんを見て、ああ、と思う
似ている、と。
「蛍」
「姫様の名を軽々しく口にするな」
「いいの。席を外して?」
「はっ」
「それで、どうしたの? アヤックス」
「君は、なんだか無理してるみたいだ」
「そう?」
「たまに、つらそうに見える。本当は自由に旅がしたいんじゃないのか。初めてあったあのとき、旅のは話をしてくれた君は、とても楽しそうだった」
「それで?
「本当の気持ちを、教えてほしい。君は何をしたい? そのために、俺は何が出来る?」
「なんでもいいの?」
「俺に出来ることなら、なんでも。約束してもいい」
「じゃあ、何があっても私についてきて。ほかの何が正しいと思っても、私についてくるの。女皇も、空も全部裏切って、私についてきてくれる?」
「……それは、」
「私、あなたのこと好き。ね、アヤックス」
空にかけていくふたつの星を眺めながら、タルタリヤは、
「あーあ、フラれちゃった」
「最近は何をしている、公子殿。あ、いや。もう執行官はやめたのだったか」
「まあね。」
傷心旅行、ってやつかなぁ、とふらっと帰ってきた璃月で鍾離先生に会い、カラカラと笑う
「あの子につばつけられてるから」
「そうか」